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『三島考』

日曜日, 2月 21st, 2010

鬼城竜生

 8月15日(土曜日)かみさんと二人で、堂庭の蓮華寺に墓参りに出かけた。墓参りの後、例によって柿田川を遡上する道を行こうと云うことで、蓮華寺の横門から国道144号線に平行に出て、交差する道を右に曲がると直ぐ柿田川に架かる橋に行き当たる。橋を渡って直ぐの処に神社があり、神社の名前は何処にも書いていないようであるが、地図で確認すると“日枝神社”と書かれていた。

 日枝神社については、昔は山王宮と呼ばれ、祭神は“大山昨命”(おおやまくいのみこと)。境内社に同名の日枝神社・山ノ神神社・天神社が祀られているとされる。この神社の鳥居の前に左右に分けて石碑があるが、向かって右の碑は“柿田橋記"と“久保田隆作翁像”である。柿田橋記は1934年(昭和9年)の建立とされている。向かって左側の碑は、昔から水量が多く激流であった柿田川を渡るため橋を架けた人々の苦労を偲ぶ石碑や、川で溺死した人を供養する供養塔が並んでいる。この二基は1671(寛文11)年 建立の「石橋碑」と1787(天明7)年建立の「十句観音経二百萬遍供養塔」であり、左右三基の石碑を合わせて柿田川三石碑と呼んでいるとする説明がされている。現在架橋されている鉄筋コンクリートの柿田橋は、昭和六年に架橋されたとする紹介がみられる。

 『柿田橋記』の碑文は『柿田川は深き地隙の奔湍にして渉るに道なかりしが、寛文十一年泉荘院良琛和尚行鉢、資を集めて橋を造りしより、断崖の路始めて通せり、然れども坂峻しく、橋危うくして人馬行くに難く、時には顛落命を激流に殞すものあり。両岸の人々常に之を明治十七年新たに車道を拓き木橋を架けせしも綾棒策無く、橋朽ち道廃れて跼歩喘汗の苔を喫するにいたれり。

昭和六年久保田隆作氏、先考和三郎氏の意志に基づき、此苔難を救はんと巨資を捎て鉄筋混凝土造の橋梁を架設し、以て車道を復せり。近代的美観を有する複式橋梁は、高く碧流の上に横わりて偉容真に睨仰すべく橋ありてより二百六十年にして始めて交通の安きを得たり。後、清水村が之を延長して西は国道に、東は県道に聯絡するに及びて此の橋梁の価値益す高し。頃者柿田区氏子に告げて曰く、久保田氏の篤行は此の橋と共に不滅に其功徳は此の流れの如く不盡なるべし。而も寛文に架橋碑あり、安永に供養塔あり、昭和実り彰徳の事なかるべけんやと、子之を賛し其言う所を序次して此の記を草す。庶幾くは後人克く久保田氏の篤行と泉荘院主の功徳を識り、永く此の橋を護らんことを柿田区民建碑の意志盡し茲に在らん乎。

昭和九年九月九日

清水村村長 勢川邦作

静岡県知事正五位勲四等田中廣太郎行額

三島實科高等女学校長紅於土屋智重書

『柿田区民建之』

 写真に写したものを無理矢理読んだため、二、三カ所文字がハッキリしないところがあるが、次ぎに墓参りに行った時に確認したいと思っている。尚、原文はカタカナで書かれているが、ひらがな書きに改めた。また、旧仮名使いになっている部分は現代文表記に変えた。“久保田隆作翁”像とされる銅像の人物が此の橋の建設に功績のあった人物であることが、やっと解って、胸のつかえが取れたところがあるが、今度行った時に銅像の裏当たりに書いて在るであろう経歴については確認したいと思っている。

 今回は柿田川公園前の国道1号線のバスで三島駅まで戻り、三島駅の改修に伴って作られたイタリアンの店で、生ハムと黒胡椒のオリーブオイル何とかを肴に日本酒を呑んで帰ってきた。

 三島駅の総合観光案内所で三島近辺のパンフレットを見ていたら“山中城跡”が箱根の旧街道沿いに在ることが紹介されていたが、三島に相当長く住んでいたが、全くこのような話は識らなかったので驚いたが、足が利く間に行ってみたいもんだと言うのが正直な感想。

 本日の総歩行数は12,775歩。

(2009.10.24.)