トップページ»

『稲富稲荷から青目不動へ』

火曜日, 2月 2nd, 2010

鬼城竜生

 大学の関係で世田谷の用賀に間違いなく3年は住んでいた筈だが、雀荘と飲み屋にしか眼が行っていなかったと見えて、大きな神社があるなどという認識はなかった。しかし、何気なくテレビの深夜番組を見ていたところ、桜新町をぶらぶらする番組で、神社の入口の鳥居から社殿まで、偉く離れている御稲荷さんがあることが放送されていた。然も梟の御守りがあるということだったので覗いてみることにした。

 渋谷から田園都市線の桜新町で下車。道なりに渋谷方向に向かうと、“桜神宮”と大きな神社の前に出た。古式神道の神社だという。全国で数少ない火渡り、釜鳴り等の神事を執り行うとしている。

 桜神宮の紹介については、『明治十五年五月十五日に大中臣家の六十五代の後裔で伊勢神宮の(筆頭)祢宜であった芳村正秉が、「神社の神官は人を教え導いてはならない」という方向に政府方針を変更したことに危機感を抱き、神代より脈々と受け継がれる古式神道を蘇らせるためお祭りだけを行う神社でなく、お祭りもしながら人々に対する布教もしっかりとできるように勅許を得て、教派神道十三派の一派を立てました。名称は伊勢神宮の禰宜時代に神託によって授かった「神習いの教」としました。以来、当宮は古式神道を受け継ぐ大神の宮として、また教えの本山として親しまれています。社殿は明治十六年東京市神田に創建。明治後期には「病気治し」「火伏せ」の神徳があると多数の人が参詣しました。また外務省の紹介により多くの外国人が訪れ、鎮火式(火渡り)や探湯式(熱湯を浴びる)の神事に参加しています。大正八年に「西の方角へ直ちに移転せよ」との神託により現在地である世田谷に移転しました。神田界隈の関東大震災による被害は大きなものでしたが、この移転により災害から免れることができました。また、第二次大戦時も無事戦災から免れ、「災難よけ」でも崇敬を受けております。』とする縁起が紹介されている。

 続いて本日の目的地“久富稲荷神社(通称:新町稲荷神社)”に向かった。久富稲荷神社の参道は、神社の開設によると約250mとされているが、参道を抜けると社殿に到着する。

 神社の由緒によると、『御鎮座は四百有余年。正確な資料は現存していないが、江戸中期に編まれた「新編武蔵国風土記稿」に”新町村五十戸の鎮守”と記された一説、参道の巨木(現在無し)の年輪から四百年以上は経っている事がわかる。この地の五穀豊穣を祈念して稲荷神社を建立したと推察される。現在のお社は、昭和4年1月に改築を企画され、氏子の方々より寄付の募集を行い約3ヵ年を掛け昭和6年11月22日に遷座祭りが行われました。その年の祭禮は、一週間に渡り執り行われ、今でも氏子の方々に語りぐさになっています。』と紹介されている。御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、大宮女命(おおみやめのみこと)、猿田彦神(さるたひこのみこと)の三神とされている。

 久富稲荷の御守りに“ふくろう”が使用されているのは、昭和の中頃、神社の境内にあった古木にふくろうが住み着いており、夜になると暗い境内にふくろうの声が聞こえ、姿を確認することは、なかなかできなかったという。参拝の際にそのふくろうを見ると「願いがかなった」という噂がたち、その話から「ふくろう御守り」、「ふくろう絵馬」の授与品を作ることになったとしている。現在授与品となっているふくろうの絵馬は、桜新町出身の“やくみつる氏”の筆による物ということであった。

 途中で昼飯を食い、三軒茶屋迄歩くことにして、前回御朱印を頂けなかった竹園山最勝寺教学院=目青不動尊に御参りすることにした。

 教学院縁起によると、創建は応長元年(1311年)で、江戸城紅葉山にあったという。本尊は阿弥陀如来で、開基は法印玄応大和尚である。その後太田道灌の江戸城築城により麹町貝塚に移され、また赤坂三分坂に移り、慶長九年には青山南町に三千坪余りの土地を拝領して三度移転した。青山南町は百人町ともいわれ、百人の同心が住んでいたといわれる土地である。この同心百人のうち三十七人が教学院の檀家に、六十三人が信者になり念仏講を結んでいた。この講の維持に1人三合宛の米を奉納していたので、『三合山』とも呼ばれ親しまれていたとされる。この佛米拠出により閻魔堂(現在の不動堂)が建立され、双盤念仏が盛んに行われていた。

 教学院は当初は山王城琳寺の末寺であったが、小田原城主・大久保加賀守忠朝菩提寺になるに及んで東叡山寛永寺の末寺となった。明治八年には境内地百坪を割いて“幼童学校”を創立したが、後の青山南町小学校に発展した。

 その後太政官布達により、明治四十二年より三ヵ年を要して世田谷の現在地に移転し、現在に至っているとされる。

 目青不動は麻布谷町にあったという正善寺(観行寺)の本尊であったものが、同寺の廃寺に伴い教学院に遷しされた。華厳経巻七・賢首菩薩第八に説かれるところの天上界と地上界の間に棚引く青い雲の色に基づく不動尊であることから、天と地の連絡をされるといわれ、『縁結び不動』としての信仰を集めるようになった。

 目青不動尊は、慈覚大師円仁御自作の尊像であり、秘佛として厨子に納められており公開されていない。御前立の不動尊は、座高1m余りの青銅製で、寛永11年(1642年)正月11日の銘があるとされる。丸顔で上下の牙歯がなく微笑を湛えているようにも見えるえくぼが女性的であると解説されている。

 また江戸時代より五色不動(御眼不動)の一つに数えられ、東西南北中央の五方角と色(五色)を合わせたもので、将軍家光の時代に成立したといわれている。昭和61年関東三十六不動霊場の第十六番に加えられ、多くの巡拝者が御参りに訪れるとされている。

 目黒不動 瀧泉寺 天台宗(目黒区)

 目青不動 教学院 天台宗(世田谷区)

 目赤不動 南谷寺 天台宗(文京区)

 目黄不動 永久寺 天台宗(台東区)

 目黄不動 最勝寺 天台宗(江戸川区)

 目白不動 金乗院 真言宗(豊島区)

 2009年6月17日の時点で、五色不動のうち目青、目赤の両不動を御参りしたことになる。但し、目青については二度目である。本日の総歩行距離は11,737歩。

 ところで、現在、使用している御朱印帳は金龍山浅草寺のものであるが、御朱印を頂いたときに「ご朱印」についての注意書きも頂戴した。

 『この頃、神社仏閣に参拝され「ご朱印」を受ける方が大変多くなっております。これは「納経」とも呼ばれ、その由来は参詣者がお経を書写して寺社に「お納め」することに始まっております。ですから昔は納経帳の右肩の所に「奉納大乗経典」と書かれておりました。現在は「奉拝(ほうはい)」という文字となっております。 いつの頃からか、この作法が簡略化されて、お写経をお納めしなくとも参詣の証として「ご判」を頂くことになって今日に及んでおります。そして各霊場を巡拝する「巡礼」信仰と結びついて盛んになりました。これは観音三十三札所あるいは四国八十八カ所を巡礼し、その全部の霊場から「御判」を頂くと、その功徳によって地獄に堕ちないばかりか、所願も成就するという、古来の信仰に基づいているものです。

 このような本義から申しますと、お経も書写もせず、あるいは御堂に入って御参りもしないで、ただご朱印だけを集めて歩くということでは、本来の尊い意議を無視してしまうことになり、あるべき姿から離れてしまいます。少なくとも『般若心経』一巻又は『観音経』偈文などを書写なさるか、ご宝前で読誦されるなどして、その後に「ご朱印」をお受けになるようにして頂きたいものです。』

金龍山 浅草寺

 前回「御朱印」に関する注意書きを貰ったのは“泉岳寺”で、特に泉岳寺の場合は、サイン帳は止めて頂きたいという注意が書かれていたような気がしたが、泉岳寺も浅草寺も謂わば観光地で、色々な種類の人間が参集してくるため、中には眉を顰(ひそ)める対応の方々もいるのかもしれないが、納経をしないからといって、好い加減だとは思わないで頂きたいのである。

 当初、当てもなく歩くのでは、続かないと考えて、花の写真を撮るために公園回りをしていたが、江戸時代を背景にした捕物帖などを読むうち、江戸六地蔵だの、その六地蔵が祀られている品川寺(ぼんせんじ)、その関連で東海七福神の品川神社、品川神社の富士塚などを巡っているうちに神社仏閣の佇まいに興味を持ち、写真を撮りがてら歩き回ることになった。

 未だ、偈文の一つも唱えることはできないが、既に100カ所を越える神社仏閣を廻るうちにそれまでとは異なる宗教観を持つようになり、それなりに崇敬の念を持つようになっている。甚だしく動機は不純であったが、それなりに修行にはなっているのではないかと自惚れている。単純に納経をしないのであれば、「御朱印」は頂くべきではないということではなく、彷徨っているうちに何とかなる場合もあるのではないか。少なくとも1000カ所も「御朱印」を頂戴すれば、凡夫も何とかなるかもしれないということで、大目に見て頂きたいものである。

(2009.9.1.)