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「福島再訪」

火曜日, 1月 28th, 2014

                              

                 鬼城竜生

『気力はあるが体力はない。年寄りに躯を使うボランティア活動は無理だが、貧者の一灯を灯しに行くことは出来る』と云うことで、東京医労連OB会として、福島を再訪することになった。更に今回は、立ち入り禁止が解除されて、日中の立ち入りが許可された楢葉町を訪問し、かって原発建設反対闘争の先頭を走っていたお寺の住職に会ってお話を伺うことになっていた。

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日本の田舎の5月の原風景は、田には水が張られ、緑の早苗が風に棚引き、ツバメが飛ぶという景色だったはずである。

しかし、5月19日(日曜日)、我々40名を乗せたバスが楢葉町(ならはまち)に近づくにつれ、予想もしなかった風景が展開されていた。田には雑草が茂り、除染により取り除かれた除染物を包んだ、大きな黒いビニールの袋がそのまま野ざらしにされていた。

不気味な黒いビニール袋

楢葉町は2012年8月に避難指示解除準備区域に指定変更がされたと云うが、人が住むための環境に関する限り、何も片付いていないのではないかと思われた。事実、天神岬レストラン楢葉町-001(天神岬スポーツ公園)で落ち合い、被災地を御案内頂いた楢葉町宝鏡寺の早川篤雄住職(原発問題福島県民連絡会代表)は、1395年(応永二年)に創建されたと云う浄土宗の古刹に戻ることは出来ないのではないかと危惧されていた。

放射能に汚染された土地の除染は終了したと云うが、風が吹けば周りの山の木々に降り積もった放射能が舞い降りてくる。田の除染は土を掘り返して上下を引っ繰り返した状態。更に黒いビニールの袋に包まれた除染物は積み上げられたままで、未だに最終処分場の場所の決定は見ていない。処分場が決まらなければ、山積みされた除染物はそのまま此処に置かれることになると云うことであれば、誰も戻ってきたいとは思わないのではないか。

日常生活の破壊

早川住職は現在いわき市に仮住まいしている。寺には月に何回か帰っているとのことであるが、池で飼っていた体長100cmの真鯉など、9匹中7匹が盗まれてしまったという。賽銭箱は箱ごと楢葉町-002持って行かれてしまい、未だ影さえ見えないという。案内された寺の庭に、空の鳥小屋が見えたので、何を飼っていたのか、お訊ねしたところ、赤巻き毛のカナリヤと佳い声でなく鳩を飼っていましたけど、避難するときに放鳥しました。自然の中では生きられないと思いますけど、閉じ込めておくのは偲びがたかったといわれた。

寺の本尊は伝・鎌倉時代の作と云われる阿弥陀如来像(楢葉町重要文化財)と教えて頂いた。最近仏像泥が横行しているので、生きた鯉さえ盗む盗人が、見過ごすことはないと思っていたが、仮住まいの押し入れに、申し訳ないが布に包んで仕舞ってあるということだった。

更に驚くべきことは、昭和49年に始まった東京電力福島第二原発1号炉の設置許可取り消しを求めた訴訟の、原告団事務局長を務めたと云うことで、最高裁までの長い戦いを続けた方である。

否応なしに、日常生活を停止された現在、その思いを想像することは出来ないが、飄々とした語り口の中に、宗教者としての達観があるのかもしれない。

早川住職の案内で常磐線富岡駅(双葉郡富岡町大字仏浜字釜田)まで行った。勿論、駅は津波で見る影もなく破壊されていたが、駅に近づくにつれ、壁が破壊された家の中に食器や家具が散乱している様子が見えたが、放射能汚染のために立ち入りが禁止されていたこともあり片付けたくても片付けられなかったと云うことのようである。

驚くべき臨場感

これから先に進んでも同じような状態だと云うことで、住職と別れ、いわき湯本温泉の“美里ホテル”を目指した。今回も福島県医労連特別執行委員の馬上勇孝氏(全労災福島支部楢葉町-003OB)にお世話になり、いわき湯本ICでバスに同乗して頂いていたが、馬上氏の紹介で松崎純子(元双葉厚生病院看護師)さん、渡辺博之(いわき市議会議員)さんの講演を伺うことになっていた。

松崎純子さんは『震災から今まで』と題し、3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災発生時及びそれ以降の職場での臨場感あふれる話をして頂いた。双葉町にある双葉厚生病院は、東京電力福島第一原発から4㎞しか離れていないという状況下、事故の情報が何も届かないまま、患者の緊急避難に当たらざるを得なかったという。避難用ヘリコプターは、到着せず、患者を乗せた一部の車両は、行方の確認が出なくなった。震災直後の混乱の中、産婦人科病棟では、新しい二つの命が誕生したという。

地震発生時、激しい揺れで病室のベッドは患者毎、一か所に寄せ集まり、本館と新館を繋ぐ連絡通路には20cm程度の段差が出来た。この時、一般病棟(内科、外科、眼科)に70人、産婦人科病棟に10人、神経精神科病棟に56人が入院していた。外来患者は数十人いたが、幸いなことに怪我人は一人も出なかった。強い余震が続く中、緊急管理者会議を招集。患者の安否確認と共に、自力で歩ける患者を速やかに屋外に避難誘導することが決定した。しかし、浜通では珍しく雪が降っていたため、冷え込みが厳しく、屋外に避難した患者を直ぐ1階の外来ホールに戻して揺れが収まるのを待った。この時、病院前の道路は車が数珠つなぎになっており、不審に思った職員が運転していた人に尋ねたところ、大津波が迫っていると云うことだった。病院は太平洋から2km程しか離れていない。直ちに患者を神経精神科病棟の2階に移し、歩けない患者は職員が4人一組になってマットに寝かせたまま運んだ。しかし、津波は700m程手前で引き、病院に津波の被害はなかった。

福島医大の応援医師3人を含め、医師14人で地震・津波による負傷者の治療に当たった。但し担ぎ込まれた住民の中には内臓損傷、溺れたことによる呼吸不全など重症患者が4人いた。病院の設備は地震で壊れるなどして治療が難しかったが、通信網が遮断され、応援を求める手立てがなかった。

情報不足の中で

この夜、福島第一原発から半径3km圏内に避難指示が出されたが、職員には伝わらなかった。3月12日午前6時迄に外来患者は56人に達した。当時、福島第一原発は1号機の原子楢葉町-004炉格納容器内の圧力が上昇するなど、危機的状況にあった。しかし、国や県等からの情報がなく、この時も原発の異常事態を誰一人知らなかった。

午前6時対策会議を行っていたとき、防護服を身に着けた警察官が院内に駆け込んできた。迷彩服姿の自衛隊員の姿もあり、玄関付近は騒然となった。「全員避難して下さい」警察官は直ちに避難するよう院長に求めた。院長の「何故患者を移動させてまで避難しなければならないのか」と云う質問に警察官からは何ら明確な答えは返ってこなかったという。

菅直人首相が、半径10km圏内の住民に避難を指示したことを、早朝のテレビニュースで知った。「このままでは危険だ」と云うことで、院長は自力で歩ける患者から避難させることを決断した。

県警の指示に従い、自力歩行できる入院患者96人がバスなどの車両6台に分乗することになった。当初、国道288号を田村市都路町方面に向かうと警察に告げられた。出発時には川俣町方面に通じる114号国道に変更になっていた。理由は分からなかったが、病院の職員は後で合流するから大丈夫と思っていた。

避難に際し、自衛隊の車両に非常用の食料や医薬品を可能な限り詰め込んだ。1台目と2台目に乗った患者35人はいずれも病状に問題なく、医師、看護師、病院職員は後続のバス4台で後を追う手はずになっていた。

車両による避難開始から1時間後、警察から突然、屋内退避を指示され、3台目以降の車両による避難は3時間余り中断した。この時も明確な理由は示されなかった。避難再開後、午後1時頃には自力で歩ける患者の車両による避難が完了した。原発の状況は依然解らず、多くの職員は病院にとどまり、残る重症患者40人の救出を県災害本部に電話で求め続けた。

午後3時36分、爆発音と共に振動が伝わり、双葉高グランドで患者を自衛隊ヘリに乗せる作業に追われていた職員は耳を疑った。原発建屋の断熱材と思われる破片が空から舞い落ちてきた。風向きは病院側に変わっており、灰色の煙が病院に向かってくる。再び避難の中断を余儀なくされ、病院や双葉高の体育館等に待避した。最終的には双葉高に比較的容体が安定している患者16人と看護部長ら職員9人が、最後に搬送されるグループとして残ったが、そのまま双葉高の茶道室で泊まることになってしまった。

久しぶりに背筋の真っ直ぐになる講演を聞いた。眼に見えない放射能の恐怖が迫る中、看護師としての倫理観と仲間を信頼することで患者を守るという決意をした、そのことが自身気付かずに彼女を一回り大きく育てたのだろう。話す内容は明確であり、存在感のある内容だった。

本気で取り組んでいるのか?

続いて話された市議の渡辺博之(日本共産党)さんは、『原発労働者の実態』と云う演題で、事故収束に責任を持たない政府と東電の対応を告発する話をされた。事故対処費用の削減の結果、使用す楢葉町-005る機器は専ら中古品と云うことで、中には作業員が使った経験のないような古い物まで使用されている。更に福島原発の冷却停止事故で、配電盤の隙間からネズミが入り、ショートしたと云っているが、配電盤はトラックの荷台に2年間も置いてあった。電源の確保は、最優先事項でありながら2年間も仮説のまま置いていたことは信じがたい。

労働者の賃金も同様、次々に予算が減額されており、習熟した技術を持つ労働者が現場からいなくなっている。また、下請け業者も孫請け、曽孫請けという状況になっており、危険手当等のピンハネが行われている。しかし、告発する話になると、仕事がなくなるのは困ると云うことで、腰が引けてしまう等の話がされた。

翌日、馬上さんには“いわき・ら・ら・ミュウ”までお付き合い頂いたが、現地の各種の設定をして頂いたことも含めて感謝の意を申し上げたい。

いずれにしろ我々は行路人である。居住者と異なり日常的に起こる諸々の現象に対応することは出来ない。しかし、現場に行って見たこと、聞いたことを語ることは出来る。機会ある毎に語り継ぐことが、今回の参加者の役割である。

今回の福島再訪に際し、企画立案を担当した東京医労連OB会事務局長、旅行中の事務局を担当した副会長に感謝の意を申し上げる。

                          原発を語る輩や薄暑かな
                                  藤の道人影もなし楢葉町(ならはまち)
                                原発は廃止すべきか薄暑かな

                                        (2013.5.31.)