Archive for 1月 19th, 2010

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『明治神宮御苑から太田記念美術館へ』

火曜日, 1月 19th, 2010

鬼城竜生

 6月10日(水曜日)明治神宮御苑に出かけた。明治神宮御苑は、江戸時代初期熊本藩主の加藤清正、後に彦根藩主井伊直孝の下屋敷の庭園でしたが、明治時代に宮内庁所管となり代々木御苑と称されていた。ここの菖蒲田は、明治天皇が皇后のために、 全国から菖蒲の優良品種を集めて植えさせたものであるとされている。 

 御苑内にある池には水面に張り出して御釣台が作られている。御釣台は、明治天皇の御意向により設けられ、 皇后も時々楽しまれたといわれている。池には睡蓮の花が咲くといわれているが、池の比較的離れた位置に咲いているため、小型の写真機では、写すことはできなかった。もう少し花の数が多くないと、池の芥扱いにされそうだが、まだ時期的に早いということなのか、睡蓮の花は遙かにちらっと見えた程度である。最も、睡蓮の花は、相当数が咲いていないと素人では写真に纏めるのが難しいのではないかと思われた。

 因みに御苑の季節毎の花の見頃については、次の案内がされている。今回花菖蒲を見に来たが、人ばかりが目立って、紅葉の時の静けさは見られなかったが、どちらかと云えば、

4月上旬

6月

12月上旬

山吹・躑躅開花。落葉広葉樹の新芽見頃

花菖蒲

紅葉等の紅葉見頃

紅葉の頃の御苑の方が風情があっていいような気がした。

 御釣台に立って振り向くと、小高い斜面の芝生の庭になっており最上部に建物が見えるが、隔雲亭という名前が付けられている。最も案内によると、隔雲亭は、明治天皇の御意向により皇后のために建てられたものであるといわれているが、戦災により焼失。現在の隔雲亭は、昭和33年(1958年)に再建されたものだという。

 御釣台から園路を北に行くと花菖蒲田に出遭う。栽培されている花菖蒲は江戸系で、当初80余種とされていたが、現在は150種、1,500株を越える規模に広げられていると紹介されている。花菖蒲田は次第に細長くなりながら北方向へと続いており、道なりに歩いて行くと、清正井(きよまさのいど)なる井戸に行き合う。井戸の傍らに井戸の説明がされているが、加藤家の下屋敷だったときに、加藤清正が掘ったと伝えられている井戸で、一年中絶えることなく湧出する清水は南池の水源となり、掘り方の巧妙さと水質の優秀なことは早くから世に知られていたとされている。

 明治神宮内の食事処で、昼飯に鰊蕎麦を食し、時間があるので原宿駅の近くにある“浮世絵 太田記念美術館”を覗くことにした。

 太田記念美術館は、故太田清藏氏が蒐集したものを展示するために開設された浮世絵専門の美術館である。美術館の説明によると『浮世絵は、我が国独自の大衆美術として、徳川初期に誕生発展したものです。しかし徳川末期より明治にかけ欧米に膨大な数量の秀品が流出し、版画、肉筆画の鑑賞は、海外に出向かなければ不可能とさえ言われるようになりました。故太田清藏氏は、このような実情を嘆き昭和の初めより半世紀以上に渡り浮世絵の蒐集に努め約12,000点のコレクションを集大成しました。同氏の死去にともない、遣族はその遣志を受け、未公開作品の一般展示を行い、広く我国の美術振興の一助とすることを決意しました。』とされている。

 今回、展示されていたのは『芳年-「風俗三十二相」と「月百姿」-』というもので、作家の月岡芳年(大蘇芳年とも、1839-92)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師であるとされる。鎖国の世から突然の文明開化を求められた動乱の時代、個性に満ち溢れた作品を次々と生み出し、しばしば「最後の浮世絵師」とも称されている。武者絵や戯画で知られる歌川国芳の下で浮世絵を学んだ芳年は、武者絵や歴史画、美人画などさまざまなジャンルで活躍している。当時の人気は随一で、名実ともに明治時代を代表する浮世絵師と言うことができる。迫力ある構図が特徴で、血みどろ絵と呼ばれる残酷な表現や女性の妖艶さを捉えた美人画などの魅力は、時代を越えて見るものの心を惹き付けている。

 帰りに猫の描かれている浮世絵ということで、探したが猫の書かれているものは1枚しかなく、仕方がないので他の絵柄も含めて何枚かの絵葉書を購入した。更に同じ建物の地下1階にある江戸小物を取扱う店で、巾着を購入して戻ってきた。

 総歩行数11,149歩で、思ったより歩いたのは、公園と美術館内を歩いた歩数が含まれているからである。

(2009.8.28.)