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『子安から新子安へ(一之宮神社)』

土曜日, 2月 27th, 2010

鬼城竜生

 京浜急行の子安駅から新子安駅に行く間に“一之宮神社”があり、参道は公孫樹に囲まれているということだったので、黄葉でも撮ろうかということで、11月23日(月曜日)に出かけた。

 子安駅で降りて地下道を通り抜けて京浜急行とJRの線路をすり抜けると、眼の前に「大口通一番街」の看板が出ていた。商店街の中に入り、大通りを真っ直ぐ行って第二京浜で右に折れると、何と横浜線の大口駅に出てしまった。落ち着いて地図を見れば、横浜線のガードを潜り第二京浜をそのまま行けば、入江町の交差点に出て、交差点を右に曲がれば入江町1丁目には直ぐ出られたものを、道を間違えたという先入観があり、地図上の道を辿れなくなったので元に戻ることにした。

 再度京浜急行の子安駅前に出て、15号線を左に行くと入江橋が眼に付いた。地図では入江橋を左手に曲がると直ぐのところに一之宮神社があることになっている。最も一之宮神社そのものは、手持ちの地図には記載されて居らず、山勘で目指しているが入江一丁目と言うことからすると、多分地図のこの部分にあるのだろうと言うことは理解出来た。

 東海道本線・京急本線の線路を過ぎると右手の方に鳥居が見えた。多分そこが本日の目的地であろうと言うことで辿り着くと将に一之宮神社であった。但し、期待していた公孫樹並木は、残念ながら黄葉して居らず、緑のままで、些かガッカリというところであるが、自然を対象にして写真を撮ろうとすれば、これは仕方がないと言うことである。思う通りに自然を調整することは無理というもので、それこそ成り行き任せと言うことである。

 一之宮神社の由緒については、御祭神は素盞嗚尊(須佐之男命)の外に九柱(各町合併祀祭神)とされている。

 素盞嗚命(すさのおのみこと)・保食命(うもちのみこと:食物の神)・事代主命(ことしろぬしのみこと:宣託を司る神)・面足命 (おもだるのみこと:過不足無くととのえる神)・海津見命 (わたつみのみこと)・水速廼女命 (みずはやのめのみこと)・塩土老命 (しおつちおじのみこと:塩の神)・船玉姫命 (ふなだまひめのみこと:海の神・船の守り神)・表筒男命 (うわつつのおのみこと:海の神・航海の神)・豊玉姫命 (とよたまひめのみこと:竜宮の乙姫)・瀬織津姫命 (せおりつひめのみこと:清流の女神・雨を司る)

 当神社は武蔵国(東京都・埼玉県一円・神奈川県の東部)の一之宮(埼玉県大宮市、元官幣大社)氷川神社を本社とする悠久なる歴史を持つ神社であります。永禄四年九月一日、百七代正親町天皇の御宇(紀元2221年・西暦1561年)、現在地に勧請創立され、明治の初年ごろまでは一之宮大明神、一之宮明神社と称され、光輝ある武蔵風土記にも不断の由緒を有し、古伝説もあり霊威赫々尊崇感謝の奉祀がいまに続いております。御鎮座四百年(横浜開港に先立つこと三百年)親から子へ、子から孫へと代は変わりましたが、この四百年の幾春秋を子安全町(創立当時は子安村及び西寺尾白幡)の守護神として仰がれて参りました。この間、分久二年三月十四日、旧社殿大破再建。慶応四年一月七日、神奈川桑名屋火事。明治三十年十二月十八日、浮浪者の失火。明治三十四年三月、再建(社殿右側舞殿として保存)。大正十二年九月一日、関東大震災等、累次の災害を蒙っておりますが、その折々の氏子崇敬者各位の熱誠協力は、再建に復興に表わされ、昭和三年七月、表参道百二十坪購入となり、過去昭和二十八年八月を境として、戦中戦後の間、昭和十七年二月、本殿裏山(現社殿敷地)百五十坪購入、昭和二十六年四月、公益事業幼児教育施設の開設、昭和二十八年八月、講和条約締結記念中参道六十余坪の購入等、幾変遷はありましたが、着々境内外の整備拡張を図り、昭和三十四年十月、四百年式年事業委員会の結成を見、爾来二年有半、昭和三十七年八月に社殿の竣功。

 鎮座400年という歴史の中で、災難続きみたいな神社に見えるが、その都度再建されているところを見ると、地元に密着した神社として、氏子の方々の崇敬を集めているということだろうと推察する。

 何れにしろ今回は参道の公孫樹の黄葉の写真は撮れなかったが、狛犬はどういう訳か三対置かれていた。それは何れも撮らせていただいたので、今回は狛犬中心で写真を紹介したい。

 帰りは新子安駅まで歩き、稼いだ総歩行数は11,459歩であった。

(2009.12.3.)