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「金王八幡宮」

水曜日, 10月 6th, 2010

鬼城竜生 

1月24日(日曜日)渋谷で果たすべき約束があり、午前中に出かけることになっていた。ただ、午後にも日程は入っていたが、後は若い人達にお任せして、午前中で役目は終わりにして戴い金王八幡-01 た。学生時代は、玉電で桜新町から渋谷という行程は馴染みの行程であったが、仕事を始めてからは殆ど渋谷には出なくなっていた。

学生時代に呑んでいた店は、殆ど姿を消してしまい、安かった飯屋も殆ど姿を消している。その意味では昔懐かしい店を訪ねる訳でもなく、懐かしい道筋を徘徊するという訳でもないが、渋谷駅の東口を出て412通りを行くと渋谷警察署を過ぎて暫く行った右手に「金王八幡宮」という神社がある。行ったことのない神社で、どの程度の規模の神社か分からなかったか、渋谷警察署の左上に“金王坂”という坂道があり、この坂道の“金王坂”の命名金王八幡-02 が「金王八幡宮」に由来しているとすると、そこそこの大きさの神社ではないかと思われた。

渋谷駅を六本木通り沿いに歩いて坂を登り切る前の曲がり角を右折すると金王八幡宮の兵の横に出る。道成に前に出ると、豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ)が最初に眼に付く。この神社の道路を挟んで向かい側に、金王八幡宮が鎮座している。

 金王八幡-03豊栄稲荷神社は、昭和36年(1961年)に渋谷駅の近くにあった田中稲荷神社(渋谷氏によって創建されたといわれている)と渋谷区道玄坂にあった豊澤稲荷神社が合祀され、建立された神社で、社殿の扁額には両神社の社号が刻まれているとされる。豊栄稲荷神社に社務所はあったが、神職の姿は見えなかった。社務所の裏辺りで、竹刀を打ち合う音と、元気な気合いの声が聞こえていたから、剣道の道場が設えられていると思われた。

ところで“稲荷”というのは何だろうと言うことになるが、稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本における神の1つとされている。稲荷大明神(いなりだいみょう金王八幡-04 じん)ともいい、お稲荷様・お稲荷さんの名でも親しまれている。稲荷神を祀る神社を、稲荷神社と呼ぶ。京都市伏見区にある伏見稲荷大社が、日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社とされている。稲荷と表記するのが基本だが、稲生や稲成とする神社も存在する。稲荷神に特有の赤い鳥居と白いキツネがシンボルとされているが、 キツネは稲荷神の使いで、稲荷神そのものではないとされる。

稲荷神は、山城国稲荷山(伊奈利山)、現在の伏見稲荷大社に鎮座する神で、伏見稲荷大社から金王八幡-05 勧請されて、全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。また神仏習合思想においては、仏教における荼枳尼天(だきにてん)が本地仏とされ、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られる等の説明がされている。

「金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)」は、第七十三代堀河天皇の寛治六年正月十六日(西暦1092年)渋谷氏の祖河崎土佐守基家の創始という。高望王の後裔秩父別当武基は源頼信の平忠常追討に大功を立て軍用の八旒を賜り、うち日月金王八幡-06 二旒を秩父妙見山に八幡宮として鎮祭す。武基の子武綱は嫡子重家と共にに義家の軍に従い奥州金沢の柵を攻略した功により、名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛の庄を与えられた。これ即ち月旗の加護なりと、義家・基家と共に親しくこの地に来たり月旗を奉じて八幡宮を勤請す。
重家の時初めて渋谷の姓を賜る。渋谷氏は八幡宮を中心に館を構築して居城とし、代々氏族の鎮守と崇めた。金王八幡宮は元渋谷八幡宮と称したが、金王丸の名声に因み、後に金王八幡宮と称せらるに至った。これが渋谷の地名の地名の起こりともいわれ、渋谷城の当時の砦の石も現存している。

金王八幡-07 渋谷氏は所謂谷盛七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井等)を領有していたので、八幡通(旧鎌倉街道)、青山通、宮益、道玄坂道(旧厚木、大山街道)を中心とする渋谷、青山の総鎮守として崇められてきた。今の御社殿は徳川二代将軍秀忠の世、慶長十七年(1612年)に建てられた。家光の幼かった頃、三代将軍は弟の忠長が継ぐであろうとの風説が流れたことがあったが、家光の乳母春日局と養育係であった青山伯耆守忠俊は、大変心配し、金王八幡宮に祈願を重ねていた。

家光の具足始めの儀が行われるに及び、神明の加護なりと深く喜び、金百両、材木多数を奉納金王八幡-10 し 、御社殿を造営されたという。その後幾度かの修理を経て、今日に至っているが、江戸初期の建築様式をそのままに残した都内でも代表的な建物の一つである。御神門は通称赤門と呼ばれ、春日局が奉納したと伝えられている。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する東福寺(天台宗)が別当寺であった。

金王八幡宮の御祭神は應神天皇(品陀和気命:ほんだわけのみこと)、八幡大神は「文武の神」「平和の神」「母子の神」「子授、安産、子金王八幡-11育ての神」として古くから信仰されているが、金王八幡宮はこの外、福徳開運、厄除、良縁の神、特に渡航交通安全の神として御神徳が高いとされている。

当初は渋谷八幡と称していたが、社名にある「金王」は、子供の名前に由来するとされている。金王丸常光は、渋谷平三重家の子で、永治元年八月十五日に生まれた。初め重家に子がなく、八幡宮に祈願を続ける中、金剛夜叉明王が妻の体内に宿るとの霊夢を見て子が生まれたので、明王の上下の二字を戴いて金王丸と名付けたという。金王丸十七歳の時、源義朝に従って保元の乱に参加して大功を立てて、麿の称号を賜る。平治の乱に敗れた義朝は、東国に下る途中尾張国野間の長田忠宗の館に立ち寄ったところ長田の謀金王八幡-13 叛によって最後を迎えた。金王丸は京に上り、常磐御前に報じた後、渋谷に戻って出家し、土佐坊昌俊と名乗って義朝の霊を弔っていたとされる。

源頼朝との交わりも深く、頼朝挙兵の折、密かに渋谷八幡宮に参籠し、平家追討を祈願したという伝承もあるようである。鎌倉に幕府を開いた頼朝は、義経謀叛として母常磐御前の形見の薬師仏を昌俊に与えて強く頼まれたため、昌俊も固辞し得ず、文治元年四月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月二十三日夜義経の館に討ち入り、初めから義経を討つ気のなかった昌俊は捕らえられ、勇将らしい最後を遂げたという。金王丸の名前は平治金王八幡-12 物語、近松戯曲などに、また土佐坊昌俊として源平盛衰記、東鑑、平家物語などに見え、その武勇の程が偲ばれている。金王八幡宮は、渋谷・青山の総鎮守として崇められている。

金王桜(渋谷区指定天然記念物)は、文治五年源頼朝が奥州からの帰途、渋谷八幡宮に参拝し、太刀を奉納、金王丸の忠誠を偲び、鎌倉、亀ヶ谷の館の憂さ忘れ桜を移し植え、その名を後世に伝うべしとして「金王桜」と命名されたという。桜の種類は長州緋桜の八重といわれ、八重と一重が混じって咲く珍しい桜だとされている。庭に次の句碑がある。

「しばらくは花のうへなる月夜かな」(はせを(芭蕉))

「名木も何代目ぞやかむこ鳥」(一茶)

以上は「参拝の栞」を参照させて戴いた。学生時代、渋谷の飲み屋にしょっちゅう来ていたが、真逆渋谷城があったとは思いもしなかったし、義朝・頼朝・義経と係わりのある人が、渋谷城の城主だったというのも不思議な気がする。まして神社として今も残っているというのは脅威である。しかし、地史というのかそれぞれの土地にまつわる歴史は面白いですね。総歩行数10,876歩。

   (2010.3.28.)