Archive for 2月 2nd, 2010

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『危険は教えることで回避出来る』

火曜日, 2月 2nd, 2010

魍魎亭主人

キョウチクトウ:「有毒」の投書1通で「全部伐採」 福岡市教委が方針 90校に計600本(毎日新聞)

10月20日、市に匿名の投書が届いた。「キョウチクトウは有毒だ。撤去をお願いしたい」。市教委が調べたところ、小中高校と特別支援学校の約半数にあたる約90校で植えられていた。市教委はインターネットの百科事典「ウィキペディア」の情報などをもとに伐採方針を決定。今月初旬に各校に通知した。

数十本が植えられている中央区の学校の関係者は「毎夏に咲く花を近所の人も楽しみにしていた。子どもが触れないよう、枝を刈り込んだりしていたのに」と残念がる。

キョウチクトウは大気汚染に強く、高速道路の植え込みなどによく使われる一方、食べるとおう吐や下痢、心臓まひなどを起こす有毒物質オレアンドリンなどを根から花弁まで含む。インターネット上には「枝をバーベキューの串にしたフランス人が死亡」などの情報もある。

市教委施設整備課は「子どもたちに何かあってからでは遅い。児童、生徒が容易に近づけるものから順次撤去する」と強調する。

 上の記事がもし事実だとすれば、がっかりである。何かあった時に責任は取りたくないという典型的な役人の発想ということであろうか。しかし、一方で緑を大切にという運動がある。所詮は毒草のこと、切ってしまっても問題にはならないだろうという考え方と、緑を大切にという運動の関連はどうなるのか。毒草も生きている。生きていることを人が大切にすることは、毒草であれ何であれ同じではないのか。

 有毒な植物は、何も夾竹桃だけではない。紫陽花の葉っぱだって、間違って喰えば、嘔吐等の中毒症状を起こす。更に校庭には生えていなくとも、通学路には幾らでも生えている。それを全部取り除くことは不可能である。その他この世の中は危険なことだらけで、それを先回りして全て除去することは不可能である。危険を取り除くことが出来ないのであれば、それを避ける方法を教えればいいだけの話である。

 折角のいい機会だ、夾竹桃の毒成分について話をし、口に入れないということを徹底して教え、更に剪定した枝を燃やさずに廃棄する。枝や葉や花に触ったときには、石鹸を用いて手を洗い、手洗いが済むまでは、木に触れた手で食べるものを掴まない。それさえ出来れば、何等問題はない。序でにと言ってはいかんかもしれないが、丁度いい機会だ、その他の毒草についても話をし、その見分け方と、毒を持つ部分が何処かを教え、その危険を回避する方法を教えることの方が重要なのではないか。

 夾竹桃に毒があることを教えたら、態々それを口に入れてみようなどと思う酔狂な人間が居るのではないかと疑ったのかもしれないが、十分に教えた上で、なお夾竹桃を口に入れたとすれば、それは子供であったとしても自己責任の問題といえる。

 昔は、ガキ大将が居て、子供達は群れていたが、その群れの中には必ず物知りが居て、一般的な毒草に就いての知識は、その群れの共有財産になっていた。小さな子供達には、危険を避けるように注意をしていたものである。

 危険を知っていれば回避する智恵が生まれる。危険を前もって除き続ければ、それを回避する智恵は身につかない。

(2009.12.26.)

『目黄不動から目白不動・雑司ヶ谷鬼子母神』

火曜日, 2月 2nd, 2010

鬼城竜生

 目青不動・目赤不動とくれば、次は目白・目黒不動ということになるのかもしれないが、先に目黄不動に御参りすることにした。どういう訳か目黄不動は二つあるが、取り敢えず天台宗の永久寺(台東区三ノ輪)に出かけることにした。

 2009年6月20日(土曜日)『蒲田→人形町→三ノ輪』、都営浅草線から都営日比谷線に乗り継ぎ、三ノ輪駅で下車した。分かってみれば駅を上がった直ぐ隣に永久寺は立っていたが、街中の地図の読み方がよく分からないという弱点を表し、暫くウロウロと探し回った。ただ、どういう訳か、『でっか字まっぷ東京23区(昭文社2版,2008)』には、三ノ輪駅の近くに“永久寺”の記載はされていなかった。

 所で五色(東都五眼)不動尊について、江戸時代には五眼不動といわれ、五方角(東・西・南・北・中央)を色で示すもので、その由来については諸説あるが、各位置は江戸条(青)を中心として、それぞれ水戸街道(黄・最勝寺)、日光街道(黄・永久寺)、中山道(赤・南谷寺)、甲州街道(白・金乗院)、東海道(黒・瀧泉寺)といった江戸府内を中心とした五街道沿い又は近くにあることから、徳川の時代に江戸城を守るために置かれたという説が紹介されている。但し、色はあくまで仏教上の方角を示すもので、眼に色があるわけでは無いともいわれている。

 ただ、この配置について、江戸城を守るために置かれたとする考え方には、若干無理があるような気がするのである。何故なら寺院によっては、比較的簡単に移動しているという実態があるからである。

 物の本によると、天台宗永久寺は、古くは真言宗で唯識院と号したが衰退し、道安により禅寺として再建され白岩寺と改称した。だがまたも衰退したので、月窓が修復して蓮台寺に改め、日蓮宗に転じた。月窓は四代将軍家綱の生母宝樹院の弟であったことから、幕命によって日光門主本照院宮の弟子になって圭海と名乗り、蓮台寺を天台宗に改めた。いっぽう同寺の檀家で本所に住んでいた山野加右衛門永久は人を切ること一千人に及んだので、殺害した人々の亡霊を供養するために諸堂を建立し蓮台寺に寄進した。それによって同寺は永久寺と称するようになったという。不動堂があり、三尺六寸の慈覚大師作と伝える出世不動明王像(目黄不動)が安置されている。江戸五色不動の一。境内は年貢地で、西側には門前町屋があったとされるが、今は一見すると普通の民家みたいに見える。

 日光街道を渡り、常磐線の線路をくぐると都電荒川線の三ノ輪橋駅に出る。何軒かの商店が並ぶ商店街を抜けると、そこにチンチン電車の駅があった。早稲田行きの電車に乗って雑司ヶ谷駅で下車、雑司ヶ谷鬼子母神本坊に向かった。威光山法明寺[雑司ヶ谷鬼子母神本坊]とする由緒書きを頂いたが、どうやら法明寺に連なる名刹が鬼子母神堂ということのようである。最もこれは後で知ったことで、参拝に行ったときには思いもしなかった。

 由緒によると鬼子母神堂にお祀りする鬼子母神(きしもじん)の尊像は、室町時代の永禄四年(西暦1561年)一月十六日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、密かに尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。

 その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正六年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。現在のお堂は、本殿が寛文四年(1664年)徳川四代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自証院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。昭和35年に東京都有形文化財の指定を受け、昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われましたとされている。

 鬼子母神堂の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い 「雑司ケ谷鬼子母神」と尊称していると解説されている。

 目白不動金乗院は、真言宗豊山派目白不動 東豊山 新長谷寺 金乗院という長い肩書きが付いているお寺で、目白不動金乗院のしおりによると『目白不動堂は東豊山浄滝院新長谷寺と号し、金乗院より東へ約1km程の早稲田方面を臨む高台、文京区関口駒井町にあったが、昭和20年5月25日の戦災で焼失したため、金乗院に合併し、本尊目白不動明王を金乗院に移した。新長谷寺は奈良県桜井市真言宗豊山派総本山長谷寺末であり、本尊目白不動明王は江戸三不動(目白、目黒、目赤)の第一位、東都五色不動の随一として名高い。

 本尊不動明王は、弘法大師作と伝えられ、高さ八寸、断臀不動明王(だんびふどうみょうおう)といい秘佛である。断臀不動明王は縁起によれば、弘法大師が唐より御帰朝の後、羽州(今の山形・秋田県)湯殿山に参籠されたとき、大日如来が忽然と不動明王の御姿と鳴り、滝の下に現れ、大師に告げて、「この地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為の穢火をきらえり、故に凡夫登山すること難し、今汝に無漏の浄火をあたうべし」といわれ、持てる利剣をもって、自らの左の御臀(おんて)を切られると、霊火が盛んに燃え出でて、仏身に満ちあふれた。そこで大師はその御姿を二体に刻んで、一体は同国荒沢に安置し、一体は大師自ら護持されたという。その後、野州(今の栃木県)足利に住した某沙門が、これを感得して捧持していたが、武蔵国(今の東京都)関口の住人松村氏が霊夢を感じて、本尊を足利より移し、地主渡辺石見守より藩邸の地の寄進を受け、一宇を件立した。これが本寺の濫觴(らんしょう:事の始まり)とされている。

 その後、元和四年(1618年)大和長谷寺第四世小池坊秀算僧正(1572-1641年)が中興し、二代将軍秀忠公の命により堂塔伽藍を建立し、また大和長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像を移し、新長谷寺と号した。寛永年中、三代将軍家光公は、特に本尊断臀不動明王に目白の号を贈り、江戸五街道守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の一つとして、以後は目白不動明王と称することになった。またその辺り一帯を目白台と呼ぶことになった。元禄年中には五代将軍綱吉公及び同母桂昌院の篤い帰依を受け、度々の参詣があり、堂塔伽藍も壮麗を極め、門前町家19軒、寺域除地1,752坪、「境内眺望勝れたり、雪景もっとよし」(江戸名所絵図)とされていた。

 本日の総歩行数8,676歩。歩いたと思う割には歩行数が少なかったが、時間がかかったのは三ノ輪から乗車したチンチン電車の行程が意外と時間を食ったからではないかと思われた。

(2009.9.4.)

『稲富稲荷から青目不動へ』

火曜日, 2月 2nd, 2010

鬼城竜生

 大学の関係で世田谷の用賀に間違いなく3年は住んでいた筈だが、雀荘と飲み屋にしか眼が行っていなかったと見えて、大きな神社があるなどという認識はなかった。しかし、何気なくテレビの深夜番組を見ていたところ、桜新町をぶらぶらする番組で、神社の入口の鳥居から社殿まで、偉く離れている御稲荷さんがあることが放送されていた。然も梟の御守りがあるということだったので覗いてみることにした。

 渋谷から田園都市線の桜新町で下車。道なりに渋谷方向に向かうと、“桜神宮”と大きな神社の前に出た。古式神道の神社だという。全国で数少ない火渡り、釜鳴り等の神事を執り行うとしている。

 桜神宮の紹介については、『明治十五年五月十五日に大中臣家の六十五代の後裔で伊勢神宮の(筆頭)祢宜であった芳村正秉が、「神社の神官は人を教え導いてはならない」という方向に政府方針を変更したことに危機感を抱き、神代より脈々と受け継がれる古式神道を蘇らせるためお祭りだけを行う神社でなく、お祭りもしながら人々に対する布教もしっかりとできるように勅許を得て、教派神道十三派の一派を立てました。名称は伊勢神宮の禰宜時代に神託によって授かった「神習いの教」としました。以来、当宮は古式神道を受け継ぐ大神の宮として、また教えの本山として親しまれています。社殿は明治十六年東京市神田に創建。明治後期には「病気治し」「火伏せ」の神徳があると多数の人が参詣しました。また外務省の紹介により多くの外国人が訪れ、鎮火式(火渡り)や探湯式(熱湯を浴びる)の神事に参加しています。大正八年に「西の方角へ直ちに移転せよ」との神託により現在地である世田谷に移転しました。神田界隈の関東大震災による被害は大きなものでしたが、この移転により災害から免れることができました。また、第二次大戦時も無事戦災から免れ、「災難よけ」でも崇敬を受けております。』とする縁起が紹介されている。

 続いて本日の目的地“久富稲荷神社(通称:新町稲荷神社)”に向かった。久富稲荷神社の参道は、神社の開設によると約250mとされているが、参道を抜けると社殿に到着する。

 神社の由緒によると、『御鎮座は四百有余年。正確な資料は現存していないが、江戸中期に編まれた「新編武蔵国風土記稿」に”新町村五十戸の鎮守”と記された一説、参道の巨木(現在無し)の年輪から四百年以上は経っている事がわかる。この地の五穀豊穣を祈念して稲荷神社を建立したと推察される。現在のお社は、昭和4年1月に改築を企画され、氏子の方々より寄付の募集を行い約3ヵ年を掛け昭和6年11月22日に遷座祭りが行われました。その年の祭禮は、一週間に渡り執り行われ、今でも氏子の方々に語りぐさになっています。』と紹介されている。御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、大宮女命(おおみやめのみこと)、猿田彦神(さるたひこのみこと)の三神とされている。

 久富稲荷の御守りに“ふくろう”が使用されているのは、昭和の中頃、神社の境内にあった古木にふくろうが住み着いており、夜になると暗い境内にふくろうの声が聞こえ、姿を確認することは、なかなかできなかったという。参拝の際にそのふくろうを見ると「願いがかなった」という噂がたち、その話から「ふくろう御守り」、「ふくろう絵馬」の授与品を作ることになったとしている。現在授与品となっているふくろうの絵馬は、桜新町出身の“やくみつる氏”の筆による物ということであった。

 途中で昼飯を食い、三軒茶屋迄歩くことにして、前回御朱印を頂けなかった竹園山最勝寺教学院=目青不動尊に御参りすることにした。

 教学院縁起によると、創建は応長元年(1311年)で、江戸城紅葉山にあったという。本尊は阿弥陀如来で、開基は法印玄応大和尚である。その後太田道灌の江戸城築城により麹町貝塚に移され、また赤坂三分坂に移り、慶長九年には青山南町に三千坪余りの土地を拝領して三度移転した。青山南町は百人町ともいわれ、百人の同心が住んでいたといわれる土地である。この同心百人のうち三十七人が教学院の檀家に、六十三人が信者になり念仏講を結んでいた。この講の維持に1人三合宛の米を奉納していたので、『三合山』とも呼ばれ親しまれていたとされる。この佛米拠出により閻魔堂(現在の不動堂)が建立され、双盤念仏が盛んに行われていた。

 教学院は当初は山王城琳寺の末寺であったが、小田原城主・大久保加賀守忠朝菩提寺になるに及んで東叡山寛永寺の末寺となった。明治八年には境内地百坪を割いて“幼童学校”を創立したが、後の青山南町小学校に発展した。

 その後太政官布達により、明治四十二年より三ヵ年を要して世田谷の現在地に移転し、現在に至っているとされる。

 目青不動は麻布谷町にあったという正善寺(観行寺)の本尊であったものが、同寺の廃寺に伴い教学院に遷しされた。華厳経巻七・賢首菩薩第八に説かれるところの天上界と地上界の間に棚引く青い雲の色に基づく不動尊であることから、天と地の連絡をされるといわれ、『縁結び不動』としての信仰を集めるようになった。

 目青不動尊は、慈覚大師円仁御自作の尊像であり、秘佛として厨子に納められており公開されていない。御前立の不動尊は、座高1m余りの青銅製で、寛永11年(1642年)正月11日の銘があるとされる。丸顔で上下の牙歯がなく微笑を湛えているようにも見えるえくぼが女性的であると解説されている。

 また江戸時代より五色不動(御眼不動)の一つに数えられ、東西南北中央の五方角と色(五色)を合わせたもので、将軍家光の時代に成立したといわれている。昭和61年関東三十六不動霊場の第十六番に加えられ、多くの巡拝者が御参りに訪れるとされている。

 目黒不動 瀧泉寺 天台宗(目黒区)

 目青不動 教学院 天台宗(世田谷区)

 目赤不動 南谷寺 天台宗(文京区)

 目黄不動 永久寺 天台宗(台東区)

 目黄不動 最勝寺 天台宗(江戸川区)

 目白不動 金乗院 真言宗(豊島区)

 2009年6月17日の時点で、五色不動のうち目青、目赤の両不動を御参りしたことになる。但し、目青については二度目である。本日の総歩行距離は11,737歩。

 ところで、現在、使用している御朱印帳は金龍山浅草寺のものであるが、御朱印を頂いたときに「ご朱印」についての注意書きも頂戴した。

 『この頃、神社仏閣に参拝され「ご朱印」を受ける方が大変多くなっております。これは「納経」とも呼ばれ、その由来は参詣者がお経を書写して寺社に「お納め」することに始まっております。ですから昔は納経帳の右肩の所に「奉納大乗経典」と書かれておりました。現在は「奉拝(ほうはい)」という文字となっております。 いつの頃からか、この作法が簡略化されて、お写経をお納めしなくとも参詣の証として「ご判」を頂くことになって今日に及んでおります。そして各霊場を巡拝する「巡礼」信仰と結びついて盛んになりました。これは観音三十三札所あるいは四国八十八カ所を巡礼し、その全部の霊場から「御判」を頂くと、その功徳によって地獄に堕ちないばかりか、所願も成就するという、古来の信仰に基づいているものです。

 このような本義から申しますと、お経も書写もせず、あるいは御堂に入って御参りもしないで、ただご朱印だけを集めて歩くということでは、本来の尊い意議を無視してしまうことになり、あるべき姿から離れてしまいます。少なくとも『般若心経』一巻又は『観音経』偈文などを書写なさるか、ご宝前で読誦されるなどして、その後に「ご朱印」をお受けになるようにして頂きたいものです。』

金龍山 浅草寺

 前回「御朱印」に関する注意書きを貰ったのは“泉岳寺”で、特に泉岳寺の場合は、サイン帳は止めて頂きたいという注意が書かれていたような気がしたが、泉岳寺も浅草寺も謂わば観光地で、色々な種類の人間が参集してくるため、中には眉を顰(ひそ)める対応の方々もいるのかもしれないが、納経をしないからといって、好い加減だとは思わないで頂きたいのである。

 当初、当てもなく歩くのでは、続かないと考えて、花の写真を撮るために公園回りをしていたが、江戸時代を背景にした捕物帖などを読むうち、江戸六地蔵だの、その六地蔵が祀られている品川寺(ぼんせんじ)、その関連で東海七福神の品川神社、品川神社の富士塚などを巡っているうちに神社仏閣の佇まいに興味を持ち、写真を撮りがてら歩き回ることになった。

 未だ、偈文の一つも唱えることはできないが、既に100カ所を越える神社仏閣を廻るうちにそれまでとは異なる宗教観を持つようになり、それなりに崇敬の念を持つようになっている。甚だしく動機は不純であったが、それなりに修行にはなっているのではないかと自惚れている。単純に納経をしないのであれば、「御朱印」は頂くべきではないということではなく、彷徨っているうちに何とかなる場合もあるのではないか。少なくとも1000カ所も「御朱印」を頂戴すれば、凡夫も何とかなるかもしれないということで、大目に見て頂きたいものである。

(2009.9.1.)