Archive for 8月 27th, 2008

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祐天寺そして猿楽町

水曜日, 8月 27th, 2008

 

鬼城竜生

 

胆嚢を摘出する手術で入院していたが、経過が良好ということで、術後丁度1週間で退院可となった。ベッドでの生活が長くなればなるほど、足に及ぼす影響は多大なものがあることは想像に難くない。そこで退院後の足慣らしのために少し歩くことにして、5月28日(水曜日)出祐天寺-01かけることにした。但し、足に自信が持てないため、街中の目的地を対象とすることにした。

渋谷から出ている東横線(東京急行電鉄)の駅の一つに祐天寺がある。長年の間何気なく駅名を見ていたが、東京TVの『出没 ア ド街ック天国』で祐天寺の商店街が取り上げられ、祐天寺というお寺があるという紹介がされていたので、目的地を祐天寺に設定した。私鉄とはいえ、駅名になっているところからすれば、まず相当の古刹ではないかという思いもあった。更に古くは相当広大な土地を所有しており、嘗て寺領であったところに門前町が発展し、やがて鉄道が通り駅名に寺院の名称が付けられたのではないかという想像も働かせた。

祐天寺の報告されている沿革によると、『1718年(享保3年)に増上寺36世住持の祐天が亡くなった後、その庵居跡に弟子の祐海によって廟堂として建立された。祐天を開山とし、祐海は第2世となる。」とする報告がされている。その他、祐天寺は浄土宗の寺院。山号は明顕山。本尊は阿弥陀如来坐像。また、この近くの地名でもあり、祐天寺一丁目と二丁目が存在するとする報告も見られる。

その他、将軍吉宗より「明祐天寺-02顕山祐天寺」の寺号が授与され、以来、将軍の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきた。明治27年火災で由緒ある本堂などを焼失、同31年に再建されたものを更に改築して今日の状況にあるとされている。

ところで川崎から祐天寺に行くとして、品川から渋谷経由で祐天寺では、時間が掛かるような気がしたので、川崎からJRの南部線に乗って武蔵小杉で東横線に乗り換え、祐天寺駅で降りるという行程を取ることにした。

  祐天寺の駅に降りて、駅前のロータリーを辿って左の道に入ると、TVで取り上げていた鉄道マニアのカレー屋があった。今回は町並みを鑑賞しに来た訳ではないので、カレー屋の前を通り過ぎ、右に曲がり、道なりに行くと鐘の音が響いてきた。明らかに祐天寺で突く鐘の音である。

祐天寺に到着して何枚かの写真を撮ったが、表門、それに続く仁王門は古色蒼然、寺の歴史を感じさせるものであったが、本堂は工事用のスコッチコーンが並べられ、一部に工事用シートの覆いが掛けられていた。全体的には庭は広いが特に風情があるという情景はなかったが、それでも絵を描いている人達の顔が見られた。祐天寺-03

祐天寺から駅に向かう間に、昼飯にしようと思ったが、脂肪の多い食事はまずいのではないか等の思惑もあり、更には時分時ということもあって、表通りの店は素通りしてしまった。祐天寺駅の極く近間に蕎麦屋があり、鴨蒸籠を頼んだが、平凡極まりない味の蕎麦であった。

祐天寺から渋谷に出て、思いついて猿楽町に行くことにした。桜ヶ丘の坂を上り突き当たりのジョナサンの前を左に突き当たりの道 を右に折れて、坂を下り桜ヶ丘郵便局前の横断歩道を渡り直進し、代官山○○という建物の前を右に、探していた猿楽町小学校の前に出たが、古い小学校の割には全体としてこぢんまりしていると感じたが、中に入った訳ではないので、その辺はよく解らない。

帰りは代官山駅に出て、渋谷から品川経由で帰ってきたが、久々に歩いた割には最後まで足はしっかりしていたと当人は思っていたのだか、暫く立つと太ももと手術跡の傷口が痛み始めていた。

この日の総歩行数は、12,249歩であった。

   [2008.6.1.]

浄慶寺辺り

水曜日, 8月 27th, 2008

鬼城竜生

胆嚢摘出手術を受けて22日目となる6月10日(火曜日)、経過観察のために病院に出かけた。9時に主治医の診察を受けたが、最早普通の生活に戻っていいという指示を受けた。早速、紫陽花を見に行く気になり、JR大森駅から川崎に出て、JR南部線で登戸まで、そこで小田急線に乗り換えて柿生駅で降りた。

柿生の地名は、鎌倉時代前期に当たる建保2年(1214年)に、星宿山王禅寺の山中で発見された日本最初の甘柿である禅寺丸柿(ぜんじまるがき)に由来するとされている。古くから地域の人々の生活を支えてきた禅寺丸柿の原木が現在も王禅寺境内で保存・浄慶寺-01 育成されているとされる。

江戸時代の慶安元年(1648年)頃から、王禅寺近隣に栽培が広がり、地域経済を支える現金収入の大切な産物になっていたという。また、明治時代になってからも、東京へ出荷されていた。明治22年(1889年)町村制施行で、黒川・栗木・片平・五力田・古沢・万福寺・上麻生・下麻生・王禅寺・早野の10ヵ村が統合され、村名が『柿生村』とされた。明治時代の末には、関東から名古屋まで出荷され最盛期を迎えていた。大正10年(1921年)の生産量は938tに達したとされるが、その後新種の登場等により柿の木の伐採がされ、昭和50年代(1970年)代半ばには市場から姿を消したとされている。
柿生駅南口を出ると、道が輻輳していて解り難かったが、取り敢えず『浄慶寺』のありそうな方向を目指して歩き始めた。しかし、右手に柿生中学校の校舎に登る坂道が見えてきたため、一端は通り過ぎたのだが、他に店がなかったため、少し後戻りをして喫茶店兼食事処で早昼を食うことにした。焼き肉丼とアイスコーヒーを注文して、序でに店の方に浄慶寺の在りかを尋ねた。

浄慶寺-02 柿生中学校を過ぎた道路の右側に階段があるので、それを登ると左側は人家になるが、右側は浄慶寺の裏庭になるので、浄慶寺の裏庭の山側から入る格好になると教えていただいたが、同時に『観光ガイドブック 麻生の魅力』という小冊子と地図を頂戴した。正直に言えば、前出の禅寺丸柿と柿生に関する講釈は、この小冊子からの引用である。

高台にある柿生中学校を過ぎると右側に高台に登る階段があった。柿生中学校の金網の塀に沿って登ると、『おっ越し山ふれあいの森』なる看板と共に『蛍袋』が咲いているが採らないことの注意書きが見られたが、見渡したところ花は見あたらなかった。

森の中の小道を進むと途中で二股の道に出たが、左側の道は住宅街に繋がっているといわれていたので、右側の道に進んだ。道の右側の鉄条網の向こう側が目的地のようであったが、途中鉄条網の弛んでいるところがあったので、塀を乗り越えようかと思ったが、まあみっともないからということで歩を進めていたら入り口が設けられていた。

正式名称は”麻生山寿光院浄慶寺”。天正10年(1584年)に三井佐衛門尉が、父・寿光院の霊を慰めるために開創したといわれる浄土宗の寺院である。神奈川県内でも有数の紫陽花寺であるが、寺として特段宣伝している訳ではなく、庭を見るのは無料である。物の本によると約5300平方メートルの境内に植えられている紫陽花は約3000株。昭和42年頃から植えられたもので、よく見られる西洋紫陽花の他、額紫陽花、姫紫陽花等10種類ほどと種類も多いとされているが、時期的に早すぎたのか見る限りではそれ浄慶寺-03 ほどの種類があるようには思えなかった。どちらかといえば、白の額紫陽花が目立つていたが、上手く時期が合いさえすれば、裏山を埋め尽くす紫陽花が見られるのかもしれない。

浄慶寺の境内、右手の山腹に秋葉神社があるが、神仏混淆の姿浄慶寺-04がそのまま残っているということなのだろうか。神仏混淆については、日本では、江戸時代の終わりまで 神仏混淆(神仏習合)が普通であったが、明治政府は、明治元年(1868年)に神仏分離令を出し、神社と寺を強制的に分割してしまったとされており、元からこの形で残っていたとすれば、どういう言い訳をしたのか、興味のあるところである。この神社の前にある狛犬のことと思われるが、東京小石川傳通寺(徳川家康の実母の菩提寺)より移されたという紹介がガイドブックに書かれていた。

浄慶寺のもう一つの特徴は、色々な羅漢像が安置されているということである。中には携帯電話をかけているもの、イヤホーンで音楽を聴いているもの等という、羅漢像があるが、酒を呑んでるもの、尺八を吹いているもの、行司を置いて腕相撲をやっているもの等々の羅漢像が置かれている。更には足の裏にお地蔵さんが彫られているものも置かれている。

浄慶寺の門を出て直ぐの石垣の上に”螢袋”が咲いており、写真を撮ることが出来た。
ところで本日の歩行総数は、12,490歩ということである。病み上がりにしては、そこそこ歩いたのでは無いか。体重も70kgから65kgにまで落ちており、序でにもう少し減量したいと考えている。歩くだけで果たして減らすことは出来るか?。

(2008.6.11.)