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『大森海苔ふるさと館』

土曜日, 10月 31st, 2009

 『大森海苔ふるさと館』が開館したというので、機会があれば一度行ってみたいと思っていた。3月27日(金曜日)病院の受診の帰りに寄り道をすることにした。何時もは病院の右手前にあるバス停からバスに乗るのだが、左折して病院の前の道を森ヶ崎水再生センターの塀に沿って進むと、突き当たりに京浜運河に続く川沿いの道に出る。 

 川沿いの道を左折、川縁を真っ直ぐ歩くと『大森ふるさとの浜辺公園』という人工砂浜の砂浜に出て、環七通り沿いにある平和の森公園に隣接して『大森海苔ふるさと館』がある。

 会館のパンフレットによると『大田区の海辺は“海苔のふるさと”』として『海苔造りは、江戸時代の享保(1716-1736)の頃に始まったと云われている。品川から大森周辺の海辺に“ヒビ”と呼ばれる粗朶木が立てられ、枝に付いて育つ海苔を摘み取りました。

 特に浅瀬の広がる大森周辺は大きな産地として発展した。更に江戸時代の終わり頃には、海苔造りは各地へと伝播されれ、明治以降、海苔の産地は全国各地に広がったが、大森周辺で産出される海苔の質及び量は、全国一の座を保ち、“本場乾海苔”として高い評価を得ていた。

 残念なことに、沿岸の埋め立て計画に応じて、昭和三十七年(1962)12月に生産中止決定、翌三十八年春にその歴史を閉じた。しかし、江戸時代から培われてきた海苔造りの伝統は、生産は途絶えたとしても、海苔の流通業の中に生きている。大森周辺は現在も海苔問屋が数多く、現在も海苔流通網の重要な拠点の一つとなっている』とする説明が書かれている。

 1階展示室には、昭和三十年代に造船され、現存する最後の海苔船(全長 13m)が飾られており、乾海苔造りの作業部屋『海苔付け場』が見られるようになっていた。大田区の保存する海苔生産用具の数は、大森海苔漁業資材保存会(昭和39-42年)の収集資料に、郷土博物館の収集を加えて1000点以上、そのうち881点が『大森及び周辺地域の海苔生産用具』の名称で、国の有形民俗文化財に指定されていると紹介されている。

 パンフレットには「』天保七年(1836)斉藤幸雄・編、長谷川雪旦画とする絵が収載されている。

 そのまま歩いて京浜急行平和島駅へ。下り電車で蒲田まで行き蒲田で下車した。呑川沿いに夫婦橋の手前を右折すると夫婦橋公園に出る。嘗て六郷用水と呑川が平行に流れ、橋が二つ並んでいたため、夫婦橋と名付けられたとする案内板が掲げられていた。その先を少し行くと、右手に北野神社が見える。御祭神は菅原道真公・建御名方命(たけみなかたのみこと)。寛文元年(1661)に杉原重右衛門の邸宅に諏訪神社を奉齋した。呑川の洪水で、池上の麓の天神山の森から、矢口村に祀られる天神様の御神体が度々流され、北蒲田村宿南の杉原重右衛門宅前に留まることが再三にわたった。その都度天神森にお返ししていたが、七度目にいたり嘉永二年(1849)矢口村と交渉して、当地杉原家地内諏訪神社の傍らに社を建て安置したとされる。明治時代に諏訪神社と合祀し、北野神社と総称するようになったという[蒲田のお社ご参拝の栞;蒲田八幡神社]。

 更に進んで“ほうらいばし”を左に見て、右に入ると、西糀谷商店街に入り、天祖神社、西天祖神社が見られる。天祖神社の方がやや大きく見えた。天祖神社は天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社である。神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされているが、一説には約1万8,000社ともいう解説がされている。

 確かに東京都内にも天祖神社は数多く見られるが、主祭神が“天照大神”と云うことからいえば、日本人好みの神様ということになるのかもしれない。それにしても至極至近の距離に天祖神社が並んでいるというのも不思議な気がする。尤も片方には『西』が付いているが、主祭神は同じだと思われる。

 病院の帰りにあちらこちらと寄り道をしたが、総歩行数は15,624歩と云うことで、何時もよりは長い距離を歩いたということのようである。ただし、北野神社の狛犬は細かな編み目の金属の篭を被っており、写真は撮れなかった。その他にも余り写真に撮りたい風景はなく、歩行距離に見合う写真は無い。

(2009.6.28.)