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「早稲田穴八幡」

木曜日, 5月 2nd, 2013

       鬼城竜生

11月1日(金曜日)、知人の一人が早稲田鶴巻の珈琲自家焙煎店「よいち」で絵の展示会をやると云うことで、出かけていった。そのついでにと云っては申し訳ないが、早稲田穴八幡を覗早稲田穴八幡-01早稲田穴八幡-02くことにした。穴八幡は前に勤めていた病院の近くで、数十年前に娘の七五三の御参りをした神社で、古い神社だったという記憶しか残っていなかったが、何気なく見た写真で、その当時なかった立派な山門が出来ていたので、一度見に行ってみようかと云う気になった。

東西線早稲田駅のa3出口を出ると、左手の先の方に提灯が飾られた門が見えた。記憶ではその位置からは見えないはずだが、見えると云うことは、普段はあまり気にしていなかったと云うことだろう。大体が、早稲田駅の近辺に出るのは、早稲田駅から電車に乗るために出るか、駅の直ぐ近くにある本屋に行くかで、あまりうろうろすることはなかったから、眼が行かなかったということかもしれない。

早稲田の穴八幡は、“江戸名所図会”に描かれていると云うことで、当時は“高田八幡宮”と呼ばれていたという。慶安二年(1649年)に、徳川三代将軍家光の命によって社殿や諸堂が完成した後は、江戸城の北を守る将軍家の祈願所となり、江戸屈指の大社として、重んじられたという。また、その絵には穴八幡神社の社殿と同時に、穴八幡神社の別当寺である“放生寺”も描かれているという。

穴八幡神社の社伝によると、康平五年(1062)、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が、凱旋の折に、ここに兜と太刀を納め、京都の岩清水神八幡宮を分祀したのが始まりだという。早稲田穴八幡-03早稲田穴八幡-04寛永十三年(1636)、幕府御弓組頭だった松平新五左衛門尉直次が射撃練習をするために的山を築き、弓矢の守護神である「八幡神」を祀る小祠を置いた。現在、西早稲田になっているこのあたりは、当時、高田と云われており、神社も当初は“高田八幡”と呼ばれていたという。寛永十八年(1641)、隣接する放生寺の良昌和尚が、草庵を建てようとして、山すそを切り開いたところ、深さ4m位の横穴を発見し、そこに阿弥陀如来像が立っていたという逸話が広まり、多くの人が参詣に訪れるようになるにつれ、“穴八幡”と呼ばれるようになったという。

御多分に漏れず、第二次世界大戦によって穴八幡神社は、ことごとく被災してしまったが、戦後仮社殿により再興し、その後平成元年より、慶安、元禄の江戸権現造りの設計図を基に造営を始め、平成10年には随身門が出来上がったことにより往時をしのばせる姿に復活したとされている。

神社の階段を降りるまで全く気がついていなかったが、至近距離の場所に“放生寺”があることには全く気付いていなかった。しかも階段の途中で覗いた壁に穴八幡の『別当寺』という記載が見えたことに驚かされた。

『別当寺』とは神仏習合説に基づいて、神社に設けられた神宮寺の一つとされている。神宮寺(神社の境内に建設される)とは神願寺、別当寺、神供寺(じんくじ)、宮寺とも云われる。早稲田穴八幡-05神社の祭神のために仏事を修して解脱を得させるための寺院。神仏習合思想に基づくと云うが、起源は不明。後殆どの神社に置かれた。奈良時代の気比(けひ)神宮寺が文献上の所見と報告されている。

従って、昔のままであれば不思議はないが、『明治初年、維新政府の新道国教化政策に基づいて起こった仏教排斥、寺院・仏像・仏具破壊運動。』、つまり『廃仏毀釈』で、別当寺の関係は解消され、酷い場合には寺院は破毀されたといわれている。

『廃仏毀釈』については、『1868年(慶應四年)旧3月、太政官布告による神仏判然令によって神仏分離が急激に実施されると、平田派国学者の神官らが中心になって、各地で神社習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊、撤去運動を起こし、僧侶の還俗強制などがおきた。隠岐のごときは全島の仏寺を破毀て一寺も残さなかった。1875年に信教の自由が保障されたが、この廃仏毀釈によって政府は宗教に対する政治優先の姿勢を確立した。』等の説明がされている。

従って放生寺がそのまま残っているというのは、どうやって御上の御意向をすり抜けたかと云うことに成るが、明治二年寺社引分けの布告を受け、境内を分割し、僧侶の一人が還俗し神官に成ることで措置したというのが、放生寺で頂戴した半截の説明である。

高野山真言宗準別格本山の古刹である同寺は、“威盛院”の院号と、“光松山”という山号を持ち、いわゆる名刹と云うことである。放生寺は寛永十八年、威盛院権大僧都良昌(りょうしょう)上人が 高田八幡の造営に尽力し、その別当寺として開創されたお寺であるとされる。

放生寺の御本尊は、聖観世音菩薩(せいかんのんぼさつ)で、南海の補陀楽浄土におられる菩薩で、その名前の示すとおり世の人々の声を聞き、その苦しみや悩みを救い悪事災難を除くことを御誓願とされている慈悲深い仏様であるとされる。観音経に由ると我々が災難に遭ったとき観音様を一心に念ずると自由自在にお姿を変えてお救い下さることから観自在菩薩とも云うとされる。そのお姿が三十三身あるとされ、観音霊場が三十三の札所となった起こりともなっているとされる。放生寺の本尊は古くより融通虫封じ観世音と云う名前で呼ばれ、親しまれて来たともされる。

所で知人の絵は喫茶店の壁に展示されていたが、絵の展示用に照明がされている訳ではなく、やや見にくい絵もあったが、6枚の抽象画が展示されていた。下地に色を重ね、更には画面の変化を強調するためにガーゼなどを貼り付け、その上に色を塗ることで画面に変化を見せたとする紹介が配布されていた半截に書かれていた。

夕方5時近くなったので、以前勤めていた病院の仲間に電話し、一杯やることにしてしまったので、今回の総歩行数は8,414歩で、1万歩には到達しなかった。

        (2014.11.9.)