Archive for 10月, 2009

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『何処までが難解なのか』

土曜日, 10月 31st, 2009

魍魎亭主人

 国立国語研究所は、医師が患者に説明している言葉の中で、『合併症』、『浸潤』など患者に意味が伝わり難い57語について、別の言葉への言い換えや補足説明等を促す報告をまとめたという[読売新聞,第47647号,2008.10.22.]。『合併症』については『病気の合併症→ある病気が原因となって起こる別の病気』とする提案がされている。これだと甚だ回りくどい言い回しに見えるが、これなどは補足説明するよりは国語教育の中で、用語の意味を国民に知らせていくべき程度の問題ではないのか。

 『浸潤』については『がんがまわりに広がっていくこと』に言い換えるべき言葉としているが、『浸潤』は『癌』だけを対象にしている言葉ではなく、国語本来の『しみこんで△ぬれる(広がる)こと。[肺浸潤=肺の一部に起こった結核がだんだん広がった状態]』[新明解国語事典]とする解説そのまま、病気がジワジワ広がることを意味しているので、解らないということであれば、国語力の不足こそ嘆くべきではないのか。

 『頓服(とんぷく)』についても『症状が出た時に薬を飲むこと』の補足説明を求めているが、頓服薬の用法指示については、現在『頓用』(痛い時にお服み下さい。○○時間以上間隔を開けて下さい。)等の具体的な説明をしており、理解できないということはないはずである。

 中には言い換えや補足説明がいるほどに難解な言葉とは思えないものが挙げられているような気がするが、どうなんであろうか。

 例えば『潰瘍』病気のため体の一部が深いところまで傷ついた状態という補足説明をすべしとしているが、『胃潰瘍』等は人口に膾炙しており、その延長線上で粗々の理解はしているのではないか。『病気のため体の一部が深いところまで傷ついた状態』等という補足説明を聞いたとしても、治療上に余り意味を持たないと思うが果たしてどうなんだろう。

 言い換えるべき例として『エビデンス』が挙げられている。『この治療法がよいといえる証拠』と言い換えるよう例示されているが、『evidence』は本来『証拠、証言』ということで、言うのであれば『evidence based medicine(エビデンスベースドメディシン)』、つまりは『根拠に基づいた医療』であり、省略しすぎた観のある『エビデンス』という言葉自体を患者説明で使うことが間違っているのではないか。説明するのであれば『根拠のある医療=証明された医療』等々の日本語で本来説明すべきだと思えるのであるがどうなんだろう。しかし、普通に行われている治療、確立した医療を行うなら、何もその都度『証拠』等といわなくていい訳で、可能な限り既に定着した方法で治療するのが一般医療ではないのか。

 最も、先日、血糖検査に行った某女が、食事抜きでといわれたにもかかわらず、汁粉を2杯も食して出かけ、血糖値が高値を示したため、医師が薬を出すことにしたところ、某女は医師の指示通り朝食は抜いたが、空腹のためおやつならいいのだろうということで、茶碗に2杯の汁粉を食べて出かけたそうである。その結果、高い血糖値を示すことになったということであるが、これは医療機関の説明の不備なのか、余りに物を知らない某女の問題、常識の欠如と考えるべきなのか。

(2009.2.21.)

『臓器移植』

土曜日, 10月 31st, 2009

魍魎亭主人

 脳死を『人の死』とすることを前提として、臓器提供の年齢制限を撤廃する改正臓器移植法が2009年7月13日、参議院本会議で可決、成立した。厚生労働省は今後、15歳未満の脳死判定基準や臓器提供の意思表示方法などの検討に着手すると報告されている。本会議での採決は賛成138、反対82、棄権・欠席20。棄権欠席を消極的な反対とすれば、138対102という結果である。

 1年後改正法が施行されることになっているが、小児の意思表示等をどう取り扱うのか、難しい判断が求められる。

 所で新聞やTVの報道を見ていると、臓器移植賛成派の人達の意見を訊いていると、自らの身内の臓器移植で苦労しているだけに、単純によかったという反応を示されているように見えるが、それは当方のひがみなのだろうか。

 人の死を待たなければ手にすることのできない臓器を、当然提供されるものとして話しているような気がして、そのような印象を持ってしまうのかどうか。自分でもはっきり分析できていないが、臓器提供が当然だという考え方は、どんな場合であれ避けるべきではないか。家族の死に直面し、悲しみの中にあるとき、臓器提供が正義だと云わんばかりの対応をされたのではたまったものではない。しかし、正義は臓器期待者側にあるという雰囲気が醸し出されれば、そういう考え方がまかり通りかねない恐ろしさがある。

 あくまでも提供する側が、決断することが先決であり、臓器提供が当然の義務であるというような風潮が起こることを恐れるのである。

 最後まで十分に治療に手を尽くし、家族としての悲しみに配慮し、十分な対応をした後に臓器提供の依頼をするのが当然であって、そこで急いで貰っては困るのである。勿論、前もって当人が十分に理解をした上で臓器提供の意志を示し、近親者とも前もって十分な話し合いがされていて、という条件がある場合は別であるが、そうでない場合、飽くまで強制に渡る説得などはしないでおいて貰いたいのである。特に幼児等の場合、脳死が死であるとするにはまだ問題があるようである。特に家族が納得できないのではないかと思われるが、脳死に対する理解は、強制されることではない。

1)読売新聞,第47911号,2009.7.14.

(2009.7.15.)

『大森海苔ふるさと館』

土曜日, 10月 31st, 2009

 『大森海苔ふるさと館』が開館したというので、機会があれば一度行ってみたいと思っていた。3月27日(金曜日)病院の受診の帰りに寄り道をすることにした。何時もは病院の右手前にあるバス停からバスに乗るのだが、左折して病院の前の道を森ヶ崎水再生センターの塀に沿って進むと、突き当たりに京浜運河に続く川沿いの道に出る。 

 川沿いの道を左折、川縁を真っ直ぐ歩くと『大森ふるさとの浜辺公園』という人工砂浜の砂浜に出て、環七通り沿いにある平和の森公園に隣接して『大森海苔ふるさと館』がある。

 会館のパンフレットによると『大田区の海辺は“海苔のふるさと”』として『海苔造りは、江戸時代の享保(1716-1736)の頃に始まったと云われている。品川から大森周辺の海辺に“ヒビ”と呼ばれる粗朶木が立てられ、枝に付いて育つ海苔を摘み取りました。

 特に浅瀬の広がる大森周辺は大きな産地として発展した。更に江戸時代の終わり頃には、海苔造りは各地へと伝播されれ、明治以降、海苔の産地は全国各地に広がったが、大森周辺で産出される海苔の質及び量は、全国一の座を保ち、“本場乾海苔”として高い評価を得ていた。

 残念なことに、沿岸の埋め立て計画に応じて、昭和三十七年(1962)12月に生産中止決定、翌三十八年春にその歴史を閉じた。しかし、江戸時代から培われてきた海苔造りの伝統は、生産は途絶えたとしても、海苔の流通業の中に生きている。大森周辺は現在も海苔問屋が数多く、現在も海苔流通網の重要な拠点の一つとなっている』とする説明が書かれている。

 1階展示室には、昭和三十年代に造船され、現存する最後の海苔船(全長 13m)が飾られており、乾海苔造りの作業部屋『海苔付け場』が見られるようになっていた。大田区の保存する海苔生産用具の数は、大森海苔漁業資材保存会(昭和39-42年)の収集資料に、郷土博物館の収集を加えて1000点以上、そのうち881点が『大森及び周辺地域の海苔生産用具』の名称で、国の有形民俗文化財に指定されていると紹介されている。

 パンフレットには「』天保七年(1836)斉藤幸雄・編、長谷川雪旦画とする絵が収載されている。

 そのまま歩いて京浜急行平和島駅へ。下り電車で蒲田まで行き蒲田で下車した。呑川沿いに夫婦橋の手前を右折すると夫婦橋公園に出る。嘗て六郷用水と呑川が平行に流れ、橋が二つ並んでいたため、夫婦橋と名付けられたとする案内板が掲げられていた。その先を少し行くと、右手に北野神社が見える。御祭神は菅原道真公・建御名方命(たけみなかたのみこと)。寛文元年(1661)に杉原重右衛門の邸宅に諏訪神社を奉齋した。呑川の洪水で、池上の麓の天神山の森から、矢口村に祀られる天神様の御神体が度々流され、北蒲田村宿南の杉原重右衛門宅前に留まることが再三にわたった。その都度天神森にお返ししていたが、七度目にいたり嘉永二年(1849)矢口村と交渉して、当地杉原家地内諏訪神社の傍らに社を建て安置したとされる。明治時代に諏訪神社と合祀し、北野神社と総称するようになったという[蒲田のお社ご参拝の栞;蒲田八幡神社]。

 更に進んで“ほうらいばし”を左に見て、右に入ると、西糀谷商店街に入り、天祖神社、西天祖神社が見られる。天祖神社の方がやや大きく見えた。天祖神社は天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社である。神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされているが、一説には約1万8,000社ともいう解説がされている。

 確かに東京都内にも天祖神社は数多く見られるが、主祭神が“天照大神”と云うことからいえば、日本人好みの神様ということになるのかもしれない。それにしても至極至近の距離に天祖神社が並んでいるというのも不思議な気がする。尤も片方には『西』が付いているが、主祭神は同じだと思われる。

 病院の帰りにあちらこちらと寄り道をしたが、総歩行数は15,624歩と云うことで、何時もよりは長い距離を歩いたということのようである。ただし、北野神社の狛犬は細かな編み目の金属の篭を被っており、写真は撮れなかった。その他にも余り写真に撮りたい風景はなく、歩行距離に見合う写真は無い。

(2009.6.28.)

『フラルタドンについて』

土曜日, 10月 24th, 2009

KW:薬名検索・フラルタドン・furaltadone・AMOZ・CAS-139-91-3・ニトロフラン類・フラン合成抗菌薬

Q:フラルタドンについて

A:フラルタドン(furaltadone)は、動物用医薬品で、合成抗菌剤である。5-(4-Morpholinylmethyl)-3-[[(5-nitro-2-furanyl)methylene]amino]-2oxazo-lidinone;5-morpholinomethyl-3-5-nitrofururylideneamino)-2-oxazo-lidinone。C13H16N4O6=324.29。CAS-139-91-3。本品はニトロフラン類に分類される。ニトロフラン類はフラン系合成抗菌薬の総称である。furaltadoneの主要代謝物は3-amino-5-morpholinomethyl-3-oxazolidone(AMOZ)である。

食品衛生法においてはいわゆるポジティブリスト制度の導入に伴い、『食品において「不検出」とされる農薬等の成分である物質』に指定され、furazolidone、nitrofurantoin、furaltadone、nitrofurazoneがその対象とされている。具体的には、これらの代謝物である3-amino-2-oxazolidone(AOZ)、1-aminohydantoin(AHD)、3-amino-5-morpholinomethyl-3-oxazolidone(AMOZ)及びsemicarbazide(SEM)を分析対象化合物とする。またニトロフラン類の食用動物への使用は国内及び諸外国においても多くで禁止されている。furaltadone(AMOZ)の検出限界は0.001ppmである。

ADI(acceptable daily intake)を設定することは適当でない(2007年5月(府食第461号)。ニトロフラン類及びその代謝物として評価される。なお、規格基準における「ニトロフラン類」の名称は改正され、個別物質furaltadoneとして規定された(2007年5月(食安発0531001号)。

その他、furaltadone(AMOZ)については、国内やJECFA(FAO/WHO合同食品添加物専門家委員会) における評価、NTP(米・国家毒性プログラム) による発がん性試験等の情報は得られていない。また、EMEA(欧州医薬品審査庁)においては、furaltadone(AMOZ)に関する情報がないため、ADI 及び MRL(最小リスクレベル)は設定せず、食用動物への使用を認めない動物用医薬品リストに収載するとしている。

1)The Merck Index 14th,2006

[011.1.FUR:2009.8.10.古泉秀夫]

『パップテストについて』

土曜日, 10月 24th, 2009

KW:語彙解釈・パップテスト・pap test・パパニコロー塗抹試験・Pap smear test・Papanicolaou・細胞診・子宮頚癌

Q:パップテストについて

A:『pap test』について、次の説明がされている。

パパニコロー検査、パパニコロー塗抹試験(Pap smear test)、子宮癌テスト。

子宮頚癌を発見するために用いられる細胞診検査。子宮頚癌細胞診。子宮頚癌は子宮頚部に癌が発生するため、子宮頚部の細胞を擦り取って細胞診検体(pap smear)を作成し顕微鏡検査を行う。

細胞診は、主として光学顕微鏡で細胞を観察し、その形態学的所見から病変の質的判断を下す病理診断法の一つである。細胞診は病理組織学的検査と同様、病気の確定診断に直結しうる点で一般の臨床検査とは、その性格を異にしている。

細胞診の判定は多くの施設でパパニコロウ(Papanicolaou)の5段階クラス分類が使用されている。

パパニコロウ分類

クラスI

正常

クラスV

悪性

クラスII

良性異型

クラスIII

良性・悪性の判定の困難な異型

クラスIV

悪性を強く疑う

婦人科領域では、クラスIIIを更にa.b.の二つに分類し、各のクラスに推定組織像を対応させる特殊な分類が採用され、ここでは各のクラスに応じて対応ないし処置が決められていると報告されている。

尚、日本では日本独自の改良が加えられ日母分類による子宮頸部細胞診検査として確立されているとする報告も見られる。子宮頸がんは検診で早期発見が可能であり、検診率を高めることが重要であるとされているが、日本では20%に満たないとする報告もされている。

1)金井正光・編:臨床検査法提要 改訂第32版;金原出版株式会社,2005

2)高久文麿・監:臨床検査データブック;医学書院,2009-2010

[615.8.PAP:2009.6.29.古泉秀夫]

『“瘧”の読み方と意味』

土曜日, 10月 24th, 2009

KW:語彙解釈・瘧・おこり・ギャク・ひょうふう・飆風・わらわやみ・童病

Q:“瘧”の読み方とどの様な症状を示している言葉なのか。

A:この漢字の読みは『おこり』である。

 症状は『間歇熱』の意の雅語的表現。あるいはマラリアなどの熱病。わらわやみ。瘧を患う病人[飆風(ひょうふう)」。

 マラリアは、奈良、平安、鎌倉時代には我が国にも蔓延しており、特に琵琶湖周辺の湿地帯で流行していたようである。「おこり」とか「わらわやみ(童病み)」とか「虐(ギャク)とか呼ばれていたとする報告が見られる。

 瘧=躰が震える発作。悪寒と発熱が時を定めて襲ってくる病気。マラリア性の熱病で、童病とも云われる。かなり古くからあった疾患で、医心方などによると、平安時代に既に我国の一部にはマラリアの流行があったのではないかと推測される記述も見られるとされている。

1)新明解国語辞典第六版;三省堂,2005

2)新潮現代国語辞典第二版;新潮社版,2000

3)鈴木 昶:江戸の医療風俗事典;東京堂出版,2000

[615.8.MAL:2009.9.6.古泉秀夫]

『臓器移植』

金曜日, 10月 2nd, 2009

魍魎亭主人

 脳死を『人の死』とすることを前提として、臓器提供の年齢制限を撤廃する改正臓器移植法が2009年7月13日、参議院本会議で可決、成立した。厚生労働省は今後、15歳未満の脳死判定基準や臓器提供の意思表示方法などの検討に着手すると報告されている。本会議での採決は賛成138、反対82、棄権・欠席20。棄権欠席を消極的な反対とすれば、138対102という結果である。

 1年後改正法が施行されることになっているが、小児の意思表示等をどう取り扱うのか、難しい判断が求められる。

 所で新聞やTVの報道を見ていると、臓器移植賛成派の人達の意見を訊いていると、自らの身内の臓器移植で苦労しているだけに、単純によかったという反応を示されているように見えるが、それは当方のひがみなのだろうか。

 人の死を待たなければ手にすることのできない臓器を、当然提供されるものとして話しているような気がして、そのような印象を持ってしまうのかどうか。自分でもはっきり分析できていないが、臓器提供が当然だという考え方は、どんな場合であれ避けるべきではないか。家族の死に直面し、悲しみの中にあるとき、臓器提供が正義だと云わんばかりの対応をされたのではたまったものではない。しかし、正義は臓器期待者側にあるという雰囲気が醸し出されれば、そういう考え方がまかり通りかねない恐ろしさがある。

 あくまでも提供する側が、決断することが先決であり、臓器提供が当然の義務であるというような風潮が起こることを恐れるのである。

 最後まで十分に治療に手を尽くし、家族としての悲しみに配慮し、十分な対応をした後に臓器提供の依頼をするのが当然であって、そこで急いで貰っては困るのである。勿論、前もって当人が十分に理解をした上で臓器提供の意志を示し、近親者とも前もって十分な話し合いがされていて、という条件がある場合は別であるが、そうでない場合、飽くまで強制に渡る説得などはしないでおいて貰いたいのである。特に幼児等の場合、脳死が死であるとするにはまだ問題があるようである。特に家族が納得できないのではないかと思われるが、脳死に対する理解は、強制されることではない。

1)読売新聞,第47911号,2009.7.14.

(2009.7.15.)

『内藤新宿の閻魔寺』

金曜日, 10月 2nd, 2009

鬼城竜生

 都指定有形文化財(彫刻)である銅造地蔵菩薩座像、いわゆる江戸六地蔵の一つが新宿の太宗寺にあるということなので、出かけることにした。しかし、いざ出かけてみると、簡単に訪ね当てることができず、新宿駅の地下街を新宿御苑方向を目指して歩き始め、新宿三丁目の駅のC1出口から地上に出たところ、直ぐ眼の前に“世界堂”の看板が見えた。

 もう目的の太宗寺は近いはずだが全く見当がつかず、腹も減っていたので蕎麦でも食べようと云うことで、周りを見回したところ、向かい側に新宿三丁目のバス停があり、りそな銀行の隣に“どうらく”という看板を掲げたうどんそばの店が見えた。体重を増やしたくないという思いから、外食は蕎麦ということに決めていたので、蕎麦でも食いながら寺の場所を訊いてみることにした。

 所でこの蕎麦屋、“どうらく”の名前通りけったいな蕎麦屋で、一瞬入るのを止めようかという気になった。店の中はカウンター席と壁際に椅子席があったが、どう見ても飲み屋なのである。第一カラオケセットのある蕎麦屋など訊いたことがない。

 しかし、出された天セイロは真っ当な蕎麦で、どちらかというと、旨い蕎麦の部類に入った。食い終わると珈琲が出たが、この珈琲も立派なものである。

『この店は飲み屋なんですか』

『夜をカラオケバーです。今度夜来て下さい』

『はあ、所で太宗寺というお寺は何処か解りませんか………』

『店の前を真っ直ぐ行って交差点を渡り、暫く行くと本屋と交番があります。そこを左に曲がって細い道を入ると直ぐですよ』とこれはカミサンの方の返事だった。

 新宿二丁目の交差点を渡り、道なりに真っ直ぐ行くとやがて“昭友社書店”という古本屋と交番があり、その左手を見ると、教えられた通り太宗寺が見えた。

 5月22日(金曜日)という、当たり前すぎる日に訪問しているので、閻魔堂は開帳されていなかったが、御朱印を頂くことはできた。お寺の方は“三日月不動”が御本尊と云うことで普通は“三日月不動”と書くところであろうが、特に願って“閻魔”で書いていただいた。その時ご苦労様と云うことで絵はがきを頂いたが“銅造地蔵菩薩坐像”の絵はがきであった。絵はがきの説明によると江戸六地蔵の由来は、太宗寺の像内にあった『刊江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親と共に地蔵菩薩に祈願したところ、無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(1706)造粒の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六カ所に地蔵菩薩をそれぞれ一体ずつ造粒したものです。

 各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造粒年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守藤原正儀によって鋳造されたことが解る。このうち深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で鋳潰されている。

 霞関山本覚院太宗寺の六地蔵は、三番目として正徳二年(1712)に造立されました。像高は六地蔵中では一番小振りで267cmです。嘗ては鍍金が施されていました。付け足りで像内に納められていた“銅造六地蔵菩薩”等八体、金道舎利塔一基、『刊本江戸六地蔵建立之略縁起』二冊、寄進者名簿等が造立後に納められたと思われるものも含んで指定されています。

 江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。

 太宗寺の“銅造地蔵菩薩座像”は門を入った右手直ぐの所にあるが、写真は撮りにくい。何せ後ろのマンションがもろに入ってくる位置にあり、どの様な位置取りで写そうとも、入り込んでくるという厄介な状況になる。せめて目隠しになる植木でも植えておいてくれたらと思うが、うっかり木などを植えれば、日照権の問題が起こるかもしれない。

 所で太宗寺は、太宗という名の僧侶が建てた草庵“太宗庵”がその前身で、慶長元年(1596)頃に遡るとされている。太宗は次第に近在の住民の信仰を集め、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永六年(1629)内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀一切を取り仕切り、墓所もこの地に置くことになった。これが縁で寛文八年(1668)六代重頼から寺領七千三百九十六坪の寄進を受け、起立したのが太宗寺であるという。

 内藤家は七代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれている。また“内藤新宿のお閻魔さん”“しょうづかのばあさん”として親しまれた閻魔大王と、奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰を集め、藪入りの日には縁日が出て賑わったという。現在も、お盆の7月15日・16日には、毎年の盆踊りと共に、閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われていると紹介されている。寺号の『太宗寺』は、創建時の庵主太宗の名を頂き、山号の『霞関山』は、当時四ッ谷大木戸一帯が、霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号『本覚院』は内藤正勝の法名『本覚院』を拝していると解説されている。宗派は浄土宗である。

 2009年7月15日に閻魔大王と奪衣婆の写真を撮りにいったが、曼荼羅等については、気付かずに見過ごしてしまった。太宗寺で貰った“内藤新宿太宗寺の文化財”の小冊子には、写真付きで解説が書かれている。その冊子によると閻魔は木造で、総高550cm。文化十一年(1814)に安置されたもので、製作もその頃と推定されている(関東大震災で大破し、躰は昭和八年に作り直したもの)。江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めた像で、弘化四年(1847)3月5日には泥酔者が閻魔像の眼を取る事件が起こり、錦絵になるなど江戸中の評判になったという。

 奪衣婆像は、木造で総高240cm。明治三年(1870)の製作と伝えられている(昭和八年に改作の可能性)。奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取り罪の軽重を計るとされ、太宗寺の像でも右手に亡者から剥ぎ取った衣が握られている。また衣を剥ぐと云うことから、新宿の妓楼の商売神として信仰されたという。

 この他、境内には内藤家墓所から出土した『切支丹灯籠』、『三日月不動』、『塩掛け地蔵』等を見ることができる。

 本日の総歩行数どういう訳か11,313歩もあり、当人が驚いたが、解らない場所を探すと云うことで、無駄歩きをしたということかもしれない。

『焔魔堂地獄の釜と共に開く』

『地獄絵の十王像や酷暑かな』

『江戸銅造六地蔵菩薩』紹介

 銅造地蔵菩薩座像の第一番は品川寺(東海道)にあり宝永五年(1708)建立され、座高2.75mとされている。品川寺には、東海道の尊像として、「天下安全、仏法繁栄、衆人快楽」の祈願のもと奉安されており、菩薩像の全身と台座には、造立のために喜捨した人々の名前が刻まれている。

 第二番は東禅寺(奥州街道)にあり、宝永七年(1710)8月建立され、像高2.71m。最寄り駅は営団地下鉄日比谷線「三ノ輪駅」で徒歩約15分。境内には、アンパンで有名な木村屋創始者夫妻が埋葬されており銅像が、地藏尊の隣にあるとされる。

 第三番は太宗寺(甲州街道)で、正徳二年(1712)の建立。境内には閻魔堂があり、江戸三大閻魔の一つである。

 第四番は眞性寺(中仙街道)で、正徳四年(1714)建立、像高2.68mである。最寄り駅はJR「巣鴨駅」で徒歩約3分程度である。真性寺はとげぬき地藏商店街の入り口にあり、他の地藏尊に比べると線香の絶えることのない寺院である。なお、関東大震災で破損したが、修復されている。

 第五番は霊巌寺(千葉街道)で、享保二年(1717)建立、像高2.73mである。都営地下鉄大江戸線の「清澄庭園」駅から極く僅かな距離である。

 第六番は永代寺で、享保五年(1720)に建立された。富岡八幡宮の別院として現在の深川公園の所にあったが、明治維新の廃仏棄釈で廃寺となり、地藏尊も壊され川口の鋳物工場に下げ渡されたという。いまでは公園内に立つ永代寺跡の標識がその面影を残すのみとされるが、深川周辺に霊巌寺の他に二体目もあったのは何故なのかは不明だという。地蔵坊正元が深川に住んでいたとの記録もあるが、それが二体あることの理由かどうかは不明とされている。

[2009.7.22.]