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『甲斐善光寺』

火曜日, 1月 28th, 2014

                   鬼城竜生

以前職場の仲間と来た時には、本堂の佇まいを見ただけで、直ぐ食事に行ってしまったので、拝観は今回が初めてと云うことになる。善光寺は、本来長野にあるのが本家なのだろうが、甲府にもあると云うことで、“甲斐善光寺”甲斐善光寺-001の名称で呼ばれているようである。しかし、頭に付く修辞は甲府や山梨ではなく、やはり“甲斐善光寺”が相応しいのではないか。

甲斐善光寺は、山梨県甲府市善光寺にある浄土宗の寺院で、山号は定額山、院号は浄智院と紹介されている。従って正式名称は『定額山浄智院善光寺(じょうがくざんじょうちいんぜんこうじ)』ということになる。長野県長野市にある善光寺をはじめとする各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺と呼ばれることが多いとされている。

甲斐善光寺の開基は武田信玄で、信濃侵攻を行い越後の上杉謙信と衝突し、現在の長野県長野市南郊において五次に渡る川中島の戦いを行うが、弘治元年の第二回合戦では戦火が信濃善光寺に及び、永禄元年(1558)に信玄は自分の領国である甲斐へ本尊などを移したといわれ、以後、川中島の戦いの戦火は善光寺方面へ及んでいない。上杉謙信もまた領国の春日山城下に本尊以下を遷している。当初善光寺は山梨郡板垣郷に創建され、開山は信濃善光寺大本願三十七世の鏡空であるとされる。

板垣の里が移転先に選ばれたのは、この附近に信濃善光寺の由来にかかわりのある本田善光についての伝説があるからだといわれており、今でも甲斐善光寺の北1kmほどの場所には、本田善光の墓とされる「善光塚」があるとされる。その後、武田氏滅亡により御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々としたが、慶長三年(1598)信濃に帰座した。甲府では新たに前立仏を御本尊と定め、現在に至っていると解説されている。

善光寺で戴いた半截によると江戸時代には、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を勤め、徳川家位牌所にもなっていた。豪壮な七堂伽藍は、一度焼失したが、再建甲斐善光寺-02され、東日本最大級の伽藍として広く知られている。また重要文化財五件・県指定文化財四件、市指定文化財八件を初めとする文化財の宝庫として有名で、その一部は宝物館等で公開されている。

武田信玄が建立した七堂伽藍は、宝暦四年(1754)門前の失火により灰燼に帰した。現在の金堂・山門は寛政八年(1796)に再建された物という。金堂は善光寺建築に特有の撞木造りと呼ばれる形式で、総高27m、総奥行49mと紹介されているが、兎に角でかい。文化財指定木造建築物としては、日本でも十指に入る巨大な物で、重層建築の山門と共に重要文化財に指定されているという。金堂の下には「心」の字をかたどる、珍しいお戒壇巡りもあり、鍵を触れることによって、御本尊と御縁を結んで頂けるとされている。但しお戒壇は真っ暗な階段を降りるようになっており、携帯電話の灯りも付けるなとなっているので、「心」の字になっているのかどうかも分からず、残念ながら鍵に触れることも出来なかった。何より戴いた半截をろくに読みもしないで行動を起こしてしまったので、鍵があるというのは後で知ったので、鍵に触るのはまたの機会と云うことである。

山門については、桁行約17m、梁間約7m、棟高約15mとする紹介が見られるが、門の両脇には未完成の金剛力士像(仁王)が祀られているというが、細かな網目の中に鎮座ましましているので確認は出来なかったが、これもでかいのに驚かされた。山門から外を見ると直線道路を見ることができるが、あの道路の両脇に寺院や宿坊が並べば、長野の善光寺と同じ風景になるのではないかと思われたが、昔も今と同じだったのかどうか。

金堂正面厨子に安置されて甲斐善光寺-03いる御本尊は銅造阿弥陀三尊像である。これは建久六年(1195)尾張の僧定尊が、信濃善光寺の前立仏として造立したものであるとされている。善光寺の御本尊は、仏教伝来と共に将来された生身即ち実際に生命が宿っている霊像として深く信じられていた。しかし、絶対の秘仏のため、人々は拝むことが出来ない。そこで鋳造されたのが本像であると考えられ、文化史的にも大変貴重な存在である。本像はいわゆる一光三尊式善光寺如来像の中では、在銘最古、且つ例外的に大きな等身像として知られている。平成九年春に、御本尊の八十年ぶりの御開帳を厳修した。以後は信濃善光寺と同様、七年目毎の御開帳を予定しているという。

かつて御本尊の前立像であったものが、御本尊が信濃善光寺に再度移されるにあたって新しく本尊とされたという。昭和四十八年(1973)六月に重要文化財に指定された。

木造薬師如来立像が金堂正面右側に公開されていた。通称、「峯薬師」と云うそうである。桧材一木割矧造り。平安時代後期制作。光背は鎌倉時代の後補。平成十八年十二月に修覆し、欠損していた左手首と薬壺、台座などを新たに制作した。本像は、『裏見寒話』、『甲陽随筆』、『甲州噺』などによると、元亀二年(1571)、武田信玄公が三河に出陣の折、鳳来寺(現愛知県新城市)に登山し、御本尊「峯薬師」を奉遷したものと伝える。鳳来寺は、奈良時代に利修仙人によって開かれ、源頼朝によって再興されたという真言宗の古刹で、天文十一年(1541)松平広忠と夫人於大が、鳳来寺の「峯薬師」に子授けの願掛けをして生まれたのが徳川家康だと伝える。つまり、家康はこの「峯薬師」の申し子ということになる。本像は昭和初年まで、境内の薬師堂に祀られ、胸の病をはじめとする病気平癒、子授け、安産の霊像として近隣の信仰を集めていたが、著しく破損したため収蔵庫に安置され、これまでほとんど世に知られることはなかった。平成十九年に初めて公開され、今年は、国民文化祭記念事業として甲斐善光寺-04金堂で開帳されていた。像高61.0センチ。

この薬師如来、お顔を初め全体として優しげな作りになっていたので、どなたの作かお訊ねしたが、案内の方は教えられていませんという回答だった。金堂中陣の天上には巨大な竜が二頭描かれている。廊下の部分のみ釣り天井となっており、手を叩くと多重反響現象による共鳴が起こるとされている。この鳴き竜は日本一の規模を持っているとされているが、明確な反響音を聞かせる点では、他に類を見ないということが出来る。

「正和二年(1313)歳次癸丑六月日」の鋳造銘がある。鎌倉期の梵鐘としては、最大級の大きさを有する。刻銘には『善光寺縁起』の一節も記されており、縁起研究の上からも重要な意味を持つ。武田信玄が、信濃から引きずって運んだと伝えられ、傷が著しいため、「引き摺りの鐘」の異名を持つという。総髙181.8cm、口径90.5cm。現在も時の鐘を告げているという。

宝物殿にある源頼朝像、源実朝像を拝見して驚いた。頼朝像は、見るからに武士という面付きをしているが、実朝は何とも公家顔なのである。最も最高権力者の息子である。そのままの顔を彫っているとは限らない。高貴な方に見えるように、手心を加えているのかもしれない。更甲斐善光寺-05に歌人であったと云うことで、文化人らしい顔にしたのかもしれない。

あと一つ甲斐善光寺の金堂内に祀られている閻魔像が、少し余所とは違う顔付きに作られていた。“笑い閻魔”と云う解説もあるようだが、とても笑っているようには見えない。むしろ何かに対して一喝している風に見える。最も“伝・運慶作”と云われているようであり、運慶作の閻魔では、鎌倉の円応寺の閻魔が同じく“笑い閻魔”とされており、あるいは運慶は閻魔王を笑わせるのが得意なのかもしれない。写真が撮れれば下手な説明抜きで一発で分かるのだろうが、金堂内は写真撮影禁止であり、ネット上に散見される写真は違法に撮影されたものだろうと考え、あえて引用しなかった。

善光寺の近くに『かいてらす』(山梨県地場産業センター)があり、そこから甲府駅までバスが出ているというので、『かいてらす』を訪問、印伝で作られた『印』入れを購入した。但し、使用目的は、胆嚢摘出後突発的に起こる下痢を止めるための下痢止めを入れるピルケースとして使用する目的での購入で、制作者には申し訳ないが、1-2回分を持ち歩くには丁度良い大きさの入れ物と云うことである。

7月6日(土曜日)甲斐に来る用事があり、7日は空けて置いたので、甲斐善光寺によったが、総歩行数は8,075歩で、目標とする1万歩には届かなかった。

                   (2013.8.2.)