Archive for 10月, 2010

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「S-Adenosylmethionineの製剤」

月曜日, 10月 25th, 2010

KW:薬名検索・S-アデノシルメチオニン・S-Adenosylmethionine・活性メチオニン・FO-1561・ademetionine sulfate tosilate・硫酸トシル酸アデメチオニン・SAME・Ceritan・セリタン ・脳血管改善剤

Q:S-アデノシルメチオニンの製剤は市販されているか

A:S-アデノシルメチオニン(S-Adenosylmethionine)は、活性メチオニンとも呼ばれ、メチオニンの代謝研究中にその中間物質として見出だされた。1959年にはCantoniによって構造が明らかにされ、この中間体は肝臓のメチオニントランスアデニラーゼによって、次のようにして生成され、メチル基の転移に関して重要な生化学的意味を持っている。

ATP+L-メチオニン→ ←S-アデノシルメチオニン+燐酸ピロリンサン

生成したS-アデノシルメチオニンは、メチル基の受容体があると相応する転移酵素によってメチル化合物ができ、中間体自体はアデノシルホモシステインになる。その結果N-メチルニコチンアミド、クレアチン等、生化学的に重要な化合物が作られる。また、抗炎症、慢性肝炎の治療に用いられるとする報告も見られる。

FO-1561(富士化学・三共・伊;ビオリサーチ社):本剤は生体内に広く分布する補酵素の1つであるS-Adenosyl-L-methionine(SAMe)の硫酸トシル塩で、生体内メチル反応におけるメチル・ドナーとして発見されてから、生理学的活性が注目されている。海外では骨関節症治療剤として上市されている。一般名:ademetionine sulfate tosilate(硫酸トシル酸アデメチオニン:SAME)。商品名:Ceritan (セリタン)。

脳血管改善剤。虚血脳内エネルギー代謝改善、脳内モノアミンturn over促進、赤血球変形能助長、微小循環改善作用を有する脳血管障害治療剤。

脳卒中急性期の治療に1日300-900mgとする報告がされている。

 

1)化学大辞典[1];共立出版,1963
2)Merck Index,1989
3)NHS-DIC治験薬データベース,1993
4)国立国際医療センター薬剤部医薬品情報管理室・編:FAX.DI-News,No.578,1993.6.7.より転載

[011.1ADE.1993.2.24.・1999.5.17.・2010.2.15.訂正.古泉  秀夫]     

『抑肝散エキス顆粒について』

月曜日, 10月 25th, 2010

 

KW:薬物療法・漢方薬・抑肝散エキス・抑肝散・慢性頭痛・アルツハイマー病・不妊治療・問題行動・BPSD

Q:抑肝散エキスについて

A:ツムラ抑肝散エキス顆粒(医療用)(株式会社ツムラ)の配合成分は次の通りである。

組成:本品7.5g中、下記の割合の混合生薬の乾燥エキス3.25gを含有する。

    日局 蒼朮 4.0g
    日局 茯苓 4.0g
    日局 川

「疥癬感染症の治療剤」

月曜日, 10月 25th, 2010

KW:疥癬・Sarcoptes scabiei var. hominis ・ヒゼンダニ・治療剤・硫黄剤・安息香酸ベンジル・benzyl benzoate ・クロタミトン・crotamitone・γ-BHC・Lindan ・γ-benzene hexachloride ・フェノトリン・phenothrin

Q:疥癬の治療剤について

A:疥癬とは疥癬虫、別名ヒゼンダニ(Sarcoptes scabiei var. hominis )によって惹起される伝染性皮膚疾患である。伝染は直接的あるいは下着など間接的接触によって起こる。疥癬症の治療剤として、次の報告がされている。

1)硫黄剤:古くから疥癬に用いられ有効とされている。効力はあまり強くなく、臭いと色が着く等の欠点がある。毒性は他剤に比較すると低く、幼小児、妊婦、老人等に安心して使用できる利点がある。濃度は 2?15% 、剤形は軟膏として用いられる。

薬剤例

a )6%- 沈降硫黄軟膏

      沈降硫黄……………6g       
      ペールバルサム……3g       
      ワセリン        適量 
     
       全量            100g
     
      以上を取り軟膏剤の製法により製する。
      
毎日 3? 5日間、頚部から全身に塗布する。 1回の塗布量は20?30g とする。

b )硫黄・サリチル酸・チアントール軟膏(丸石製薬)

      硫黄………………………………100g
      サリチル酸(細末)…………… 30g
      チアントール……………………100ml
      酸化亜鉛(細末)………………100g
      単軟膏又は適当な軟膏基剤……適量 
     
        全量                      1000g
     
      以上を取り軟膏剤の製法により製する。

c )アスター軟膏[一般薬](丹平製薬)

      チアントール…………………………… 30 g
      硫黄………………………………………  5 g
      酸化亜鉛………………………………… 10 g
      L-メントール…………………………… 1.5 g
      イソプロピルメチルフェノール……… 0.3 g
      塩酸ジフェンヒドラミン……………… 1 g
      塩酸ジブカイン………………………… 0.1 g 
     
       全量                              100g

d )六一〇ハップ[一般薬-製造中止](武藤鉦製薬)

      硫黄…………………… 202.5g      →沐浴剤
      酸化カルシウム………  67.5g
      カゼイン………………  0.12g
      硫化カリウム…………  0.15g 
      常水…………………… 729.73g  にて加熱溶解し濃縮

2)安息香酸ベンジル(benzyl benzoate ):従来、疥癬にペールバルサムが有効とされてきたが、その有効成分が安息香酸ベンジルである。使用濃度は12.5?35% 。剤形はローション、エマルジョン、サスペンジョンとして広く用いられている。

その他、25% ローションとして用いられている。本剤の使用法として、温浴した後乾かし、ハケで一面に塗り乾燥させ放置する。一周間後検査し、未治癒のものには再使用する。安息香酸ベンジルは粘膜の刺激が強いため、眼の周囲及び尿道には用いてはならないとする報告もされている。

3)クロタミトン[crotamitone](オイラックス;日本チバガイギー):本剤は元来殺ダニ剤として開発された薬剤であるが、現在では止痒効果を目的として使用されている。従ってそう痒感の強い場合、本症への使用に都合がよいとされている。

10% 軟膏として市販されりている。 1回塗布量は20g 、頚部より下の全身に24時間間隔で 2回塗布し、48時間後に入浴すれば十分といわれているが、実際には更に数回の塗布が必要である。眼や口腔内に入らないように注意する。
          
本剤の使用に際して、副腎皮質ホルモン剤含有製剤を用いてはならない。治癒を遅延させるばかりでなく悪化することが多いとの報告がみられる。

4)γ-BHC(Lindan ,γ-benzene hexachloride):有機塩素系殺虫剤で、国内では原末を試薬として入手し、院内製剤する。 0.1?1%軟膏又はローションとして用いられる。1%濃度の製剤は 1回24時間塗布で十分と考えられているが、虫卵にはいかなる殺虫剤も効果がないということから 1週間後に再度 1回塗布する方法が取られている。 1回の塗布量は20?30g で十分である。他剤に比較して、殺虫効力の強い薬であるが、その毒性から考えると幼小児、妊婦には投与を避ける。眼や口腔粘膜に入らないように注意する。

a )1%- BHCローション[化審法改正により原料入手困難]

      γ-BHC……………………………  1.0g
      ステアリルアルコール…………… 3.0g
      セチルアルコール………………… 2.0g
      メンジツ油…………………………10.0g
      ラウリル硫酸ナトリウム………… 0.5g
      ポリエチレングリコ―ル 400…… 1.0g
      蒸溜水………………………………適量 
     
       全量                          100mL

b )1%- γ-BHC軟膏[化審法改正により原料入手困難]

      γ -benzene hexachloride …………1g
      プロピレングリコール……………少量
      白色ワセリン………………………適量 
     
       全量                          100g

5)フェノトリン[phenothrin](スミスリンパウダー;住友製薬)

ピレスロイド系殺虫剤の中で最も毒性が低いと報告されている。森部ら(1982)は、施設内で集団発生した疥癬の症例に、本剤を 1日 1回、罹患皮膚に散布し 1時間後入浴、石鹸で十分洗い落させる方法で隔日に 3回散布するとともに、寝具及び下着類を十分に日光消毒する方法で、全例に優れた効果を認め、第 2回の散布で殆ど掻痒は軽快し、 7日以後皮疹は殆ど治癒し、略治の状態となったとする報告をしている。

a )スミスリンワセリン

      スミスリンパウダー…………30g (4mg/g 含有)
      白色ワセリン…………………30g  
     
      全量                      60g

スミスリンワセリンの用法は、散布剤と同様の方法による。

[化審法]:「化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律(化審法)」の改正による第一種特定化学物質品目追加のお知らせ(官報 平成21年10月30日付)

1)国立病院医療センター医薬品情報管理室・編:疥癬発現時の処置について;医薬品情報,13(2):134(1986)
2)日本医薬品情報センター・編:一般薬日本医薬品集第 5版;薬業時報社 ,1986,p.578  ,p.600
3)第十一改正日本薬局方解説書;廣川書店,1986,p.D-60
4)オイラックス軟膏添付文書 ,1986
5)堀岡  正義・編:DI実例集[5];薬業時報社,1983,p.60
6)大滝  倫子:衛生害虫 -最近の話題(中)疥癬;月刊薬事,25(11):2243-2248(1983) 
7)森部  洋一・他:疥癬に対するフェノトリン粉剤の治験;臨床と研究,59(5):1747-1748(1982)
8)日本病院薬剤師会・編:第二版  病院薬局製剤;薬事日報社,1986,p.183,p.184
9) 国立国際医療センター薬剤部医薬品情報管理室・編:FAX.DI-News,No.33,1991.3.5.より転載

[035.1SAR:1991.3.4. ・1999.3.25.・2010.2.22.追加修正.古泉秀夫]

『ジェネリック医薬品緊急調査-医師会報告』

水曜日, 10月 20th, 2010

  魍魎亭主人    

些か旧聞に属するが、2009年11月8日に行った日本医師会の定例記者会見で、「ジェネリック医薬品にかかわる緊急調査」の分析結果が発表された。発表によると、品質・効果・副作用等で「問題あり」と指摘された後発品企業と銘柄があるという。

緊急調査は、日医HPを通じて、平成18年5月26日?7月31日に実施されたもので、577人の医師が回答。9月12日の記者会見で、調査結果の概要が既に報告されているが、品質・効果・副作用等に「問題あり」との指摘を受けたのは、33社・73銘柄、総件数は89件であったとされる。これらの結果を、銘柄数別・会社別に見ると、上位5社で44銘柄、全体の約60%を占めることが明らかとなったとされる。

更に、薬効分類別・先発品目別に見ると、

(1)解熱鎮痛消炎剤で2剤10件、
(2)精神神経用剤で3剤6件、
(3)不整脈用剤・血圧降下剤・血管拡張剤で11剤15件、
(4)高脂血症剤で2剤13件、
(5)消化性潰瘍剤で6剤11件、
(6)その他の泌尿生殖器官および肛門用剤で1剤5件

等の問題が報告されている。

(3)の循環器系の薬剤については、副作用と推測される事例など、多くの問題を指摘する意見が寄せられていることから、特に注目すべきである。また、(1)の解熱鎮痛消炎剤に関しては、長期投与を行うと、薬剤性潰瘍を発症する可能性もあるとして、安全性に危惧を示した。

また、先発品と同様に適切な審査が行われ、薬剤の安全性・有効性などがすべて証明されるならば、ジェネリック医薬品を使用することに問題はないとの認識を示す一方で、特許が切れた後の先発医薬品の価格が、高止まりする傾向にあることに触れ、その価格のあり方についても問題提起した。

この調査結果について、医師会は厚生労働省に提示、具体的な対応を要請するとともに、「問題あり」と指摘された薬剤については、調査で浮かび上がった問題点の原因を探りたいとしている。

厚生労働省は医療費の抑制策の一つとして後発医薬品の使用を推奨している。従って現場で仕事をしている医療関係者の思いを斟酌する余裕はない。例えば先発品と比較して後発品の方が副作用が多いような気がするという、医師の感覚は、同一成分である以上あくまでも感覚の問題であって、科学的な実証はされていないという認識だろう。しかし、実際には患者に直接処方して、服用した結果を見ることができる処方医が、患者に出る結果について危惧しているとすれば、その危惧を取り除く努力をしない限り、医師の納得は得られない。

更に「特許期限終了後の先発医薬品の価格が、高止まりする傾向」にあるのは如何なものかという意見については、誰もが疑問とする課題であり、後発医薬品に市場を荒らされる前に、自動的に後発医薬品と同様の価格に減額するという手立てを導入すべきではないか。
医療費を抑制するという国家財政上の問題であれば、各企業に協力を依頼することで、調整可能であると考えられる。後発品が発売されれば、明らかに価格は下落する。それに伴って先発品も値下げをせざるを得なくなるとすれば、特許期限が切れた時点で、自動的に流通価格の7掛けに引き下げるという方法は、医療政策上の手段として実施可能なのではないか。

我国の医療費は、自由主義経済の中にあって統制経済の枠組みが導入されている。その意味では国が価格の統制を行ったとしても、自由主義経済を破壊することにはならないのではないか。

    (2010.6.8.)    

『茉莉支天』

火曜日, 10月 19th, 2010

鬼城竜生    

青森に引っ込んでしまった友人から突然電話を貰った。東京に行くから呑まないかという誘いだ茉莉支天-01a った。待ち合わせ場所はどういうわけか御徒町と言うことだった。

大体二人に共通した場所は、新宿か新橋で、強いて台東区ということであれば、日比谷線の入谷駅の近くあたりと言うことで、御徒町では呑んだことはないはずだった。それがどういうわけで御徒町かと思ったが、後一人誘っている人間が御徒町に土地勘があるということのようである。大体三人の共通点は、労働組合の役員経験者と言うことであるが、青森に行ってしまった彼は、専従経験が長く、その意味では非専従役員として組合活動を終わり、一度も専従経験のない私とは違い、組合関係者には顔が広い。

茉莉支天-02 御徒町駅で待ち合わせることになり、上野駅側の改札を出てくれと言われていたので、何気なくホームを歩いていると眼の先に幟旗が何本も並んでるのが見えた。何だろうと、更にホームの先端に行って眺めると、菓子屋の幟旗が立てられているのに気付いたが、中に赤い旗が眼に付いた。
「あんなところに社があるのか」
ということ茉莉支天-03で、後で行ってみる気になったが、その時は神社なのか御寺なのか分からなかった。

差ほど待つこともなく面子が揃い、日本酒がいいというこちらの希望で、地元で行きつけの店が あると言うことで、中通りの飲み屋に入った。色々積もる話をしながら歓談の時を過ごしたが、そろそろ時間だと言うことで、停車場で見た風景の話をしたところ、二人も付き合うということで、社のある方に向かった。御徒町駅から上野駅に向かうアメヤ通りに面して中間ぐらいの位置に社はあり、“茉莉支天”と言うことであった。正式には“茉莉支天山徳大寺”という御寺である茉莉支天-04ことが分かった。

ところで本日は酒を呑むため、カメラも御朱印帳も用意していなかったが、御朱印帳はあるのかどうか、若い坊さんに確認したところ、奥を探して御朱印帳を取り出してきてくれたので、それに御朱印を書いて戴 くことにした。何れにしろ本日は写真が撮れないので、それは日を改めることにして、二人と別れた。青森の彼は東京に泊まると言うことだったが、御徒町の近くだと言うことなので、そのまま別れることにした。

2010年2月19日(金曜日)の総歩行数は、10,233歩である。

                          酒喰らいふらつく足や寒の月
                          茉莉支天足下に見る寒の駅 

再度茉莉支茉莉支天-05天を御参りしたのは2月25日(木曜日)である。この時は大して歩かなかったので、 9,247歩ということで、大目標の一万歩には到達しなかった。

御朱印を頂戴したとにきに戴いた略縁起によると、「当山は“妙宣山徳大寺”と称し、凡そ四百年前、慈光院日遣上人により創立され、開運大茉莉支尊天を勧進し奉る。当時この地一体を広く、忍ぶが岡と称せしが、以後全国より絶えざる善男善女の参詣により俄然活況を呈し、上野の地名を生むに至る。茉莉支天-06

「そもそも茉莉支天とは「陽光」あるいは「威光」と訳され、大自在?通の力ましまして、常に日天に先んじて進み、昼夜行住の別なく光を放ち、参詣祈 願の面々に「気力、体力、財力」を与え、「厄を除き、福を招き、運を開く」福寿吉祥開運守護を誓い給いし諸天善神中最も霊験顕著なる守護神と言われる。」

「当山は日茉莉支天-08本三大茉莉支天の一つ、下谷茉莉支天と言われ、この地において四百年以上前から聖徳太子御親作と伝えられる茉莉支天像を御本尊としてお祀りしております。」茉莉支天とは仏教を守護する天部の神で、人が茉莉支 天の名を念ずれば、一切の災厄から逃れ、功徳を得るとして、中世から近世にかけて武士の守護神として茉莉支天の信仰が広まり楠正成や、毛利元就、前田利家、徳川家康などの武将の兜の中に茉莉支天の小像を入れ戦に出陣したといわれ、忠臣蔵で知られる大石内蔵助も髷の中に茉莉支天の小像を入れて本懐成就を遂げたと伝えられています。まさに勝利を導く守護神として、江戸時代の中頃からは庶民の間にも茉莉支天の信仰が広まりました。」等の紹介がされている。

    (2010.4.14.)    

「品川東海寺」

火曜日, 10月 19th, 2010

鬼城竜生   

京浜急行の電車に乗っていて、品川が近づくと、左手に大きな寺が見える。何という寺かという ことで気になってはいたが、降りて確認するまでのことはしていなかった。しかし、そのうち東東海寺-01 海寺という寺について、紹介されているものを読み、一度は行ってみたいと思うようになっていた。何せ、かの有名な“沢庵和尚”を徳川家光が招聘して住職になって貰ったと言うことで、当時、広大な敷地を持った寺だったようである。最も今でも敷地は広いようであるが、残念ながら二つに分かれているようで、その意味ではそれぞれの部分はあまり広くない。本堂のある部分の境内の一部は塀で囲われていて、一般の人は入れないようになっており、その塀がなければあるいは広いという実感が持てるのかもしれない。それ以上に、塀の中はどうなっているのか、そちらの方が気になった。

東海寺は、北品川にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は万松山という。 寛永十六年(1639年)東海寺-02 徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建。沢庵を住職とする。寛永二十一年(1644年)土岐頼行が、出羽国上山の春雨庵を模した塔中を沢庵宗彭のために建立する。明治六年寺領が新政府に接収され、衰退したとする解説が見られる。

東海寺には原爆慰霊碑があり、 広島、長崎で行われる原爆慰霊祭の時には、東海寺の原爆慰霊碑(広島、長崎の被爆石も所在)の前で慰霊の催しが行なわれるとされて東海寺-03 いる。その他、寺の西方に位置する東海寺大山墓地に沢庵の墓があり、国の史跡に指定されている。また、同じ大山墓地に賀茂真淵の墓があり、国の史跡に「加茂真淵墓」として指定されている。所で東海寺大山墓地の所在は北品川四丁目11番8号で、東海寺の旧境内にある墓地と紹介されているが、嘗てはこれが繋がっていたとすると、広い。こちらには沢庵宗彭、賀茂真淵の他、服部南郭、井上勝の墓がみられるとする案内が出ていた。

沢庵宗彭は吉川宮本武蔵で有名だし、賀茂真淵は国学者として教科書に出ていたはず。服部南郭東海寺-08 は知らない人だが、江戸時代中期の日本の儒者、漢詩人、画家であり、荻生徂徠の高弟として知られているとされている。渋川春海(しぶかわ はるみ、しぶかわ しゅんかい)は、江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。西村勝三は佐倉藩側用人の子に生まれ、佐野藩で砲術助教を勤めたが脱藩。横浜で修業ののち、慶応三年(1867年)江戸で伊勢勝商店を開業。戊辰戦争では大総督府御用達として武器売買で巨利を得た。明治三年(1870年)伊勢勝造靴工場・製革工場を設立して軍靴を製造、『甲申事変』で経営を軌道に乗せ、近代的製革・製靴業の先駆者になった。井上勝は日本の鉄道の父と呼ばれるとされており、ある意味、超有名人の御墓が集中している御寺だといえる。

大山墓地の入口に官営品川硝子製造所跡(北品川三丁目11番)なる記念碑があるが、これは官営東海寺-09 工場の跡で、東海寺の旧境内に建設されたということであるから明治政府に接収された後に建設されたものと思われる。更に驚いたのは、東海七福神として三回ばかり御参りしたことのある品川神社が、東海寺の鎮守として創建されたものであるとする紹介がされており、江戸時代のこの御寺の大きさはどの程度だったのかと驚いた次第。

京急本線の新馬場駅を降りて第一京浜を蒲田側に少し戻ると“時宗海蔵寺”に行き合う。品川区指定史跡海蔵寺無縁塔群なるものがあり、あまり大きな御寺ではないが、東海寺-12 お祀りされている中身は、歴史的に評価すべきものになっている。

最初、“時宗”という前書きのある御寺の名前を見たとき、“時宗”なるものに全く馴染みがなかったので、先ずこの“時宗”が気になった。そこで“時宗”について調べたところ、七百年の昔、一遍上人がお開きになった念仏宗でありますとする解説に行き合った。
それによると、中国の唐の時代に、善導大師が念仏の教えを盛んにした。 平安末期になって法然東海寺-14 上人が、この善導大師の教えを深く信じられて、浄土宗を開かれた。一遍上人は、浄土宗の一流、西山派祖證空上人の孫弟子に当る。一遍上人の始めた宗派を、なぜ“時宗”と呼ぶかというと、善導大師は弟子たちを「時衆」と呼んでいた。法然上人も證空上人も一遍上人もそれに従ったという。一日を六時(四時間づつ)に分けて、仏前でお念仏と六時礼讃というお勤めをした。これを時間毎に交代する。また別時念仏といって、日を限って念仏三昧を修行した。これも時間ごとに交代する。その人々を時の衆、つまり「時衆」と呼んだという。この言葉は、他の宗派では、次第に使われなくなったが、一遍上人の流れをくむ教団では、今日まで使われており「時衆」がこの教団の呼び名になったと言う。徳川時代に“時衆”は“時宗”に改められ、宗派の名になった。

“時宗海蔵寺”には、宝永五年(1708)に築かれた塚がある。この塚は品川にあった牢で亡くなっ東海寺-16 た人々の遺骨を集めて祀ったもので、御参りすると頭痛が治るということから「頭痛塚」と呼ばれた。この塚に、天保の大飢饉(1833-40頃)の折りに亡くなった二百十五人を祀る「二百十五人塚」も合葬され、更に、品川宿の娼妓の大位牌や、鈴ヶ森刑場で処刑された人の首の一部も埋葬され、総称を「首塚」と呼ぶようになったという。
深廣山海蔵寺には、この首塚の他に、慶応元年(1865)に造立「津波溺死者供養塔」や、大正四年(1915)に造立の「京浜鉄道轢死者供養塔」、昭和七年(1932)に造立の「関東大震火災横死者供養塔」などがある。いずれも無縁の横死者の霊を供養するもので、海蔵寺が品川の投げ込み寺であったことがよく分かると説明されている。また、これらの無縁仏東海寺-19 の集まりは、「海蔵寺無縁塔群」と呼ばれ、品川区の史跡に指定されている。

海蔵寺の境内社として“寶蔵稲荷神社”が祀られている。境内の説明板によると「當稲荷社は稲荷の神と同一とする夜叉?の陀枳尼(だきに)尊天を本尊とする。明治二十三年九月町内稲荷講中より旧跡に再建された火防の稲荷として霊験あらたかで、土地の人々の安全守護神として尊宗され春秋二季に大祭が盛大に行われる。

次の御寺はテレビ朝日の深夜番組タモリ倶楽部で見た記憶がある御寺で、三重の塔があるというのと、井戸があるというのが記憶に残っていた。当たり前のことだが、三重の塔は誰もが見られるようになっていたが、井戸については簡単に誰もが見ら東海寺-13 れるようになっている訳ではないようである。経王山本光寺は、真言宗の寺院として創建されたが、永徳二年(1382)に顕本法華宗の開祖日什上人の時に、日蓮の弘法を慕って法華宗に改めたとされている。江戸時代には、南品川天妙国寺、浅草慶印寺と共に京妙満寺末触頭三寺を成していたとされる。

本光寺は、慶安の頃、将軍義光がこの地に鷹狩りの際、この寺で休息したときに、松の寺との上意があったとされるが、昔は境内に松の古木が多くあったのでこう名付けられたといわれている。更に本光寺は、南朝・弘和二年(1382)に日什上人が法華堂を開いて創建。住持は山門、中門、塔頭三ヶ院、鬼子母神東海寺-18 を擁し信徒を集め、品川郷に偉容を誇っていたという。しかし、安政の大震災や第一京浜国道の拡張、目黒川の湾曲改修などで境内が縮小されてしまったが、現在なお三重之塔や宝塔が残されている。その他、品川指定文化財の木造日蓮聖人坐像が本光寺に安置されているということである。

本光寺の寺門に付いている魚とも何とも付かない奇妙なものは、摩伽羅(まから)と言われるものなのかどうか、実際に説明された訳ではないので分からないが、火除けの意味で飾られているのかもしれない。顕本法華宗系単立の意味は、よく分からない。「釈尊を本仏とする勝劣派」である顕本法華宗(日什門流)であるということを示しているようである。

2010年1月29日(金曜日)に歩いた総歩数は、11,897歩である。ところで今回歩いて思ったこ東海寺-17 とだが、折角、由緒のある寺が集まっている訳で、眼に付くところに御寺の由緒や縁起を書いた資料は見当たらなかった。例えば“時宗”とは何かとか、顕本法華宗系単立とは何かとか、色々知りたいことが眼に付く。できればそれぞれの神社仏閣で、それぞれの縁起について、解説のための冊子を作っていただけないかと思う。神社仏閣は何も信者のためにのみ有るのではなく、無縁の衆が突然興味を持ち始めた。あるいは古い歴史に興味を持ったということでもいいのではないか。兎に角、正確な情報を提供するということは重要であり、知らせることで神仏に興味を持つ人間が増える可能性もあるのではないか。

実際、写真を撮り歩いているうちに、戦争のお陰で古い建物が燃えてしまったという来歴を見ると、勿体ないことをした。その当時のものをそのまま見たかったのにと思うことが多々ある。名人上手の作であろうと、戦争は微塵に壊してしまう。

ところで京浜急行の車窓から見た御寺の風景は、どうやら今回廻った御寺とは違ったようである。

  (2010.4.10.)  

「金王八幡宮」

水曜日, 10月 6th, 2010

鬼城竜生 

1月24日(日曜日)渋谷で果たすべき約束があり、午前中に出かけることになっていた。ただ、午後にも日程は入っていたが、後は若い人達にお任せして、午前中で役目は終わりにして戴い金王八幡-01 た。学生時代は、玉電で桜新町から渋谷という行程は馴染みの行程であったが、仕事を始めてからは殆ど渋谷には出なくなっていた。

学生時代に呑んでいた店は、殆ど姿を消してしまい、安かった飯屋も殆ど姿を消している。その意味では昔懐かしい店を訪ねる訳でもなく、懐かしい道筋を徘徊するという訳でもないが、渋谷駅の東口を出て412通りを行くと渋谷警察署を過ぎて暫く行った右手に「金王八幡宮」という神社がある。行ったことのない神社で、どの程度の規模の神社か分からなかったか、渋谷警察署の左上に“金王坂”という坂道があり、この坂道の“金王坂”の命名金王八幡-02 が「金王八幡宮」に由来しているとすると、そこそこの大きさの神社ではないかと思われた。

渋谷駅を六本木通り沿いに歩いて坂を登り切る前の曲がり角を右折すると金王八幡宮の兵の横に出る。道成に前に出ると、豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ)が最初に眼に付く。この神社の道路を挟んで向かい側に、金王八幡宮が鎮座している。

 金王八幡-03豊栄稲荷神社は、昭和36年(1961年)に渋谷駅の近くにあった田中稲荷神社(渋谷氏によって創建されたといわれている)と渋谷区道玄坂にあった豊澤稲荷神社が合祀され、建立された神社で、社殿の扁額には両神社の社号が刻まれているとされる。豊栄稲荷神社に社務所はあったが、神職の姿は見えなかった。社務所の裏辺りで、竹刀を打ち合う音と、元気な気合いの声が聞こえていたから、剣道の道場が設えられていると思われた。

ところで“稲荷”というのは何だろうと言うことになるが、稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本における神の1つとされている。稲荷大明神(いなりだいみょう金王八幡-04 じん)ともいい、お稲荷様・お稲荷さんの名でも親しまれている。稲荷神を祀る神社を、稲荷神社と呼ぶ。京都市伏見区にある伏見稲荷大社が、日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社とされている。稲荷と表記するのが基本だが、稲生や稲成とする神社も存在する。稲荷神に特有の赤い鳥居と白いキツネがシンボルとされているが、 キツネは稲荷神の使いで、稲荷神そのものではないとされる。

稲荷神は、山城国稲荷山(伊奈利山)、現在の伏見稲荷大社に鎮座する神で、伏見稲荷大社から金王八幡-05 勧請されて、全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。また神仏習合思想においては、仏教における荼枳尼天(だきにてん)が本地仏とされ、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られる等の説明がされている。

「金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)」は、第七十三代堀河天皇の寛治六年正月十六日(西暦1092年)渋谷氏の祖河崎土佐守基家の創始という。高望王の後裔秩父別当武基は源頼信の平忠常追討に大功を立て軍用の八旒を賜り、うち日月金王八幡-06 二旒を秩父妙見山に八幡宮として鎮祭す。武基の子武綱は嫡子重家と共にに義家の軍に従い奥州金沢の柵を攻略した功により、名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛の庄を与えられた。これ即ち月旗の加護なりと、義家・基家と共に親しくこの地に来たり月旗を奉じて八幡宮を勤請す。
重家の時初めて渋谷の姓を賜る。渋谷氏は八幡宮を中心に館を構築して居城とし、代々氏族の鎮守と崇めた。金王八幡宮は元渋谷八幡宮と称したが、金王丸の名声に因み、後に金王八幡宮と称せらるに至った。これが渋谷の地名の地名の起こりともいわれ、渋谷城の当時の砦の石も現存している。

金王八幡-07 渋谷氏は所謂谷盛七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井等)を領有していたので、八幡通(旧鎌倉街道)、青山通、宮益、道玄坂道(旧厚木、大山街道)を中心とする渋谷、青山の総鎮守として崇められてきた。今の御社殿は徳川二代将軍秀忠の世、慶長十七年(1612年)に建てられた。家光の幼かった頃、三代将軍は弟の忠長が継ぐであろうとの風説が流れたことがあったが、家光の乳母春日局と養育係であった青山伯耆守忠俊は、大変心配し、金王八幡宮に祈願を重ねていた。

家光の具足始めの儀が行われるに及び、神明の加護なりと深く喜び、金百両、材木多数を奉納金王八幡-10 し 、御社殿を造営されたという。その後幾度かの修理を経て、今日に至っているが、江戸初期の建築様式をそのままに残した都内でも代表的な建物の一つである。御神門は通称赤門と呼ばれ、春日局が奉納したと伝えられている。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する東福寺(天台宗)が別当寺であった。

金王八幡宮の御祭神は應神天皇(品陀和気命:ほんだわけのみこと)、八幡大神は「文武の神」「平和の神」「母子の神」「子授、安産、子金王八幡-11育ての神」として古くから信仰されているが、金王八幡宮はこの外、福徳開運、厄除、良縁の神、特に渡航交通安全の神として御神徳が高いとされている。

当初は渋谷八幡と称していたが、社名にある「金王」は、子供の名前に由来するとされている。金王丸常光は、渋谷平三重家の子で、永治元年八月十五日に生まれた。初め重家に子がなく、八幡宮に祈願を続ける中、金剛夜叉明王が妻の体内に宿るとの霊夢を見て子が生まれたので、明王の上下の二字を戴いて金王丸と名付けたという。金王丸十七歳の時、源義朝に従って保元の乱に参加して大功を立てて、麿の称号を賜る。平治の乱に敗れた義朝は、東国に下る途中尾張国野間の長田忠宗の館に立ち寄ったところ長田の謀金王八幡-13 叛によって最後を迎えた。金王丸は京に上り、常磐御前に報じた後、渋谷に戻って出家し、土佐坊昌俊と名乗って義朝の霊を弔っていたとされる。

源頼朝との交わりも深く、頼朝挙兵の折、密かに渋谷八幡宮に参籠し、平家追討を祈願したという伝承もあるようである。鎌倉に幕府を開いた頼朝は、義経謀叛として母常磐御前の形見の薬師仏を昌俊に与えて強く頼まれたため、昌俊も固辞し得ず、文治元年四月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月二十三日夜義経の館に討ち入り、初めから義経を討つ気のなかった昌俊は捕らえられ、勇将らしい最後を遂げたという。金王丸の名前は平治金王八幡-12 物語、近松戯曲などに、また土佐坊昌俊として源平盛衰記、東鑑、平家物語などに見え、その武勇の程が偲ばれている。金王八幡宮は、渋谷・青山の総鎮守として崇められている。

金王桜(渋谷区指定天然記念物)は、文治五年源頼朝が奥州からの帰途、渋谷八幡宮に参拝し、太刀を奉納、金王丸の忠誠を偲び、鎌倉、亀ヶ谷の館の憂さ忘れ桜を移し植え、その名を後世に伝うべしとして「金王桜」と命名されたという。桜の種類は長州緋桜の八重といわれ、八重と一重が混じって咲く珍しい桜だとされている。庭に次の句碑がある。

「しばらくは花のうへなる月夜かな」(はせを(芭蕉))

「名木も何代目ぞやかむこ鳥」(一茶)

以上は「参拝の栞」を参照させて戴いた。学生時代、渋谷の飲み屋にしょっちゅう来ていたが、真逆渋谷城があったとは思いもしなかったし、義朝・頼朝・義経と係わりのある人が、渋谷城の城主だったというのも不思議な気がする。まして神社として今も残っているというのは脅威である。しかし、地史というのかそれぞれの土地にまつわる歴史は面白いですね。総歩行数10,876歩。

   (2010.3.28.)    

『調剤ミスで死亡-薬剤師書類送検』

金曜日, 10月 1st, 2010

  魍魎亭主人

8月18日付の読売新聞[第48310号,2010.8.18.]に薬の調剤を誤って心臓病の男性患者(当時82歳)を死なせたとして、警視庁は18日「東京医療第一薬局」(東京都足立区)の薬局長を務める薬剤師(59)と薬剤師の女(37)を業務上過失致死の疑いで東京地検に書類送検した。発表によると、薬剤師の女は2008年8月、心臓病などを患っていた男性に、血液が固まるのを防ぐ『抗血栓剤』を処方する際、誤って約4倍の量を調剤し、男性に約1ヵ月間飲ませて、同年9月、出血性ショックで死亡させた疑い。男は薬局長の立場にありながら、女が処方した薬の量の確認を怠った疑い。2人は「誤って薬を調剤してしまい、反省している」と容疑を認めているという。

ここでいう抗血栓剤はワーファリンのことで、「慢性心房細動」による血栓防止のためワーファリン治療を受けていた男性に、処方せんに記載された量の4倍に当たる6mgを誤って26日分調剤し、翌月9日に出血性ショックによる心肺機能不全で死亡させたとしている。同課は、過剰に投与すれば患者の容体が急変して死亡する危険を予見しながら、処方せんを十分に確認しなかった過失が事故につながったと判断した。

記事の内容からだけでは、仕事のやり方の詳細は不明であるが、通常、調剤を行う場合、薬剤師が二人いるのであれば、どちらかが鑑査をすることで、調剤過誤を避ける手立てを取る筈である。もし、一人であったとしても、処方せんを読み、薬を取るときに指呼確認をし、一度処方せんの上に薬袋と薬を置き、一拍おいて再度確認して薬を薬袋に入れるという、安全装置は取るはずである。

更に患者への説明として、万一出血が見られた場合、直ちに服用を中止し、薬局に連絡するか、主治医に連絡する等の注意事項を伝えておけば、出血を長期に放置することはなかったのではないかと思うのである。

warfarin potassiumの投与量は、凝固能が治療域に入ったのを確認した後、1-5mg程度の維持量を毎日1回服用となっている。治療域に入るまでは、毎日1回5-6mg投与する方法も指示されており、1日6mg投与が無いとはいわないが、処方せんの記載量がwarfarin potassium 1.5mg/日であれば、6mgを調剤して患者に渡したというのは、言い訳のしようもない調剤過誤である。

もし今回の事例が、患者の待ち時間短縮のため、相互鑑査の仕組みや、個人鑑査の仕組みを排除した結果だとすれば、それは自殺行為だったといわざるを得ない。待ち時間の短縮は、なる程患者サービスの一つではある。しかし、薬剤師が一番力を入れなければならない患者サービスは“正確な調剤”である。待ち時間の短縮を考えるあまり、調剤の結果が悪くなるのでは本末転倒である。

薬剤師は人の命に関わる薬を扱うのが仕事である。その薬剤師が、結果を急ぐあまり、手抜きをしたというのでは話にならない。少しぐらいお待ち頂いたとしても、正確な調剤を心がけるべきであり、命に関わるような間違いを起こさないというサービスの方が、受ける患者も安心なのではないか。

人は間違いを犯す生き物である。どんなに威張ったとしても、間違いを一切起こしたことのない人間はいない。しかも薬剤師の仕事は細かな仕事が多い。細かな仕事が多ければ、それだけ過誤とは隣り合わせの環境にあるといえる。薬剤師は常に調剤過誤を起こさないための仕組みを構築する努力をしなければならない職能なのである。表芸の調剤で、過誤を犯し、患者の生命に関わる結果を及ぼしたのでは、薬剤師の存在価値は無いことになってしまう。

   (2010.8.22.)

「冬ぼたん」

金曜日, 10月 1st, 2010

鬼城竜生 

1月1日(元旦)?2月中(季候により変わることがあります)。上野・東照宮”冬ぼたん”という看板を見て、珍しく覗いてみる気になった。

冬牡丹-01 しかし、正直に言えば「牡丹」の花の良さはよく分かっていない。それならば見に行くことはなかろうと言うことになるが、牡丹園の中にもしかしたら蝋梅があるんではないかという思惑と、牡丹の花を入れて五重塔の写真が撮れないかという思いで出かけることにした訳である。

2010年1月14日(木曜日)JR上野駅不忍口から出て交番を右に見て袴腰広場を真っ直ぐ行き、やがてトーテムポールを右手に見て左に入ると突き当たりに東照宮が見えてくる。都内には芝・東照宮もあるが、芝の方は常時神職が冬牡丹-02 いる訳ではなく、何か神事があるときにのみに御出になる様である。

牡丹という言葉で、直ぐに思い浮かぶのが、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という戯れ囃子である。しかし、実際には芍薬と牡丹とどう違うのかと言われて、頭の中に両方の花が浮かぶほどに理解している訳ではない。しかし、牡丹を育てるのに芍薬の根に接ぎ木をするという話もある様で、牡丹の花と芍薬の花との間に、そんなに違いはないのではないかと思われる。その他「獅子に牡丹」の組合せ冬牡丹-03 は、最高の貴紋であるとする説もある様で、そういえば高倉健の映画にも「唐獅子牡丹」という勇ましい映画があった。背中に背負う倶利伽羅紋々として、唐獅子牡丹は最高のものと思われるが、色使いと構図の複雑さからいって、さぞかし金のかかる紋々になることと思われる。

牡丹はボタン科ボタン属の落葉低木である。学名:Paeonia suffruticosa。また、牡丹はボタン属の総称として用いられる。又はボタン属(Paeonia)の総称。 別名は「富貴草」、「富貴花」、「百花王」、「花王」、「花神」、「花中の王」、「百花の王」、「天香国色」、「深見冬牡丹-04 草」、「二十日草(廿日草)」、「忘れ草」、「鎧草」、「ぼうたん」、「ぼうたんぐさ」など多くの名前が付けられている。学名のPaeonia(パエオニア、ペオニア)は、 ギリシャ神話の”医の神”「Paeon」の名に由来するといわれている。

牡丹の花には藁で作った雪除けの藁帽子が被せてあったが、逆にいえばこの藁帽子と一体になっているところが、牡丹の花としての価値ではないかと思われた。

思った通り牡丹苑内に、蝋梅の花は見られた。しかし、背丈が短く刈り込まれたり、枯れ葉が纏わり付いていたりということで、写真になる蝋梅は見当たらなかった。しかし、蝋梅を前景として五重塔を背景とする写真は何枚か取れたが、あまり迫力のある物とはならなかった。

                            入口に酒売りのいる冬牡丹
                            冬牡丹花見の酒を急がんか
                            冬牡丹花見の酒を急ぎけり
                            冬牡丹足急がせて酒にしよ

帰りは花園稲荷社から五條天神社を経由して不忍池に出ようとしたところ、前回は姿の見えなか  った巫女さん冬牡丹-05の姿が見えたので、御朱印は戴けますかと訊ねたところ、どうぞということで書いて戴くことにした。「花園神社で書きますか、五條神社で書きますか」というお訊ねだったので、薬祖?をお祀りしているという五條天神社で戴くことにした。

花園稲荷神社は「穴稲荷」、「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていたという。そのため、江戸時代から「稲荷坂」の名前が付けられていた。享保十七年(1732)の「江戸砂子」にその名が見え、明治二十九年(1896冬牡丹-06)の「新撰東京名所図会」には、「稲荷坂」とは「忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ。」とあるの説明が見られる。

五條天神社は、薬祖神としての信仰をあつめた神社で、室町時代中期には、既に上野山に鎮座していたことが明らかな、区内でも有数の古社であるとされている。主神に大己貴命(おおなむじのみこと=大国主命)と少彦名命(すくなひこなのみこと)二柱の薬祖神を、相殿(あいどの)に菅原道真公がお祀りされている。御縁起によると、今から1890年ほど前の第十二冬牡丹-07 代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のため、上野忍が岡を通られた際、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いたことを感謝されて、この地に両神をお祀りしたのが創祀だという。

尭恵(ぎょうえ)法師の北国紀行に、「正月の末、武蔵野の境、忍が岡を優遊しはべりし鎮座の社五條天神と申しはべり、折ふし枯れたる茅原を焼きはべり契りきて誰かは春の初草に 忍ぶ岡の露の下萌え」云々とあり、500年前の文明18年にはあった古社である。相殿に祀られている菅原道真公は、寛永18年に合祀され、学問と歌の祖神として俗称下谷天満宮ともいわれていた。

『五條天神社』は、創祀したときは、天神山(現在、擂鉢山古墳があるところ)にあったが、その後黒門脇、瀬川屋敷(いまのアメ横入口辺りで五條町と呼ばれた)他、幾度かの変遷を重ね、昭和3年に創祀したときの地に一番近い現在地に遷座になったとする紹介がされている。

五條天神社が薬祖神とされるのは、大国主命は、医薬などの道を教え、国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰されている。また少彦名命は、国造りの協力神・常世の神・医薬・石・穀物霊など多様な姿を有するとされており、何れも医薬に係わっており、薬祖神とされるのも宜なるかなというところである。更に拝殿に八十八種の薬草・水草の天井絵(祭日に公開)とする紹介も、神社で戴いてきた「御縁起と諸行事」とする文書に書かれていた。

本日の総歩行数は10,477歩ということである。

(2010.3.20.)