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「元は一般販売業でしたが」

日曜日, 6月 6th, 2010

魍魎亭主人

元は一般販売業、今は薬事法の改正で薬種商共々「店舗販売業」と名前を変えたが、一般販売業という仕組みは、名前を変えた位では、根本的には変わらない様である。

先日、店に置いてないという薬を、「登録販売者」の名札を付けた方に取り寄せて戴く様に御願いした。しかし、薬が入りましたという連絡を戴いたのは、半月以上過ぎてからである。

傍から見ていると、一般販売業の品揃えの特徴は、客が必要とする医薬品ではなく、卸値が安く、早く捌ける商品が主力であり、前に販売していた商品が、売れてしまえば、全く別の商品を仕入れて、陳列することになったとしても、あまり抵抗感はない様に見える。従って全く違う商品を販売することになっても、それが当たり前、客の必要性ではなく、店の都合が優先するということのようである。

その意味では、客の注文で仕入れたのはいいが、後の商品が死蔵品になるのは困ると言うことで、大箱で仕入れるのではなく、単品の商品にばらして仕入れたいなどと考えているから、客の手元まで届くのに時間が掛かるのではないかと思われる。

薬を扱う以上、店の都合ではなく、客の注文によって医薬品を揃えるべきではないかと思いますが

今回注文したのは「高血圧治療薬等の医療用医薬品を服用していても服用可能な薬-相互作用の報告されていない止瀉薬」ということで「商品を選択」して依頼したが、在庫されていた止瀉薬は希望したものではなく、配合されている薬物の種類が多すぎた。配合されている薬の種類が多ければ多いほど、相互作用の影響を受けやすいと考えられるので、可能であれば避けたい。更に感染症が原因で下痢をしている訳ではなく、明らかに消化不良が原因と思える下痢と思われたので、それなりに効果がある薬が欲しいと思った訳である。

しかし、第二類医薬品・第三類医薬品は、“登録販売者”が居さえすれば販売出来ることになった。ということは「店舗販売業」以外のいわゆる異業種が医薬品の販売に参入することが考えられる。いわゆるコンビニやスーパー等でも医薬品の大部分の取扱が出来るということである。卸値の安い足の速い商品を扱うということになれば、彼等の方が馴れている。更には店舗の数からいっても、資本力からいっても、太刀打ちはできないのではないか。

その中で生き残るとすれば、購買者との人間関係を構築し、購買者が必要とする情報を提供し、希望する医薬品を取り揃えることのできる店に変わることが必要なのではと思うが、最も不得手な部分ということなのかもしれない。結局、吸収・合併によって、より大きなグループになる道を進むしか方法がないのかもしれない。

(2010.3.23.)

『彼岸花』

日曜日, 6月 6th, 2010

鬼城竜生

どういう訳か『彼岸花』に拘りがあり、今年も時期が来たのではないかと考え9月17日(2009年)(木曜日)に“浜離宮恩賜庭園”に出かけてみた。

“浜離宮恩賜庭園”は、潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園である。潮入の池とは、海水を導き、潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式だとされる。旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池だったという。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、“浜離宮恩賜庭園”だけであるとされる。

浜離宮は、この潮入りの池や鴨場を中心にした南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別されると解説されている。

この地は、寛永年間(1624-1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応三年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。

以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物が焼失したり樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ昭和21年4月有料公開されるに至りました。なお、国の文化財保護法に基づき、昭和23年12月には国の名勝及び史跡に、同27年11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。

お伝い橋:潮入の池の岸から小の字島と中島を結ぶ延長118mもある総檜造りの橋で、平成9年(1997年)5月架け替えたものという。その他、横堀を区切る様に架かる“海手お伝い橋”がある。此の橋は樋の口山、横堀水門、新樋の口山に繋がる橋である。

将軍お上がり場:将軍が船に乗降するところです。昭和24年(1949年)のキティ台風で階段の一部が崩れて海中に沈んだという。

中島の茶屋:宝永四年(1707年)に造られて以来、将軍をはじめ御台様、公家たちがここで庭園の眺望を堪能した休憩所。現在の建物は昭和58年(1983年)に復元したものとされる。ここでは来るたびに抹茶と和菓子のセットを頂くことにしている。別に茶道の道に明るいわけではないからただ飲んでいるだけであるが、疲れたときに甘いお菓子とそれなりに苦いお茶を飲むことは、それなりの満足を与えてくれる。

三百年の松:大手門から入って直ぐ左側に植えられている松。今から約300年前に六代将軍家宣が、庭園を大改修したとき、その偉業をたたえて植えられた松。太い枝が低く張り出し、今なお堂々たる姿を誇っている。

鴨 場:庚申堂鴨場と新銭座鴨場の二つがあります。築造は、庚申堂が安永七年(1778年)、新銭座が寛政三年(1791年)という古いもの。鴨場の池には幾筋かの引堀を設け、小のぞきから鴨の様子をうかがいながら、稗・粟などのエサとおとりのアヒルで引堀におびきよせ、機を見て土手の陰からアミですくいとるという猟を行っていましたと言うが、現在残っている施設を見る限り、一日にどの程度取れたのか、よほど手慣れた人間でも居なければ、上手く捕れなかったのではないかと思うが、どうなんだろう。それとも江戸時代の野生の鳥は、のんびりしていたと言うことなのか。

鴨 塚:鴨猟で犠牲になった鴨の霊を慰めるために、昭和10年(1935年)11月5日に建てられたものというが、何でそんな時期に鴨塚を造ったのか。造るならもっと早くに造っても良さそうな気がするが、それともこの時代まで鴨を捕っていたと言うことなのか。

芳梅亭の近くに“可美真手命(うましまでみこと)”なる気になる銅像があった。これは何であろうと検索をかけたところ、次の説明がされていた。

可美真手命(古事記に宇摩志麻遅命、先代旧事本紀に宇摩志麻治命)は、櫛玉饒速日命(くしだまにぎはやひのみこと)の子で、物部氏の祖です。この銅像は、東京都中央区の浜離宮恩賜庭園に立ちます。日清戦争のころ、明治天皇大婚二十五年祝典のために、陸軍省が懸賞募集して、ここに献納したものです。先代旧事本紀の説話を元にしたらしく、腕には神異の剣「フツノミタマ」が抱えられています。布都御魂は、物部氏の氏神である石上神宮の祭神で、出雲国譲神話で活躍する武甕槌神(たけみかづち)の帯剣といいます。神武東征のとき、熊野の高倉下命のもとに剣は天降り、磐余彦尊(いわれひこのみこと)に献上されました。明治の当時は軍神と見られるようになっていたようです。そのため、太平洋戦争の金属回収が行われていたときにも、供出を免れ、今日も現在の場所で見ることができます。制作者は佐野昭、鋳造担当者は鈴木長吉です。

第二次世界大戦中に供出を免れたはいいが、軍神などと言う評価がされていた銅像

だとすれば、戦後よくもまあGHQの逆鱗に触れ無かったものと感心する。にも関わらずそのまま残されているというのは、何らかの目眩ましをしたのかどうか。何れにしろ曰わく因縁のある古い銅像が残されていたと言うことは、喜ばしい限りといえる。

目的の彼岸花はあるにはあったが、些か速過ぎた様で、見事と言うにはほど遠い数しか咲いていなかった。ただキバナコスモスと秋桜の花は無闇に咲いていた。受付で貰った案内では、キバナコスモスは8月下旬から9月、彼岸花は9月下旬、秋桜は10月中旬ということになっているが、秋桜も盛りに咲いていた。何れにしろ人が計画した通りに、自然が付き合ってくれるとは限らない。丁度見頃になるまで、毎日通う根性がいるんだろうが、そこまでの暇はない。

本日の総歩行数12,037歩。

(2010.1.16.)

『閻魔寺から六地蔵』

日曜日, 6月 6th, 2010

鬼城竜生

江戸三大閻魔の一つ、薬王山延寿院善養寺の場所を確認しようと地図を見ているうちに、妙なことに気が付いた。都営三田線西巣鴨駅で降りて、A2出口から出て直ぐの所に正方院・良感寺・清巌寺・善養寺・妙行寺・盛雲寺と幾つもの御寺が固まっているうちの一つ、善養寺が江戸三大閻魔の一つに数えられる御寺なのである。更にその近隣にある妙行寺はお岩さんのお墓がある御寺として知られており、更に白山通りを突っ切って栄和通りを都営荒川線の庚申塚目指して歩き、猿田彦大神のある交差点を左に行くと“とげ抜き地蔵”の安置されている高岩寺、それを過ぎて巣鴨駅を目指す右手に眞性寺があり、そこが六地蔵の安置されている御寺さんと言うことである。つまりこの狭い地域に、古い歴史を持つ御寺が集中していると言うことである。

最初に善養寺を御参りし、閻魔様の写真を撮ろうとしたが、物日ではないため、本堂の引き戸は施錠されていて中に入ることは出来なかった。仕方がないので引き戸の賽銭入の小窓から写真を撮ったが、室内が暗かったので思う写真は撮れなかった。仕方がないので庫裡をお訊ねして“御朱印”を御願いしたところ、うちは判子になっていますけど、それでもいいですかということだったので、それで結構ですと言うことで布施を御納めして頂戴した。

善養寺は天台宗の御寺で、薬王山延寿院と号す。本尊は薬師如来を安置する。善養寺は天長年中(824-833)に慈覚大師が草創し、本尊も同大師の作といわれている。額に圓萬の二字を刻す、黄檗木庵(おうばくもくあん)老人の筆なり。境内に閻魔堂あり、閻王の像は運慶の作なり。正月、7月16日に参詣群集する。

なお、善養寺の閻魔像は野州(現・栃木県)足利学校にあった聖像であるが、故あって善養寺に移されたとする話になっているようである。

境内1,000坪を超す大きさがあり、寛永寺の末寺である。嘗ては台東区坂本一丁目にあったが、寺地が鉄道用地となったため大正3年西巣鴨に転じてきたとされている。

次ぎにお岩様菩提寺とされる妙行寺に寄った。妙行寺でも御朱印を御願いしたが、暑かったでしょうと言われて、お茶を飲みながらお待ちくださいと冷えた麦茶を出して頂いた。正直な所、夏の盛りに歩いていたため、喉が渇いていたので、ほっとして有り難く頂戴した。その時頂いた冊子によると次の通り説明されていた。

新潟県三条市の本城寺を総本山とする法華宗陣門流の寺。当山妙行寺は、今よりおよそ400年前、後水尾天皇、徳川秀忠公征夷大将軍の頃、寛永元年四月、開基日善上人によって建立されました。御本尊は法華経に説かれる久遠実成の本仏である。始めは四谷鮫が橋(現在のJR信濃町駅付近)にあり、厚い信仰のもとに隆盛を極めていました。その後、明治四十二年、十八世日安上人の時に、政府の命に依り、現在地、西巣鴨に移転しました。

妙行寺とお岩様の関係については、同じ冊子に次の紹介がされている。

新宿区四谷鮫が橋に当山があったあたりは、江戸幕府の御家人の組屋敷があったところで、檀家の田宮伊右衛門の家もそこにありました。伊右衛門は三十五人扶持の田宮家に婿入りし、お岩と夫婦の契りを結びました。けれども、程なく隣家の組頭の職にある伊藤氏の娘とねんごろになり、妻お岩をことあるたびに虐待しました。お岩様の命日は寛永十三年二月二十二日。三十六歳でした。伊右衛門は、お岩様の亡くなった日から自業に悩まされ、二年後の寛永十五年七月二十二日、三十七歳で亡くなっています。

お岩様の法名は初め、得正妙念という簡単なものでした。けれどもその後田宮家では、いろいろと「わざわい」が絶えないので、享保四年二月二十二日(没後八十四年目)に、時の妙行寺住職四世日遵上人が、得證院妙念日正大姉と贈位して、大衆を随(したが)えて懇ろに読経回向を行いました。それから田宮家の因縁は一切取り除かれ、現在に至っています。現田宮家は十一代目。新宿区四谷左門町(田宮神社)にあり、当山において年一回は必ず追善供養を続けておられます。

妙行寺にはその他、浅野内匠頭の祖母、高光院殿と弟大学長広公婦人蓮光院殿のお墓がある。浅野家断絶の後、無縁となってその後の供養がされないと困ると言うことで、瑤泉院が金三十両を永代供養料として納めたという寄付状が現存するとされる。その他、日蓮像、法界塔(魚河岸で犠牲になった生類の供養塔)、浄行菩薩像(お釈迦様四大弟子のお一人)、うなぎ供養塔(うなぎ商組合の菩提心によって建てられた、犠牲食用うなぎの供養塔。塔上の観音像は高村光雲作)がみられる。常磐津名人初代林中師の墓もあるということだが、そこまでは確認していない。

妙行寺を出て新庚申塚駅まで歩き、白山道を通り抜けて庚申塚を目指して歩を進めた。妙行寺を出て直ぐの通りに『お岩通り』とする表示が眼に付いた。白山通りと交差する都電荒川線と並列する道が『お岩通り』のようであるが、商店街とするには些か首を捻りたくなる景観であった。

やがて巣鴨庚申塚(猿田彦大神)の小さな社に行き着いた。真っ直ぐ行けば『折戸通り』、左に行くと『巣鴨地蔵通り商店街』である。

巣鴨庚申塚は、江戸時代中山道の立場として栄え、旅人の休憩所として簡単な茶店もあり、人足や馬の世話もしていたとされる。社の入口に飾られている江戸名所図会の金属板にそれらの様子がにぎやかに描かれている。この場所は中山道板橋の宿場にも近く、右に向かえば花の名所「飛鳥山」、紅葉の王子にでる王子道の道しるべを兼ねた庚申塔が建っていたという。合祀されている猿田彦大神とは、日本神話に登場する神様で、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり道祖神と同一視されるようになったという。

庚申塚あるいは庚申堂について、次の解説が見られる。

庚申信仰の起源は、中国から伝わった道教の三尸説(さんしせつ)に求めることができる。それによれば、人の身体にいる三尸という虫が、60日に一度訪れる庚申の日の夜に人の罪状を天帝(てんてい)に告げに行くため、人々はこの晩は寝ずに過ごし、寿命が縮められるのを防ぐというものである。室町時代の中頃から庚申待(まち)が行われるようになり、さらに僧侶や修験者の指導によって講集団が組織され、江戸時代になると各地に庚申講がつくられ、その供養のため庚申塔が造立されるようになった。

江戸時代の文化年間(1804-1817年)に出された地誌「遊歴雑記(ゆうれきざっき)」によると、祠内に納められている庚申塔は明暦三年(1657年)一月の江戸大火後に造られ、その際、文亀二年(1502年)造立の高さ八尺の碑は、その下に埋められたとされている。その庚申塚は、旧中山道(現地蔵通り)沿いに展開した巣鴨町の北東端、すなわち旧中山道と折戸通りの交差地に位置し、天保年間(1830-1843年)に刊行された「江戸名所図会」では、中山道板橋宿に入る前の立場(休憩所)として描かれている。現在も都電の庚申塚停留所を下車して参拝する人や、とげぬき地蔵(高岩寺)の縁日帰りに立ち寄る人が跡を絶たない。

巣鴨地蔵通りを行くと右側に「とげぬき地蔵尊」の名で親しまれる御寺がある。正式には曹洞宗萬頂山高岩寺といい、慶長元年(1596年)に江戸湯島に開かれ約60年後下谷屏風坂に移り、更に明治24年(1891年)巣鴨に移転してきたとされる。

御本尊は「とげぬき地蔵」として霊験あらたかな延命地蔵菩薩である。こちらの地蔵菩薩様、秘仏とされているため、拝見させていただくことはできないが、そのお姿を元に作られた御影(おみかげ)に祈願しても効果があるとされており、高岩寺の本堂に安置されているという。

高岩寺を過ぎて更に暫く行くと江戸六地蔵尊第三番の安置されている眞性寺に行き着く。今回、眞性寺を御参りすると、現存する五つの唐銅製の地蔵を全て御参りしたことに成るはずであったが、残念ながら現在補修のため京都に送られているとのこと、代理に安置されている御地蔵さんを拝観した。

江戸六地蔵尊安置の御寺の一つとして知られるこの寺は、真言宗豊山派醫王山東光院眞性寺という。設立年代は不詳とされているが、境内には元和元年(1615年)に建立された松尾芭蕉の句碑が存在する。大きな傘をかぶり、杖を持つ御地蔵様は、江戸の六街道の出入口に置かれ、旅の安全を見守っていた(巣鴨は中山道の出入り口でした)とされる。関八州江戸古地図、江戸絵図ほか多くの文献から、眞性寺界隈は交通の要として賑わっていたことが伝えられている。

醫王山東光院眞性寺は、真言宗豊山派に属しており、奈良県の桜井市初瀬の総本山長谷寺の末寺であるとされる。開基は不明であるが、聖武天皇(在位:724年2月4日 - 749年7月2日)勅願。行基菩薩が開いたものと伝えられている。

御朱印を御願いしたところ、快く応じていただいたが、江戸六地蔵の縁起と共に、『納經印』についてとする文書を頂戴した。

『納經印』について

昨今、各ご寺院に参拝されて『納經印』を受ける方が大変多くなっております。これを御朱印とも言いますが、これは本来『お經』を自分で書寫して『お納め』することに始まっているものなのです。ですから昔は納經帳の右肩の所に『奉納大乗經典』と書かれておりました。現在は『奉拝』という文字になっております。

いつの頃か、この風習が簡略化されて、お經を収めなくとも参詣の証として『御判』を頂くことになって今日に及んでおります。そして各靈場を巡拝する『巡靈』信仰と結びついて盛んになりました。それは観音三十三札所を巡礼し或いは四国八十八ケ所を遍路し、その全部の靈場から『御判』を頂くと、その供徳によって地獄には堕ちないばかりか、所願も成就するという古来の信仰に基づいているものです。

このような視点から申しますと、お經も書寫せず、ただ朱印だけを集めて歩くと言うことでは、本来の尊い意議を無視してしまうことになるのであり、全く残念なことであります。ですから少なくとも『般若心經』一巻ぐらいは書寫なさるか御寶前で読誦なさるかした後、それから『納經印』をお受けになる様に願う次第であります。

醫王山 眞性寺

御願いの筋は理解するが、経文を書寫する習慣はなく、まして経文を唱える力量もない。仕方がないから書寫に代わるものとして一定額の喜捨をお納めするという方法を取っているのである。神社仏閣を廻り、色々な縁起を拝読する中で、宗教に対する本質的な興味を持ち始めたというのも事実である。多くの諸氏が動機は何であれ、御朱印を蒐集しているとすれば、その過程の中で宗教に対する興味を持つことはあり得ると思うのである。謂わば入門の行為としてそれがあるという理解で、御協力を頂ければ、喜ばしいという一語に尽きる。2009年8月27日のこの時の総歩行数は7,919歩。歩いたと思う割には歩いていなかったことになるが、暑い最中、熱射病にもならずに歩いたと言うことで、それなりの苦行を果たしたと言うことである。

(2010.1.11.)