Archive for 6月, 2013

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「管花地精について」

日曜日, 6月 23rd, 2013

 

KW:健康食品・管花地精・肉蓯蓉・オニク・ホンオニク・肉蓯蓉・ニクジュヨウ・蓯蓉・ジュヨウ・迷肉蓯蓉

Q:TVで『管花地精』と称する植物を不老長寿の植物として紹介していたが、これは何か

A:別名『管花地精』は、シルクロードの歴史に伝えられる中国新疆(シンキョウ)地方の高地や砂漠地帯に自生するハマウツボ科の植物、肉蓯蓉(ニクジュヨウ)あるいは蓯蓉(ジュヨウ)、迷肉蓯蓉等の肉質茎。
異名:肉松蓉(ニクショウヨウ)、蓯蓉、地精(チセイ)、金筍(キンジュン)、大蕓(ダイウン)。[『従』は草冠、『雲』は草冠付] 。
原植物
1.肉蓯蓉(Cistanche salsa(C.A.Mey.)G.Beck)。多年生寄生草本、高さ15-40cm。茎は多肉質で肥厚し、円柱形、黄色、分枝しないか時には基部から2-3分枝する。種子は多数、開花期は5-6月、結実期は6-7月。アルカリ性の土地、枯れた川や溝の砂地、ゴビ砂漠一帯に生える。紅砂や塩爪爪、着葉塩爪、珍珠、西伯利亜白刺等の根に寄生する。本品は微量のアルカロイド、及び結晶性の中性物質を含む。その他、フェニルエタノイド配糖体、アクテオシド、イリドイド、D-マンニトール、β-シトステロール等も含有する。
2.蓯蓉(Cistanche deserticola Y.C.Ma)。多年性寄生草本。高さ1mに達する。形は肉蓯蓉と似ているが、茎の鱗片状葉は抜針形又は線状抜針形。湖の周辺、砂地、林に生え、木の根に寄生する。
3.迷肉蓯蓉(Cistanche ambigua(Bge.)G. Beck)。多年生の寄生草本、茎の基部が特に肥厚している。砂地、林中に生え木の根に寄生する。アルカロイドが含まれている。

オニク(Boschniakia rossica Fedtsch.et Flerov)。本品は本州中部以北から北海道の高山に自生するミヤマハンノキに寄生。更に千島列島、カムチャッカ、中国、東シベリアから北米西部と広範囲に分布している。
オニクはハマウツボ科のオニク属の1年草。肉蓯蓉(ニクジユヨウ、ニクソウヨウ)を尊重して御肉(オンニク)と呼び、それがオニクとなった。我が国のオニクは中国産と区別するため和肉蓯蓉としている。
別名:キムラタケ(キンマラダケの略)、オカサダケ(方言)。
中国産肉蓯蓉はホンオニクと呼んでオニクと区別されているが、これは同じハマウツボ科のホンオニク属に分類される多年草である。内蒙古、甘粛、陜西、新疆、ロシアなどの砂漠地帯で、塩分が多くて特殊な草木しか生育しないような不毛の地に、主に自生している。ホンオニクの学名『サルサ』は塩の意味である。
オニクの成分としてボシニアラクトン、ボニシアキンという塩素性物質が報告されている。
適応:強壮、強精

1)上海科学技術出版社・編:中薬大辞典;株式会社小学館,1985
2)伊澤一男:薬草カラー大事典;株式会社主婦の友社,1998
3)http://www.kanpoyaku-nakaya.com/nikujuyou.html,2004.5.25.

           [015.9.CIS:2004.5.25.古泉秀夫]

「メルスモンの適応外使用について」

日曜日, 6月 23rd, 2013

 

KW:薬物療法・適応外使用・メルスモン・melsmon・胎盤絨毛分解物・胎盤・placenta・プラセンタエキス・placenta extract・ラエンネック・laennec

Q:メルスモンの使用方法-保険適応外使用について

A:メルスモン(melsmon;メルスモン製薬株式会社)は、胎盤絨毛分解物の水溶性物質で多種アミノ酸を含有する。本品2mL中には100mgの水溶性物質(エキス)を含む。添加物として無痛化剤、ベンジルアルコール0.03mLを含む等の報告がされている。

本品の成分である胎盤(placenta)抽出エキス(placenta extract)は、最近美容目的での用途が拡大しておりエステや化粧品業界で先行していたが、食品機能としても注目されるようになってきた。それに伴って、美容外科、診療所等でメルスモン等を用いて種々の治療が試みられている。

メルスモンの承認適応は『更年期障害、乳汁分泌不全』であり、それ以外の使用は全て適応外使用である。また、ヒト胎盤由来製剤であるラエンネック(laennec;株式会社日本生物製剤)の承認適応は『慢性肝炎における肝機能の改善』であり、本剤の場合もその他の使用例は適応外使用である。なお、ラエンネックでは薬効・薬理として肝再生促進作用・抗脂肝作用・組織呼吸賦活作用・間質結合織の吸収促進作用等が報告されている。

placenta extractの薬効・薬理については、作用機序については未だ十分明らかではないが、細胞呼吸促進・創傷治癒促進・抗疲労等の諸作用が認められており、これら多種多様な生物学的活性作用が広汎な生体過程への賦活作用を示し、組織細胞の新陳代謝を高め、身体の異常状態を正常化するとしている。

その他、現在までに報告されている薬理作用として自律神経調整作用、強肝・解毒作用、基礎代謝向上作用、免疫賦活作用、抗炎症・創傷回復促進作用、内分泌調整作用、血行促進作用、造血作用等がある。また、抗アレルギー作用、肉芽形成促進作用、疲労回復作用、貧血改善作用、抗突然変異作用等が確認されているの報告も見られる。

placenta extractの現在までに確認されている成分は、下記の通りであると報告されている。

核酸関連成分 ウラシル、アデニン、グアニン、チミン、シトシン等
アミノ酸 リジン、アラニン、アスパラギン酸、ロイシン、グルタミン酸、グリシン、バリン、セリン、チロシン、フェニルアラニン、スレオニン、アルギニン、プロリン、シスチン、イソロイシン、メチオニン、ヒスチジン等
ミネラル ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウム、リン、鉄等
その他 キサンチン等

両剤の承認適応以外での使用は、何れも自費扱いであり、ルール上は全ての診療が自費扱いとされる。

1)メルスモン添付文書,2000.4.改訂
2)医学大辞典;南山堂,1992
3)健康産業流通新聞,2000.6.8.
4)ラエンネック添付文書,1999.4.改訂

[035.1.MEL:2001.7.17.古泉秀夫]

「利尿剤の効力比較」

日曜日, 6月 23rd, 2013

 

KW:臨床薬理・薬効薬理・利尿剤・効力比較・ラシックス・furosemide・ループ利尿薬・フルイトラン錠trichlormethiazide・thiazide系利尿薬

Q:ラシックス錠40mgを服用中の患者が頻繁に排尿を訴える。フルイトラン錠に変更することで、排尿頻度を下げることは可能か。

A:次の通り報告されている。
ラシックス(サノフィ)は、1錠中にfurosemideを10・20・40mgを含有する製剤と1g中に40mgを含有するラシックス細粒4%の製剤が存在する。
furosemideはループ利尿薬に分類される薬で、利尿効果を目的とする場合は、ループ利尿薬を使用する。ループ利尿薬は、利尿効果は強力であるが、降圧効果は比較的弱い。うっ血性心不全、他の浮腫あるいは体液貯留等利尿効果の期待される疾患では第一選択薬である。ループ利尿薬はヘレン係蹄の上行脚髄質において管腔側より作用し、Na、chlorideの再吸収を抑制する。

利点:①強力な利尿効果がある。②多用量まで直線的な用量-効果関係にある。③増量によって効果が増強する。④腎機能低下例でも有効である。
欠点:①利尿効果が強すぎ、脱水、電解質異常、血栓塞栓症等を惹起することがある。②薬剤間で利尿効果に大きな差はないが、furosemideが用いられることが多い。
等の報告が見られる。また、利尿効果を期待する場合にはループ利尿薬が主に用いられるが、利尿効果が強力すぎる場合には、サイアザイド系利尿薬を用いる。

§健常人に40mgを経口投与したとき、血中濃度のピークは1-2時間目に最大、半減期は3.54±0.77時間。経口投与後1時間以内に効果発現、約6時間持続する。大部分が代謝を受けずに未変化体として尿と糞便中に排泄される。健常人に経口投与時、24時間後には尿中排泄はなくなり、蓄積作用は認められない。蛋白結合率:91-99%(主にalbumin)。

§本剤の利尿効果をラットの尿中Na排泄量でみると、その最大Na排泄量はチアジド系薬剤の約3倍を示し、最小有効量10mg/kgから最大有効量100mg/kgと幅広い薬用量を持つ

フルイトラン錠(塩野義)は、1錠中にtrichlormethiazideを1・2mg含有する製剤が存在する。
trichlormethiazideはthiazide系利尿薬に分類される薬で、降圧効果を目的とする場合は、thiazide系利尿薬を使用する。遠位尿細管でのNa再吸収を抑制することにより、短期的には循環血液量を減少させ、長期的には末梢血管抵抗を低下させる。但し血清クレアチン2.0mg/dL以上では無効であり使用を避ける。腎機能低下例ではループ利尿薬を用いる。少量(1/4-半錠)を使用することにより、降圧効果を損ねずに、低K血症、耐糖能悪化、高尿酸血症等代謝系への悪影響を最小化することが出来る。

§thiazide系利尿薬は降圧薬として高血圧症に対する第一選択薬の一つである。最近では、使用量を少量にとどめ、他剤との併用が行われている。angiotensin受容体阻害薬との合剤が使用可能となっている。

利点:①有効率が高い、②至適用量の個人差が小さい、③効果の発現が緩徐で、過度の高圧を来さない、④起立性低血圧がない、⑤薬剤耐性になり難い、⑥1日1回の服用で済む、⑦他の降圧薬による体内水分貯留傾向を解消することにより降圧効果を増強する、⑧安価である、⑨豊富な使用経験と、長期投与の実績がある、⑩Ca再吸収を促進し、骨粗鬆症等の骨疾患に有益である可能性がある。
欠点:①有効量の幅が狭く、それ以上に増量しても効果は増大しない、②腎機能低下例(血清クレアチニン2mg/dL以上)では効果が弱い、③副作用、特に代謝面への影響がある(常にチェックする必要がある)。

§thiazide系利尿薬は遠位尿細管におけるNa、chlorideの再吸収を抑制する。trichlormethiazideは約2時間で作用が発現し、約6時間で最高に達し、約24時間持続する。消失半減期は6時間、作用持続時間は約6時間。24時間後までの尿中累積排泄率は68.2±4.3%(mean±S.E.)であった。蛋白結合率:85%。

§furosemideの効能又は効果は『高血圧症(本態性、腎性等)、悪性高血圧、心性浮腫(うっ血性心不全)、腎性浮腫、肝性浮腫、月経前緊張症、末梢血管障害による浮腫、尿路結石排出促進』とされており、心性浮腫を治療目的としていたとすれば、簡単にtrichlormethiazideに変更することは難しいと考えられる。患者は現在furosemide 40mg錠の投与を受けており、取り敢えず半量の20mg錠の投与を検討してはどうかと考える。

1)ラシックス錠添付文書,2012.10.
2)フルイトラン錠添付文書,2011.2.
3)大阪府病院薬剤師会・編:全訂医薬品要覧;薬業時報社,1984
4)高久史麿・他監:治療薬マニュアル2013;医学書院,2013
5)大内尉義・他編:疾患と治療薬-医師・薬剤師のためのマニュアル-改訂第5版;南江堂,2003

         [015.4.FUR:2013.4.30.古泉秀夫]

『港区七福神巡り』

土曜日, 6月 1st, 2013

       鬼城竜生

箱根駅伝の最終ランナーがゴールテープを切ったのをテレビで見て、その後腰を持ち上げたので、約3時間は掛かるという七福神巡りを巡り終えるという確信は無かったが、かみさんと二人で出生田神社-001かけた。麻布七福神-02

大江戸線の大門で乗り換え、赤羽橋駅で下車。ザ・プリンスパークタワーの裏側を抜けると“宝珠院 ”に行き着く。宝珠院は、浄土宗お寺で貞亨二年(1685)に増上寺三十世霊玄上人が白蓮池に弁天堂を建立、同時に宝珠院を開創し、歴代住職をかねて来たといわれている。宝珠院には、港区指定文化財の閻魔大王の像があり、寄木作りで高さ2m、貞亨二年(1685)に作られたものであるとされている。右に司録、左に司命の二像(書記官)を従えているのが特徴だとされている。宝珠院に祀られているのは、“弁財天”である。

宝珠院を出て右に道なりに行くと熊野神社が見える。港区麻布台鎮座とされる“飯倉熊野神社”の勧請・縁起については元禄16年(1703)の火事によって旧記録が消失したため不明とされているが、神社で頂いた半截によると、養老年間(714-724)芝の浜辺に勧請されたものが、後当地へ遷座したという解説も見られる。当神社に祀られているのは“恵比寿”である。

次いで飯倉雁木坂児童麻布七福神-03遊園を左に折れ、外苑東通りを暫く行って十字路を首都高速都心環状線に入り、アークヒルズの前を六本木駅方向に左に入ると直ぐの所に久国神社が見えると簡麻布七福神-04単に書いたが、六本木坂下公園の所に歩道橋があるのに気付かずANAインターコンチネンタルの前まで行って、行き過ぎたのではないかと云うことで後戻りすることにした。地図では郵便局の前を曲がることになっていたが、郵便局に気付く前に神社の旗が眼に付いた。

“久国神社”について、創建年代は明らかではないが、もとは現在の皇居内(千代田村紅葉)にあって、その後何度かの移転を経て寛保元年(1741)に現在地に移ったと伝えられている。太田道灌が鎌倉時代の名工久国作の刀を寄進したことにより、久国稲荷として崇敬されてきた。昭和二年(1927)に現在名に改称。拝殿の額は勝海舟の筆によるものとされている。此処に祀られているのは“布袋尊”である。

次に六本木駅を目指し、駅前の十字路を右に入り、少し行って左に入ると天祖神社が見られる。“天祖神社”の御祭神は、天照大神、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)で、今から約六百年前、南北朝の後小松院の御代、至徳元年八月十六日に、芝西久保、飯倉麻布七福神-05城山に、初めて祀られたものと伝えられている。

麻布七福神-06このお宮に、品川沖から毎夜龍が御灯明を献じたということで、この地を「龍灯山(りゅうどうやま)」といったといわれている。また太田道灌が、方五丁の祭田を寄進し、神社の社殿を再建し、信仰したことも伝えられている。元和の時代、徳川二代将軍秀忠の江戸城郭改築の際、社寺の移転があって現在の地に移転。この地一帯を龍灯(りゅうどう)からとって「龍土村」と唱えるようになり、神社の名前も「龍土神明宮」と称えられ、氏子の町々も「龍土六本木」「龍土材木町」と呼ばれ開けてきたという。

由緒ある本神社に祀られているのは、“福禄寿”と云うことであったが、5時を僅かに過ぎており、社殿の入口は閉じられていた。御朱印は諦めるかと一瞬思ったが、社務所の玄関から巫女さんが出てきたので御朱印を御願いしたところ、神主を呼んで戴き、御朱印は頂戴したが、今回の七福神参りは、此処までで中止することにした。1月3日(土曜日)の総歩行数は11,597歩で終わった。

家で夕飯を食って御茶を飲んでいたらかみさん麻布七福神-06が途中で止めるのは気持ちが悪いから明日残りを廻りましょうと云ってくれた。そんな訳で4日(日曜日)は、10時位に家を出て、大江戸線六麻布七福神-07本木駅に向かった。六本木駅の4b出口から六本木通りに出て、六本木六丁目交差点を目指した。その交差点を左に、心臓血管研究所病院の方向に行き、右側に入る道を入ると櫻田神社に行き当たる。

治承四年(1180)に源頼朝の命によって渋谷庄司重国が霞山に祀ったことに起こるという。
文治五年(1189)奥州征伐の奉賽として、源頼朝より30貫の田地を寄進された。この御神田の境界を区分するために畦道に桜を植えたところ、その桜が見事に咲き誇ったことから「桜田」と讃え、村の名も桜田村とすることにしたとされるが異説もあるようである。
文明年間(1469-87)に太田道潅が社殿を再興し、太刀甲冑を奉納した。寛永元年(1624)、江戸の整備に伴い、氏子とともに霞ヶ関から現社地に遷った。江戸城桜田門は桜田郷の名に因むという。また、現在の西新橋1丁目の一部(芝桜田)はかつての桜田村の一部であり、現在も桜田神社の氏子であるとされる。七福神は壽老人が祀られている。沖田総司や乃木希典大将が御参りしたという伝承も残っているようである。

櫻田神社を出て右に麻布税務署前の道を左にサンマリノ共和国の大使館前の道を行くとリトアニア共和国大使館の前に出る。狸坂を見て暗闇坂を過ぎて大黒坂に至ると、大黒坂の謂わ麻布七福神-08れとなた大法寺に至る。栄久山大法寺は慶長二年(1597)十一月の創立。開山は慈眼院日利とされている。江戸時代は赤門寺と呼ばれ、五世妙乗院日亮が伝教大師作と伝えられる三神具足の大黒天を祀り、甲子縁日には大変賑わった。三神具足とは尊像の姿が大黒天の福寿と弁財天の円満と毘沙門天の除災得幸を現わしているところから、呼ばれるようになったもの。関東大震災で焼失、昭和十四年十一月に再建されたが、昭和二十年年四月十五日の戦災によって全焼。昭和二十九年仮建築の本堂・庫裡を再建、昭和四十二年十一月に増改築がされたという。

付近に「麻布一本松」別名「冠の松」(江戸名所の一)があり、現在も茂っている。縁日は五の日。節分会・追儺式には豆撤きが行われている。寺宝として麻布一本松大黒天(伝・伝教大師作)がお祀りされており、御住職が説明されていたが、毎年七福神の時期に御開帳されているという。大法寺では御神酒と甘酒が振る舞われており、有難く頂戴した。

大法寺を出て右へ毘沙門天を祀る氷川神社を目指した。天慶五年(942)源経基が勅命を受け、天慶の乱(平将門の乱)を平定するため東征した時 、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布冠の松(現麻布一本松の地)に、境内二千余坪を勧請したのがはじまりだとされている。源経基は文武に秀でた武士で、鎌倉幕府の栄華を築いた清和源氏の祖である。江戸城を修築した太田道灌も氷川神社を厚く崇敬されたことから、太田道灌勧請説(文明年間 ・1469~1485)もあるとされる。 遠く富士山も眺望できる絶景の地で、多くの武将が鷹狩りの時などに立ち寄ったという高台の社だった。このような四方絶景の坂上の地でしたが、方位等の関係で万治二年(1659)に、お社は麻布一本松付近より現地にご遷座した。江戸時代以降も芝居や能が賑やかにとりおこなわれた江戸氷川七社の一社として、また麻布の総鎮守府として崇敬されてきた。明治、大正時代を経て昭和の戦災に遭遇したが、宮神輿庫、神楽殿、手水舎は災禍を逃れて今に至っている。氏子区域は現在の元麻布、南麻布、西麻布と麻布十番、六本木、青山の一部とされている。               

氷川神社を出て、元の道を戻り、大法寺の前を通り過ぎて麻布十番に抜けた。七福神ということからいえば、十番稲荷神社は関係ないということになるが、何故か八番目ということで宝船が祀られているという。十番稲荷神社は、もと末広神社及び竹長稲荷神社であるとされる。両神社は、昭和二十年四月十五日に戦災に遭い焼失、昭和二十五年六月復興土地区画整理により、両社境内地を現在地に換地した。その後両社は合併して社名を十番稲荷神社と改称し、平成九年三月二十九日に現社殿に建て替えられたという。

十番稲荷神社には江戸時代の文政四年(1821)七月二日、麻布古川あたりより始まった大火で、殆ど焼けてしまった時、なぜか備中成羽の領主、山崎主税助の屋敷のみが類焼を免れたという。これは邸内の池の大蛙が、水を吹きかけて猛火を防いだからだという。そこで山崎家では文政四年の九月より、「上(じょう)」という一字が書かれた御札を万人に授けるようになったという。この御札は「上の字様」と称され、防火・火傷のお守りとして信仰を集めていたという。で今でも大蛙が祀られており、「かえる」お守りと名前を変えて配布されている。

麻布十番は初めてなので、きみちやん像の写真を撮り、豆菓子の豆源で豆菓子を買い、『布屋太兵衛永坂更科』で蕎麦を食って帰ってきた。二日目の総歩行数は8,022歩。

        (2013.1.25.)

『第X回目のクラス会』

土曜日, 6月 1st, 2013

           鬼城竜生

11月1沼津-011日(日曜日)-12日(日曜日)の両日に架けて、三島市立北中学校3年D組のクラス会を開催した。場所は沼津市志下にあるKKR沼津“はまゆう”に設定した。参加者は全員75歳、中に二人ばかり74歳というのが居たが、卒業してから何年経ったのか勘定するするのも面倒くさい位に昔の話だ。此処に一晩泊まって翌日下香貫島郷にある御用邸を見学することにしていた。勿論、我々が生徒の頃の御用邸は、まだ天皇家の物で、管理が厳しく、入ることは出来なかったが、島郷海岸に泳ぎに来た時、海の方から眺めたことがある程度であるが、昭和44年に御用邸としては廃止され、45年からは記念公園となって、庭園や邸が公開されるようになったと云うことである。

当日、夕方から雨の予報で、次の日まで引き摺ると云われており、そうなると御用邸の見学は難儀だなと思っていたところ、予報通り雨が降り出した。自然の範疇に入る天候について、くよくよ考えても仕方が無い、明日のことは明日のこととして、6時から食事を開始。宴会が始まる前に、館内の自動販売機で缶ビールを購入、宴会が始まる頃には相当出来上がっていて、宴会ではあまり酒は進まなかった。尤も明らかに年齢の問題もあって、酒が弱くなったと云うこともあるのだろうが、最初に頼んだ分だけですんでしまった。日本酒も何本か頼んでおいたが、誰も呑む人が居なかったので、幹事の責任で全て片付けさせていただいた。

その後、歌を歌おうと云うことで、話がまとまり、カラオケルームについて確認したところ、1曲100円で御自由にと云うことだったので出かけていって、何曲が歌たっ所に元気のいい女性の一群が沼津-02入ってきたので、引き上げることにして部屋で飲み直すことになった。

幸いなことに翌日は晴れて日が照っていた。御用邸を見学の後、香貫山に車で登れるところまで登ると云うことになっていたので、天気が回復したのは、心から感謝である。

朝出かけにホテルの前で前方の山を見ていた担任があれは象山だろうと云うので眼をやると成る程そんな形をしている山が目の前にあった。尤も象山は地元の人の言う通称で正式な名称は“徳倉山”である。隣町の三島に住んでいながら知らなかったが、香貫山から南へ横山、徳倉山、志下山、小鷲頭山、鷲頭山、大平山と続く山稜線は沼津アルプスと命名されているようである。地元の愛好会が登山道を整備し名付けたものという。標高は一番高い鷲頭山でも392mと低山ではあるが、起伏が激しく鎖を伝って歩くところもあるので、登山用の装備が必要だと云われている。その他、耳新しい言葉として『沼津垣』なる言葉を眼にした。これは昔から沼津周辺で浜の潮風を防ぐために用いられてきた垣根沼津-03で、箱根竹という細い篠竹を十数本ずつ束ねて、網代編みにした物だという。

ホテルの庭もそうだったが、此処も雨上がりの庭に黄色い石蕗の花が、点々と咲いていた。御用邸の邸内を見学したが、窓にはゆがみの入ったガラスが入っていたが、何とこれは昔のガラスを再生したガラスだという。建物全体の立て付けは、夏の避暑地ということではいいのかもしれないが、冬は住みたくない建て付けをしていた。明らかに暖房をするには非効率的な建物だと云える。

                          『見渡せば石蕗の花雨上がる』

建物内では特別企画として「吉田多最(たもつ)」の日本画展が実施されていた。その他庭では第42回菊花展が開催されていた。旧厩舎の近くにあるお休み処「主馬」で抹茶と和菓子を食し、香貫山を目指して出発した。但し、頂上を目指した訳ではなく、慰霊塔のある香陵台の駐車場まで上がった。そこでしばらく沼津港などの風景を遠望した後、食事をする予定の沼津港に向かった。沼津港では新鮮な魚が食いた沼津-04いと云うことで、魚河岸丸天でそれぞれ刺身盛り合わせ定食や海鮮丼を食して解散した。

地元の人達と別れて、沼津駅まで送ってもらった後、新幹線で東京に戻った。さて後何回クラス会が出来るのか、担任の先生は84歳と云っていたが、未だ元気だった。来年別の人間が幹事をやるが、今回の仲間が元気で集まれることを期待したい。

            (2012.11.18.)