『オモトの毒性』
日曜日, 2月 21st, 2010|
対象物 |
万年青、おもと。大本の意。漢名:万年青(マンネンセイ)、万 年青根(マンネンセイコン)。 英名:lilly of china。 |
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調査者 |
古泉秀夫 |
記入日 |
2006.8.30. |
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成分 |
ロデイン(rhodeine)、ロデキシン (rhodexin)またはロデキシンA(rhodexin A)、B、C。ロデアサポニン(rhodeasaponin R6 )。 |
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一般的性状 |
ユリ科オモト属。学名:Rhodea japonica Roth。本州東海道から九州及び中国の暖帯に分布。山林下にはえ、普通観賞用に栽培する常緑多年草。 室町時代から日本で鉢栽培が行われてきた日本独特の観葉植物。乾燥させたものはマンネンセイ(万年青)と呼ばれ、強心、利尿薬として用いられる。 漢方では、強心、利尿、解毒の効能があり、心不全や浮腫、化膿症、ジフテリア、毒蛇咬症などの治療に用いるが、毒性が強いため、内服や家庭での使用は避け た方が無難である。 用法:民間薬療法では、肋膜炎に根茎のすりおろした物を酢と小麦粉で練って足の裏に貼る方法、葉の絞り汁を乳房のはれやフケに使用する方法、葉を煎じて疥 癬に外用する方法等がある。 |
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毒性 |
有毒部:全草、特に根茎には有毒成分が多く、ステロイド強心配糖体のrhodexin A、B、C、Dとrhodeineが含まれている。rhodeine、rhodexinにはジギタリス様の強心作用があるが、rhodeineは逆に心臓 に対して抑制的に働く。根茎にはrhodeine、葉にはrhodexin A、B、C。その他rhodeasaponinを含む。死亡例ありの報告。 |
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症状 |
呼 吸が激しくなった後、緩慢になって運動麻痺に移り、全身の痙攣を惹起する(悪心、嘔吐、頭痛、不整脈、血圧低下、全身麻痺、運動麻痺、呼吸麻痺)。 |
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処置 |
万年青の毒成分に対して特異的解毒薬・拮抗薬はない。 *基本的処置:服用後1時間以内であれば胃洗浄、活性炭、下剤投与(処置時痙攣発作に注意)。 *対症療法(呼吸困難、呼吸停止):気管挿管し、人工呼吸管理を行う。 *抗痙攣剤投与(ジアゼパム投与、無効であればフェノバルビタール、又はフェニトイン)。 *強制利尿。 |
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事例 |
「毒というなら若だんな、九兵衛の庭にこんなものがありましたよ」 庭先から姿を現したのは、蛇骨婆で、一見白髪頭の老婆のように見えるが、よく見るとおよそ老人とは思えない肌艶だ。差し出したのはやや幅広の葉の鉢植え。よく庭先で見る植物だった」 「これは万年青じゃないか」 「こいつは一部を摺り下ろして飲ませると、人にはようく効く毒となるんですよ」 「へぇ………」 馴染み深い草で人殺しが行われたかもとの言葉に、若だんなは感心した声を出した。するとどこで聞いていたのか、我も褒めて欲しいとばかりに妖達(あやか したち)が次々に現れて、怪しげな草木の話を離れに持ち込んできた[畑中 恵:ぬしさまへ;新潮文庫,2001]。 |
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備考 |
何せ病弱な若だんなとそれを取り巻く妖達の共同作業で話は展開していくため、何が出てきてもおかしくはないが、今回、蛇骨婆なる妖が持ち出してきたのは、鉢植えの観賞用植物としてよく知られている『万年青』である。 万年青が含有する成分は、ステロイド強心配糖体で、ジギタリス様作用の強心作用を示すと報告されているが、含有成分であるrhodeine、 rhodexinの個別の毒性について、半致死量等の具体的な数値は検索できなかった。万年青根の乾燥品を漢方薬として使用するとする一方で、内服での使用は毒性が強いため避けるべきとする報告が、幾つかの資料で散見されるが、具体的な毒性 の報告はされていない。従って、万年青の致死量が分からないため、果たして殺人の道具として使用できるかどうかについては、残念ながら確認できなかった。 |
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文献 |
1)牧野富太郎:コンパクト版1-原色牧野日本植物図鑑I;株 式会社北隆館,2003 2)海老原昭夫:知っておきたい身近な薬草と毒草;薬事日報社,2003 3)海老原昭夫・編著:知っておきたい毒の知識;薬事日報社,2001 4)田中 治・他編:天然物化学 改訂第6版;南江堂,2002 5)鵜飼 卓・監修:第三版 急性中毒処置の手引き;薬業時報社,1999 6)相馬一核・監修:イラスト&チャートで見る急性中毒診療ハンドブック;医学書院,2005 |
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りの後、例によって柿田川を遡上する道を行こうと云うことで、蓮華寺の横門から国道144号線に平行に出て、交差する道を右に曲がると直ぐ柿田川に架かる橋に行
き当たる。橋を渡って直ぐの処に神社があり、神社の名前は何処にも書いていないようであるが、地図で確認すると“日枝神社”と書かれていた。
向かって左側の碑は、昔から水量が多く激流であった柿田川を渡るため橋を架けた人々の苦労を偲ぶ石碑や、川で溺死した人を供養する供養塔が並んでいる。この二基は1671(寛文11)年 建立の「石橋碑」と1787(天明7)年建立の「十句観音経二百萬遍供養塔」であり、左右三基の石碑を合わせて柿田川三石碑と呼んでいるとする説明がされている。現在架橋されている鉄筋コンクリートの柿田橋は、昭和六年に架橋されたとする紹介がみられる。
ものあり。両岸の人々常に之を明治十七年新たに車道を拓き木橋を架けせしも綾棒策無く、橋朽ち道廃れて跼歩喘汗の苔を喫するにいたれり。
ものを無理矢理読んだため、二、三カ所文字がハッキリしないところがあるが、次ぎに墓参りに行った時に確認したいと思っている。尚、原文はカタカナで書かれているが、ひらがな書きに改めた。また、旧仮名使いになっている部分は現代文表記に変えた。“
前の国道1号線のバスで三島駅まで戻り、三島駅の改修に伴って作られたイタリアンの店で、生ハムと黒胡椒のオリーブオイル何とかを肴に日本酒を呑んで帰ってきた。
京よりに見えるのが一行寺である。どちらも古刹である。中でも一行寺は、閻魔寺で、地獄の釜の蓋が開くといわれる時に合わせて、御開帳がされるという。
この川崎上新宿の中心地に、念仏弘通の道場として開創建立された。
本堂・客殿・墓地・境内を整備し、面目を一新した。川崎の中心地や駅に近く、賑やかな町並みの中にありながら、樹齢四百年の大銀杏をはじめとして緑ある境内は、静かに穏やかに心をなごませるお寺である。一行寺は別名、閻魔寺ともいわれ、古記によると「五間四面の本堂が南面しており、左側に閻魔堂があり」と記されている。戦前は毎年一月と七月の十六日に縁日がたち、屋台店等が出て雑踏をきわめた。子供達はお閻魔様をお参りし、地獄変相の恐ろしい絵図を見て怖がったものであるとされている。
員会」が結成され、仏師・田中大三先生に依頼して昭和五十八年に新しいお閻魔様が完成した。お閻魔様は客殿正面にお釈迦様と水子地蔵と共に安置されている。現在は、一月の第二日曜日と七月十六日に、お閻魔様を御開帳し、地獄極楽変相図を掲げ、参拝を受け入れている。
なった。このヤマの住んでいるところは天上界の最も遠いところで、何時も音楽が聞こえている楽土である。ヤマにサーラ、メーヤの二匹の狗の使者がいて死者の道を守っており、人間界で死ぬべき人があるとその人を嗅ぎだして冥界まで導いていく役目をしていた。その後、下界に移って、専ら死んだ人が生前に行った行為の記録によって、その賞罰を司る神ということになったが、これが仏教の中に取り入れられ、夜摩天(ヤマテン)と閻魔王となって、説かれるようになった。
れ、生・老・病・死と獄卒の五人の使者を派遣して、人々に警告すると説かれている。閻魔王の住み処も南方地下の別世界にあったが、鬼界の王というところから餓鬼界に移り、更に罪人を司るということで地獄界へ移転した。我国には道教の影響を受け中国から入ってきたため、現在の中国風の冠を付け、袍のような着物を着ているという閻魔像になっている。
を行うとされている。
間神社がある。神社の名前の隣に“茅の輪くぐり”のイラストが描かれており、マップの裏の説明文に、伝統の神事「茅の輪くぐり」では、日本一のジャンボ茅の輪が作成され、名物になっているという記載がされていた。
祓を年越の祓(としこしのはらえ)という。6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいる。なお、「夏越」は「名越」とも標記する。輪くぐり祭とも呼ばれる。701年の大宝律令によって正式な宮中の年中行事に定められた。この日には、朱雀門前の広場に親王、大臣(おおおみ)ほか京(みやこ)にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓った。』という解説がされていた。
る。これは、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。『釈日本紀』(卜部兼方 鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文にある「蘇民将来」神話では、茅の輪を腰につけて災厄から免れたとされ、茅の旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられてきた。また、茅の輪の左右に設置する笹竹に願い事を書いた短冊を振下げ、七夕に河川に流すといった俗信仰は、書初めを“どんどん焼き”で焚くと習字が上達するといった行事と対応しているとする報告も見られる。
イラストマップによると、東大島駅の直ぐ近くに“東大島神社”があると紹介されている。折角、遠路遙々訪ねて行くので、この神社にも御参りし、出来れば御朱印を頂戴したいと考えていた。
却って遠回りをしてしまったようである。
りそうな顔をしていたのかと反省した。しかし、冷えた麦茶は、将に甘露、甘露というに相応しく躰の隅々に染み込んだ。
じみ思うのは、燃えて無くなる前の写真などを見た時である。形あるものは壊れるというのは一つの真実であろうが、戦争で無理矢理壊す必要は更々無かったのではないかと思う。
震で社殿が倒壊。明治十一年(1878年)に富士山より溶岩を運んで富士塚を築き、その上に社殿を再建した。大正十二年(1923年)関東大震災により、再び社殿は被害を受け、現在の社殿はその後に建てられたものだという。その後戦災を免れ、戦前の姿を残す貴重な木造建築の社殿として、富士塚北側の現在地に移された。境内には富士講関係その他の石碑、石灯籠、鳥居など、石造物が安置されている。また富士塚は柵
で境内と隔てられているが、神使の猿や講元の石碑などがそのまま残っている。なかでも「たのみの辞碑」は、この地の由来を記したものとして有名。また伝統の神事「茅の輪くぐり」では、関東随一のジャンボ茅の輪が知られているの紹介が見られる。
佐之男命を郷土守護神として勧請して創祀し後、天之穂日命を祀り、ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、大師の弟子良本阿闇梨がその神霊を併せてお祀りし『王子権現』と称した。例祭日九月十五日は、貞観のむかしはじめて祭祀を行った日であるといわれている。