Archive for 1月, 2010

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『桜皮エキスの成分について』

土曜日, 1月 30th, 2010

KW:薬名検索・桜皮・風邪薬・鎮咳去痰薬・ブロチン・brocin・桜皮エキス・十味敗毒湯・十味敗毒散

Q:風邪薬に配合されるブロチンは桜皮エキスであるとされている。桜皮エキスの成分としてどの様なものが含まれているか

A:桜皮(Pruni Jamasakurae Cortex:日本薬局方外生薬規格)。桜皮は日本の民間薬として開発されたもので、江戸時代の民間療法の書物に多く収載されている。華岡青洲の『瘍家方筌』の『十味敗毒湯』に樸

『ケタミンの麻薬指定について』

土曜日, 1月 30th, 2010

KW:法律・規則・麻薬・ケタミン・ketamine・動物用医薬品

Q:今日ケタミン(ketamine)で逮捕されたというニュースが流れていましたが、ketamineが麻薬に指定されたのは何時のことですか

A:ケタミン(ketamine)は、化学名を『(2RS )-2-(2-Chlorophenyl)-2-(methylamino)cyclohexanone monohydrochloride』といい、我国においては、昭和45(1970)年2月から人を対象とした医薬品として市販され、現在では、動物用医薬品としても市販されている。薬理作用として、麻酔・鎮痛作用の他、血圧降下、頻脈、脳脊髄液圧上昇、脳血流量増加、呼吸抑制などの作用がある。

ketamineは平成18年3月23日に公布された麻薬、麻薬原料植物、向精神薬及び麻薬向精神薬原料を指定する政令の一部を改正する政令(平成18年政令第50号。以下「ケタミンの麻薬指定政令」という。)により、平成19年1月1日に麻薬及び向精神薬取締法(昭和28年法律第14号。以下「麻向法」という。)第2条第1号に規定する麻薬に指定され、輸入、輸出、製造、譲渡、譲受、所持、施用等の取扱等について規制されることになった。

規制された背景については、「K」、「スペシャルK」等と呼ばれて密売されていることによる。密売されているketamineは、主に粉末で、殆ど密輸入品と考えられている。我国では医療用医薬品であるketamineの濫用は報告されていないが、ketamineの濫用が原因となって惹起された精神疾患の症例が学会でも報告され、ketamineの濫用との因果関係が強く疑われる死亡事例も発生している。この他、濫用されているMDMA等錠剤型麻薬にketamineが混合されている事例も数多く報告されている。

なお、ketamineの濫用は国際的にも悪化しており、国連麻薬委員会*は各国において規制することを呼びかけている。世界保健機関(WHO)においても、麻薬を規制するための国際条約の規制対象とするため、国際麻薬委員会に勧告することを検討しているとされる。更に米、仏、中、東南アジア諸国等においては、麻薬等の規制薬物に指定している。香港ではketamineはヘロインに次ぐ第二の濫用薬物として、特に若者の間で流行しており、中国では我国への密輸直前に摘発された事例も報告されている。また韓国では動物用のketamine注射液が加工されて濫用されていることが判明している。

*国連経済社会理事会の下部委員会であり、国際的な薬物問題に関する意思決定の中心機関である。

以上、厚生労働省医薬食品局監視指導課・麻薬対策課の発出したケタミン取扱(質疑応答)を参照した。

1)厚生労働省医薬食品局監視指導課・麻薬対策課:ケタミンの取扱(質疑応答),2006年8月

[615.1KET:2009.12.25.古泉秀夫]

『明治神宮御苑から太田記念美術館へ』

火曜日, 1月 19th, 2010

鬼城竜生

 6月10日(水曜日)明治神宮御苑に出かけた。明治神宮御苑は、江戸時代初期熊本藩主の加藤清正、後に彦根藩主井伊直孝の下屋敷の庭園でしたが、明治時代に宮内庁所管となり代々木御苑と称されていた。ここの菖蒲田は、明治天皇が皇后のために、 全国から菖蒲の優良品種を集めて植えさせたものであるとされている。 

 御苑内にある池には水面に張り出して御釣台が作られている。御釣台は、明治天皇の御意向により設けられ、 皇后も時々楽しまれたといわれている。池には睡蓮の花が咲くといわれているが、池の比較的離れた位置に咲いているため、小型の写真機では、写すことはできなかった。もう少し花の数が多くないと、池の芥扱いにされそうだが、まだ時期的に早いということなのか、睡蓮の花は遙かにちらっと見えた程度である。最も、睡蓮の花は、相当数が咲いていないと素人では写真に纏めるのが難しいのではないかと思われた。

 因みに御苑の季節毎の花の見頃については、次の案内がされている。今回花菖蒲を見に来たが、人ばかりが目立って、紅葉の時の静けさは見られなかったが、どちらかと云えば、

4月上旬

6月

12月上旬

山吹・躑躅開花。落葉広葉樹の新芽見頃

花菖蒲

紅葉等の紅葉見頃

紅葉の頃の御苑の方が風情があっていいような気がした。

 御釣台に立って振り向くと、小高い斜面の芝生の庭になっており最上部に建物が見えるが、隔雲亭という名前が付けられている。最も案内によると、隔雲亭は、明治天皇の御意向により皇后のために建てられたものであるといわれているが、戦災により焼失。現在の隔雲亭は、昭和33年(1958年)に再建されたものだという。

 御釣台から園路を北に行くと花菖蒲田に出遭う。栽培されている花菖蒲は江戸系で、当初80余種とされていたが、現在は150種、1,500株を越える規模に広げられていると紹介されている。花菖蒲田は次第に細長くなりながら北方向へと続いており、道なりに歩いて行くと、清正井(きよまさのいど)なる井戸に行き合う。井戸の傍らに井戸の説明がされているが、加藤家の下屋敷だったときに、加藤清正が掘ったと伝えられている井戸で、一年中絶えることなく湧出する清水は南池の水源となり、掘り方の巧妙さと水質の優秀なことは早くから世に知られていたとされている。

 明治神宮内の食事処で、昼飯に鰊蕎麦を食し、時間があるので原宿駅の近くにある“浮世絵 太田記念美術館”を覗くことにした。

 太田記念美術館は、故太田清藏氏が蒐集したものを展示するために開設された浮世絵専門の美術館である。美術館の説明によると『浮世絵は、我が国独自の大衆美術として、徳川初期に誕生発展したものです。しかし徳川末期より明治にかけ欧米に膨大な数量の秀品が流出し、版画、肉筆画の鑑賞は、海外に出向かなければ不可能とさえ言われるようになりました。故太田清藏氏は、このような実情を嘆き昭和の初めより半世紀以上に渡り浮世絵の蒐集に努め約12,000点のコレクションを集大成しました。同氏の死去にともない、遣族はその遣志を受け、未公開作品の一般展示を行い、広く我国の美術振興の一助とすることを決意しました。』とされている。

 今回、展示されていたのは『芳年-「風俗三十二相」と「月百姿」-』というもので、作家の月岡芳年(大蘇芳年とも、1839-92)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師であるとされる。鎖国の世から突然の文明開化を求められた動乱の時代、個性に満ち溢れた作品を次々と生み出し、しばしば「最後の浮世絵師」とも称されている。武者絵や戯画で知られる歌川国芳の下で浮世絵を学んだ芳年は、武者絵や歴史画、美人画などさまざまなジャンルで活躍している。当時の人気は随一で、名実ともに明治時代を代表する浮世絵師と言うことができる。迫力ある構図が特徴で、血みどろ絵と呼ばれる残酷な表現や女性の妖艶さを捉えた美人画などの魅力は、時代を越えて見るものの心を惹き付けている。

 帰りに猫の描かれている浮世絵ということで、探したが猫の書かれているものは1枚しかなく、仕方がないので他の絵柄も含めて何枚かの絵葉書を購入した。更に同じ建物の地下1階にある江戸小物を取扱う店で、巾着を購入して戻ってきた。

 総歩行数11,149歩で、思ったより歩いたのは、公園と美術館内を歩いた歩数が含まれているからである。

(2009.8.28.)

「白インゲン豆の毒性?」

日曜日, 1月 17th, 2010

医薬品情報21

古泉秀夫

TBSは8日、6日夜の健康情報番組「ぴーかんバディ!」で紹介した白インゲン豆ダイエット法を試みた視聴者約30人から、激しい下痢や嘔吐などを訴える苦情が寄せられたと発表した。現在のところ、重症者は出ていない。番組では、白インゲン豆にダイエット効果があることに着目、約3分間いってから粉末にし、ご飯にまぶして食べる方法などを紹介した。放送中に司会者が、「豆アレルギーの方やおなかをこわす状態が続いた方はおやめ下さい」と注意を呼びかけていたという。TBS広報部では、「原因は調査中だが、白インゲン豆を使用したダイエット法は控えるか、医師などの意見を求めた上で慎重に対応してほしい」としている[TBSで紹介 白インゲン減量法で下痢、嘔吐;読売新聞,第46752号,2006.5.9.]。

TBS系の健康情報番組「ぴーかんバディ!」で紹介された白インゲン豆ダイエット法を試みて、激しい下痢や嘔吐などの症状を訴えた視聴者が9日夕までに、延べ650人に上ったことがTBSのまとめで分かった。いずれも症状は軽く、快方に向かっているが、同局では事態を重視。同日午後のニュース番組で、白インゲン豆を使ったダイエット法について、視聴者に注意を呼びかけた。白インゲン豆にはファセオラミンと呼ばれる物質が含まれ、炭水化物と一緒に食べるとダイエット効果があるとされる。番組では、フライパンでいった後、粉末にしてご飯にまぶすなどの調理法を紹介。放送前に番組スタッフら十数人で10日以上試食したが、体調に問題はなかったという。今回の事件について、徳島文理大の勝沼信彦・健康科学研究所長(生化学)は「ファセオラミンを大量に摂取すると、嘔吐や下痢を起こすことがある。危険性があるものをダイエット法として広めるのはどうか」と指摘。TBS広報部では「生豆に含まれる成分が加熱不十分なために残り、胃や腸の粘膜の炎症を引き起こした可能性が高いのではないか。今後、個々のデータを分析し、原因を究明したい」としている[「不調」の視聴者650人に TBS系白インゲン減量法;読売新聞,第46753号,2006.5.10.]。

TBS系の健康情報番組で紹介された白インゲン豆ダイエット法を試みた視聴者に下痢や嘔吐などの健康被害が起きた問題で、被害者は全国で計158人に上り、うち30人が入院したことが、厚生労働省の集計で分かった。いずれも症状は軽いという。厚労省は22日、TBSに対して再発防止に努めるよう文書で注意した。厚労省によると、被害は25道府県で発生。番組では、白インゲン豆を数分間いった後、粉末にしてご飯にまぶす調理法を紹介したが、被害者の多くが、この方法で豆を食べた後、2-4時間以内に発症したという。インゲン豆に含まれる蛋白質「レクチン」は、生や加熱不足のまま摂取すると食中毒の原因になるといい、厚労省は「今回は加熱が足りなかったことが原因。十分加熱して食べれば問題はない」としている[被害は158人中、入院30人 白インゲン豆ダイエット厚労省、TBS注意;読売新聞,第46766号,2006.5.23.]。

総務省は20日、TBS系の健康情報番組が紹介した白インゲン豆ダイエットを試した視聴者に健康被害が広がった問題で、TBSを放送法に基づく文書警告処分とした。また、番組内でNHKと日本民間放送連盟が定める運用指針に違反した光の点滅を使った映像を放送したとして、NHKとテレビ東京など民放2社を厳重注意処分、民放76社を注意処分とした[白インゲン番組でTBSに警告;読売新聞,第46795号,2006.6.21.]。

隠元豆中のlectinは、フィトヘマグルチニン(インゲンレクチン)[Phytohaemagglutinin (Kidney Bean Lectin)]とする報告がされている。

*lectinの発見は1888年H.Stillmarkがヒマの実の抽出液から種々の動物血球を凝集することを見出したことに始まる。その後多数の植物種子中から血球凝集素が見出され、植物凝集素と呼ばれた。その後これらの凝集素はそれぞれ明確な結合特異性を持ち、一般に単糖やオリゴ糖で血球凝集活性が阻止され、それらのうちにはABO式血液型に特異的な凝集素も見出され、ボストン大学のW.Boydはラテン語の“legere(選び出す)”になぞらえてlectinと呼ぶように提唱した。

近年、植物種子ばかりでなく、細菌や動物の体液、組織中にも糖結合性蛋白質が多数見出されるようになり、lectinは次の様に定義することになった。

隠元豆中に含まれるlectin(糖蛋白質)は、100℃-10分間の加熱で毒性が失われるが、80℃の加熱では却って毒性が増加するとする報告が見られる。「ぴーかんバディ!」では、白隠元豆を約3分間炒った後粉末化し、御飯にまぶして食べるダイエット法を紹介したようであるが、これを試した視聴者が下痢などを訴え、31日迄に被害は965件、うち入院は104件に昇ったとされる。

隠元豆による中毒は、英国では1976年から1989年にかけて、集団食中毒として25件、約100人に発生した事例が報告されている。浸しておいて柔らかくした豆をそのままサラダに入れて食べたという事例が多く、四、五粒以上食べて、嘔吐、下痢等の症状が出ている。蒸し器で加熱したというものもあるが、加熱が不十分だったと思われるとしている。

隠元豆による急性疾患は、赤インゲン豆(Phaseolus vulgaris)中毒、金時豆中毒などと呼ばれている。生又は調理が不十分な隠元豆を食べてから症状が出るまでの時間は1-3時間である。発症は激しい吐き気と嘔吐で、重症の場合もある。しばらく(1-数時間)して下痢、人により腹痛がみられる。人によっては入院するが回復も早く(3-4時間)、自然に回復する。

原因とされるphytohemagglutininは、多くの豆に含まれるが、赤隠元に最も高濃度含まれている。毒素はphytohemagglutinin単位(hau)で表されるが、生の赤隠元は20,000-70,000 hau、十分に調理した豆は200-400 hauを含む。白隠元の毒素含量は赤隠元の1/3、空豆場合は赤隠元の5-10%を含む。

隠元豆中毒は家畜でも起こる。カナダの牧場で、新しい飼料を食べた21頭の馬が中毒症状を発現し、飼料会社に確認したところ、別の数カ所の牧場で、同じ飼料により合計240頭の牛が中毒症状を呈していることが解った。飼料の中に生の白隠元が含まれていた。

隠元豆lectinに免疫機能強化作用があるという話もあるようである。しかし、高温で加熱するとlectinの効果が無くなるという事のようであるが、上記の中毒例を見るまでもなく、加熱不足の隠元豆lectinは人体に有害であることが証明されている。低温加熱の隠元豆は、摂食しない方が無難である。

1)白鳥早奈英・他監修:もっとからだにおいしい野菜の便利帳;高橋書店,

2)今堀和友・他監修:生化学辞典 第3版;東京化学同人,1998

3)内藤裕史:健康食品中毒百科;丸善株式会社,2007

4)『健康食品』素材情報データベース;http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail749.html,2009

(2009.10.25.)

宝来公園から多摩川浅間神社まで

日曜日, 1月 17th, 2010

鬼城竜生

 6月9日(火曜日)蒲田から東急多摩川線で多摩川まで行き、そこで乗り換えて田園調布駅で降りた。放射状に伸びる公孫樹並木の左側の道を真っ直ぐ行くと宝来公園に出る。この公園の前身は大正14年、武蔵野の旧景を保存し永く後世に残すために、田園調布会が街の一角の潮見台の地を広場としたことからはじまるとされている。後、昭和 9年田園調布会から東京市に寄贈され、造成整備の後、昭和19年4月「宝来公園」として開園したものだという。大田区への移管は昭和25年10月1日だとされている。

 今回、宝来公園を目指したのは、宝来公園の池に黄色の菖蒲が咲いているという案内が区報に掲載されていたからである。しかし、こういう類の案内は、往々にして大袈裟なものであることが通り相場だが、今回の場合は、大袈裟処か残念なことに黄菖蒲は影も形もなかった。そこで公園内の掃除をしていた掛かりの方にお訊ねしたところ、「もう時期が遅い」と云うことであった。

「でも今年は、暫く振りに沢山咲いたんですよ。花が終わると摘んでしまうんで、何も残っていませんが」、

「黄菖蒲の見頃は何時頃なんですか。普通、菖蒲は今頃咲く花だと思っていたんですが」

「黄色の菖蒲は花が早いですよ。5月の初旬から中旬までですかね。それに来年良い花を咲かせるために一定の時期が終わると、全部花を摘んでしまうんで、今頃は何にもないですね」

「ああそうなんですか」

ということで、本日の目標は終了してしまった。宝来公園の案内によると、園内には梅、桜、椿、山茶花、櫟、椎など約70種1,500本の花や樹木があり、池には100本から200本ほどの黄菖蒲が群生していると紹介されている。しかし、それほど木が多いとは思えないが、役所が云っているならまあ間違いはないのではないか。

 宝来公園に沿って、田園調布教会を左手に見て右に下ると多摩川台公園に出る。多摩川台公園は、この時期紫陽花が咲いており、14日(日曜日)に第19回あじさい祭りを実行するのチラシが配布されていた。ただ、紫陽花そのものは、今年の花はあまり迫力のある咲き方はして居らず、紫陽花としては昨年の方がよかったのではないかと思われた。

 何時もは多摩川駅からの道を取るが、今回は裏口というか、途中の宝来山古墳に出る道から上がった。多摩川台古墳群第8号墳、第7号・第6号・第5号・第4号・第3号・第2号・第1号墳が並んでいる。第8号墳と第7号墳の間に“虹橋”なる名称の付いた橋が見られた。更に亀甲山古墳に行く途中に古墳展示室があった。一応中に入って見学したが、特に高貴な方の古墳というのではなく、地方豪族の墓として造られた古墳のようである。

 多摩川台公園は、多摩川に沿って伸びる丘陵地に約750mにわたって展開しているとされる。面積は66,661m2と広大なうえ、自然林の道、古墳、展望台、水生植物園、四季の野草園、あじさい園、山野草のみち、ふたつの広場など見所は豊富であると紹介されている。

今回、水生植物園を覗いたが、数は少ないながら水仙の花が咲いており、最初は薄汚い病葉かと思われたが良く見ると“半夏生”という珍しい草が生えていた。それにしても驚きは子供がザリガニ釣りをしていたことで、数は見えなかったが、ザリガニの顔は見えていた。

 紫陽花の写真を何枚か撮り、直ぐ近くの浅間神社古墳の上にあるといわれている“多摩川浅間神社”を御参りすることにした。多摩川浅間神社は、浅間神社の一つで、熊野神社と赤城神社を合祀している。本殿の建築様式は浅間造であり、これは東京都内では唯一のものである。また、社殿は浅間神社古墳の上に建てられている。多摩川浅間神社の創建は、鎌倉時代の文治年間(1185年-1190年)と伝えられている。

 源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣した時、夫の身を案じた北条政子が後を追って多摩川まで来た。その時わらじの傷が痛んだため、この地で傷の治療をすることにして逗留した際に、亀甲山(かめのこやま)へ登ってみると、富士山が鮮やかに見えた。富士吉田には、自分の守り本尊である浅間神社があるので、政子はその浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた正観世音像をこの丘に建てたという。それ以来、村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び祀ったのが、この神社の起こりとされている。その後、承応元年(1652年)5月に、浅間神社表坂の土止め工事をしていた時に、九合目辺りから正観世音の立像が発掘された。多摩川で泥を洗い流すと片足が欠けていたため、新たに足を鋳造して祀り、6月1日に神事を行ったという。これにならい、現在も6月に例祭を行っている。

 境内には、富士講中興の祖である“食行身禄”の石碑がある。明治15年に地元の講社が33回目の登山を記念して建てたものである。この石碑の字を書いたのは勝海舟であるといわれている。

 尚、御祭神は“木花咲耶姫命”である。

 今回の総歩行数は、12,864歩である。

1)大田区立郷土博物館・編:大田区古墳ガイドブック-多摩川に流れる古代のロマン,1992

(2009.8.27)

『ハナムシロガイについて』

金曜日, 1月 1st, 2010

KW:中毒・毒性・食物連鎖・ハナムシロガイ・Zeuxis castus・Zeuxis caelatus・屍肉食者・スカベンジャー・scavenger・TTX・tetrodotoxin

Q:フグ毒の食物連鎖とハナムシロガイについて

A: バイ目ムシロガイ科ハナムシロ(Zeuxis castus:Zeuxis caelatus)は、いわゆる“海の掃除人”といわれる“屍肉食者(スカベンジャー:scavenger)である。小型巻貝類であるハナムシロガイは、剥き身で5MU/gのTTX(tetrodotoxin:CAS-4368-28-9)関連物質が検出されたとの報告がされており、ハナムシロガイ類縁種は、フグ毒TTXを保有することがあることが解ったとする報告も見られる。

我国ではハナムシロガイを食用にすることはないが、2001年4月に台湾北部で、小巻貝による食中毒事件が発生した。患者数は4名で、症状は手足の麻痺、痙攣、嘔吐、失語症であった。中毒原因食品は、ハナムシロガイ類縁種で、その個体毒性値は345-1,640MUで、中腸腺は1,120±238MU/gであった。更にその毒性物質について分析した結果、TTXであることが確認された。

フグに特徴的な毒と考えられてきたTTXが、他の動物にも存在することから、フグがTTXを作るのではなく、ある種の細菌(Alteromonas、Staphylococcus、Vibrio属菌)がこの毒を産生すること、そしてこれらがプランクトンに取り込まれ、更にこの“毒化プランクトン”を捕食した貝類を更に捕食することにより毒が吸収・蓄積され、有毒になるものと考えられている。いわゆる食物連鎖の結果としてフグの毒化がある。

TTXは化学式C11H17N3O8=319.27で表され、ビブリオ属やシュードモナス属などの一部の真正細菌によって生産されるalkaloidである。1985年にフグ毒を作っている細菌が見つかり、その後、多くの種類が見いだされている。ビブリオ・アルギノリティカス(Vibrio alginolytics)、ビブリオ・ダムセル(Vibrio damsela)、ビブリオ・バルニフィカス(Vibrio vulnificus )及びビブリオ科フォトバクテリウム属のフォトバクテリウム・フォスフォレウム(Photobacterium phoshoreum)等々、種々の細菌が関係している。これらの細菌は、海洋中でごく普通に存在しており、東京湾等でも1mLの海水を汲み取れば必ず含まれている程であるとする報告も見られる。

1)奥谷喬司:フィールドベスト図鑑-日本の貝1;株式会社学習研究社,2006

2)吉良哲明:原色日本貝類図鑑-増補改訂版;保育社,1965

3)野口玉雄・他:貝毒の謎-食の安全と安心-;成山堂書店,2004

4)本田武司:食中毒学入門-予防のための正しい知識-;大阪大学出版会,1995

5)船山信次:アルカロイド-毒と薬の宝庫-;共立出版株式会社,1998

6)http://www.chem-station.com/yukitopics/hugu.htm,2009.8.14.

[63.099.TTX:2009.8.14.古泉秀夫]

「ジエチレングリコールの毒性について」

金曜日, 1月 1st, 2010

KW:毒性・中毒・ジエチレングリコール・diethylene glycol・CAS No.111-46-6・ジヒドロキシエチルエーテル

Q:ジエチレングリコールの毒性について

A:ジエチレングリコール(diethylene glycol)、CAS No.111-46-6。

別名:ジヒドロキシエチルエーテル(dihydroxydiethyl ether;Bis(2-hydroxyethyl)ether。

概要:2分子のエチレングリコールがエーテル形に脱水縮合したもので、グリセリンと類似の性質を示す。HO(CH2CH2O)2H=106.14。無色、無臭の粘稠な液体で吸湿性である。比重:1.118(20℃)、引火点:152℃(開放式)、沸点:244.3℃。水、アルコール、エーテル、アセトン、エチレングリコールと自由に混和し、水の氷点を低下させる。ベンゼン、トルエン、四塩化炭素、クロロホルムに不溶。

用途:プラスチック用、印刷インキ、ソルブルオイル、繊維用接着剤、ブレーキ油、可塑剤、ユデックス抽出用溶剤、ガス脱水用。

取扱注意:強酸化剤及び塩基と反応する。日向に置かない。火気厳禁。消火上の注意:アルコール泡、水、泡消火による溢出。

毒 性:急性毒性LD50(経口):14.8g/kg(ラット)、RTECS=急性毒性LD50(経口):12.565mg/kg(ラット)。ヒト経口最小致死量:1000mg/kg。致死量は1mL/kgとされているが、成人で20-240mL、小児で5-120mLと幅が広い。蒸気やmist(霧状物)は有毒なので吸入しない。眼や皮膚を侵す。

体内動態

吸収:皮膚からは吸収され難い。

排泄:体内では殆ど分解されず、40-70%は未変化のまま。

ethylene glycol及びdiethylene glycolは、通常は不凍液や防風ガラスの脱水剤に使用されており、様々な代謝産物が中毒の原因となる。

diethylene glycolによる中毒症状(ethylene glycolの症状に類似)

中毒学的薬理作用:肝細胞、腎尿細管上皮、中枢神経系などへの直接的障害。アニオンギャップの増大を伴う代謝性アシドーシス。

初発症状:通常、胸焼け、腹痛、目眩、嘔吐、下痢、続いて腰部・背面痛。

後発症状(24時間程度経過):傾眠昏睡、呼吸抑制、肺水腫、髄膜刺激症状、徐脈が見られる。

ethylene glycol中毒と異なり、肝障害が目立つとされ、黄疸も出現する。腎尿細管上皮の空胞変性の結果、多尿、蛋白尿、乏尿、高窒素血症などの急性腎不全症状。溶血や骨髄抑制が見られることがあるとする報告がされている。

その他、diethylene glycolの中毒症状として、アルコール中毒と類似しており、通常、嘔吐が見られ、中枢神経系の抑制、痙攣、昏睡が認められることもある。うっ血性心不全や肺水腫は摂取後12-36時間後に起こり、重篤な場合はこの時期に死亡する。乏尿性腎不全(シュウ酸結晶の沈着による)は、摂取後24-72時間後に見られ、強い側腹部の痛みを伴う等の報告もされている。

家庭での処置

大量摂取時:可能ならば催吐。

医療機関での処置

早期の胃洗浄、呼吸管理、アシドーシス及び電解質バランスの補正。

代謝性アシドーシスの治療、腎不全の予防が第一である。

1)15308の化学商品;化学工業日報社,2008

2)高久文麿・他監修:ワシントンマニュアル第10版;MEDSi,2005

3)鵜飼  卓・監修:第三版 急性中毒処置の手引き;薬業時報社,1999

4)内藤裕史:中毒百科-事例・病態・治療 改訂第2版;南江堂,2001

[63.099DIE:2009.8.3.古泉秀夫]

鎌倉宮(大塔宮)及びそれから

金曜日, 1月 1st, 2010

鬼城竜生

 京浜急行の車内広告で、ヤマアジサイの花が見頃という案内を見て、それまで電車の乗り換えが面倒だというので、敬遠していたのだが、鎌倉宮に行ってみることにした。家の近辺で咲いている紫陽花はまだ見頃という所まで咲いてはいないが、ヤマアジサイの花は早いというので、6月2日(火曜日)に出かけることにした。

 金沢八景からバスで鎌倉に入る道順があるということで、京浜急行に乗ったが、何を勘違いしたのか、金沢文庫で降りてしまい、バス停を探したが見あたらない。バスの切符売り場があったので、中にいる職員に尋ねたところ、金沢八景から出るバスだといわれてしまった。駅を間違えたのは、金沢八景は魚釣りの時に降りる駅のため、何回か降りたことがあり、バスターミナルがあるような雰囲気はなかったからである。しかし、実際には金沢八景の駅を出て、そのまま大通りに出た斜向かいにバス停はあり、更には駅を出て左側に入ったところに始発のバス停はあったようである。何せ駅前のバス停にバスが来たとき、既に何人かの客が乗車していた。金沢八景→鎌倉行きのバスの時間は8:06・8:26・8:47・9:17・9:47とあまり本数は多くなかった。

 金沢八景を出発したバスは、狭い山間の道を走る部分もあったが、『岐れ道』という粋な名前のバス停で降りると、向かい側に鎌倉宮への案内がされていた。案内に従って、その道を辿り始めると、暫くして左手に“荏柄天神社”の大きな鳥居が眼に入った。

 御祭神は“菅原道真公”で、御朱印を頂いたときに付けてくれた小冊子の“由緒”によると、

『当社は、古くは荏柄山天満宮とも称され、荏柄の社号は、天平七年(735年)の“相模国封戸租交易帳”などに見える「荏草郷」の”えがや”が後に転じて”えがら”となり、「荏柄」と表記されたものと考えられている。また、長治元年(1104年)晴天の空が突如暗くなり、雷雨とともに黒い束帯姿の天神画像が天降り、神験をおそれた里人等が社殿を建ててその画像を納め祀った縁起に始まる。

 関東を中心に各地に分社をもち、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と共に三天神社と称される古来の名社である。治承四年(1180年)鎌倉大蔵の地に幕府を開いた源頼朝公は、当社を鬼門の守護神と仰ぎ、社殿を造立された。

 以後、歴代の将軍家を始め、鎌倉幕府の尊社として篤く崇敬され、「吾妻鏡」には二代将軍頼家が、大江広元を奉幣使として菅公三〇〇年忌を盛大に執行された事など、社名がしばしば記されている。

 この様に中世より特に崇敬された当社は、足利、北条、豊臣、徳川の各氏によっても守られ、さまざまな寄進を受けて近世にいたった。現在では学問の神、正直者、努力を重ねるものを助ける神として多くの方々が参拝され、社殿はいつも「祈願」「お礼」の絵馬で覆われている。』とする説明がされている。

 その他境内には“絵筆塚”、“かっぱ筆塚”が見られた。軸の部分に大御所漫画家達のカッパ絵のレリーフが貼付けられているといわれるが、こちらとしては、現地を踏んでいながらカッパの絵には全く気付かなかった。

 荏柄神社を出て左のに行くと。鎌倉宮に到着する。鎌倉宮が大塔宮とも書かれているので、何のことかと思っていたら、鎌倉宮に祀られている“護良親王(もりながしんのう)”の名前で“おおとうのみや”と呼ぶようである。

 鎌倉宮の由緒については、大塔宮(おおとうのみや) 護良親王(もりながしんのう)をお祀りする神社ということである。護良親王は延慶元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になり、6歳の時に京都の三千院にお入りになり、11歳で比叡山延暦寺に入室し、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれていたという。また、大塔宮とも呼ばれており、20歳にして天台座主(てんだいざす)となられたとされている。

 当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇は、国家の荒廃を憂い、親王と共に元弘元年(1331年)6月、比叡山で討幕の挙兵をする手筈になっていたという。しかし、この計画は幕府の知るところとなり、天皇は捕らえられ、隠岐に配流となった。親王は還俗して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず、大群を吉野城や千早城に引きつけました。この間にも親王の討幕を促した令旨(りょうじ)に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利高氏、赤松則村らが六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。

 後醍醐天皇は京都に還御(かんぎょ)され、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となりますが、足利高氏は、征夷大将軍を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は高氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めましたが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、建武元年(1334年)11月15日、鎌倉東光寺の土牢に幽閉された。建武二年(1335年)7月23日、残党を集めて鎌倉に攻め入った北条時行の軍に破れた高氏の弟、足利直義は、逃れる際に、家臣淵辺義博へ親王暗殺を命じた。親王は9ヵ月もの間幽閉された後、御年わずか28歳という若さで生涯を薨(こう)じられた。

明治二年二月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、親王の遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれた。親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮(かまくらぐう)」と名づけられた。明治六年四月十六日、明治天皇は鎌倉宮に行幸され、本殿をお参りするとともに、土牢をご覧になり、その後境内の行在所でお休みをとられたということで、その行在所の跡が、現在の鎌倉宮宝物殿・儀式殿となっているということである。

 歴史上の人物が、次々に出てくる鎌倉宮の由緒は、将に歴史物語ともいうべきもので、甚だ人間くさい成り立ちをしていると云うことで、親しみやすい神社だと云うことができる。また、鎌倉宮獅子頭が、厄除け、幸運招来として授与されているが、これは護良親王が悪魔祓いに採用されていたことに由来するとされている。

 鎌倉宮に来た目的は、山紫陽花の花が見頃という案内に導かれて来たのだが、山紫陽花の花そのものが地味なところにもってきて、移植し始めてまだ間がないと見えて、本数も少なく、もう少し数がほしいという気分であった。

 今回の鎌倉行きのもう一つの目的は、山紫陽花を見るという目的以外に、臨済宗建長寺派“円応寺”の閻魔大王を拝観するということであった。そこで荏柄天神社の門前にあった食事処で蕎麦を食べるとともに、店の方に円応寺まで歩いたらどの程度かかるかお訊ねした。道を知っていて歩き馴れた私達だったら40分位でいけると思うけど、どうですかねという返事だった。甚だ正直でよろしいんですが、道案内としてはちょいと解り難い。ただ、年寄りが歩くことを考えれば、1時間以上かかると云うことであろうと勝手に解釈した。道のあちら此方にある案内に従って歩いているうちに、頼朝の墓なるものに辿り着き、階段を上がって行くと、石重ねの塔が立っていた。

 写真だけ撮らせて頂いて更に行くと、中学生位の5-6人のグループが、地図を片手に“鶴岡八幡”はこっちにあるなどと叫びながら走っていたので、その後を突いていった頃修学旅行の大集団に行き当たった。

 何れにしろ来たついでに写真を撮ろうということで境内に入ったが、境内の広さには驚かされた。鶴岡八幡宮の由緒については、ご参拝のしおりに書かれていたが、康平六年(1063)源頼義が、奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した石清水八幡宮(京都)を、由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりだという。

 その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承四年(1180)鎌倉に入るとともに直ちに神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久二年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく、上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としたものであると解説されている。 また、頼朝公は流鏑馬や相撲、舞楽など、今も引き継がれる社頭での神事や行事を興し、 関東の総鎮守として厚い崇敬の誠を寄せられた。 以降、当宮は武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰が全国に広まった。 当宮への信仰を背景に鎌倉を中心として興った質実剛健の気風は、その後「武士道」に代表される日本人の精神性の基調となった。 現在では国際的史都鎌倉の中心的施設として、国の内外より年間を通して数多の参拝者が訪れます。

 現在の御本殿は、文政十一年(1828)、江戸幕府十一代将軍徳川家斉の造営による代表的な江戸建築で、若宮とともに国の重要文化財に指定されている。深い杜の緑と鮮やかな御社殿の朱色が調和する境内には、源頼朝公、実朝公をお祀りする白旗神社をはじめとする境内社のほか、静御前ゆかりの舞殿や樹齢千年余の大銀杏が八百年の長い歴史を伝えている。

 兎に角、無闇に赤塗りの目立つ建物の神社ではあるが、直ぐ近くにある“白旗神社”が甚だしく地味に見える。所でご参拝のしおりには載っていないが“さざれ石”なる地味な石が境内に置かれているが、君が代に歌われるさざれ石であるという説明がされていた。

 八幡宮の直ぐ近くに円応寺はある。円応寺は、閻魔大王を本尊として智覚禅師により建長二年(1250年)に創建された寺である。閻魔堂、十王堂とも呼ばれ、亡者が冥界において出会う『十王』を祀っている。円応寺は初め見越獄(みこしのごく)にあったが、足利尊氏が由比ヶ浜に移築し、その後、元禄十六年(1703年)に起きた大地震の後に現在地に移転したといわれている。由比ヶ浜時代は荒井閻魔堂と呼ばれていたの報告も見られる。本堂には仏師運慶作と伝えられる閻魔大王像(国重要文化財)が正面に据えられ、左右に十王像が並ぶ。

 口伝では頓死した運慶が、閻魔大王の前に引き出されたが、閻魔さんの『汝は生前の慳貪心(けんどんしん:物惜しみし、欲深いこと)の罪により、地獄に堕ちるべき所であるが、もし、汝が我が姿を彫像し、その像を見た人々が悪行を成さず善縁に赴くのであれば、汝は娑婆に戻してやろう』と云われ、現世に生き返された運慶が彫刻したと云われた。運慶は再び生き返った喜びで、笑いながら彫刻したため、閻魔さんの顔もどことなく笑っているように見えることから、古来『笑い閻魔』とも呼ばれているとされる。

 鎌倉時代に流行った十王思想では、死後人間の罪業を裁くとされている。十王のうち、初江王(しょこうおう)は、現在鎌倉国宝館に寄託されているという。閻魔大王は撮影禁止と云うことで写真は撮れなかった。そこで閻魔さんを写した絵はがみたいなものはありませんかと確認したが、無いということであった。

 続いて“建長寺”によった。『天下禅林』(人材を広く天下に求め育成する禅寺)ということで、西の外門(北鎌倉側門)に掲げられている言葉で、我国最初の禅宗寺院で、鎌倉五山第一位の建長寺を象徴する語だとしている。

 しかし、兎に角広い、広すぎて写真向きではないと思われたが、それなりに枚数は撮れた。建長寺は、臨済宗建長寺派の大本山で、建長五年(1253)北条時頼が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として創建した、わが国最初の禅の専門道場。 最盛期には塔頭が四十九院あったが、火災により焼失。現存する建物は江戸時代以降に再建または移建されたものである。 総門、三門、仏殿と一直線に並ぶ伽藍の周囲を十の塔頭寺院が取り囲む。 寺宝も豊富で、木造漆塗りの須弥壇、木造北条時頼坐像などの国重文がある。絵画、書の優品も多数。境内は史跡という説明がされているが、そういう話だと元はもっと広かったと云うことなんだろうね。

 北鎌倉に行く道筋を辿っていたら“明月院”の案内が眼に触れたため、寄っていくことにした。明月院は臨済宗建長寺派福源山明月院と称し、境内に多くのアジサイが植えられ、?アジサイ寺″とも呼ばれている。明月庵の創建は今から八三〇年前、永歴元年(1160年)に始まるとされている。この地の住人で、平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊道の菩提供養として俊道の子、首藤刑部太夫山ノ内經俊によって創建。その後、康元元年(1256年)、北条相模守時頼公によって、この地に「最明寺」を建立。後に北条時宗(時頼の子)が最明寺を前身として「福源山禅興仰聖禅寺」を再興。明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。 明治期に禅興寺は廃絶され、現在は明月院だけが残されている。宗猷堂(開山堂・そうゆうどう)には、密室守厳の木像を安置。そのそばには鎌倉十井の一つ?瓶ノ井(つるべのい)″がある。 また山際に掘られた明月院やぐらは鎌倉時代最大のもの。上杉憲方の墓とされる宝筺印塔が内部にあるとされる。

 帰りは北鎌倉駅迄歩き、電車に乗ったが、本日の歩行数は16,894歩であった。

(2009.8.25.)