『何処までが難解なのか』
土曜日, 10月 31st, 2009魍魎亭主人
国立国語研究所は、医師が患者に説明している言葉の中で、『合併症』、『浸潤』など患者に意味が伝わり難い57語について、別の言葉への言い換えや補足説明等を促す報告をまとめたという[読売新聞,第47647号,2008.10.22.]。『合併症』については『病気の合併症→ある病気が原因となって起こる別の病気』とする提案がされている。これだと甚だ回りくどい言い回しに見えるが、これなどは補足説明するよりは国語教育の中で、用語の意味を国民に知らせていくべき程度の問題ではないのか。
『浸潤』については『がんがまわりに広がっていくこと』に言い換えるべき言葉としているが、『浸潤』は『癌』だけを対象にしている言葉ではなく、国語本来の『しみこんで△ぬれる(広がる)こと。[肺浸潤=肺の一部に起こった結核がだんだん広がった状態]』[新明解国語事典]とする解説そのまま、病気がジワジワ広がることを意味しているので、解らないということであれば、国語力の不足こそ嘆くべきではないのか。
『頓服(とんぷく)』についても『症状が出た時に薬を飲むこと』の補足説明を求めているが、頓服薬の用法指示については、現在『頓用』(痛い時にお服み下さい。○○時間以上間隔を開けて下さい。)等の具体的な説明をしており、理解できないということはないはずである。
中には言い換えや補足説明がいるほどに難解な言葉とは思えないものが挙げられているような気がするが、どうなんであろうか。
例えば『潰瘍』病気のため体の一部が深いところまで傷ついた状態という補足説明をすべしとしているが、『胃潰瘍』等は人口に膾炙しており、その延長線上で粗々の理解はしているのではないか。『病気のため体の一部が深いところまで傷ついた状態』等という補足説明を聞いたとしても、治療上に余り意味を持たないと思うが果たしてどうなんだろう。
言い換えるべき例として『エビデンス』が挙げられている。『この治療法がよいといえる証拠』と言い換えるよう例示されているが、『evidence』は本来『証拠、証言』ということで、言うのであれば『evidence based medicine(エビデンスベースドメディシン)』、つまりは『根拠に基づいた医療』であり、省略しすぎた観のある『エビデンス』という言葉自体を患者説明で使うことが間違っているのではないか。説明するのであれば『根拠のある医療=証明された医療』等々の日本語で本来説明すべきだと思えるのであるがどうなんだろう。しかし、普通に行われている治療、確立した医療を行うなら、何もその都度『証拠』等といわなくていい訳で、可能な限り既に定着した方法で治療するのが一般医療ではないのか。
最も、先日、血糖検査に行った某女が、食事抜きでといわれたにもかかわらず、汁粉を2杯も食して出かけ、血糖値が高値を示したため、医師が薬を出すことにしたところ、某女は医師の指示通り朝食は抜いたが、空腹のためおやつならいいのだろうということで、茶碗に2杯の汁粉を食べて出かけたそうである。その結果、高い血糖値を示すことになったということであるが、これは医療機関の説明の不備なのか、余りに物を知らない某女の問題、常識の欠如と考えるべきなのか。
(2009.2.21.)
何時もは病院の右手前にあるバス停からバスに乗るのだが、左折して病院の前の道を森ヶ崎水再生センターの塀に沿って進むと、突き当たりに京浜運河に続く川沿いの道に出る。
造りは、江戸時代の享保(1716-1736)の頃に始まったと云われている。品川から大森周辺の海辺に“ヒビ”と呼ばれる粗朶木が立てられ、枝に付いて育つ海苔を摘み取りました。
産中止決定、翌三十八年春にその歴史を閉じた。しかし、江戸時代から培われてきた海苔造りの伝統は、生産は途絶えたとしても、海苔の流通業の中に生きている。大森周辺は現在も海苔問屋が数多く、現在も海苔流通網の重要な拠点の一つとなっている』とする説明が書かれている。
が飾られており、乾海苔造りの作業部屋『海苔付け場』が見られるようになっていた。大田区の保存する海苔生産用具の数は、大森海苔漁業資材保存会(昭和39-42年)の収集資料に、郷土博物館の収集を加えて1000点以上、そのうち881点が『大森及び周辺地域の海苔生産用具』の名称で、国の有形民俗文化財に指定されていると紹介されている。
呑川沿いに夫婦橋の手前を右折すると夫婦橋公園に出る。嘗て六郷用水と呑川が平行に流れ、橋が二つ並んでいたため、夫婦橋と名付けられたとする案内板が掲げられていた。その先を少し行くと、右手に北野神社が見える。御祭神は菅原道真公・建御名方命(たけみなかたのみこと)。寛文元年(1661)に杉原重右衛門の邸宅に諏訪神社を奉齋した。呑川の洪水で、池上の麓の天神山の森から、矢口村に祀られる天神様の御神体が度々流され、北蒲田村宿南の杉原重右衛門宅前に留まることが再三にわたった。その都度天神森にお返ししていたが、七度目にいたり嘉永二年(1849)矢口村と交渉して、当地杉原家地内諏訪神社の傍らに社を建て安置したとされる。明治時代に諏訪神社と合祀し、北野神社と総称するようになったという[蒲田のお社ご参拝の栞;蒲田八幡神社]。
大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社である。神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされているが、一説には約1万8,000社ともいう解説がされている。