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『貧者の一灯-福島』

月曜日, 3月 4th, 2013

        鬼城竜生

残念ながら年と共に体力は衰え、口で言うほどには体力は伴わない。東日本大震災の惨状を見るに付け、手助けが出来る方法は無いかと考えて見たが、竈の火の番程度の手伝いでは、邪福島-001福島-002魔になるだけだろう。そこで少し落ち着いてきた現地の状況を見ながら、出かけていって現地で買い物をしたり旅館に泊まる。そのことで現地を支援できればいいのでは無いか。“貧者の一灯”程度の物かもしれないが、我々がこの計画を語り広げることで、他の人々にも輪を広げることが出来るのでは無いか。取り敢えず東京医労連OB会で、バス旅行を企画しようと云うことになった。

日程は2012年6月3日(日曜日)-4日(月曜日)の両日に掛けて出かけることになった。
3日は8:00に新宿を出発、11:00-14:00に“いわき”に到着し、津波の被災地の状況を確認、16:30分に東山温泉の東鳳に到着。
4日は9:00に宿舎を出発。9:10-10:40飯盛山-鶴ヶ城見学。11:40-13:00大内宿(昼食・見学)、17:00新宿着。

3日の日は途中から福島県医労連特別執行委員の馬上勇孝氏(全労災福島支部OB)に同道願って被災地の御案内を御願いすることになっていた。丸克商店の食堂で昼食後、いわきマリンタワー経由で県立小名浜水産高校の津波で全壊した体育館を塀の外から見学、続いて独立行政法人国立いわき病院を建物の外から見学、病院の直ぐ傍に住んでいて被災した全医労いわき支部の阿部書記長さんから被災当時の病院の状況を説明して戴いた。

その後、津波被害が酷かったという豊間地区を通り、塩屋崎灯台下の山六観光で、同社社長に津波の凄まじさと、現在の状況について解説して戴いた。その後一路東山を目指したが、バスの車窓から見た風景が忘れられない。家の基礎が僅かに残る庭とおぼしき辺りで、老婦が一人草を抜いている姿があった。住める当てのない土地である。普通なら放り出してしまうところであるが、何処も綺麗に草は刈り取られていた。また、若い人達が、残った基礎のコンクリートに彩色を施している姿が見られたが、頭の下がる話である。

                          被災せし庭の草取る老婦かな
                          何もかも失いし庭草毟る
                          失いしもの数えしや草毮
                          老いの手で瓦礫の庭の草毟る

ホテルに着いた総勢28名は、定番の宴会で楽しい一時を過ごし、部屋での二次会も適当に切り上げ、明日の行程に備えることにした。

福島-003福島-004次の日ホテルを出て直ぐの所に飯盛山があり、表参道からエスカレーターで白虎隊の墓の場所まで登った。イタリー碑や狛犬の写真を写している時に、突然、白虎隊の曲が流れてきて女性が踊りを始めた。何処かの団体が依頼した踊りなのかもしれない。
白虎隊は、江戸時代後期、戊辰戦争に際して、新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した戦(会津戦争)に際して、会津藩の少年たちで構成された部隊が結成され、その隊の名前である。そのうち士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて敗走し、撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し、もはや帰るところもないと自刃したのがこの地であると説明されている。

飯盛山からの降りは、さざえ堂の前を通って本参道に出る道を取った。この帰り道で驚いたのは、広重の版画でしか見たことのない“さざえ堂”が目の前にあったことである。

栄螺堂は、江戸時代後期の特異な建築様式の仏堂である。堂内は回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観がサザエに似ていることから通称で「栄螺堂」、「サザエ堂」などと呼ばれる。

飯盛山のさざえ堂は、戸ノ口堰洞門の近くにあり、寛政八年(1796年)、実相寺の僧郁堂により建立されたといわれる仏堂である。六稜三層の形がさざえに似ていることからこの名で親しまれている。堂内に入ると、上り下りするためのらせん階段があり、参拝者は一度も対向する他の人に出会うことなく、また一度も同じ道を通ることなく、一方通行で堂内を参ることができるという世界的にも珍しい建物になっている。平成八年六月には、当時の庶民文化を語る貴重な歴史的資料として国の重要文化財に指定されたとする紹介がされている。これはもっと宣伝して、御参りする人を増やしたらどうだろう。

                            著莪の花会津若松さざえ堂

福島-005福島-006続いて史跡若松城跡-鶴ヶ城天守閣の見学のため城を訪れた。本城の建物群は、明治七年に取り壊されたとされているが、今の天守閣は、昭和四十年に鉄筋コンクリートで復元されたされた物のようである。この天守閣の特徴は、他の城に見られる黒色の瓦では無く、赤色の瓦が使われているところのようである。天守閣に登る部隊と、茶室“麟閣”で御茶を飲む部隊に分かれ、御茶を飲む部隊に入った。

鶴ヶ城の見学終了後再びバスで昼飯の場所である大内宿を目指した。猪苗代湖の湖畔を通る道すがら野藤が紫の花を付けていたが、中に紫の桐の花もあったと云われたが、それには気がつかなかった。

                                               野の藤や次々よぎる磐梯路

大内宿は、会津城下と下野の国(日光今市)を結ぶ三十二里の区間の中で会津から二番目の宿駅として1640年頃に整備された宿場町である。南山通り・下野街道・日光街道・会津西街道とも呼ばれ、会津藩主の十八回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送等に利用した重要路線であった。また、以前の記録では天正十八年(1590年)伊達政宗の小田原参陣、同年の豊臣秀吉の奥羽仕置きに当宿場を通行した記録があるとされる。また山本村から大内と改められた経緯は、後白河天皇第三皇子の高倉以仁王は、平家物語では1180年源頼政の勧めで平家を倒すため令旨を発し、兵を挙げたが宇治平等院での戦いで敗れ、渡部唱等と越後国小国の頼之を頼って逃亡した。その途中、当時の山本村に逗留され「高峰の風吹き戻す山本にこころとどめし道しるべして」と詠い、この里が宮中の大内(だいり)によく似ているため大内と改めたといわれているとする解説が見られる。
る。

兎に角、ここで予約していた蕎麦を食い、冷や酒で一杯やったが、摘みに出された山菜の煮付けは旨かった。

この間の総歩行数6月3日(日曜日)4,909歩・6月4日(月曜日)7,811歩の歩行数である。

      (2012.7.16)