トップページ»

『内藤新宿の閻魔寺』

金曜日, 10月 2nd, 2009

鬼城竜生

 都指定有形文化財(彫刻)である銅造地蔵菩薩座像、いわゆる江戸六地蔵の一つが新宿の太宗寺にあるということなので、出かけることにした。しかし、いざ出かけてみると、簡単に訪ね当てることができず、新宿駅の地下街を新宿御苑方向を目指して歩き始め、新宿三丁目の駅のC1出口から地上に出たところ、直ぐ眼の前に“世界堂”の看板が見えた。

 もう目的の太宗寺は近いはずだが全く見当がつかず、腹も減っていたので蕎麦でも食べようと云うことで、周りを見回したところ、向かい側に新宿三丁目のバス停があり、りそな銀行の隣に“どうらく”という看板を掲げたうどんそばの店が見えた。体重を増やしたくないという思いから、外食は蕎麦ということに決めていたので、蕎麦でも食いながら寺の場所を訊いてみることにした。

 所でこの蕎麦屋、“どうらく”の名前通りけったいな蕎麦屋で、一瞬入るのを止めようかという気になった。店の中はカウンター席と壁際に椅子席があったが、どう見ても飲み屋なのである。第一カラオケセットのある蕎麦屋など訊いたことがない。

 しかし、出された天セイロは真っ当な蕎麦で、どちらかというと、旨い蕎麦の部類に入った。食い終わると珈琲が出たが、この珈琲も立派なものである。

『この店は飲み屋なんですか』

『夜をカラオケバーです。今度夜来て下さい』

『はあ、所で太宗寺というお寺は何処か解りませんか………』

『店の前を真っ直ぐ行って交差点を渡り、暫く行くと本屋と交番があります。そこを左に曲がって細い道を入ると直ぐですよ』とこれはカミサンの方の返事だった。

 新宿二丁目の交差点を渡り、道なりに真っ直ぐ行くとやがて“昭友社書店”という古本屋と交番があり、その左手を見ると、教えられた通り太宗寺が見えた。

 5月22日(金曜日)という、当たり前すぎる日に訪問しているので、閻魔堂は開帳されていなかったが、御朱印を頂くことはできた。お寺の方は“三日月不動”が御本尊と云うことで普通は“三日月不動”と書くところであろうが、特に願って“閻魔”で書いていただいた。その時ご苦労様と云うことで絵はがきを頂いたが“銅造地蔵菩薩坐像”の絵はがきであった。絵はがきの説明によると江戸六地蔵の由来は、太宗寺の像内にあった『刊江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親と共に地蔵菩薩に祈願したところ、無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(1706)造粒の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六カ所に地蔵菩薩をそれぞれ一体ずつ造粒したものです。

 各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造粒年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守藤原正儀によって鋳造されたことが解る。このうち深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で鋳潰されている。

 霞関山本覚院太宗寺の六地蔵は、三番目として正徳二年(1712)に造立されました。像高は六地蔵中では一番小振りで267cmです。嘗ては鍍金が施されていました。付け足りで像内に納められていた“銅造六地蔵菩薩”等八体、金道舎利塔一基、『刊本江戸六地蔵建立之略縁起』二冊、寄進者名簿等が造立後に納められたと思われるものも含んで指定されています。

 江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。

 太宗寺の“銅造地蔵菩薩座像”は門を入った右手直ぐの所にあるが、写真は撮りにくい。何せ後ろのマンションがもろに入ってくる位置にあり、どの様な位置取りで写そうとも、入り込んでくるという厄介な状況になる。せめて目隠しになる植木でも植えておいてくれたらと思うが、うっかり木などを植えれば、日照権の問題が起こるかもしれない。

 所で太宗寺は、太宗という名の僧侶が建てた草庵“太宗庵”がその前身で、慶長元年(1596)頃に遡るとされている。太宗は次第に近在の住民の信仰を集め、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永六年(1629)内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀一切を取り仕切り、墓所もこの地に置くことになった。これが縁で寛文八年(1668)六代重頼から寺領七千三百九十六坪の寄進を受け、起立したのが太宗寺であるという。

 内藤家は七代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれている。また“内藤新宿のお閻魔さん”“しょうづかのばあさん”として親しまれた閻魔大王と、奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰を集め、藪入りの日には縁日が出て賑わったという。現在も、お盆の7月15日・16日には、毎年の盆踊りと共に、閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われていると紹介されている。寺号の『太宗寺』は、創建時の庵主太宗の名を頂き、山号の『霞関山』は、当時四ッ谷大木戸一帯が、霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号『本覚院』は内藤正勝の法名『本覚院』を拝していると解説されている。宗派は浄土宗である。

 2009年7月15日に閻魔大王と奪衣婆の写真を撮りにいったが、曼荼羅等については、気付かずに見過ごしてしまった。太宗寺で貰った“内藤新宿太宗寺の文化財”の小冊子には、写真付きで解説が書かれている。その冊子によると閻魔は木造で、総高550cm。文化十一年(1814)に安置されたもので、製作もその頃と推定されている(関東大震災で大破し、躰は昭和八年に作り直したもの)。江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めた像で、弘化四年(1847)3月5日には泥酔者が閻魔像の眼を取る事件が起こり、錦絵になるなど江戸中の評判になったという。

 奪衣婆像は、木造で総高240cm。明治三年(1870)の製作と伝えられている(昭和八年に改作の可能性)。奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取り罪の軽重を計るとされ、太宗寺の像でも右手に亡者から剥ぎ取った衣が握られている。また衣を剥ぐと云うことから、新宿の妓楼の商売神として信仰されたという。

 この他、境内には内藤家墓所から出土した『切支丹灯籠』、『三日月不動』、『塩掛け地蔵』等を見ることができる。

 本日の総歩行数どういう訳か11,313歩もあり、当人が驚いたが、解らない場所を探すと云うことで、無駄歩きをしたということかもしれない。

『焔魔堂地獄の釜と共に開く』

『地獄絵の十王像や酷暑かな』

『江戸銅造六地蔵菩薩』紹介

 銅造地蔵菩薩座像の第一番は品川寺(東海道)にあり宝永五年(1708)建立され、座高2.75mとされている。品川寺には、東海道の尊像として、「天下安全、仏法繁栄、衆人快楽」の祈願のもと奉安されており、菩薩像の全身と台座には、造立のために喜捨した人々の名前が刻まれている。

 第二番は東禅寺(奥州街道)にあり、宝永七年(1710)8月建立され、像高2.71m。最寄り駅は営団地下鉄日比谷線「三ノ輪駅」で徒歩約15分。境内には、アンパンで有名な木村屋創始者夫妻が埋葬されており銅像が、地藏尊の隣にあるとされる。

 第三番は太宗寺(甲州街道)で、正徳二年(1712)の建立。境内には閻魔堂があり、江戸三大閻魔の一つである。

 第四番は眞性寺(中仙街道)で、正徳四年(1714)建立、像高2.68mである。最寄り駅はJR「巣鴨駅」で徒歩約3分程度である。真性寺はとげぬき地藏商店街の入り口にあり、他の地藏尊に比べると線香の絶えることのない寺院である。なお、関東大震災で破損したが、修復されている。

 第五番は霊巌寺(千葉街道)で、享保二年(1717)建立、像高2.73mである。都営地下鉄大江戸線の「清澄庭園」駅から極く僅かな距離である。

 第六番は永代寺で、享保五年(1720)に建立された。富岡八幡宮の別院として現在の深川公園の所にあったが、明治維新の廃仏棄釈で廃寺となり、地藏尊も壊され川口の鋳物工場に下げ渡されたという。いまでは公園内に立つ永代寺跡の標識がその面影を残すのみとされるが、深川周辺に霊巌寺の他に二体目もあったのは何故なのかは不明だという。地蔵坊正元が深川に住んでいたとの記録もあるが、それが二体あることの理由かどうかは不明とされている。

[2009.7.22.]