Archive for 1月 28th, 2014

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蹌々踉々[1]

火曜日, 1月 28th, 2014

                    魍魎亭主人

『よろめいく』という意味である。将に足下が定まらない意見と云う程度の意味である。

                             『ワクチン接種歴』

例えば、『貴方は破傷風ワクチンを接種していますか』ときかれて、明確に回答できる方々がどの程度いるのか。破傷風が特殊すぎるというのであれば、『麻疹ワクチン』でもいい。摂取したことがあるのか無いのか。乳幼児の頃のワクチンの接種歴など、殆どの方々が正確に記憶していないというのが実情ではないか。突然この様な話を持ち出されても、どの辺に話の意図があるのか分からないということになるのかもしれないが、先日知り合いが怪我をして熱が下がらないということから、破傷風ではないのかという話になり、破傷風ワクチンの接種の記憶にまで立ち至ったというわけである。種々のワクチンを接種することは重要なことである。しかし、それを当人が明確に認知する手立てが取られていないということは、医療提供側としては怠慢ではないのか。電子化した病歴カードの中に、ワクチン接種歴を登録する等ということは出来ないのかどうか(呑)

                               『消炎酵素薬』

抗炎症・腫脹作用、喀痰・膿汁の融解・排泄促進作用、抗生物質の病巣部移行促進作用等を有するとするのがserrapeptaseの薬理作用である。本薬は1995年に行われた再評価における承認条件として、厚生労働省から必要なdataを揃えるよう求められていた。そこで武田薬品では、自主的に慢性気管支炎、足関節捻挫を対象とした試験を実施したが、プラセボ対比で有効性を示すことができなかった。これを受けて1月19日の厚労省の薬事・食品衛生審議会医薬品再評価部会は、本薬の有効性を検証する再試験の実施を指示。同社は再試験の実施に向け、試験デザインを見直す方向で検討を進めてきたが、最終的に有効性を証明することは困難と判断。武田薬品は2月21日販売を打ち切り、自主回収すると発表した。1968年に承認された同薬は、2009年度決算ベースで年間売り上げ約67億とされている[読売新聞,第48496号,2011.2.21.]。本薬の後発品は10製品ばかりある。後発品の定義は全く同じ薬ということである。当然これも消滅する定めにある(呑)。

                               『ついに出た』

2011.2.11.読売新聞によれば、担当医が常用量の5倍の治療薬を記載した処方箋の誤記を見逃したとして、薬剤師法の規定違反で損害賠償を求める判決が出されたという。「治療薬は劇薬指定され、重大な副作用を生じ得る医薬品で、常用量の5倍だったことを考慮すれば、担当医に紹介すべきだった」ということで薬剤師の過失を認定したという。従来であれば、医師の処方誤記が問題になるだけで、調剤した薬剤師に迄は手が伸びなかったのではないか。それが今回は薬剤師の責任が明確に判断されている。責任ありとされた今回の事例の薬剤師は調剤担当者なのか、それとも調剤の鑑査をした薬剤師なのか。新聞の記事からは読み取ることが出来なかったが、詳細な判決文を読みたいものである。何れにしろ顔の見える薬剤師ということは、このような責任の取らされ方をするということなのだろう(呑)。

                               『独善の排除』

薬剤師の書く論評を読む度に、何時も不思議に思うのは、なぜ同じような論調になるのだろうかということである。常に反省しつつ、業務の改善をしなければ、しなければという理論の展開は、一見前進的に見える。しかしこれは、いってみれば、何も改善はしておらず、旧態依然とした業務に流されていたというこになるのではないか。改善できない言い訳も、やれ員数が足りない、やれ院外処方箋の発行がされていない等の、似たり寄ったりの内容で、殆ど御当人の改善しようとする力量は棚上げされている。入院患者の服薬指導は、仕組みが完成して金が取れるようになったから実施するという仕事ではない。薬の専門家として、当然しなければならないことと認識しておれば、どんなに忙しかろうと、患者の元にいかなければならない。何も向こう受けを狙った改革が必要なわけではなく、患者の治療にどう貢献するかが重要なはずである(呑)。

以上は、ある雑誌に記載した寸評である。
                       

(2013.8.8.)

『甲斐善光寺』

火曜日, 1月 28th, 2014

                   鬼城竜生

以前職場の仲間と来た時には、本堂の佇まいを見ただけで、直ぐ食事に行ってしまったので、拝観は今回が初めてと云うことになる。善光寺は、本来長野にあるのが本家なのだろうが、甲府にもあると云うことで、“甲斐善光寺”甲斐善光寺-001の名称で呼ばれているようである。しかし、頭に付く修辞は甲府や山梨ではなく、やはり“甲斐善光寺”が相応しいのではないか。

甲斐善光寺は、山梨県甲府市善光寺にある浄土宗の寺院で、山号は定額山、院号は浄智院と紹介されている。従って正式名称は『定額山浄智院善光寺(じょうがくざんじょうちいんぜんこうじ)』ということになる。長野県長野市にある善光寺をはじめとする各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺と呼ばれることが多いとされている。

甲斐善光寺の開基は武田信玄で、信濃侵攻を行い越後の上杉謙信と衝突し、現在の長野県長野市南郊において五次に渡る川中島の戦いを行うが、弘治元年の第二回合戦では戦火が信濃善光寺に及び、永禄元年(1558)に信玄は自分の領国である甲斐へ本尊などを移したといわれ、以後、川中島の戦いの戦火は善光寺方面へ及んでいない。上杉謙信もまた領国の春日山城下に本尊以下を遷している。当初善光寺は山梨郡板垣郷に創建され、開山は信濃善光寺大本願三十七世の鏡空であるとされる。

板垣の里が移転先に選ばれたのは、この附近に信濃善光寺の由来にかかわりのある本田善光についての伝説があるからだといわれており、今でも甲斐善光寺の北1kmほどの場所には、本田善光の墓とされる「善光塚」があるとされる。その後、武田氏滅亡により御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々としたが、慶長三年(1598)信濃に帰座した。甲府では新たに前立仏を御本尊と定め、現在に至っていると解説されている。

善光寺で戴いた半截によると江戸時代には、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を勤め、徳川家位牌所にもなっていた。豪壮な七堂伽藍は、一度焼失したが、再建甲斐善光寺-02され、東日本最大級の伽藍として広く知られている。また重要文化財五件・県指定文化財四件、市指定文化財八件を初めとする文化財の宝庫として有名で、その一部は宝物館等で公開されている。

武田信玄が建立した七堂伽藍は、宝暦四年(1754)門前の失火により灰燼に帰した。現在の金堂・山門は寛政八年(1796)に再建された物という。金堂は善光寺建築に特有の撞木造りと呼ばれる形式で、総高27m、総奥行49mと紹介されているが、兎に角でかい。文化財指定木造建築物としては、日本でも十指に入る巨大な物で、重層建築の山門と共に重要文化財に指定されているという。金堂の下には「心」の字をかたどる、珍しいお戒壇巡りもあり、鍵を触れることによって、御本尊と御縁を結んで頂けるとされている。但しお戒壇は真っ暗な階段を降りるようになっており、携帯電話の灯りも付けるなとなっているので、「心」の字になっているのかどうかも分からず、残念ながら鍵に触れることも出来なかった。何より戴いた半截をろくに読みもしないで行動を起こしてしまったので、鍵があるというのは後で知ったので、鍵に触るのはまたの機会と云うことである。

山門については、桁行約17m、梁間約7m、棟高約15mとする紹介が見られるが、門の両脇には未完成の金剛力士像(仁王)が祀られているというが、細かな網目の中に鎮座ましましているので確認は出来なかったが、これもでかいのに驚かされた。山門から外を見ると直線道路を見ることができるが、あの道路の両脇に寺院や宿坊が並べば、長野の善光寺と同じ風景になるのではないかと思われたが、昔も今と同じだったのかどうか。

金堂正面厨子に安置されて甲斐善光寺-03いる御本尊は銅造阿弥陀三尊像である。これは建久六年(1195)尾張の僧定尊が、信濃善光寺の前立仏として造立したものであるとされている。善光寺の御本尊は、仏教伝来と共に将来された生身即ち実際に生命が宿っている霊像として深く信じられていた。しかし、絶対の秘仏のため、人々は拝むことが出来ない。そこで鋳造されたのが本像であると考えられ、文化史的にも大変貴重な存在である。本像はいわゆる一光三尊式善光寺如来像の中では、在銘最古、且つ例外的に大きな等身像として知られている。平成九年春に、御本尊の八十年ぶりの御開帳を厳修した。以後は信濃善光寺と同様、七年目毎の御開帳を予定しているという。

かつて御本尊の前立像であったものが、御本尊が信濃善光寺に再度移されるにあたって新しく本尊とされたという。昭和四十八年(1973)六月に重要文化財に指定された。

木造薬師如来立像が金堂正面右側に公開されていた。通称、「峯薬師」と云うそうである。桧材一木割矧造り。平安時代後期制作。光背は鎌倉時代の後補。平成十八年十二月に修覆し、欠損していた左手首と薬壺、台座などを新たに制作した。本像は、『裏見寒話』、『甲陽随筆』、『甲州噺』などによると、元亀二年(1571)、武田信玄公が三河に出陣の折、鳳来寺(現愛知県新城市)に登山し、御本尊「峯薬師」を奉遷したものと伝える。鳳来寺は、奈良時代に利修仙人によって開かれ、源頼朝によって再興されたという真言宗の古刹で、天文十一年(1541)松平広忠と夫人於大が、鳳来寺の「峯薬師」に子授けの願掛けをして生まれたのが徳川家康だと伝える。つまり、家康はこの「峯薬師」の申し子ということになる。本像は昭和初年まで、境内の薬師堂に祀られ、胸の病をはじめとする病気平癒、子授け、安産の霊像として近隣の信仰を集めていたが、著しく破損したため収蔵庫に安置され、これまでほとんど世に知られることはなかった。平成十九年に初めて公開され、今年は、国民文化祭記念事業として甲斐善光寺-04金堂で開帳されていた。像高61.0センチ。

この薬師如来、お顔を初め全体として優しげな作りになっていたので、どなたの作かお訊ねしたが、案内の方は教えられていませんという回答だった。金堂中陣の天上には巨大な竜が二頭描かれている。廊下の部分のみ釣り天井となっており、手を叩くと多重反響現象による共鳴が起こるとされている。この鳴き竜は日本一の規模を持っているとされているが、明確な反響音を聞かせる点では、他に類を見ないということが出来る。

「正和二年(1313)歳次癸丑六月日」の鋳造銘がある。鎌倉期の梵鐘としては、最大級の大きさを有する。刻銘には『善光寺縁起』の一節も記されており、縁起研究の上からも重要な意味を持つ。武田信玄が、信濃から引きずって運んだと伝えられ、傷が著しいため、「引き摺りの鐘」の異名を持つという。総髙181.8cm、口径90.5cm。現在も時の鐘を告げているという。

宝物殿にある源頼朝像、源実朝像を拝見して驚いた。頼朝像は、見るからに武士という面付きをしているが、実朝は何とも公家顔なのである。最も最高権力者の息子である。そのままの顔を彫っているとは限らない。高貴な方に見えるように、手心を加えているのかもしれない。更甲斐善光寺-05に歌人であったと云うことで、文化人らしい顔にしたのかもしれない。

あと一つ甲斐善光寺の金堂内に祀られている閻魔像が、少し余所とは違う顔付きに作られていた。“笑い閻魔”と云う解説もあるようだが、とても笑っているようには見えない。むしろ何かに対して一喝している風に見える。最も“伝・運慶作”と云われているようであり、運慶作の閻魔では、鎌倉の円応寺の閻魔が同じく“笑い閻魔”とされており、あるいは運慶は閻魔王を笑わせるのが得意なのかもしれない。写真が撮れれば下手な説明抜きで一発で分かるのだろうが、金堂内は写真撮影禁止であり、ネット上に散見される写真は違法に撮影されたものだろうと考え、あえて引用しなかった。

善光寺の近くに『かいてらす』(山梨県地場産業センター)があり、そこから甲府駅までバスが出ているというので、『かいてらす』を訪問、印伝で作られた『印』入れを購入した。但し、使用目的は、胆嚢摘出後突発的に起こる下痢を止めるための下痢止めを入れるピルケースとして使用する目的での購入で、制作者には申し訳ないが、1-2回分を持ち歩くには丁度良い大きさの入れ物と云うことである。

7月6日(土曜日)甲斐に来る用事があり、7日は空けて置いたので、甲斐善光寺によったが、総歩行数は8,075歩で、目標とする1万歩には届かなかった。

                   (2013.8.2.)

「福島再訪」

火曜日, 1月 28th, 2014

                              

                 鬼城竜生

『気力はあるが体力はない。年寄りに躯を使うボランティア活動は無理だが、貧者の一灯を灯しに行くことは出来る』と云うことで、東京医労連OB会として、福島を再訪することになった。更に今回は、立ち入り禁止が解除されて、日中の立ち入りが許可された楢葉町を訪問し、かって原発建設反対闘争の先頭を走っていたお寺の住職に会ってお話を伺うことになっていた。

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日本の田舎の5月の原風景は、田には水が張られ、緑の早苗が風に棚引き、ツバメが飛ぶという景色だったはずである。

しかし、5月19日(日曜日)、我々40名を乗せたバスが楢葉町(ならはまち)に近づくにつれ、予想もしなかった風景が展開されていた。田には雑草が茂り、除染により取り除かれた除染物を包んだ、大きな黒いビニールの袋がそのまま野ざらしにされていた。

不気味な黒いビニール袋

楢葉町は2012年8月に避難指示解除準備区域に指定変更がされたと云うが、人が住むための環境に関する限り、何も片付いていないのではないかと思われた。事実、天神岬レストラン楢葉町-001(天神岬スポーツ公園)で落ち合い、被災地を御案内頂いた楢葉町宝鏡寺の早川篤雄住職(原発問題福島県民連絡会代表)は、1395年(応永二年)に創建されたと云う浄土宗の古刹に戻ることは出来ないのではないかと危惧されていた。

放射能に汚染された土地の除染は終了したと云うが、風が吹けば周りの山の木々に降り積もった放射能が舞い降りてくる。田の除染は土を掘り返して上下を引っ繰り返した状態。更に黒いビニールの袋に包まれた除染物は積み上げられたままで、未だに最終処分場の場所の決定は見ていない。処分場が決まらなければ、山積みされた除染物はそのまま此処に置かれることになると云うことであれば、誰も戻ってきたいとは思わないのではないか。

日常生活の破壊

早川住職は現在いわき市に仮住まいしている。寺には月に何回か帰っているとのことであるが、池で飼っていた体長100cmの真鯉など、9匹中7匹が盗まれてしまったという。賽銭箱は箱ごと楢葉町-002持って行かれてしまい、未だ影さえ見えないという。案内された寺の庭に、空の鳥小屋が見えたので、何を飼っていたのか、お訊ねしたところ、赤巻き毛のカナリヤと佳い声でなく鳩を飼っていましたけど、避難するときに放鳥しました。自然の中では生きられないと思いますけど、閉じ込めておくのは偲びがたかったといわれた。

寺の本尊は伝・鎌倉時代の作と云われる阿弥陀如来像(楢葉町重要文化財)と教えて頂いた。最近仏像泥が横行しているので、生きた鯉さえ盗む盗人が、見過ごすことはないと思っていたが、仮住まいの押し入れに、申し訳ないが布に包んで仕舞ってあるということだった。

更に驚くべきことは、昭和49年に始まった東京電力福島第二原発1号炉の設置許可取り消しを求めた訴訟の、原告団事務局長を務めたと云うことで、最高裁までの長い戦いを続けた方である。

否応なしに、日常生活を停止された現在、その思いを想像することは出来ないが、飄々とした語り口の中に、宗教者としての達観があるのかもしれない。

早川住職の案内で常磐線富岡駅(双葉郡富岡町大字仏浜字釜田)まで行った。勿論、駅は津波で見る影もなく破壊されていたが、駅に近づくにつれ、壁が破壊された家の中に食器や家具が散乱している様子が見えたが、放射能汚染のために立ち入りが禁止されていたこともあり片付けたくても片付けられなかったと云うことのようである。

驚くべき臨場感

これから先に進んでも同じような状態だと云うことで、住職と別れ、いわき湯本温泉の“美里ホテル”を目指した。今回も福島県医労連特別執行委員の馬上勇孝氏(全労災福島支部楢葉町-003OB)にお世話になり、いわき湯本ICでバスに同乗して頂いていたが、馬上氏の紹介で松崎純子(元双葉厚生病院看護師)さん、渡辺博之(いわき市議会議員)さんの講演を伺うことになっていた。

松崎純子さんは『震災から今まで』と題し、3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災発生時及びそれ以降の職場での臨場感あふれる話をして頂いた。双葉町にある双葉厚生病院は、東京電力福島第一原発から4㎞しか離れていないという状況下、事故の情報が何も届かないまま、患者の緊急避難に当たらざるを得なかったという。避難用ヘリコプターは、到着せず、患者を乗せた一部の車両は、行方の確認が出なくなった。震災直後の混乱の中、産婦人科病棟では、新しい二つの命が誕生したという。

地震発生時、激しい揺れで病室のベッドは患者毎、一か所に寄せ集まり、本館と新館を繋ぐ連絡通路には20cm程度の段差が出来た。この時、一般病棟(内科、外科、眼科)に70人、産婦人科病棟に10人、神経精神科病棟に56人が入院していた。外来患者は数十人いたが、幸いなことに怪我人は一人も出なかった。強い余震が続く中、緊急管理者会議を招集。患者の安否確認と共に、自力で歩ける患者を速やかに屋外に避難誘導することが決定した。しかし、浜通では珍しく雪が降っていたため、冷え込みが厳しく、屋外に避難した患者を直ぐ1階の外来ホールに戻して揺れが収まるのを待った。この時、病院前の道路は車が数珠つなぎになっており、不審に思った職員が運転していた人に尋ねたところ、大津波が迫っていると云うことだった。病院は太平洋から2km程しか離れていない。直ちに患者を神経精神科病棟の2階に移し、歩けない患者は職員が4人一組になってマットに寝かせたまま運んだ。しかし、津波は700m程手前で引き、病院に津波の被害はなかった。

福島医大の応援医師3人を含め、医師14人で地震・津波による負傷者の治療に当たった。但し担ぎ込まれた住民の中には内臓損傷、溺れたことによる呼吸不全など重症患者が4人いた。病院の設備は地震で壊れるなどして治療が難しかったが、通信網が遮断され、応援を求める手立てがなかった。

情報不足の中で

この夜、福島第一原発から半径3km圏内に避難指示が出されたが、職員には伝わらなかった。3月12日午前6時迄に外来患者は56人に達した。当時、福島第一原発は1号機の原子楢葉町-004炉格納容器内の圧力が上昇するなど、危機的状況にあった。しかし、国や県等からの情報がなく、この時も原発の異常事態を誰一人知らなかった。

午前6時対策会議を行っていたとき、防護服を身に着けた警察官が院内に駆け込んできた。迷彩服姿の自衛隊員の姿もあり、玄関付近は騒然となった。「全員避難して下さい」警察官は直ちに避難するよう院長に求めた。院長の「何故患者を移動させてまで避難しなければならないのか」と云う質問に警察官からは何ら明確な答えは返ってこなかったという。

菅直人首相が、半径10km圏内の住民に避難を指示したことを、早朝のテレビニュースで知った。「このままでは危険だ」と云うことで、院長は自力で歩ける患者から避難させることを決断した。

県警の指示に従い、自力歩行できる入院患者96人がバスなどの車両6台に分乗することになった。当初、国道288号を田村市都路町方面に向かうと警察に告げられた。出発時には川俣町方面に通じる114号国道に変更になっていた。理由は分からなかったが、病院の職員は後で合流するから大丈夫と思っていた。

避難に際し、自衛隊の車両に非常用の食料や医薬品を可能な限り詰め込んだ。1台目と2台目に乗った患者35人はいずれも病状に問題なく、医師、看護師、病院職員は後続のバス4台で後を追う手はずになっていた。

車両による避難開始から1時間後、警察から突然、屋内退避を指示され、3台目以降の車両による避難は3時間余り中断した。この時も明確な理由は示されなかった。避難再開後、午後1時頃には自力で歩ける患者の車両による避難が完了した。原発の状況は依然解らず、多くの職員は病院にとどまり、残る重症患者40人の救出を県災害本部に電話で求め続けた。

午後3時36分、爆発音と共に振動が伝わり、双葉高グランドで患者を自衛隊ヘリに乗せる作業に追われていた職員は耳を疑った。原発建屋の断熱材と思われる破片が空から舞い落ちてきた。風向きは病院側に変わっており、灰色の煙が病院に向かってくる。再び避難の中断を余儀なくされ、病院や双葉高の体育館等に待避した。最終的には双葉高に比較的容体が安定している患者16人と看護部長ら職員9人が、最後に搬送されるグループとして残ったが、そのまま双葉高の茶道室で泊まることになってしまった。

久しぶりに背筋の真っ直ぐになる講演を聞いた。眼に見えない放射能の恐怖が迫る中、看護師としての倫理観と仲間を信頼することで患者を守るという決意をした、そのことが自身気付かずに彼女を一回り大きく育てたのだろう。話す内容は明確であり、存在感のある内容だった。

本気で取り組んでいるのか?

続いて話された市議の渡辺博之(日本共産党)さんは、『原発労働者の実態』と云う演題で、事故収束に責任を持たない政府と東電の対応を告発する話をされた。事故対処費用の削減の結果、使用す楢葉町-005る機器は専ら中古品と云うことで、中には作業員が使った経験のないような古い物まで使用されている。更に福島原発の冷却停止事故で、配電盤の隙間からネズミが入り、ショートしたと云っているが、配電盤はトラックの荷台に2年間も置いてあった。電源の確保は、最優先事項でありながら2年間も仮説のまま置いていたことは信じがたい。

労働者の賃金も同様、次々に予算が減額されており、習熟した技術を持つ労働者が現場からいなくなっている。また、下請け業者も孫請け、曽孫請けという状況になっており、危険手当等のピンハネが行われている。しかし、告発する話になると、仕事がなくなるのは困ると云うことで、腰が引けてしまう等の話がされた。

翌日、馬上さんには“いわき・ら・ら・ミュウ”までお付き合い頂いたが、現地の各種の設定をして頂いたことも含めて感謝の意を申し上げたい。

いずれにしろ我々は行路人である。居住者と異なり日常的に起こる諸々の現象に対応することは出来ない。しかし、現場に行って見たこと、聞いたことを語ることは出来る。機会ある毎に語り継ぐことが、今回の参加者の役割である。

今回の福島再訪に際し、企画立案を担当した東京医労連OB会事務局長、旅行中の事務局を担当した副会長に感謝の意を申し上げる。

                          原発を語る輩や薄暑かな
                                  藤の道人影もなし楢葉町(ならはまち)
                                原発は廃止すべきか薄暑かな

                                        (2013.5.31.)