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『茉莉支天』

火曜日, 10月 19th, 2010

鬼城竜生    

青森に引っ込んでしまった友人から突然電話を貰った。東京に行くから呑まないかという誘いだ茉莉支天-01a った。待ち合わせ場所はどういうわけか御徒町と言うことだった。

大体二人に共通した場所は、新宿か新橋で、強いて台東区ということであれば、日比谷線の入谷駅の近くあたりと言うことで、御徒町では呑んだことはないはずだった。それがどういうわけで御徒町かと思ったが、後一人誘っている人間が御徒町に土地勘があるということのようである。大体三人の共通点は、労働組合の役員経験者と言うことであるが、青森に行ってしまった彼は、専従経験が長く、その意味では非専従役員として組合活動を終わり、一度も専従経験のない私とは違い、組合関係者には顔が広い。

茉莉支天-02 御徒町駅で待ち合わせることになり、上野駅側の改札を出てくれと言われていたので、何気なくホームを歩いていると眼の先に幟旗が何本も並んでるのが見えた。何だろうと、更にホームの先端に行って眺めると、菓子屋の幟旗が立てられているのに気付いたが、中に赤い旗が眼に付いた。
「あんなところに社があるのか」
ということ茉莉支天-03で、後で行ってみる気になったが、その時は神社なのか御寺なのか分からなかった。

差ほど待つこともなく面子が揃い、日本酒がいいというこちらの希望で、地元で行きつけの店が あると言うことで、中通りの飲み屋に入った。色々積もる話をしながら歓談の時を過ごしたが、そろそろ時間だと言うことで、停車場で見た風景の話をしたところ、二人も付き合うということで、社のある方に向かった。御徒町駅から上野駅に向かうアメヤ通りに面して中間ぐらいの位置に社はあり、“茉莉支天”と言うことであった。正式には“茉莉支天山徳大寺”という御寺である茉莉支天-04ことが分かった。

ところで本日は酒を呑むため、カメラも御朱印帳も用意していなかったが、御朱印帳はあるのかどうか、若い坊さんに確認したところ、奥を探して御朱印帳を取り出してきてくれたので、それに御朱印を書いて戴 くことにした。何れにしろ本日は写真が撮れないので、それは日を改めることにして、二人と別れた。青森の彼は東京に泊まると言うことだったが、御徒町の近くだと言うことなので、そのまま別れることにした。

2010年2月19日(金曜日)の総歩行数は、10,233歩である。

                          酒喰らいふらつく足や寒の月
                          茉莉支天足下に見る寒の駅 

再度茉莉支茉莉支天-05天を御参りしたのは2月25日(木曜日)である。この時は大して歩かなかったので、 9,247歩ということで、大目標の一万歩には到達しなかった。

御朱印を頂戴したとにきに戴いた略縁起によると、「当山は“妙宣山徳大寺”と称し、凡そ四百年前、慈光院日遣上人により創立され、開運大茉莉支尊天を勧進し奉る。当時この地一体を広く、忍ぶが岡と称せしが、以後全国より絶えざる善男善女の参詣により俄然活況を呈し、上野の地名を生むに至る。茉莉支天-06

「そもそも茉莉支天とは「陽光」あるいは「威光」と訳され、大自在?通の力ましまして、常に日天に先んじて進み、昼夜行住の別なく光を放ち、参詣祈 願の面々に「気力、体力、財力」を与え、「厄を除き、福を招き、運を開く」福寿吉祥開運守護を誓い給いし諸天善神中最も霊験顕著なる守護神と言われる。」

「当山は日茉莉支天-08本三大茉莉支天の一つ、下谷茉莉支天と言われ、この地において四百年以上前から聖徳太子御親作と伝えられる茉莉支天像を御本尊としてお祀りしております。」茉莉支天とは仏教を守護する天部の神で、人が茉莉支 天の名を念ずれば、一切の災厄から逃れ、功徳を得るとして、中世から近世にかけて武士の守護神として茉莉支天の信仰が広まり楠正成や、毛利元就、前田利家、徳川家康などの武将の兜の中に茉莉支天の小像を入れ戦に出陣したといわれ、忠臣蔵で知られる大石内蔵助も髷の中に茉莉支天の小像を入れて本懐成就を遂げたと伝えられています。まさに勝利を導く守護神として、江戸時代の中頃からは庶民の間にも茉莉支天の信仰が広まりました。」等の紹介がされている。

    (2010.4.14.)    

「品川東海寺」

火曜日, 10月 19th, 2010

鬼城竜生   

京浜急行の電車に乗っていて、品川が近づくと、左手に大きな寺が見える。何という寺かという ことで気になってはいたが、降りて確認するまでのことはしていなかった。しかし、そのうち東東海寺-01 海寺という寺について、紹介されているものを読み、一度は行ってみたいと思うようになっていた。何せ、かの有名な“沢庵和尚”を徳川家光が招聘して住職になって貰ったと言うことで、当時、広大な敷地を持った寺だったようである。最も今でも敷地は広いようであるが、残念ながら二つに分かれているようで、その意味ではそれぞれの部分はあまり広くない。本堂のある部分の境内の一部は塀で囲われていて、一般の人は入れないようになっており、その塀がなければあるいは広いという実感が持てるのかもしれない。それ以上に、塀の中はどうなっているのか、そちらの方が気になった。

東海寺は、北品川にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は万松山という。 寛永十六年(1639年)東海寺-02 徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建。沢庵を住職とする。寛永二十一年(1644年)土岐頼行が、出羽国上山の春雨庵を模した塔中を沢庵宗彭のために建立する。明治六年寺領が新政府に接収され、衰退したとする解説が見られる。

東海寺には原爆慰霊碑があり、 広島、長崎で行われる原爆慰霊祭の時には、東海寺の原爆慰霊碑(広島、長崎の被爆石も所在)の前で慰霊の催しが行なわれるとされて東海寺-03 いる。その他、寺の西方に位置する東海寺大山墓地に沢庵の墓があり、国の史跡に指定されている。また、同じ大山墓地に賀茂真淵の墓があり、国の史跡に「加茂真淵墓」として指定されている。所で東海寺大山墓地の所在は北品川四丁目11番8号で、東海寺の旧境内にある墓地と紹介されているが、嘗てはこれが繋がっていたとすると、広い。こちらには沢庵宗彭、賀茂真淵の他、服部南郭、井上勝の墓がみられるとする案内が出ていた。

沢庵宗彭は吉川宮本武蔵で有名だし、賀茂真淵は国学者として教科書に出ていたはず。服部南郭東海寺-08 は知らない人だが、江戸時代中期の日本の儒者、漢詩人、画家であり、荻生徂徠の高弟として知られているとされている。渋川春海(しぶかわ はるみ、しぶかわ しゅんかい)は、江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。西村勝三は佐倉藩側用人の子に生まれ、佐野藩で砲術助教を勤めたが脱藩。横浜で修業ののち、慶応三年(1867年)江戸で伊勢勝商店を開業。戊辰戦争では大総督府御用達として武器売買で巨利を得た。明治三年(1870年)伊勢勝造靴工場・製革工場を設立して軍靴を製造、『甲申事変』で経営を軌道に乗せ、近代的製革・製靴業の先駆者になった。井上勝は日本の鉄道の父と呼ばれるとされており、ある意味、超有名人の御墓が集中している御寺だといえる。

大山墓地の入口に官営品川硝子製造所跡(北品川三丁目11番)なる記念碑があるが、これは官営東海寺-09 工場の跡で、東海寺の旧境内に建設されたということであるから明治政府に接収された後に建設されたものと思われる。更に驚いたのは、東海七福神として三回ばかり御参りしたことのある品川神社が、東海寺の鎮守として創建されたものであるとする紹介がされており、江戸時代のこの御寺の大きさはどの程度だったのかと驚いた次第。

京急本線の新馬場駅を降りて第一京浜を蒲田側に少し戻ると“時宗海蔵寺”に行き合う。品川区指定史跡海蔵寺無縁塔群なるものがあり、あまり大きな御寺ではないが、東海寺-12 お祀りされている中身は、歴史的に評価すべきものになっている。

最初、“時宗”という前書きのある御寺の名前を見たとき、“時宗”なるものに全く馴染みがなかったので、先ずこの“時宗”が気になった。そこで“時宗”について調べたところ、七百年の昔、一遍上人がお開きになった念仏宗でありますとする解説に行き合った。
それによると、中国の唐の時代に、善導大師が念仏の教えを盛んにした。 平安末期になって法然東海寺-14 上人が、この善導大師の教えを深く信じられて、浄土宗を開かれた。一遍上人は、浄土宗の一流、西山派祖證空上人の孫弟子に当る。一遍上人の始めた宗派を、なぜ“時宗”と呼ぶかというと、善導大師は弟子たちを「時衆」と呼んでいた。法然上人も證空上人も一遍上人もそれに従ったという。一日を六時(四時間づつ)に分けて、仏前でお念仏と六時礼讃というお勤めをした。これを時間毎に交代する。また別時念仏といって、日を限って念仏三昧を修行した。これも時間ごとに交代する。その人々を時の衆、つまり「時衆」と呼んだという。この言葉は、他の宗派では、次第に使われなくなったが、一遍上人の流れをくむ教団では、今日まで使われており「時衆」がこの教団の呼び名になったと言う。徳川時代に“時衆”は“時宗”に改められ、宗派の名になった。

“時宗海蔵寺”には、宝永五年(1708)に築かれた塚がある。この塚は品川にあった牢で亡くなっ東海寺-16 た人々の遺骨を集めて祀ったもので、御参りすると頭痛が治るということから「頭痛塚」と呼ばれた。この塚に、天保の大飢饉(1833-40頃)の折りに亡くなった二百十五人を祀る「二百十五人塚」も合葬され、更に、品川宿の娼妓の大位牌や、鈴ヶ森刑場で処刑された人の首の一部も埋葬され、総称を「首塚」と呼ぶようになったという。
深廣山海蔵寺には、この首塚の他に、慶応元年(1865)に造立「津波溺死者供養塔」や、大正四年(1915)に造立の「京浜鉄道轢死者供養塔」、昭和七年(1932)に造立の「関東大震火災横死者供養塔」などがある。いずれも無縁の横死者の霊を供養するもので、海蔵寺が品川の投げ込み寺であったことがよく分かると説明されている。また、これらの無縁仏東海寺-19 の集まりは、「海蔵寺無縁塔群」と呼ばれ、品川区の史跡に指定されている。

海蔵寺の境内社として“寶蔵稲荷神社”が祀られている。境内の説明板によると「當稲荷社は稲荷の神と同一とする夜叉?の陀枳尼(だきに)尊天を本尊とする。明治二十三年九月町内稲荷講中より旧跡に再建された火防の稲荷として霊験あらたかで、土地の人々の安全守護神として尊宗され春秋二季に大祭が盛大に行われる。

次の御寺はテレビ朝日の深夜番組タモリ倶楽部で見た記憶がある御寺で、三重の塔があるというのと、井戸があるというのが記憶に残っていた。当たり前のことだが、三重の塔は誰もが見られるようになっていたが、井戸については簡単に誰もが見ら東海寺-13 れるようになっている訳ではないようである。経王山本光寺は、真言宗の寺院として創建されたが、永徳二年(1382)に顕本法華宗の開祖日什上人の時に、日蓮の弘法を慕って法華宗に改めたとされている。江戸時代には、南品川天妙国寺、浅草慶印寺と共に京妙満寺末触頭三寺を成していたとされる。

本光寺は、慶安の頃、将軍義光がこの地に鷹狩りの際、この寺で休息したときに、松の寺との上意があったとされるが、昔は境内に松の古木が多くあったのでこう名付けられたといわれている。更に本光寺は、南朝・弘和二年(1382)に日什上人が法華堂を開いて創建。住持は山門、中門、塔頭三ヶ院、鬼子母神東海寺-18 を擁し信徒を集め、品川郷に偉容を誇っていたという。しかし、安政の大震災や第一京浜国道の拡張、目黒川の湾曲改修などで境内が縮小されてしまったが、現在なお三重之塔や宝塔が残されている。その他、品川指定文化財の木造日蓮聖人坐像が本光寺に安置されているということである。

本光寺の寺門に付いている魚とも何とも付かない奇妙なものは、摩伽羅(まから)と言われるものなのかどうか、実際に説明された訳ではないので分からないが、火除けの意味で飾られているのかもしれない。顕本法華宗系単立の意味は、よく分からない。「釈尊を本仏とする勝劣派」である顕本法華宗(日什門流)であるということを示しているようである。

2010年1月29日(金曜日)に歩いた総歩数は、11,897歩である。ところで今回歩いて思ったこ東海寺-17 とだが、折角、由緒のある寺が集まっている訳で、眼に付くところに御寺の由緒や縁起を書いた資料は見当たらなかった。例えば“時宗”とは何かとか、顕本法華宗系単立とは何かとか、色々知りたいことが眼に付く。できればそれぞれの神社仏閣で、それぞれの縁起について、解説のための冊子を作っていただけないかと思う。神社仏閣は何も信者のためにのみ有るのではなく、無縁の衆が突然興味を持ち始めた。あるいは古い歴史に興味を持ったということでもいいのではないか。兎に角、正確な情報を提供するということは重要であり、知らせることで神仏に興味を持つ人間が増える可能性もあるのではないか。

実際、写真を撮り歩いているうちに、戦争のお陰で古い建物が燃えてしまったという来歴を見ると、勿体ないことをした。その当時のものをそのまま見たかったのにと思うことが多々ある。名人上手の作であろうと、戦争は微塵に壊してしまう。

ところで京浜急行の車窓から見た御寺の風景は、どうやら今回廻った御寺とは違ったようである。

  (2010.4.10.)