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宝来公園から多摩川浅間神社まで

日曜日, 1月 17th, 2010

鬼城竜生

 6月9日(火曜日)蒲田から東急多摩川線で多摩川まで行き、そこで乗り換えて田園調布駅で降りた。放射状に伸びる公孫樹並木の左側の道を真っ直ぐ行くと宝来公園に出る。この公園の前身は大正14年、武蔵野の旧景を保存し永く後世に残すために、田園調布会が街の一角の潮見台の地を広場としたことからはじまるとされている。後、昭和 9年田園調布会から東京市に寄贈され、造成整備の後、昭和19年4月「宝来公園」として開園したものだという。大田区への移管は昭和25年10月1日だとされている。

 今回、宝来公園を目指したのは、宝来公園の池に黄色の菖蒲が咲いているという案内が区報に掲載されていたからである。しかし、こういう類の案内は、往々にして大袈裟なものであることが通り相場だが、今回の場合は、大袈裟処か残念なことに黄菖蒲は影も形もなかった。そこで公園内の掃除をしていた掛かりの方にお訊ねしたところ、「もう時期が遅い」と云うことであった。

「でも今年は、暫く振りに沢山咲いたんですよ。花が終わると摘んでしまうんで、何も残っていませんが」、

「黄菖蒲の見頃は何時頃なんですか。普通、菖蒲は今頃咲く花だと思っていたんですが」

「黄色の菖蒲は花が早いですよ。5月の初旬から中旬までですかね。それに来年良い花を咲かせるために一定の時期が終わると、全部花を摘んでしまうんで、今頃は何にもないですね」

「ああそうなんですか」

ということで、本日の目標は終了してしまった。宝来公園の案内によると、園内には梅、桜、椿、山茶花、櫟、椎など約70種1,500本の花や樹木があり、池には100本から200本ほどの黄菖蒲が群生していると紹介されている。しかし、それほど木が多いとは思えないが、役所が云っているならまあ間違いはないのではないか。

 宝来公園に沿って、田園調布教会を左手に見て右に下ると多摩川台公園に出る。多摩川台公園は、この時期紫陽花が咲いており、14日(日曜日)に第19回あじさい祭りを実行するのチラシが配布されていた。ただ、紫陽花そのものは、今年の花はあまり迫力のある咲き方はして居らず、紫陽花としては昨年の方がよかったのではないかと思われた。

 何時もは多摩川駅からの道を取るが、今回は裏口というか、途中の宝来山古墳に出る道から上がった。多摩川台古墳群第8号墳、第7号・第6号・第5号・第4号・第3号・第2号・第1号墳が並んでいる。第8号墳と第7号墳の間に“虹橋”なる名称の付いた橋が見られた。更に亀甲山古墳に行く途中に古墳展示室があった。一応中に入って見学したが、特に高貴な方の古墳というのではなく、地方豪族の墓として造られた古墳のようである。

 多摩川台公園は、多摩川に沿って伸びる丘陵地に約750mにわたって展開しているとされる。面積は66,661m2と広大なうえ、自然林の道、古墳、展望台、水生植物園、四季の野草園、あじさい園、山野草のみち、ふたつの広場など見所は豊富であると紹介されている。

今回、水生植物園を覗いたが、数は少ないながら水仙の花が咲いており、最初は薄汚い病葉かと思われたが良く見ると“半夏生”という珍しい草が生えていた。それにしても驚きは子供がザリガニ釣りをしていたことで、数は見えなかったが、ザリガニの顔は見えていた。

 紫陽花の写真を何枚か撮り、直ぐ近くの浅間神社古墳の上にあるといわれている“多摩川浅間神社”を御参りすることにした。多摩川浅間神社は、浅間神社の一つで、熊野神社と赤城神社を合祀している。本殿の建築様式は浅間造であり、これは東京都内では唯一のものである。また、社殿は浅間神社古墳の上に建てられている。多摩川浅間神社の創建は、鎌倉時代の文治年間(1185年-1190年)と伝えられている。

 源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣した時、夫の身を案じた北条政子が後を追って多摩川まで来た。その時わらじの傷が痛んだため、この地で傷の治療をすることにして逗留した際に、亀甲山(かめのこやま)へ登ってみると、富士山が鮮やかに見えた。富士吉田には、自分の守り本尊である浅間神社があるので、政子はその浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた正観世音像をこの丘に建てたという。それ以来、村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び祀ったのが、この神社の起こりとされている。その後、承応元年(1652年)5月に、浅間神社表坂の土止め工事をしていた時に、九合目辺りから正観世音の立像が発掘された。多摩川で泥を洗い流すと片足が欠けていたため、新たに足を鋳造して祀り、6月1日に神事を行ったという。これにならい、現在も6月に例祭を行っている。

 境内には、富士講中興の祖である“食行身禄”の石碑がある。明治15年に地元の講社が33回目の登山を記念して建てたものである。この石碑の字を書いたのは勝海舟であるといわれている。

 尚、御祭神は“木花咲耶姫命”である。

 今回の総歩行数は、12,864歩である。

1)大田区立郷土博物館・編:大田区古墳ガイドブック-多摩川に流れる古代のロマン,1992

(2009.8.27)