Archive for 5月 2nd, 2013

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『鬼怒川紀行』

木曜日, 5月 2nd, 2013

        鬼城竜生

2012年10月14日(日曜日)-15日(月曜日)の両日東京医労連OB会の恒例大会開催旅館巡りの旅に出かけた。今回の企画は、従前大会で宿泊したことのある旅館に泊まるとい竜頭の滝-02竜頭の滝-03う計画で鬼怒川を選んだが、残念ながら鬼怒川も御多分に漏れず、 閉鎖する旅館が多いと見えて、目的の旅館に宿泊することは出来なかった。ただ、今回宿泊するホテルは“鬼怒川ホテルニュー岡部”の時代に一度大会をやった場所で、経営が代わってホテルの名前も運営の方法も変わったようである。

8時40分に新宿駅(安田生命横)に集合、9時に貸し切りバスで出発。昼飯は日光けもの村・水車屋で“蕎麦御膳”なるものを食し、泊まりは“きぬ川ホテル三日月”ということになっている。翌日は日光東照宮の神橋を左に見て第一いろは坂を登り、二荒神社中宮祠の前を通り、竜頭の滝を目指した。今、最も紅葉が見られるところは、竜頭の滝だという運転手の判断で、そこに向かった。しかも、下から上に登るのは大変だから上から流れに沿って下ることにして、皆さんを降ろしたら車は滝の下流に置いておきますから、滝を見ながら下ってきて下さいという、年寄り向きの御提案を頂いた。

竜頭の滝は水温が低いため、日光でも紅葉が最も早いと云われているというのは、これは帰ってきてからの後の知識。しかし、残念ながら紅葉は1週間行くのが早かったようで、帰ってきてからTVで見る竜頭の滝の紅葉は並みじゃなかった。我々の計画も、計画を立てた幹事氏は十分に紅葉の時期を考え、現地にも確認したようだが、特段の暑さを見せた今年の夏のしつこさ竜頭の滝-04竜頭の滝-06が、樹木の季節感を狂わせ、衣替えの時期を躊躇わせたのだろう。自然を撮るのは難しい。

竜頭の滝を正面から見られる位置に観瀑台があり、竜頭之茶屋がある。その竜頭之茶屋の入口右手に竜頭観音が祀られていた。説明によると、「三六観音の一つで、世に光を与え、悩める衆生を導く菩薩である。左手に水晶玉、右手に巻物を持ち、一角の龍に乗っている。水晶玉の意味は水の持っている力、水の働きを明らかにするとともに、正しくすると云うことで、天上の水、地上の水、地下の水を支配する竜頭観音は、様々な竜を使って水を抑えているという。竜頭の滝の名もその守護を願って付けられたと」されている。

その後、普通の観光バスは行かないという口上で、向かったのが中禅寺湖に影を落とす男体山を見ることができるという場所に走り、中禅寺湖越しに男体山を眺めたが残念ながら風があってボート釣りのボートが不安定に揺れていた。此処で集合写真を撮り、対岸に戻り中禅寺湖観光センターで“湖畔鍋定食”を食し、後は一路東京を目指すことになった。

帰路は何事もなく予定の時間に到着、次の会合に十分間に合うことが出来、義理を欠くことがなかったのは幹事に感謝である。

       (2012.11.6.)

『どの位取れるのか?』

木曜日, 5月 2nd, 2013

  魍魎亭主人

『消費税の増税実施の阻止』、『原発の再稼働反対・原発ゼロ』、『TPP参加反対』を主張することで何処まで票が取れるか見物だと思っていたが、衆院鹿児島3区の補選では、重要な選択基準になったとは思えない選挙結果が出ていた。更に昨年の衆議院選挙では、『TPP参加反対』で当選した諸君はいたようであるが、『原発の再稼働反対・原発ゼロ』では、これ一本で運動した総理経験者が落選しており、大衆に与えた不甲斐なさの印象を拭い去り、当選させるほどの票にはならなかったと思われる。

ところで直ちに『原発の再稼働反対・原発ゼロ』という方策を取ることが出来るのかどうか。水力発電は、新たに作るとなると膨大な経費と、住民の反対運動という阻害要件が派生する。火力発電では、使用する燃料はその多くは海外からの輸入に頼っており、足下を見られれば、価格の高騰を招き、もしイランによるホルムズ海峡封鎖が実行されれば、我が国に輸入される原油は枯渇する。輸入依存のエネルギー源に頼る限り、価格の高騰はついて回り、結局は電気料金の値上げに繋がり、庶民の財布を直撃する。風力発電も直ぐには対応できない。更には低周波によるヒトへの影響も報告されており、また渡り鳥の通路等に設置した場合、鳥の飛び込み事故等も考えなければならず、何処にでも設置すると云う訳には行かないようである。太陽光発電も、安定した電力の供給を保証するところまで行かないのではないか。

原発が全て停止している現在、特に停電も起こっていない。従って原発は要らないという論議がある。しかし、この論議は、電力の需要が現状維持、これ以上は増えないという前提条件があってのことである。新たな工場を作り、生産活動を行う。雇用の増大を図る上で、必要なことだが、電力の価格の高騰、自給率の低下が続けば、生産拠点は国外に移転すると云うことが起こりかねない。更に国内のあらゆる部署でcomputer(CP)が使用されている。電源が落ちれば、作業中のdataは消滅する。交通機関は停止し、銀行の機能は停止する。現在の我々の生活は、眼に見えないあらゆる場所でCPの恩恵を受けているのである。

夏にネクタイをしない等という程度の節電で間に合う話ではない。兎に角安全に配慮し、他の電源が確保できるまでの間は、原発の再稼働もやむを得ない。更に国内の原発だけを問題にしているが、国外にある原発も事故が起こった場合、放射性物質が飛んでくる可能性が全くないという保証もない。その意味では、より安全性の高い原発の開発を追求することも重要なことであり、使用済核燃料の廃棄方法の検討も喫緊の課題だろう。原発の廃止・解体を考えた場合でも、高濃度の放射性物質の付着した大量の廃棄物が発生する。それらをどう処理するのか、落ち着いた論議が必要なときではないのか。それを考えると、反原発で当選するほどの票を集めるのは無理なのかもしれない。

   (2013.3.24.)

「早稲田穴八幡」

木曜日, 5月 2nd, 2013

       鬼城竜生

11月1日(金曜日)、知人の一人が早稲田鶴巻の珈琲自家焙煎店「よいち」で絵の展示会をやると云うことで、出かけていった。そのついでにと云っては申し訳ないが、早稲田穴八幡を覗早稲田穴八幡-01早稲田穴八幡-02くことにした。穴八幡は前に勤めていた病院の近くで、数十年前に娘の七五三の御参りをした神社で、古い神社だったという記憶しか残っていなかったが、何気なく見た写真で、その当時なかった立派な山門が出来ていたので、一度見に行ってみようかと云う気になった。

東西線早稲田駅のa3出口を出ると、左手の先の方に提灯が飾られた門が見えた。記憶ではその位置からは見えないはずだが、見えると云うことは、普段はあまり気にしていなかったと云うことだろう。大体が、早稲田駅の近辺に出るのは、早稲田駅から電車に乗るために出るか、駅の直ぐ近くにある本屋に行くかで、あまりうろうろすることはなかったから、眼が行かなかったということかもしれない。

早稲田の穴八幡は、“江戸名所図会”に描かれていると云うことで、当時は“高田八幡宮”と呼ばれていたという。慶安二年(1649年)に、徳川三代将軍家光の命によって社殿や諸堂が完成した後は、江戸城の北を守る将軍家の祈願所となり、江戸屈指の大社として、重んじられたという。また、その絵には穴八幡神社の社殿と同時に、穴八幡神社の別当寺である“放生寺”も描かれているという。

穴八幡神社の社伝によると、康平五年(1062)、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が、凱旋の折に、ここに兜と太刀を納め、京都の岩清水神八幡宮を分祀したのが始まりだという。早稲田穴八幡-03早稲田穴八幡-04寛永十三年(1636)、幕府御弓組頭だった松平新五左衛門尉直次が射撃練習をするために的山を築き、弓矢の守護神である「八幡神」を祀る小祠を置いた。現在、西早稲田になっているこのあたりは、当時、高田と云われており、神社も当初は“高田八幡”と呼ばれていたという。寛永十八年(1641)、隣接する放生寺の良昌和尚が、草庵を建てようとして、山すそを切り開いたところ、深さ4m位の横穴を発見し、そこに阿弥陀如来像が立っていたという逸話が広まり、多くの人が参詣に訪れるようになるにつれ、“穴八幡”と呼ばれるようになったという。

御多分に漏れず、第二次世界大戦によって穴八幡神社は、ことごとく被災してしまったが、戦後仮社殿により再興し、その後平成元年より、慶安、元禄の江戸権現造りの設計図を基に造営を始め、平成10年には随身門が出来上がったことにより往時をしのばせる姿に復活したとされている。

神社の階段を降りるまで全く気がついていなかったが、至近距離の場所に“放生寺”があることには全く気付いていなかった。しかも階段の途中で覗いた壁に穴八幡の『別当寺』という記載が見えたことに驚かされた。

『別当寺』とは神仏習合説に基づいて、神社に設けられた神宮寺の一つとされている。神宮寺(神社の境内に建設される)とは神願寺、別当寺、神供寺(じんくじ)、宮寺とも云われる。早稲田穴八幡-05神社の祭神のために仏事を修して解脱を得させるための寺院。神仏習合思想に基づくと云うが、起源は不明。後殆どの神社に置かれた。奈良時代の気比(けひ)神宮寺が文献上の所見と報告されている。

従って、昔のままであれば不思議はないが、『明治初年、維新政府の新道国教化政策に基づいて起こった仏教排斥、寺院・仏像・仏具破壊運動。』、つまり『廃仏毀釈』で、別当寺の関係は解消され、酷い場合には寺院は破毀されたといわれている。

『廃仏毀釈』については、『1868年(慶應四年)旧3月、太政官布告による神仏判然令によって神仏分離が急激に実施されると、平田派国学者の神官らが中心になって、各地で神社習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊、撤去運動を起こし、僧侶の還俗強制などがおきた。隠岐のごときは全島の仏寺を破毀て一寺も残さなかった。1875年に信教の自由が保障されたが、この廃仏毀釈によって政府は宗教に対する政治優先の姿勢を確立した。』等の説明がされている。

従って放生寺がそのまま残っているというのは、どうやって御上の御意向をすり抜けたかと云うことに成るが、明治二年寺社引分けの布告を受け、境内を分割し、僧侶の一人が還俗し神官に成ることで措置したというのが、放生寺で頂戴した半截の説明である。

高野山真言宗準別格本山の古刹である同寺は、“威盛院”の院号と、“光松山”という山号を持ち、いわゆる名刹と云うことである。放生寺は寛永十八年、威盛院権大僧都良昌(りょうしょう)上人が 高田八幡の造営に尽力し、その別当寺として開創されたお寺であるとされる。

放生寺の御本尊は、聖観世音菩薩(せいかんのんぼさつ)で、南海の補陀楽浄土におられる菩薩で、その名前の示すとおり世の人々の声を聞き、その苦しみや悩みを救い悪事災難を除くことを御誓願とされている慈悲深い仏様であるとされる。観音経に由ると我々が災難に遭ったとき観音様を一心に念ずると自由自在にお姿を変えてお救い下さることから観自在菩薩とも云うとされる。そのお姿が三十三身あるとされ、観音霊場が三十三の札所となった起こりともなっているとされる。放生寺の本尊は古くより融通虫封じ観世音と云う名前で呼ばれ、親しまれて来たともされる。

所で知人の絵は喫茶店の壁に展示されていたが、絵の展示用に照明がされている訳ではなく、やや見にくい絵もあったが、6枚の抽象画が展示されていた。下地に色を重ね、更には画面の変化を強調するためにガーゼなどを貼り付け、その上に色を塗ることで画面に変化を見せたとする紹介が配布されていた半截に書かれていた。

夕方5時近くなったので、以前勤めていた病院の仲間に電話し、一杯やることにしてしまったので、今回の総歩行数は8,414歩で、1万歩には到達しなかった。

        (2014.11.9.)