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『「飲まなく茶」下痢の恐れ』

土曜日, 2月 27th, 2010

医薬品情報21

古泉秀夫

『「飲まなく茶」下痢の恐れ』という見出しで、小さな囲み記事が出た。『都は30日、ダイエットに効くお茶として販売された健康食品「飲まなく茶」に、医薬品成分のセンナが含まれていたと発表した。下剤成分が含まれ、腹痛や下痢を引き起こす恐れがあるといい、飲んで体調を崩した人が品川区に相談して判明した。

都は同日、目黒区内の健康食品販売会社に、販売中止と自主回収を指示。「持っている人はすぐに使用をやめてほしい」と呼びかけている[読売新聞,第48020号,2009.10.31.]。

これに関連して東京都のホームページに『報道発表資料』として次の資料が収載されていた。

医薬品成分(センナ葉)を含有する健康食品の発見

平成21年10月30日

福祉保健局

東京都健康安全研究センター及び東京都薬用植物園で、痩身効果をうたった健康食品について成分検査を行ったところ、本日、医薬品成分を検出したのでお知らせします。

健康食品において、医薬品成分を含むものは医薬品とみなされ、薬事法の違反となります。なお、本件は当該製品を購入した消費者が品川区に相談したことが端緒となって発見されたものです。

薬事法違反の製品(製品表示から抜粋)

商品名:飲まなく茶

原材料名:ウーロン茶、プーアル茶、ローズ、蓮茶、夷草の実、霊芝、甘草

(以下省略)

違反の事実

検査結果:センナの葉(葉片)を検出(約14.4%)

センナの葉を含有し、経口で摂取するものは、薬事法第2条第1項に規定する医薬品に該当し、本事例は、薬事法第55条第2項(無承認無許可医薬品の販売・授与等の禁止)の規定に違反する。

上記成分は副作用として、腹痛、下痢等の健康被害が発生するおそれがあります。

当該製品を持っている方は、直ちに使用を中止し、健康被害が疑われる場合には、速やかに医療機関を受診してください。原則として、食品には医薬品成分は含まれてはなりません。健康食品の一部には、含有されてはならない医薬品成分を含むものがありますので注意が必要です。

参考

1. センナとは

センナはマメ科の植物で、小葉及び果実を医薬品(緩下剤)として使用する。主な成分として、センノシドA及びセンノシドBを含有する。

学名:Cassia angustifolia Vahl又はCassia acutifolia Delile(Leguminosae)

2. 適用:便秘、便秘に伴う次の症状の緩和:吹出物、のぼせ、痔、頭重、肌あれ、食欲不振(食欲減退)、腹部膨満、腸内異常発酵 (ただし、これは医薬品として承認許可された製品に認められた効能であり、当該製品で上記効能が確認されているものではない。)

3. 副作用:腹痛、下痢等が報告されている。妊婦、乳児に対する安全性は確認されていない。

4. 医薬品に使用される部位

専ら医薬品として使用される部位:果実、小葉、葉柄、葉軸。

食品として使用できる部位:茎

センナ末はOTC薬のうち『第2類医薬品』に分類されて市販されている。承認されている効能・効果は『便秘。便秘に伴う次の症状の緩和:頭重、のぼせ、肌あれ、吹出物、食欲不振(食欲減退)、腹部膨満、腸内異常発酵、痔』とされている。副作用として

『皮ふ:発疹・発赤、かゆみ。消化器:はげしい腹痛、悪心・嘔吐』が添付文書中に記載されており、更に『1週間位服用しても症状がよくならない場合』及び『次の症状があらわれることがあるので、このような症状の継続又は増強が見られた場合に、服用を中止し,医師又は薬剤師に相談すること:下痢』とされており、健康食品として市販されるようなものではない。

本来医薬品として製造承認を取るべきものをいわゆる健康食品の『お茶』として販売することに土台無理がある。

(2009.12.13.)

『新型インフルエンザワクチンに関する使用上の注意等の改訂について』

土曜日, 2月 27th, 2010

医薬品情報21

古泉秀夫

平成21年10月19日『厚生労働省新型インフルエンザ対策推進本部事務局』から各都道府県・保健所設置市・特別区衛生主管部(局)宛事務連絡が発出された。

 10月18日に開催された薬事・食品衛生審議会安全対策調査会において、標記の件について審議され、別紙のように、妊婦への接種及び他のワクチンとの同時接種に関し、添付文書の改訂が行われることとなりましたのでお知らせいたします。各自治体におかれましては、管下受託医療機関への周知方よろしくお願いいたします。

なお、実際の製品添付文書には、当面従来のものが添付されることとになりますが、これらの改訂を反映した添付文書は近く、医薬品医療機器情報提供ホームページの「医療用医薬品の添付文書情報」(http://www.info.pmda.go.jp/info/iyaku_index.html)において公開されます。

また、同調査会には、インフルエンザワクチンに含有されるチメロサールの安全性に関する調査結果資料も提出されていますが、資料は厚生労働省ホームページの、

○審議会・研究会等>薬事・食品衛生審議会>医薬品等安全対策調査会において、速やかに公表することとしております。

本件は(社)日本医師会及び日本病院団体協議会に対しても、周知依頼をしておりますので、申し添えます。

別紙

631 ワクチン類

【医薬品名】インフルエンザHAワクチン

      A型インフルエンザHAワクチン(H1N1株)

【措置内容】以下のように使用上の注意を改めること。

[用法・用量に関連する接種上の注意]の項の「他のワクチン製剤との接種間隔」に関する記載を

「生ワクチンの接種を受けた者は、通常、27日以上、また他の不活化ワクチンの接種を受けた者は、通常、6日以上間隔を置いて本剤を接種すること。

ただし、医師が必要と認めた場合には、同時に接種することが出来る(なお、本剤を他のワクチンと混合して接種してはならない)

と改め、[妊婦、産婦、授乳婦等への接種]の項を

「妊娠中の接種に関する安全性は確立していないので、妊婦又は妊娠している可能性のある婦人には予防接種上の有益性が危険性上回ると判断される場合にのみ接種すること

なお、小規模ながら、接種により先天異常の発生率は自然発生率より高くならないとする報告がある。」

と改める。

(参考)Birth Deects and Drugs in Pregnancy,1977

参考(新旧対照表)

インフルエンザHAワクチン及びA型インフルエンザHAワクチン(H1N1株) の新旧対照表

現行

改訂後

【接種上の注意】

6.妊婦、産婦、授乳婦への接種

妊娠中の接種に関する安全性は確立していないので、妊婦又は妊娠している可能性のある婦人には接種しないことを原則とし予防接種上の有益性が危険性を上回ると判断される場合にのみ接種すること。

【接種上の注意】

6.妊婦、産婦、授乳婦への接種

妊娠中の接種に関する安全性は確立していないので、妊婦又は妊娠している可能性のある婦人には接種しないことを原則とし予防接種上の有益性が危険性を上回ると判断される場合にのみ接種すること。なお、小規模ながら、接種により先天異常の発生率は自然発生率より高くならないとする報告がある。*

*出典:Birth Deects and Drugs in Pregnancy,1977

【用法・用量に関連する接種上の注意】

1.接種間隔

2回接種を行う場合の接種間隔は、免疫効果を考慮すると4週間おくことが望ましい。

2.他のワクチン製剤との接種間隔

生ワクチンの接種を受けた者は、通常、27日以上、また他の不活化ワクチンの接種を受けた者は、通常、6日以上間隔を置いて本剤を接種すること。

【用法・用量に関連する接種上の注意】

1.接種間隔

2回接種を行う場合の接種間隔は、免疫効果を

考慮すると4週間おくことが望ましい。

2.他のワクチン製剤との接種間隔

生ワクチンの接種を受けた者は、通常、27日

以上、また他の不活化ワクチンの接種を受け

た者は、通常、6日以上間隔を置いて本剤を

接種すること。ただし、医師が必要と認めた

場合には、同時に接種することが出来る。

(なお、本剤を他のワクチンと混合して接

種してはならない)

 世間一般では新型influenzaなるものが大流行に流行っている。しかし、これから冬を迎えて、季節型influenzaが流行らないという保障はない。取り敢えず新型influenzavaccine接種の順番は回ってこないが、もし順番が回ってきた時に、両方のvaccineを別々に注射するとなると、医療機関の混雑は大変なものになってしまう。更に注射を受ける方も、全ての注射が終了するまで、無駄な時間を過ごすことになる。

 そこでもし、一緒に接種して良いならと期待をする向きも出てくるであろうが、従来の添付文書には『生ワクチンの接種を受けた者は、通常、27日以上、また他の不活化ワクチンの接種を受けた者は、通常、6日以上間隔を置いて本剤を接種すること。』となっていた。今回の改訂で、この部分に変更はないが、『ただし書』として『医師が必要と認めた場合には、同時に接種することが出来る。(なお、本剤を他のワクチンと混合して接種してはならない)。』が追記された。

 しかし、この改訂部分を見る限り、例によって例の如く、最終判断は現場に投げてしまったということである。『医師の判断』ではなく、国の判断として同時接種が出来るような改訂にすべきだといえる。事故があった時に、直接的な責任は取りたくないという姑息さが伺える。

 influenzaワクチンは、感染を完全に防御するというワクチンではない。しかし、感染を防御することが可能なワクチンの接種は、医療費の縮減に大きく貢献する。厚生労働省は、国内におけるワクチン行政の見直しを図ると共に、新たなワクチンの開発に財政的な援助をすべきである。

(2009.12.1.)

『子安から新子安へ(一之宮神社)』

土曜日, 2月 27th, 2010

鬼城竜生

 京浜急行の子安駅から新子安駅に行く間に“一之宮神社”があり、参道は公孫樹に囲まれているということだったので、黄葉でも撮ろうかということで、11月23日(月曜日)に出かけた。

 子安駅で降りて地下道を通り抜けて京浜急行とJRの線路をすり抜けると、眼の前に「大口通一番街」の看板が出ていた。商店街の中に入り、大通りを真っ直ぐ行って第二京浜で右に折れると、何と横浜線の大口駅に出てしまった。落ち着いて地図を見れば、横浜線のガードを潜り第二京浜をそのまま行けば、入江町の交差点に出て、交差点を右に曲がれば入江町1丁目には直ぐ出られたものを、道を間違えたという先入観があり、地図上の道を辿れなくなったので元に戻ることにした。

 再度京浜急行の子安駅前に出て、15号線を左に行くと入江橋が眼に付いた。地図では入江橋を左手に曲がると直ぐのところに一之宮神社があることになっている。最も一之宮神社そのものは、手持ちの地図には記載されて居らず、山勘で目指しているが入江一丁目と言うことからすると、多分地図のこの部分にあるのだろうと言うことは理解出来た。

 東海道本線・京急本線の線路を過ぎると右手の方に鳥居が見えた。多分そこが本日の目的地であろうと言うことで辿り着くと将に一之宮神社であった。但し、期待していた公孫樹並木は、残念ながら黄葉して居らず、緑のままで、些かガッカリというところであるが、自然を対象にして写真を撮ろうとすれば、これは仕方がないと言うことである。思う通りに自然を調整することは無理というもので、それこそ成り行き任せと言うことである。

 一之宮神社の由緒については、御祭神は素盞嗚尊(須佐之男命)の外に九柱(各町合併祀祭神)とされている。

 素盞嗚命(すさのおのみこと)・保食命(うもちのみこと:食物の神)・事代主命(ことしろぬしのみこと:宣託を司る神)・面足命 (おもだるのみこと:過不足無くととのえる神)・海津見命 (わたつみのみこと)・水速廼女命 (みずはやのめのみこと)・塩土老命 (しおつちおじのみこと:塩の神)・船玉姫命 (ふなだまひめのみこと:海の神・船の守り神)・表筒男命 (うわつつのおのみこと:海の神・航海の神)・豊玉姫命 (とよたまひめのみこと:竜宮の乙姫)・瀬織津姫命 (せおりつひめのみこと:清流の女神・雨を司る)

 当神社は武蔵国(東京都・埼玉県一円・神奈川県の東部)の一之宮(埼玉県大宮市、元官幣大社)氷川神社を本社とする悠久なる歴史を持つ神社であります。永禄四年九月一日、百七代正親町天皇の御宇(紀元2221年・西暦1561年)、現在地に勧請創立され、明治の初年ごろまでは一之宮大明神、一之宮明神社と称され、光輝ある武蔵風土記にも不断の由緒を有し、古伝説もあり霊威赫々尊崇感謝の奉祀がいまに続いております。御鎮座四百年(横浜開港に先立つこと三百年)親から子へ、子から孫へと代は変わりましたが、この四百年の幾春秋を子安全町(創立当時は子安村及び西寺尾白幡)の守護神として仰がれて参りました。この間、分久二年三月十四日、旧社殿大破再建。慶応四年一月七日、神奈川桑名屋火事。明治三十年十二月十八日、浮浪者の失火。明治三十四年三月、再建(社殿右側舞殿として保存)。大正十二年九月一日、関東大震災等、累次の災害を蒙っておりますが、その折々の氏子崇敬者各位の熱誠協力は、再建に復興に表わされ、昭和三年七月、表参道百二十坪購入となり、過去昭和二十八年八月を境として、戦中戦後の間、昭和十七年二月、本殿裏山(現社殿敷地)百五十坪購入、昭和二十六年四月、公益事業幼児教育施設の開設、昭和二十八年八月、講和条約締結記念中参道六十余坪の購入等、幾変遷はありましたが、着々境内外の整備拡張を図り、昭和三十四年十月、四百年式年事業委員会の結成を見、爾来二年有半、昭和三十七年八月に社殿の竣功。

 鎮座400年という歴史の中で、災難続きみたいな神社に見えるが、その都度再建されているところを見ると、地元に密着した神社として、氏子の方々の崇敬を集めているということだろうと推察する。

 何れにしろ今回は参道の公孫樹の黄葉の写真は撮れなかったが、狛犬はどういう訳か三対置かれていた。それは何れも撮らせていただいたので、今回は狛犬中心で写真を紹介したい。

 帰りは新子安駅まで歩き、稼いだ総歩行数は11,459歩であった。

(2009.12.3.)

『三島考』

日曜日, 2月 21st, 2010

鬼城竜生

 8月15日(土曜日)かみさんと二人で、堂庭の蓮華寺に墓参りに出かけた。墓参りの後、例によって柿田川を遡上する道を行こうと云うことで、蓮華寺の横門から国道144号線に平行に出て、交差する道を右に曲がると直ぐ柿田川に架かる橋に行き当たる。橋を渡って直ぐの処に神社があり、神社の名前は何処にも書いていないようであるが、地図で確認すると“日枝神社”と書かれていた。

 日枝神社については、昔は山王宮と呼ばれ、祭神は“大山昨命”(おおやまくいのみこと)。境内社に同名の日枝神社・山ノ神神社・天神社が祀られているとされる。この神社の鳥居の前に左右に分けて石碑があるが、向かって右の碑は“柿田橋記"と“久保田隆作翁像”である。柿田橋記は1934年(昭和9年)の建立とされている。向かって左側の碑は、昔から水量が多く激流であった柿田川を渡るため橋を架けた人々の苦労を偲ぶ石碑や、川で溺死した人を供養する供養塔が並んでいる。この二基は1671(寛文11)年 建立の「石橋碑」と1787(天明7)年建立の「十句観音経二百萬遍供養塔」であり、左右三基の石碑を合わせて柿田川三石碑と呼んでいるとする説明がされている。現在架橋されている鉄筋コンクリートの柿田橋は、昭和六年に架橋されたとする紹介がみられる。

 『柿田橋記』の碑文は『柿田川は深き地隙の奔湍にして渉るに道なかりしが、寛文十一年泉荘院良

『川崎閻魔寺 一行寺』

日曜日, 2月 21st, 2010

鬼城竜生

 京浜急行川崎駅の下りホームから下を見ると、二つのお寺を見ることができる。三浦三崎よりが宗三寺で、東京よりに見えるのが一行寺である。どちらも古刹である。中でも一行寺は、閻魔寺で、地獄の釜の蓋が開くといわれる時に合わせて、御開帳がされるという。

 7月16日一行寺の閻魔堂御開帳に合わせて、御参りに出かけた。実を言えば、前日15日に一度お訊ねしたのだが、御開帳は明日だと云われ、再度出直して来たというわけである。

 正月の箱根駅伝の実況中継で見たことがあると思うが、六郷橋を渡り、ダラダラ坂を下り、直ぐの角を右に曲がると旧東海道の道に出る。一行寺は、その道を京浜急行の川崎駅方向に向かう途中に見られる。一行寺は山号を専修山、院号を念仏院と称し、浄土宗(総本山・京都・知恩院)であると紹介されている。川崎が東海道五十三次の宿場町として繁栄するようになり、鶴見矢向の良忠寺十八代顕譽円超上人により、寛永八年(1631年・徳川三代将軍家光の時代)この川崎上新宿の中心地に、念仏弘通の道場として開創建立された。

  ご本尊は太平洋戦争で焼失したため、浄土宗宗務所から贈られた阿弥陀如来(江戸時代初期の作)であり、本堂の脇陣に安置される善導大師像は文化勲章受賞者の円鍔勝二先生の作、宗祖法然上人像は小森邦夫先生の作であるとされる。また、外陣には、牧島如九画伯の涅槃画、玄関には徳富蘇峰先生九十二歳の時の書が掲げられている。

 現在の本堂は、昭和五十八年に第二十二世精譽學榮上人が発願し、檀信徒と共に本堂・客殿・墓地・境内を整備し、面目を一新した。川崎の中心地や駅に近く、賑やかな町並みの中にありながら、樹齢四百年の大銀杏をはじめとして緑ある境内は、静かに穏やかに心をなごませるお寺である。一行寺は別名、閻魔寺ともいわれ、古記によると「五間四面の本堂が南面しており、左側に閻魔堂があり」と記されている。戦前は毎年一月と七月の十六日に縁日がたち、屋台店等が出て雑踏をきわめた。子供達はお閻魔様をお参りし、地獄変相の恐ろしい絵図を見て怖がったものであるとされている。

 戦争のため全てが焼失したが、本堂・客殿の新築とあわせて、「お閻魔様復興委員会」が結成され、仏師・田中大三先生に依頼して昭和五十八年に新しいお閻魔様が完成した。お閻魔様は客殿正面にお釈迦様と水子地蔵と共に安置されている。現在は、一月の第二日曜日と七月十六日に、お閻魔様を御開帳し、地獄極楽変相図を掲げ、参拝を受け入れている。

 ここでも戦争により古い建造物は焼失したと云われている。もし昔のままに残っておれば、相当見応えのある建造物と閻魔像があったのではないかと思われるが、勿体ないことである。

 ところで閻魔の出自は印度で、2,500年以上も昔に遡る。印度の古代宗教の聖典によると、日神と速疾姫との間に生まれた子で、妹と共に生まれたので雙(ヤマ)と呼ばれ、鬼の世界の始祖となった。このヤマは自らその身を捨てて死を望み、この世から他の世に行く道を人々のために見つけ出した、謂わば人類で初めての死者となった。このヤマの住んでいるところは天上界の最も遠いところで、何時も音楽が聞こえている楽土である。ヤマにサーラ、メーヤの二匹の狗の使者がいて死者の道を守っており、人間界で死ぬべき人があるとその人を嗅ぎだして冥界まで導いていく役目をしていた。その後、下界に移って、専ら死んだ人が生前に行った行為の記録によって、その賞罰を司る神ということになったが、これが仏教の中に取り入れられ、夜摩天(ヤマテン)と閻魔王となって、説かれるようになった。

 閻魔王は、人々に更に悪を作れないようにという思いやりがあるので法王と呼ばれ、生・老・病・死と獄卒の五人の使者を派遣して、人々に警告すると説かれている。閻魔王の住み処も南方地下の別世界にあったが、鬼界の王というところから餓鬼界に移り、更に罪人を司るということで地獄界へ移転した。我国には道教の影響を受け中国から入ってきたため、現在の中国風の冠を付け、袍のような着物を着ているという閻魔像になっている。

 冥界には閻魔の他に九人の冥王がいて、死ぬと七日目毎にその一人一人の王の前に出て裁きを受ける。閻魔は五番目の五・七忌(三十五日忌)の時であるが、この世に残っている人が、死んだ人の罪が少しでも軽くなるようにということで、七日目、七日目毎に逮夜法要を行うとされている。

 閻魔の回りには鬼の獄卒のみがいるわけではなく、倶生?(ぐしょうじん)と暗黒童子がいるとされる。倶生?は人がこの世に生まれると同時に生まれ、何時も肩の上にいて日常の行為を木札に書き付け、人が死ぬとこの木札が閻魔王庁に届けられ、暗黒童子が記録した木札を読み上げ、その罪業によって閻魔王が行き先を決定するとされている。どうやら閻魔帳はこの木札から来たような話が書かれている。

 六郷橋から旧東海道を歩いて一行寺まで、更にはJR川崎駅ビル内の本屋等を歩いた結果、総歩行数10,699歩となった。

閻魔寄席はり紙にみる一行寺

『東大島神社から亀戸浅間神社』

日曜日, 2月 21st, 2010

鬼城竜生

 『江東区観光イラストマップ』なるものがある。江東区区民部経済課が発行した資料である。

 その地図の都営地下鉄新宿線の“東大島駅”(ひがしおおじまえき)の近くに、浅間神社がある。神社の名前の隣に“茅の輪くぐり”のイラストが描かれており、マップの裏の説明文に、伝統の神事「茅の輪くぐり」では、日本一のジャンボ茅の輪が作成され、名物になっているという記載がされていた。

 大体“茅の輪”が何の目的で作成されるのか知らなかったが、日本一となると覗いてみたいという野次馬根性から行くことにした。しかし、見に行くのに“茅の輪くぐり”を知らないでは片付かないので、調べてみることにした。

 するとどうだ、『大祓(おおはらえ)は、6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に行われる除災行事である。犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)という。6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいる。なお、「夏越」は「名越」とも標記する。輪くぐり祭とも呼ばれる。701年の大宝律令によって正式な宮中の年中行事に定められた。この日には、朱雀門前の広場に親王、大臣(おおおみ)ほか京(みやこ)にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓った。』という解説がされていた。

 なんと、法律によって定められた神事であり、嘗ては国を挙げてやっていたことのようである。

 夏越の祓については、多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。これは、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。『釈日本紀』(卜部兼方 鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文にある「蘇民将来」神話では、茅の輪を腰につけて災厄から免れたとされ、茅の旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられてきた。また、茅の輪の左右に設置する笹竹に願い事を書いた短冊を振下げ、七夕に河川に流すといった俗信仰は、書初めを“どんどん焼き”で焚くと習字が上達するといった行事と対応しているとする報告も見られる。

イラストマップによると、東大島駅の直ぐ近くに“東大島神社”があると紹介されている。折角、遠路遙々訪ねて行くので、この神社にも御参りし、出来れば御朱印を頂戴したいと考えていた。

 6月25日(木曜日)、大門で都営浅草線から都営地下鉄大江戸線に乗り換え、森下駅で都営地下鉄新宿線に乗る行程で東大島駅に下車した。しかし、直ちに到着するはずの東大島神社が、中々道が分からず、迷いに迷い、最後は道行く地元民と考えられる年寄りに道を尋ねた。もうすぐ其処ですよという言葉に励まされて辿り着いてたが、何のことはない駅から素直に歩いてくればさほどの距離でなかったものを却って遠回りをしてしまったようである。

 本殿の御参りをして境内の種々写真を写した後、御朱印を頂戴するため、社務所を訪ねた。出てきた神主さんは、暑い中良く御参りくださいました。しばらくお待ちくださいと云って一度下がると、冷たい麦茶を持参してくれた。初めての経験なので、思わずどうも恐れ入りますと御例申し上げたが、よほど熱中症でも起こりそうな顔をしていたのかと反省した。しかし、冷えた麦茶は、将に甘露、甘露というに相応しく躰の隅々に染み込んだ。

 その時頂戴した“江東区の氏神さま”という栞によると、東大島神社の御祭神は天照皇大御神、牛島大神、稲荷大神とされている。同社は戦災により焼失した東大島地区の五つのお社(永平神社・子安神社・小名木神社・北本所牛島神社・南本所牛島神社)を戦後合併し、五社のほぼ中心に建てられました。平成14年には御鎮座五十年記念事業として、社殿の修復が行われ、昭和53年に竣工したお社が綺麗に甦りましたと解説されていた。

 戦災により焼失したという神社やお寺に行き合う事があるが、古い建物(文化)を壊してしまうのは、人間の愚かさの現れであると思うが、見てみたかったとしみじみ思うのは、燃えて無くなる前の写真などを見た時である。形あるものは壊れるというのは一つの真実であろうが、戦争で無理矢理壊す必要は更々無かったのではないかと思う。

 茅の輪の亀戸浅間神社を拝観すべく、目指したが、本日は道に対する勘が完全に鈍っており、また、目的地が解らなくなった。横断歩道で、子供達の安全確保に働いているおじさんを見かけたので、訪ねたところ、そのバス停の前の道を入れば直ぐだと教えられた。実はさっきその前は通ったのだが、まさかと思ったのは、マンションの庭の中に入るのではないかと躊躇ったからである。しかし、どうやら其処を突き抜けた先に神社はあったようである。

 同社は大永七年(1527年)の創立と伝えられているが、安政二年(1855年)の大地震で社殿が倒壊。明治十一年(1878年)に富士山より溶岩を運んで富士塚を築き、その上に社殿を再建した。大正十二年(1923年)関東大震災により、再び社殿は被害を受け、現在の社殿はその後に建てられたものだという。その後戦災を免れ、戦前の姿を残す貴重な木造建築の社殿として、富士塚北側の現在地に移された。境内には富士講関係その他の石碑、石灯籠、鳥居など、石造物が安置されている。また富士塚は柵で境内と隔てられているが、神使の猿や講元の石碑などがそのまま残っている。なかでも「たのみの辞碑」は、この地の由来を記したものとして有名。また伝統の神事「茅の輪くぐり」では、関東随一のジャンボ茅の輪が知られているの紹介が見られる。

 御祭神は木花咲耶姫である。

 ところで東大島神社に合祀されているなかに、聞き慣れない神様がいたが、一体“牛島大神”とはどんな神様なのか、調べることにした。読み方は“うしじまのおおかみ”ということのようである。牛島の名前が付いたのは、天武天皇の時代(701-764)に、隅田川に沿う旧本所一帯(両国-向島)が牛島という島であったこと、浮島牛牧といわれ国営牧場が設置されていたことによるといわれている。

 牛嶋神社は隅田川の東岸、もと水戸徳川邸跡の隅田公園に隣接する墨田区向島一丁目四番地に鎮座している。古くは本所区向島須崎町七十八番地(向島・長命寺の近く)にあったが、関東大震災後隅田公園の設計の都合上、昭和の初め現位置に再建されたという。明治維新前は本所表町(現・墨田区東駒形)の最勝寺がその別当として管理していたが、明治初年の神仏分離後『牛の御前』の社名を『牛嶋神社』と改め郷社に定められた。

 神社に伝わる縁起書によると、貞観二年(860年)慈覚大師が御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請して創祀し後、天之穂日命を祀り、ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、大師の弟子良本阿闇梨がその神霊を併せてお祀りし『王子権現』と称した。例祭日九月十五日は、貞観のむかしはじめて祭祀を行った日であるといわれている。

 治承四年(1180年)九月源頼朝が大軍をひきいて下総国から武蔵国に渡ろうとした時、豪雨による洪水の為に渡ることが出未なかった。その時武将千葉介平常胤が祈願し神明の加護によって全軍無事に渡ることができたので、頼朝はその神徳を尊信して翌養和元年(1181年)に社殿を経営し、千葉介平常胤に命じて多くの神領を寄進させた。永禄十一年(1568年)十一月に北条氏直が関東管領であった時、大道寺駿河守景秀が神領を寄進している。また天文七年(1538年)六月二十八日に後奈良院より『牛御前杜』との勅号を賜ったといわれる。

 “牛島大神”については、単に日本神話の神とする説明も見られるため、上の説明とは異なる神様なのかもしれないが、牛嶋神社の御祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、天之穂日命(あめのほひのみこと)、貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)とされているが、少なくとも須佐之男命は日本神話の時代の神であり、牛嶋神社と同じと考えて良いのかもしれないが、確信はない。

 帰りは総武線の亀戸駅を目指して京葉道路を歩いた。総歩行数13,230歩。

(2009.9.11.)

『危険は教えることで回避出来る』

火曜日, 2月 2nd, 2010

魍魎亭主人

キョウチクトウ:「有毒」の投書1通で「全部伐採」 福岡市教委が方針 90校に計600本(毎日新聞)

10月20日、市に匿名の投書が届いた。「キョウチクトウは有毒だ。撤去をお願いしたい」。市教委が調べたところ、小中高校と特別支援学校の約半数にあたる約90校で植えられていた。市教委はインターネットの百科事典「ウィキペディア」の情報などをもとに伐採方針を決定。今月初旬に各校に通知した。

数十本が植えられている中央区の学校の関係者は「毎夏に咲く花を近所の人も楽しみにしていた。子どもが触れないよう、枝を刈り込んだりしていたのに」と残念がる。

キョウチクトウは大気汚染に強く、高速道路の植え込みなどによく使われる一方、食べるとおう吐や下痢、心臓まひなどを起こす有毒物質オレアンドリンなどを根から花弁まで含む。インターネット上には「枝をバーベキューの串にしたフランス人が死亡」などの情報もある。

市教委施設整備課は「子どもたちに何かあってからでは遅い。児童、生徒が容易に近づけるものから順次撤去する」と強調する。

 上の記事がもし事実だとすれば、がっかりである。何かあった時に責任は取りたくないという典型的な役人の発想ということであろうか。しかし、一方で緑を大切にという運動がある。所詮は毒草のこと、切ってしまっても問題にはならないだろうという考え方と、緑を大切にという運動の関連はどうなるのか。毒草も生きている。生きていることを人が大切にすることは、毒草であれ何であれ同じではないのか。

 有毒な植物は、何も夾竹桃だけではない。紫陽花の葉っぱだって、間違って喰えば、嘔吐等の中毒症状を起こす。更に校庭には生えていなくとも、通学路には幾らでも生えている。それを全部取り除くことは不可能である。その他この世の中は危険なことだらけで、それを先回りして全て除去することは不可能である。危険を取り除くことが出来ないのであれば、それを避ける方法を教えればいいだけの話である。

 折角のいい機会だ、夾竹桃の毒成分について話をし、口に入れないということを徹底して教え、更に剪定した枝を燃やさずに廃棄する。枝や葉や花に触ったときには、石鹸を用いて手を洗い、手洗いが済むまでは、木に触れた手で食べるものを掴まない。それさえ出来れば、何等問題はない。序でにと言ってはいかんかもしれないが、丁度いい機会だ、その他の毒草についても話をし、その見分け方と、毒を持つ部分が何処かを教え、その危険を回避する方法を教えることの方が重要なのではないか。

 夾竹桃に毒があることを教えたら、態々それを口に入れてみようなどと思う酔狂な人間が居るのではないかと疑ったのかもしれないが、十分に教えた上で、なお夾竹桃を口に入れたとすれば、それは子供であったとしても自己責任の問題といえる。

 昔は、ガキ大将が居て、子供達は群れていたが、その群れの中には必ず物知りが居て、一般的な毒草に就いての知識は、その群れの共有財産になっていた。小さな子供達には、危険を避けるように注意をしていたものである。

 危険を知っていれば回避する智恵が生まれる。危険を前もって除き続ければ、それを回避する智恵は身につかない。

(2009.12.26.)

『目黄不動から目白不動・雑司ヶ谷鬼子母神』

火曜日, 2月 2nd, 2010

鬼城竜生

 目青不動・目赤不動とくれば、次は目白・目黒不動ということになるのかもしれないが、先に目黄不動に御参りすることにした。どういう訳か目黄不動は二つあるが、取り敢えず天台宗の永久寺(台東区三ノ輪)に出かけることにした。

 2009年6月20日(土曜日)『蒲田→人形町→三ノ輪』、都営浅草線から都営日比谷線に乗り継ぎ、三ノ輪駅で下車した。分かってみれば駅を上がった直ぐ隣に永久寺は立っていたが、街中の地図の読み方がよく分からないという弱点を表し、暫くウロウロと探し回った。ただ、どういう訳か、『でっか字まっぷ東京23区(昭文社2版,2008)』には、三ノ輪駅の近くに“永久寺”の記載はされていなかった。

 所で五色(東都五眼)不動尊について、江戸時代には五眼不動といわれ、五方角(東・西・南・北・中央)を色で示すもので、その由来については諸説あるが、各位置は江戸条(青)を中心として、それぞれ水戸街道(黄・最勝寺)、日光街道(黄・永久寺)、中山道(赤・南谷寺)、甲州街道(白・金乗院)、東海道(黒・瀧泉寺)といった江戸府内を中心とした五街道沿い又は近くにあることから、徳川の時代に江戸城を守るために置かれたという説が紹介されている。但し、色はあくまで仏教上の方角を示すもので、眼に色があるわけでは無いともいわれている。

 ただ、この配置について、江戸城を守るために置かれたとする考え方には、若干無理があるような気がするのである。何故なら寺院によっては、比較的簡単に移動しているという実態があるからである。

 物の本によると、天台宗永久寺は、古くは真言宗で唯識院と号したが衰退し、道安により禅寺として再建され白岩寺と改称した。だがまたも衰退したので、月窓が修復して蓮台寺に改め、日蓮宗に転じた。月窓は四代将軍家綱の生母宝樹院の弟であったことから、幕命によって日光門主本照院宮の弟子になって圭海と名乗り、蓮台寺を天台宗に改めた。いっぽう同寺の檀家で本所に住んでいた山野加右衛門永久は人を切ること一千人に及んだので、殺害した人々の亡霊を供養するために諸堂を建立し蓮台寺に寄進した。それによって同寺は永久寺と称するようになったという。不動堂があり、三尺六寸の慈覚大師作と伝える出世不動明王像(目黄不動)が安置されている。江戸五色不動の一。境内は年貢地で、西側には門前町屋があったとされるが、今は一見すると普通の民家みたいに見える。

 日光街道を渡り、常磐線の線路をくぐると都電荒川線の三ノ輪橋駅に出る。何軒かの商店が並ぶ商店街を抜けると、そこにチンチン電車の駅があった。早稲田行きの電車に乗って雑司ヶ谷駅で下車、雑司ヶ谷鬼子母神本坊に向かった。威光山法明寺[雑司ヶ谷鬼子母神本坊]とする由緒書きを頂いたが、どうやら法明寺に連なる名刹が鬼子母神堂ということのようである。最もこれは後で知ったことで、参拝に行ったときには思いもしなかった。

 由緒によると鬼子母神堂にお祀りする鬼子母神(きしもじん)の尊像は、室町時代の永禄四年(西暦1561年)一月十六日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、密かに尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。

 その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正六年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。現在のお堂は、本殿が寛文四年(1664年)徳川四代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自証院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。昭和35年に東京都有形文化財の指定を受け、昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われましたとされている。

 鬼子母神堂の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い 「雑司ケ谷鬼子母神」と尊称していると解説されている。

 目白不動金乗院は、真言宗豊山派目白不動 東豊山 新長谷寺 金乗院という長い肩書きが付いているお寺で、目白不動金乗院のしおりによると『目白不動堂は東豊山浄滝院新長谷寺と号し、金乗院より東へ約1km程の早稲田方面を臨む高台、文京区関口駒井町にあったが、昭和20年5月25日の戦災で焼失したため、金乗院に合併し、本尊目白不動明王を金乗院に移した。新長谷寺は奈良県桜井市真言宗豊山派総本山長谷寺末であり、本尊目白不動明王は江戸三不動(目白、目黒、目赤)の第一位、東都五色不動の随一として名高い。

 本尊不動明王は、弘法大師作と伝えられ、高さ八寸、断臀不動明王(だんびふどうみょうおう)といい秘佛である。断臀不動明王は縁起によれば、弘法大師が唐より御帰朝の後、羽州(今の山形・秋田県)湯殿山に参籠されたとき、大日如来が忽然と不動明王の御姿と鳴り、滝の下に現れ、大師に告げて、「この地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為の穢火をきらえり、故に凡夫登山すること難し、今汝に無漏の浄火をあたうべし」といわれ、持てる利剣をもって、自らの左の御臀(おんて)を切られると、霊火が盛んに燃え出でて、仏身に満ちあふれた。そこで大師はその御姿を二体に刻んで、一体は同国荒沢に安置し、一体は大師自ら護持されたという。その後、野州(今の栃木県)足利に住した某沙門が、これを感得して捧持していたが、武蔵国(今の東京都)関口の住人松村氏が霊夢を感じて、本尊を足利より移し、地主渡辺石見守より藩邸の地の寄進を受け、一宇を件立した。これが本寺の濫觴(らんしょう:事の始まり)とされている。

 その後、元和四年(1618年)大和長谷寺第四世小池坊秀算僧正(1572-1641年)が中興し、二代将軍秀忠公の命により堂塔伽藍を建立し、また大和長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像を移し、新長谷寺と号した。寛永年中、三代将軍家光公は、特に本尊断臀不動明王に目白の号を贈り、江戸五街道守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の一つとして、以後は目白不動明王と称することになった。またその辺り一帯を目白台と呼ぶことになった。元禄年中には五代将軍綱吉公及び同母桂昌院の篤い帰依を受け、度々の参詣があり、堂塔伽藍も壮麗を極め、門前町家19軒、寺域除地1,752坪、「境内眺望勝れたり、雪景もっとよし」(江戸名所絵図)とされていた。

 本日の総歩行数8,676歩。歩いたと思う割には歩行数が少なかったが、時間がかかったのは三ノ輪から乗車したチンチン電車の行程が意外と時間を食ったからではないかと思われた。

(2009.9.4.)

『稲富稲荷から青目不動へ』

火曜日, 2月 2nd, 2010

鬼城竜生

 大学の関係で世田谷の用賀に間違いなく3年は住んでいた筈だが、雀荘と飲み屋にしか眼が行っていなかったと見えて、大きな神社があるなどという認識はなかった。しかし、何気なくテレビの深夜番組を見ていたところ、桜新町をぶらぶらする番組で、神社の入口の鳥居から社殿まで、偉く離れている御稲荷さんがあることが放送されていた。然も梟の御守りがあるということだったので覗いてみることにした。

 渋谷から田園都市線の桜新町で下車。道なりに渋谷方向に向かうと、“桜神宮”と大きな神社の前に出た。古式神道の神社だという。全国で数少ない火渡り、釜鳴り等の神事を執り行うとしている。

 桜神宮の紹介については、『明治十五年五月十五日に大中臣家の六十五代の後裔で伊勢神宮の(筆頭)祢宜であった芳村正秉が、「神社の神官は人を教え導いてはならない」という方向に政府方針を変更したことに危機感を抱き、神代より脈々と受け継がれる古式神道を蘇らせるためお祭りだけを行う神社でなく、お祭りもしながら人々に対する布教もしっかりとできるように勅許を得て、教派神道十三派の一派を立てました。名称は伊勢神宮の禰宜時代に神託によって授かった「神習いの教」としました。以来、当宮は古式神道を受け継ぐ大神の宮として、また教えの本山として親しまれています。社殿は明治十六年東京市神田に創建。明治後期には「病気治し」「火伏せ」の神徳があると多数の人が参詣しました。また外務省の紹介により多くの外国人が訪れ、鎮火式(火渡り)や探湯式(熱湯を浴びる)の神事に参加しています。大正八年に「西の方角へ直ちに移転せよ」との神託により現在地である世田谷に移転しました。神田界隈の関東大震災による被害は大きなものでしたが、この移転により災害から免れることができました。また、第二次大戦時も無事戦災から免れ、「災難よけ」でも崇敬を受けております。』とする縁起が紹介されている。

 続いて本日の目的地“久富稲荷神社(通称:新町稲荷神社)”に向かった。久富稲荷神社の参道は、神社の開設によると約250mとされているが、参道を抜けると社殿に到着する。

 神社の由緒によると、『御鎮座は四百有余年。正確な資料は現存していないが、江戸中期に編まれた「新編武蔵国風土記稿」に”新町村五十戸の鎮守”と記された一説、参道の巨木(現在無し)の年輪から四百年以上は経っている事がわかる。この地の五穀豊穣を祈念して稲荷神社を建立したと推察される。現在のお社は、昭和4年1月に改築を企画され、氏子の方々より寄付の募集を行い約3ヵ年を掛け昭和6年11月22日に遷座祭りが行われました。その年の祭禮は、一週間に渡り執り行われ、今でも氏子の方々に語りぐさになっています。』と紹介されている。御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、大宮女命(おおみやめのみこと)、猿田彦神(さるたひこのみこと)の三神とされている。

 久富稲荷の御守りに“ふくろう”が使用されているのは、昭和の中頃、神社の境内にあった古木にふくろうが住み着いており、夜になると暗い境内にふくろうの声が聞こえ、姿を確認することは、なかなかできなかったという。参拝の際にそのふくろうを見ると「願いがかなった」という噂がたち、その話から「ふくろう御守り」、「ふくろう絵馬」の授与品を作ることになったとしている。現在授与品となっているふくろうの絵馬は、桜新町出身の“やくみつる氏”の筆による物ということであった。

 途中で昼飯を食い、三軒茶屋迄歩くことにして、前回御朱印を頂けなかった竹園山最勝寺教学院=目青不動尊に御参りすることにした。

 教学院縁起によると、創建は応長元年(1311年)で、江戸城紅葉山にあったという。本尊は阿弥陀如来で、開基は法印玄応大和尚である。その後太田道灌の江戸城築城により麹町貝塚に移され、また赤坂三分坂に移り、慶長九年には青山南町に三千坪余りの土地を拝領して三度移転した。青山南町は百人町ともいわれ、百人の同心が住んでいたといわれる土地である。この同心百人のうち三十七人が教学院の檀家に、六十三人が信者になり念仏講を結んでいた。この講の維持に1人三合宛の米を奉納していたので、『三合山』とも呼ばれ親しまれていたとされる。この佛米拠出により閻魔堂(現在の不動堂)が建立され、双盤念仏が盛んに行われていた。

 教学院は当初は山王城琳寺の末寺であったが、小田原城主・大久保加賀守忠朝菩提寺になるに及んで東叡山寛永寺の末寺となった。明治八年には境内地百坪を割いて“幼童学校”を創立したが、後の青山南町小学校に発展した。

 その後太政官布達により、明治四十二年より三ヵ年を要して世田谷の現在地に移転し、現在に至っているとされる。

 目青不動は麻布谷町にあったという正善寺(観行寺)の本尊であったものが、同寺の廃寺に伴い教学院に遷しされた。華厳経巻七・賢首菩薩第八に説かれるところの天上界と地上界の間に棚引く青い雲の色に基づく不動尊であることから、天と地の連絡をされるといわれ、『縁結び不動』としての信仰を集めるようになった。

 目青不動尊は、慈覚大師円仁御自作の尊像であり、秘佛として厨子に納められており公開されていない。御前立の不動尊は、座高1m余りの青銅製で、寛永11年(1642年)正月11日の銘があるとされる。丸顔で上下の牙歯がなく微笑を湛えているようにも見えるえくぼが女性的であると解説されている。

 また江戸時代より五色不動(御眼不動)の一つに数えられ、東西南北中央の五方角と色(五色)を合わせたもので、将軍家光の時代に成立したといわれている。昭和61年関東三十六不動霊場の第十六番に加えられ、多くの巡拝者が御参りに訪れるとされている。

 目黒不動 瀧泉寺 天台宗(目黒区)

 目青不動 教学院 天台宗(世田谷区)

 目赤不動 南谷寺 天台宗(文京区)

 目黄不動 永久寺 天台宗(台東区)

 目黄不動 最勝寺 天台宗(江戸川区)

 目白不動 金乗院 真言宗(豊島区)

 2009年6月17日の時点で、五色不動のうち目青、目赤の両不動を御参りしたことになる。但し、目青については二度目である。本日の総歩行距離は11,737歩。

 ところで、現在、使用している御朱印帳は金龍山浅草寺のものであるが、御朱印を頂いたときに「ご朱印」についての注意書きも頂戴した。

 『この頃、神社仏閣に参拝され「ご朱印」を受ける方が大変多くなっております。これは「納経」とも呼ばれ、その由来は参詣者がお経を書写して寺社に「お納め」することに始まっております。ですから昔は納経帳の右肩の所に「奉納大乗経典」と書かれておりました。現在は「奉拝(ほうはい)」という文字となっております。 いつの頃からか、この作法が簡略化されて、お写経をお納めしなくとも参詣の証として「ご判」を頂くことになって今日に及んでおります。そして各霊場を巡拝する「巡礼」信仰と結びついて盛んになりました。これは観音三十三札所あるいは四国八十八カ所を巡礼し、その全部の霊場から「御判」を頂くと、その功徳によって地獄に堕ちないばかりか、所願も成就するという、古来の信仰に基づいているものです。

 このような本義から申しますと、お経も書写もせず、あるいは御堂に入って御参りもしないで、ただご朱印だけを集めて歩くということでは、本来の尊い意議を無視してしまうことになり、あるべき姿から離れてしまいます。少なくとも『般若心経』一巻又は『観音経』偈文などを書写なさるか、ご宝前で読誦されるなどして、その後に「ご朱印」をお受けになるようにして頂きたいものです。』

金龍山 浅草寺

 前回「御朱印」に関する注意書きを貰ったのは“泉岳寺”で、特に泉岳寺の場合は、サイン帳は止めて頂きたいという注意が書かれていたような気がしたが、泉岳寺も浅草寺も謂わば観光地で、色々な種類の人間が参集してくるため、中には眉を顰(ひそ)める対応の方々もいるのかもしれないが、納経をしないからといって、好い加減だとは思わないで頂きたいのである。

 当初、当てもなく歩くのでは、続かないと考えて、花の写真を撮るために公園回りをしていたが、江戸時代を背景にした捕物帖などを読むうち、江戸六地蔵だの、その六地蔵が祀られている品川寺(ぼんせんじ)、その関連で東海七福神の品川神社、品川神社の富士塚などを巡っているうちに神社仏閣の佇まいに興味を持ち、写真を撮りがてら歩き回ることになった。

 未だ、偈文の一つも唱えることはできないが、既に100カ所を越える神社仏閣を廻るうちにそれまでとは異なる宗教観を持つようになり、それなりに崇敬の念を持つようになっている。甚だしく動機は不純であったが、それなりに修行にはなっているのではないかと自惚れている。単純に納経をしないのであれば、「御朱印」は頂くべきではないということではなく、彷徨っているうちに何とかなる場合もあるのではないか。少なくとも1000カ所も「御朱印」を頂戴すれば、凡夫も何とかなるかもしれないということで、大目に見て頂きたいものである。

(2009.9.1.)