Archive for 5月, 2010

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「ケマンソウの毒性」

日曜日, 5月 23rd, 2010

対象物

華鬘草(ケマンソウ)

調査者

古泉秀夫

分類

63.099. PRO

記入日

2009. 11.15.

成分

protopine(プロトピン)。C20H19NO5=353.36。プロトピン型アルカロイド 。protopine型alkaloidはフェニルアラニン及びチロシン由来のアルカロイドであると報告されている。protopineの他にコブチシンなどのalkaloidを含む。

一般的性状

ケシ科、コマクサ属。学名:Dicentra spectabilis DC。別名:タイツリソウ(鯛釣草)、ケマンボタン(華鬘牡丹)、ディケントラ(Dicentra) 。離弁花植物。花が多数並んで垂れ下がった様子を、仏殿の装飾の華鬘(ケマン)に見立てた。中国原産。又は中国、朝鮮半島等に自生する多年草。古くに渡来。庭や鉢に栽培する多年草。茎は高さ40-80cm、全体に白っぽい緑色。葉は羽状に裂け、最終裂片はくさび形、長さ4-7cm、粗い鋸歯(キョシ)か小裂片。花は4-5月頃。一方に傾いた総状花序。有毒部分:全草。protopineはムラサキケマンの全草に含まれる。

bicucullineはケシ類のケマンソウ科の植物の茎から得られるalkaloidである。

毒性

全草にprotopine、コブチシン等の毒成分を含み、誤食すると下記のような症状を発現。その他、有効成分は、alkaloidのprotopineとケレリトリンを含み鎮痛作用がある。

中枢神経中のGABA受容体(GABAA)があり、抑制性伝達物質GABAの他に、ムシモル、benzodiazepine、barbituric acidなどと結合し、抑制作用を現す。bicucullineはGABA受容体でGABAの作用を選択的に抑制し、痙攣を起こす。

症状

誤食すると大脳中枢が麻痺するので、酒に酔ったように眠くなり、吐き気や体温低下、呼吸麻痺、心臓麻痺などを起こす。その他、睡眠、嘔吐、縮瞳、徐脈、体温低下、呼吸麻痺、心臓麻痺等が報告されている。

処置

気道を確保し、誤嚥を防止したら痙攣対策を行う。痙攣を止めれば代謝性アシドーシスや横紋筋融解による腎不全も防げる。

痙攣:diazepam静注。20-30mgを静注し痙攣が止まらなければpentobarbitalを切り替える。これらの薬物は痙攣を止める作用がある(生理学的拮抗薬)だけでなく、picrotoxinの作用点(GABA受容体)に対する特異的拮抗薬(薬理学的拮抗薬)である。従って、picrotoxin又はpicrotoxin類似の痙攣毒に対しては、対症療法がそのまま特異的治療になる。重症中毒には、気管内挿管をして機械的人口呼吸をしなければならないことがある。

初期治療として催吐、胃洗浄が有効と考えられる。但し、これらの処置は痙攣を誘発しやすいので注意を要する。

活性炭、下剤の投与も有効と考えられる。激しい痙攣や意識障害がある場合は気管内挿管による気道確保、更に必要なら機械的人口呼吸を行う。

事例

京扇は、夢屋の一件で痛い目に遭わせられた虎二が班長として抜粋され、先頭きって踏み込み、二番番頭を容赦なく木刀で叩きのめし、他の者にはケマンソウを煎じたものを飲ませた。以前から従業員同士の仲が悪いとのことで、職人のひとりが番頭を木刀で殺し、皆を道連れにするとの筋書きで、朝を迎える頃には心の蔵や呼吸が止まり、全員が死んだ[浅野里沙子:闇の仕置人無頼控 六道捌きの龍;株式会社光文社,2009]。

備考

華鬘草の毒性については詳細な報告が見られなかったため、断言は出来ないが、相当量を摂取しなければ、致命的な結果を招くことは無いのではないかと思われる。従って、物取りを目的に侵入するために、前もって飲ませておいたとしても、期待通りの結果が得られるかどうかは不明である。犯罪者が不確定要素が多すぎる毒物を使うかということになれば、否定的である。犯罪の成功を期待して毒物を使用するのであるから、やはり期待するのは速効性、確実性ということではないか。その意味では、毒性の強さの解らない毒物は使い難い。

文献

1)牧野富太郎:原色牧野日本植物図鑑 コンパクト版I;北隆館,2003

2)海老原昭夫:知っておきたい身近な薬草と毒草;薬事日報社,2003

3)船山信次:アルカロイド-毒と薬の宝庫-;共立出版株式会社,2006

4)Anthony T.Tu・編著:毒物・中毒用語辞典;化学同人,2005

5)学研の大図鑑 危険・有毒生物;株式会社学習研究社,2003

6)内藤裕史:中毒百科-事例・病態・治療-改訂第2版;南江堂,2001

7)(財)日本中毒センター・編:症例で学ぶ中毒事故とその対策;じほう,2000

『隠元豆中の毒性物質について』

日曜日, 5月 23rd, 2010

KW:毒性・白インゲン・隠元豆・インゲンマメ・インゲン豆・サンドマメ・三度豆・サイトウ・菜豆・Common bean・コモン-ビーン

Q:隠元豆中の毒性物質について

A:隠元豆(インゲンマメ)の学名はPhaseolus vulgaris L.である。別名としてサンドマメ(三度豆)、サイトウ(菜豆)、Common bean(コモン・ビーン)等が報告されている。また仏名としてharicot vert。

本品はマメ科インゲンマメ属の一年草。原産地:メキシコ南部、中央アメリカ。草丈:50(矮性)-300cm、花色:白・桃・黄、開花期:6-7月、鞘長:13-15cm、収穫期:6(鞘隠元)-8月(隠元豆)。

隠元豆は夏、マメ科特有の舌状をしたスイトピーに似た小花を咲かせる。夏に実る緑色の若鞘を茹でて食べたり、そのまま畑において成熟・乾燥させた豆(種子)を煮込み料理や、饅頭の餡、善哉、赤飯等に使用する。 豆類に含まれるレクチン(lectin)はダイエット効果があるとされているが、充分な加熱しないで摂食した場合、毒性を発現するの報告がある。

隠元豆中のlectinは、フィトヘマグルチニン(インゲンレクチン)[Phytohaemagglutinin (Kidney Bean Lectin)]とする報告がされている。

lectinの発見は1888年H.Stillmarkがヒマの実の抽出液から種々の動物血球を凝集することを見出したことに始まる。その後多数の植物種子中から血球凝集素が見出され、植物凝集素と呼ばれた。その後これらの凝集素はそれぞれ明確な結合特異性を持ち、一般に単糖やオリゴ糖で血球凝集活性が阻止され、それらのうちにはABO式血液型に特異的な凝集素も見出され、ボストン大学のW.Boydはラテン語の“legere(選び出す)”になぞらえてlectinと呼ぶように提唱した。

近年、植物種子ばかりでなく、細菌や動物の体液、組織中にも糖結合性蛋白質が多数見出されるようになり、lectinは次の様に定義することになった。

“動植物あるいは細菌で見出される免疫学的産物にあらざる糖結合性蛋白質で、結合価が2価以上で動植物細胞を凝集し、多糖類や複合糖質を沈降させ、その結合特異性は単糖やオリゴ糖を用いた阻止試験で規定することができるものでなくてはならない”。

lectinの中にはコンカナバリンAやインゲンマメレクチン(PHA:phytohemagglutinin)のように、末梢血リンパ球に働いて芽球化を誘起するものもあり、また糖結合特異性の明確なlectinを用いて細胞表面糖鎖の検索を行ったり、不溶化lectinを用いて複合糖質の特異的生成を行うなど、免疫学的、細胞生物学的応用が広がっている。

隠元豆中に含まれるlectin(糖蛋白質)は、100℃-10分間の加熱で毒性が失われるが、80℃の加熱では却って毒性が増加するとする報告が見られる。2006年5月6日放送のTBS系の「ぴーかんバディ!」で、白隠元豆を約3分間炒った後粉末化し、御飯にまぶして食べるダイエット法が紹介されたが、これを試した視聴者が下痢などを訴え、31日迄に被害は965件、うち入院は104件に昇った。

隠元豆による中毒は、英国では1976年から1989年にかけて、集団食中毒として25件、約100人に発生した事例が報告されている。浸しておいて柔らかくした豆をそのままサラダに入れて食べたという事例が多く、四、五粒以上食べて、嘔吐、下痢等の症状が出ている。蒸し器で加熱したというものもあるが、加熱が不十分だったと思われるとしている。

隠元豆による急性疾患は、赤インゲン豆(Phaseolus vulgaris)中毒、金時豆中毒などと呼ばれている。生又は調理が不十分な隠元豆を食べてから症状が出るまでの時間は1-3時間である。発症は激しい吐き気と嘔吐で、重症の場合もある。しばらく(1-数時間)して下痢、人により腹痛がみられる。人によっては入院するが回復も早く(3-4時間)、自然に回復する。

原因とされるphytohemagglutininは、多くの豆に含まれるが、赤隠元に最も高濃度含まれている。毒素はphytohemagglutinin単位(hau)で表されるが、生の赤隠元は20,000-70,000 hau、十分に調理した豆は200-400 hauを含む。白隠元の毒素含量は赤隠元の1/3、空豆場合は赤隠元の5-10%を含む。

 疾患は通常、生や水戻しした隠元を単独もしくはサラダや鍋料理等で食べた時に生じる。わずか4-5個の生の豆で発症しうる。内部の温度が十分に高くならなかった「スロークッカー」、電気鍋、キャセロール料理などに関連した発生の報告がある。80℃で加熱すると毒性が5倍になり、生より危険であることが示されている。スロークッカーで調理した場合、内部の温度は75℃より高くならない。経過は急性である。全ての症状は発症から数時間で消失する。嘔吐は大量で、症状の重症度は摂取した毒素の量(食べた生の豆の数)に直接関連する。入院や点滴が必要な場合もある。期間は短いが、症状としては激しく衰弱する。

隠元豆中毒は家畜でも起こる。カナダの牧場で、新しい飼料を食べた21頭の馬が中毒症状を発現し、飼料会社に確認したところ、別の数カ所の牧場で、同じ資料により合計240頭の牛が中毒症状を呈していることが解った。飼料の中に生の白隠元が含まれていた。

トウゴマに含まれるlectin(リシン)は強力な毒作用を持つ。

1)白鳥早奈英・他監修:もっとからだにおいしい野菜の便利帳;高橋書店,

2)今堀和友・他監修:生化学辞典 第3版;東京化学同人,1998

3)内藤裕史:健康食品中毒百科;丸善株式会社,2007

4)『健康食品』素材情報データベース,2009

[63.099.PHA:2009.10.古泉秀夫]

『イルカンジについて』

日曜日, 5月 23rd, 2010

KW:毒物・中毒・イルカンジ症候群・イルカンジ・クラゲ・水母・ハブクラゲ・クラゲ刺傷・クラゲ刺症・jellyfish venom・Irukandji・Carukia barnesi・立方クラゲ綱・箱虫綱・ヒドロ虫綱・鉢虫綱・ハチムシ綱

Q:イルカンジについて

A:イルカンジ(Irukandji)とは、オーストラリア東岸に棲息するとされる強度の毒を持つクラゲのことである。イルカンジ症候群は、イルカンジクラゲ(Carukia barnesi)に刺されることによって起こる症状の総称である。1952年にHugo Fleckerによって、アボリジニのイルカンジ部族にちなんで命名されたとする報告が見られる。

イルカンジクラゲに刺されると背中・胸の激痛、最高血圧が300近くにもなる急激な血圧上昇、強い精神不安などの症状が起こり、死亡することもあるとされている。このときの痛みは激痛で、モルヒネも効果が無いとされる。更に男性では持続的な勃起を惹起することもある等の報告が見られるが、詳細は不明である。

危険な刺胞動物の代表例[但し、水母のみ,塩見ら1997一部改変]

鉢虫綱

(ハチムシ綱)

エフィラクラゲ科

イラモ

オキクラゲ科

アマクサクラゲ

ヤナギクラゲ

Chrysaora quinquecirrha

アカクラゲ

ユウレイクラゲ科

ユウレイクラゲ

ビゼンクラゲ科

Rhizostoma quinquecirrha

Rhopilema nomadica

ヒドロ虫綱

ハネガヤ科

ドングリガヤ

シロガヤ

クロガヤ

ハナガサクラゲ科

カギノテクラゲ

キタカギノテクラゲ

アナサンゴモドキ科

ショウジョウアナサンゴモドキ

イタアナサンゴモドキ

ホソエダアナサンゴモドキ

カツオノエボシ科

カツオノエボシ

立方クラゲ綱

(箱虫綱)

アンドンクラゲ科

アンドンクラゲ(Carybdea rastoni)

Carybdea marsupiadis

ネッタイアンドンクラゲ科

ハブクラゲ(Chiropsalmus quadrigatus)

Chironex fleckeri

クラゲ刺症(jellyfish venom)とはクラゲに刺されて生じる中毒のことである。腔腸動物(Coelenterates)又は刺胞動物(Cnidaria)ともいわれ、一度に多数の刺胞で刺されるため、危険である。カツオノエボシの粗毒は、活性ペプチド、各種酵素、その他の因子からなる多成分系の総合作用で、皮膚壊死性、心臓毒性がある。アンドンクラゲの粗抽出毒は、溶血、血小板凝集、肥満細胞脱顆粒、血管平滑筋収縮、皮膚壊死、心臓毒、及び致死因子を含む。

クラゲの触手に接触すると、皮膚の刺傷パターンは1点だけでなく、長い帯状の刺傷が数本から数十本になる場合がある。刺胞が開くと棘が皮膚を刺し、毒嚢から毒が分泌されて皮膚に注入される。1個の刺胞からの毒の量は少ないが、多くの刺胞から一度に毒が注入されると危険である。

クラゲによる刺傷は最も頻繁に起こる刺傷であるが、純粋な毒素は未だ分離されていない。

大体高分子の毒で、溶血性、細胞溶解性、筋肉壊死作用を持つことはよく知られている。熱処理に対しては弱い。これは高分子蛋白であるためである。その他、平滑筋の攣縮、麻痺、呼吸筋麻痺、心筋麻痺を起こす。

クラゲに刺傷されたらまず触手を取り除く。食酢か消毒用alcoholが手元にある場合、触手を除去する前に、刺された部位に塗るかあるいはよく洗う。更に触手を除去した後、直ちに食酢あるいはアルコールを塗る。毒は酵素が主で、pH4で失活するとされている。食酢は酢酸4-6%で、5%-酢酸のpHは2.24とされていることから解毒には最も効果的と考えられる。但しクラゲ刺咬症に対する食酢の効果については、臨床的に定まってはいない。また、ウンバチイソギンチャクでは食酢の使用は禁忌とする報告も見られる。しかし、理論的には食酢の使用が一番よいと報告されている。

ハブクラゲの応急処置:食酢の効果は確かめられている。食酢は同じ立方クラゲ種のアンドンクラゲにも有効であろう。食酢には鎮痛効果はない。

クラゲ刺症の基本的処置

?刺されたら直ちに陸に上がり、慌てずに安静を保つ。

?局所に触手が付いていたら、海水で洗い流す(触手の擦り落としは不可)。真水の使用は刺胞を破裂させるため使用不可。

?触手は丁寧に除去する。

?触手除去後、痛みに対しては氷で冷やす。

?刺傷が広範囲、痛みが持続、全身症状があるときは病院を受診させる。

クラゲ刺傷の治療

*クラゲによる刺傷を受けた場合、ゴム手袋を付け、刺傷部を海水で洗いvery strong steroid塗布。破傷風トキソイドの筋注。

*疼痛に対して局所冷却、時に経口鎮痛薬投与、まれに経静脈鎮痛薬投与。局麻軟膏を塗布する。

*後療法として掻痒には抗アレルギー薬・冷却。

*呼吸・循環管理、アナフィラキシーショックの治療を行う。

1)Anthony T.Tu・編著:毒物・中毒用語辞典;化学同人,2005

2)Anthony T.Tu:中毒概論-毒の科学-;薬業時報社,1999

3)内藤裕史:中毒百科-事例・病態、治療 改訂第2版;南江堂,2001

4)塩見一雄・他:新訂版 海洋動物の毒-フグからイソギンチャクまで-;成山堂書店,1997

5)日本中毒学会・編:急性中毒標準診療ガイド;じほう,2008

[63.099.IRU:2009.8.18.古泉秀夫]

『売らなきゃいいってもんじゃない』

木曜日, 5月 20th, 2010

魍魎亭主人

下痢というほどではないが、いわゆる軟便という奴で、正露丸で上手く調整出来ず、買い置きの“他の止瀉薬”で、どうにか修復できた様な気がしたが、買い置きの薬が無くなってしまった。

そこで近所の薬屋に出かけて、下痢止めが欲しいとのたまわったところ、胸に登録販売者の名札を付けた女性が、正露丸と乳酸菌製剤の下痢止めを出してきた。

『いや、これじゃ駄目なんで他の薬を下さい』

『何かお医者様から貰ったお薬を飲んでいませんか』

『何かといわれれば、血圧の薬を服んでいますけど………』と申し上げたところ、固まってしまった。

『血圧の薬をお服みでしたらこれ以外のお薬はお出し出来ません』

『その薬を飲んでいて効かないから他の薬が欲しいといっているんですけど』

『いえこの薬しか出せません』

飲んでいる血圧の薬がどういう性質の薬かも確認せず、血圧の薬というだけで十把一絡げにされてしまったが、“登録販売者”というのはこんな程度の知識しか持っていないのかと思うと、ついムカッと来て

『あのいいですよ。私、薬剤師ですから薬は自分で調整しますから。他の薬でどんな薬を置いているんです』と言わずもがなの言の葉を吐き出した。

で、お出しいただいたのが、“新タントーゼA”[第一三共ヘルスケア(株)]という“第二類医薬品”である。

12錠中に

ベルベリン塩化物水和物   300mg(細菌性下痢・腸内異常醗酵による下痢)

ロートエキス 60mg(消化管の痙攣による腹痛)

タンニン酸アルブミン 2000mg(腸粘膜の収斂(収縮)作用による下痢止め)

ウルソデオキシコール酸 30mg(胆汁の分泌促進して脂肪の消化を助ける)

本品の副作用として『皮膚:発疹・発赤、かゆみ。ショック(アナフィラキシー)』

併用禁忌は『胃腸鎮痛鎮痙薬』。その他、薬との相互作用は添付文書中に記載されていない。最も、服用を注意することとされている者の中に『高齢者あるいは排尿困難のある者』という注意事項が入っているが、長期に連用する訳ではないので、特に問題にはならないと判断してこの薬を買ったが、本当に買いたかったのは、この薬ではなく、別の止瀉薬であった。但し、店頭で下痢止めと言ったときには、残念ながら薬の名前を思い出せず、当初の様な顛末になってしまったが、実は“ワカ末止瀉薬錠”という薬が、服用中の他の薬との間で、何等差し障り無く服める薬だという確信を持っていた。

ワカ末止瀉薬錠[クラシエ薬品(株)] 第2類医薬品

本品6錠中に

ベルベリン塩化物水和物 225mg

ゲンノショウコエキス 600mg(ゲンノショウコ4gに相当)

本品の添付文書中に特に重篤な副作用や他の薬物又は健康食品に関する相互作用は記載されていない。最もOTC薬の添付文書には通常副作用の記載は多くなく、医師・薬剤師に相談ということで逃げているが、参考までに同一の原薬が使用されている医療用医薬品の添付文書を確認した。

医療用医薬品の“塩化ベルベリン錠”(ジェイドルフ製薬株式会社)は、1錠中にベルベリン塩化物水和物(Berberine Chloride Hydrate)として50mgを含有する製剤が市販されている。効能・効果は下痢症で、用法・用量は『ベルベリン塩化物水和物として、通常成人1日150-300mgを3回に分割経口投与する。なお、年齢、症状により適宜増減する。』とされている。

本品の投与禁忌は『出血性大腸炎の患者[腸管出血性大腸菌(O157等)や赤痢菌等の重篤な細菌性下痢患者では、症状の悪化、治療期間の延長をきたすおそれがある。]』とされており、原則禁忌は『(次の患者には投与しないことを原則とするが、特に必要とする場合には慎重に投与すること)細菌性下痢患者[治療期間の延長をきたすおそれがある。]』等の報告がされている。

本品の副作用については『本剤は使用成績調査等の副作用発現頻度に関する調査を実施していないため、発現頻度は不明である。』とされている他、具体的な副作用として消化器(頻度不明)便秘が記載されているに過ぎない。その他の注意として『高齢者への投与: 一般に高齢者では生理機能が低下しているので減量するなど注意すること。』の記載がされているが、相互作用については、何等記載されていない。

ゲンノショウコはフウロソウ科の多年草。薬用部分は花期(夏期)の地上部。有効成分はtannin。葉にはtanninが約20%含まれる(6-8月)。茎、根、全草では何れも4%程度。その他、ミネラル中にはカルシウムが多く、カルシウムは腸管に対して制瀉的に働くが、ゲンノショウコの主作用はtanninによるものである。西洋医学的には、整腸剤の製造原料として利用するが、中医学では使わない。急性腸炎、急性下痢症等に服用した場合、その優れた収斂作用で劇的によくなるため“現の証拠、忽ち草、医者いらず”等とも呼ばれる等の報告がある。

以上、各報告を見る限り、『ワカ末止瀉薬錠』は、ゲンノショウコのtanninによる吸着を避けるために、服用時間の調整を取れば、血圧の薬を服んでいたとしても特に相互作用の問題も無いと考えられる。従って本品は、他の薬を服んでいたとしても、比較的安全に服める止痢薬であるということができる。

OTC薬使用の目的はSelf-Medicationにより医療費の抑制を図るという、大前提があるはずである。その意味でいえば、登録販売者といえども、服用者の環境に合わせて、薬の情報をコントロールし、当人が必要としている薬を選び出すための助言をするのが役割である。もしそれができないのであれば、薬剤師以外の者が薬を扱うのは如何なものかということになる。

今更、反時代的なことを言う気は更々無いが、登録販売者の試験合格後の教育はどうなっているのか、甚だ心配である。試験に合格し、資格を得てしまえば後はそれで食えるという程度の仕事とは大きく異なっていることを知るべきである。

1)塩化ベルベリン錠50mg「JD」添付文書,2008.6.改訂

2)新タントーゼA添付文書,A09-08

3)ワカ末止瀉薬錠添付文書,0GE-07EA

4)伊沢凡人・他:カラー版薬草図鑑;家の光協会,2003

(2010.2.26.)

『紅葉の明治神宮御苑』

水曜日, 5月 19th, 2010

鬼城竜生

11月24日(火曜日)紅葉の写真を撮りに明治神宮外苑・明治神宮御苑に出かけた。

明治神宮外苑の公孫樹はそれなりに黄葉していたが、昨年に比べると、若干来るのが速かったのではないかと思われた。そこそこ黄葉していたが、もう少し黄色が綺麗に出ていてもいいような気がしたが、まだ色むらが見えるような気がした。そこで取り敢えず何枚か写真を撮り、そのまま神宮御苑に行くことにした。

明治神宮御苑は、江戸初期以来加藤家、井伊家の下屋敷の庭園であったが、明治時代に宮内省所管となり、代々木御苑と称せられ、明治天皇、昭憲皇太后のお二方は度々お出ましになられた御縁の深い、由緒のある名苑であると紹介されている。

面積約83,000平方メートルあり、折れ曲がった小道が美しい熊笹の合間を縫い、武蔵野特有の雑木林の面影を留めている。苑内には隔雲亭(かくうんてい)、御釣台(おつりだい)、四阿(あずまや)、菖蒲田、清正井(きよまさのいど)、がある。躑躅、藤、山吹、皐月、花菖蒲、睡蓮、その他新緑、紅葉の風景、冬の雪景色等、四季を通じて真に趣き深く、南池の清らかな水は四辺の樹影を映し、水鳥浮かび鯉魚遊び樹間には多くの野鳥が見られ、都会の雑踏を離れた別天地である。

御苑の花の見頃の時期は4月上旬が『山吹・躑躅開花・落葉広葉樹の新芽見頃』。6月『花菖蒲、睡蓮の開花』。12月上旬『紅葉等の紅葉見頃』となっている。

この話からすると11月24日はやゞ速いと言うことになるのかもしれないが、自然を相手にする場合、日めくり通りには行かないのは何回も経験したところで、まあ、思いついたか吉日と考えるより仕方がない。速いか遅いかは別にして、それなりに紅葉の写真が撮れたと思っている。

ここには花菖蒲の時期にも写真を撮りに来たが、そこそこの写真は撮れたと思っている。ただ、花菖蒲と同時期に『睡蓮の開花』というのがあるが、蓮は池の奥に囲われていて、何時も持ち歩いている小型のカメラでは、引き寄せることが出来なかった記憶がある。大型のカメラにすればいいじゃないかという御意見もあるかもしれないが、持ち歩くのに重いのは嫌だということで、小型にした経緯があるので、遠いものが写せないというのは諦めざるを得ない。

北門から入って、左側に緩やかに降りると右手に隔雲亭が見える。別荘として昭憲皇太后が屡々見えられたいというが、道の突き当たりにある南池の御釣台についても、皇太后が魚釣りを楽しまれたという案内が見られたが、その当時どの様な魚が池に放されていたのか。大型の鯉なんていうのであれば、あっという間にハリスを切られてしまったのではないか。そんな釣りでは竿を出しても楽しくなかったのではないかと思うか、どうなんだろう。

先日TVを見ていて、明治神宮の森は、全国から持ってきた木を植えた人口の森だと言っていた様な気がしたが、それは事実だったようで、『明治神宮が出来る前は、この一帯は南豊島御料地(皇室の所有地)といって、現在の御苑一帯を除いては畑がほとんどで、荒れ地のような景観が続いていたというそうです。明治神宮境内の樹木を見ると椎や樫、楠が多く、伊勢の神宮や日光東照宮のような杉や檜が少ないことに気づきます。「永遠の森」を目指した壮大な計画のもと、大正4年から造営工事が始まりましたが、全国から植樹する木を奉納したいと献木が集まり、北は樺太(サハリン)から南は台湾まで、日本だけではなく満州(中国東北部)、朝鮮からも届き、全部で約10万本の木が奉献され、11万人に及ぶ青年団の勤労奉仕により植林することによって、代々木の杜が誕生しました。』とする案内がされている。

清正井についても、「清正井」のあるこの地は、江戸時代、加藤家の下屋敷があり加藤清正の子・忠広が住んでいたことは間違いないが、清正本人が住んでいたかどうかは定かで無いとされている。清正の没年は『慶長16年6月24日(1611年8月2日)』とされており、当時ここに下屋敷を建てる土地を貰っていたのかどうか。その後加藤家は絶え、井伊家の下屋敷となったと言うが、「清正井」の曰わくは、清正が築城の名人だったという評価と、日本人の清正好きが重なって、そのような伝説が生まれたのではないかと考えられる。

紅葉の写真は、四阿の前後の道で紅葉の写真が撮れた。その他、南池の菖蒲田よりの位置で水辺に写る紅葉が取れたが、御釣台から菖蒲田迄の間の黄葉の写真が北門の案内所に貼ってあったが、その撮影日を確認すると12月の第一周当たりと言うことであった。少し速かったのかもしれないと思われたが、まあ、そこそこ写真は撮れたということで良いんではないでしょうか。

本日の総歩行数13,047歩。まあ、歩く目的は達成したと言うことで満足頂きましょう。

(2010.1.5.)

『上野のお山』

日曜日, 5月 2nd, 2010

鬼城竜生

古い知り合いから上野公園東京都美術館で行われている『’09公募第33回 風子会』に出展しているのでというハガキを頂戴した。上野駅は仕事で使うことがあり、時には広小路口から出て、アメ横のとば口当たりで酒を呑むことはあるが、それ以外には余り降りたことがない。西郷さんの銅像を見たのさえ、何時だったのか思い出せない位い遠い昔の話で、丁度良い機会だと言うことで出かけることにした。会期は11月22日(日)から29日(日)ということになっていたが、雨の日に行く気にはならないので、天気予報で晴天と言っていた27日(金曜日)に行くことにした。

但し、膝痛で整形を受診しているので、治療が終わってからと言うことで、11時頃に電車に乗った。

上野駅の公園口で降りて、地図を見ながら噴水池を目指し、噴水池の縁を真っ直ぐ行った先に建物が見えたので、そこが目的地かと思ったが、東京国立博物館ということであった。今度は池の短径の縁を歩いた先に東京都美術館が見えた。裏口から階段を下りて会館内に入ると、驚くべきことになんと展覧会だらけ。しかも無料のものから始まり有料のものまで、更には企画展として『冷泉家の王朝の和歌守展』迄展示されていた。一体何処まで広いんだというのが最初の感想。更に“風子会”の展示場も広々と取ってあり、更にどの位の広さがあるのだろうというのが率直な思いだった。

絵の方は、全くの素人、好き嫌いでしか評価出来ない当方としては、全体的に色使いの薄い絵が多かったような気がしたが、素人?があれだけ描ければいいのではないかというのが感想。高校時代に、図画の時間に校外で写生をした時、完成した絵が、釣瓶の井戸に柳の木という、全くの想像画で、教師からは当然怒られておしまい。つまり全く絵を描くことのない当方としては、唯々羨ましい限りということであるが、中には部屋に飾りたいと思う絵が二、三枚はあった。

東京都美術館を出た後、昼飯代わりに“新鶯亭”で鶯団子なるものを食して上野東照宮に伺った。東照宮の御祭神は徳川家康公、徳川吉宗公、徳川慶喜公とされている。1627年藤堂家の屋敷地であった上野に東照宮が造営された。1646年に正式に東照宮の宮号を授けられたとされている。

1651年に三代将軍・徳川家光公が大規模に造営替えをしたものが、現存する社殿であると紹介されている。金箔をふんだんに使い、大変豪華であったことから「金色殿」とも呼ばれているということである。当時は東叡山寛永寺の一部であったが、明治維新後の神仏分離令により、寛永寺から独立したという。その後、戦争や震災などの災厄に一度も倒れることなく、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物であると紹介されているが、現在は改修工事中である。

東照宮は、徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りしている神社である。東照宮には、日光東照宮、久能山東照宮が有名であるが、全国各地に数多く存在するとされる。そのためあまたの東照宮と区別するため“上野東照宮”と呼ばれているが、正式名称は東照宮であると紹介されている。

狸の絵馬があったので、頂戴してきたが、『栄誉大権現』という名前が付けられており、伊達や酔狂の狸ではないようである。御参りされるならその脇の引き戸を開けてお入り下さいということであったので、御参りさせて頂いた。

「お狸様」「夢見狸」と呼ばれ親しまれているということであるが、江戸時代に奉献された大奥で災いをもたらし、その後も安置された大名、旗本諸家を潰した悪業狸として有名でしたが、大正年間に東照宮に寄贈されてから災いがなくなったといわれていますとのことである。現在は、他を抜く狸という縁起から強運開祖の受験の神様として信仰されていますとされているが、この狸、最初から東照宮に来ることを狙って他では暴れていたのかもしれない。

東照宮の傍らに金属の塀で遮られているが、五重塔が見られる。五重塔の全体像を見るためには、動物園に入らなければならないということであったが、旧寛永寺五重塔ということで、東照宮から寛永寺までということであると、昔の寛永寺は驚異的な敷地を持っていたということになる。

続いて直ぐ隣にある上野大仏を拝観するため、階段を上がて小山の上に昇った。上野大仏は寛永8年(1631年)に越後村上藩主、堀直寄が戦死者慰霊のため漆喰の釈迦如来坐像を建立。像高約6mの釈迦如来坐像だった。 度重なる罹災により損壊し、昭和47年(1972年)に寛永寺に保管されていた顔面部をレリーフとして旧跡に安置したとする報告がされており、現在も顔面部のみがレリーフとして拝観出来るが、1972年に安置された物ということである。所在地は上野精養軒に隣接する大仏山と呼ばれる丘の上。薬師仏を祀るパゴダ様式の祈願塔と志納所が併設されている。

半顔の仏陀の姿小春かな

次ぎに花園稲荷神社の赤い鳥居が現れ、鳥居をくぐると御祭神として『うがのみたまのみこと(倉稲魂命)』又の御名を『とよたまひめのみこと(豊受姫命)』ともいう神様を祀る社が見える。須佐之男命の御子・伊勢の外宮の大神、『さきみたまやぶねのかみ(幸魂屋船神』といい、家屋の守り神であるとされる。

神社の縁起によると、御創祀の年月は不祥であると説明されているが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)が正しい名称であるが、石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われていたという。承応三年(約340年程前)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が、霊夢に感じ(家光の命とも言われている)廃絶していたお社を再建し、上野の山の守護神とした。幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地(穴稲荷門の戦)としてしられているということである。

明治六年に岩堀数馬、伊藤伊兵衛等の篤志家によって再興され、花園稲荷と改名、五條天神社が現地に御遷座になるに及び、社殿も南面して造営され神苑も一新された(旧社殿は俗称お穴様の処です)。お穴様の左奥にありますお社は、古書に弥佐衛門狐と記され、寛永寺が出来る時忍岡の狐が住む処が無くなるのを憐み、一洞を造り社を祀ったと云われますとの説明がされている。

花園稲荷神社の道を抜けると“医薬祖神五條天神社”に行き着く。御祭神は大己貴命(おおむなじのみこと:大国主命)と少彦名命(すくなひこなのみこと)で、相殿として菅原道真公がお祀りされている。

第十二代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡を通られた時に、薬祖神(上記の二柱)の大神に御加護を頂いた事を感謝されて、約1890年前にこの地に両神をお祀りしたのだという。

尭恵法師の北国紀行によると『正月の末、武蔵野の境、忍ヶ岡を優遊しはべり鎮座の社五條天神と申しはべり、折ふし枯れたる茅原を焼きはべり、契りをきて誰かは春の初草に忍ヶ岡の露の下萌え』云々とあり、この正月は文明十八年(約500年前)ですので、相当の古社であることがわかります。相殿にお祀りしてある菅原道真公は、寛永十八年(約350年前)に合祀され、歌の道の祖神として俗称下谷天満宮ともいわれたという。

社地は御創祀以来、天神山(今の摺鉢山)瀬川屋敷(アメヤ横丁入口)他、幾度か変遷を重ね、昭和3年9月に御創祀の地に最も近い現地(花園稲荷神社隣り)に御遷座になった。尚、日本橋本町にある薬事協会ビルの屋上には、薬祖神社として御分霊をお祀りし、毎年10月17日に薬業関係者により盛大なお祭りが行われていまるという。

次ぎに清水観音堂をお訊ねした。東叡山、寛永寺清水観音堂が正式な名称のようである。

寛永八年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって創建されたという。天海大僧正は寛永二年に、二代将軍徳川秀忠から寄進されていた上野忍が岡に平安京と比叡山の関係に倣って「東叡山寛永寺」を開山した。それは同時に、比叡山が京都御所の鬼門を守護、王城の鎮護を担うと伝えられるのに倣い、江戸城の鬼門の守りをも意味しました。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立した中の一つが、清水観音堂です。清水観音堂は人形供養でも有名なようで、人形供養のポスターは、清水観音堂のホームページからの借景である。 本堂に安置されているのは『千手観世音菩薩』である。写真撮影禁止ということなので写真は無いが、ポスターで我慢して頂くということである。その他、不動明王等、小さな仏像が色々お祀りされていた。

次は東叡山寛永寺不忍池弁天堂に行った。何時もは対岸から眺めるだけで、池を回って行くのに躊躇いがあった。大体何があるんだということで、足が伸びなかったが、階段を下りて道路を横断すると不忍池に出る。不忍池は上野公園の隣にあり、かつての東京湾の名残であるとされている。江戸時代は池の周囲に水茶屋が並び町民の遊び場でした。不忍池弁天堂は寛永寺の境外祠堂で、寛永年間 (1624-44)に常陸下館城主水谷伊勢守が中島を築き堂を建てて弁財天を祀ったのに始まりとされる。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたものという。ご本尊(八臂大弁財天)は、長寿や福徳・芸能の守りとして信仰されている。池の四方からお参りできるように御堂は八角形をしている。

池には蓮の花の枯れた茎だけが林立しており、一瞬、偉く荒涼たる景色だなあと思ったが、良く見ると風情のある景色にも見えた。

蓮の骨弁天堂の池に立つ

何れにしろ古い知り合いの絵を見るために展覧会に上野の山に出かけたお陰で、色々神社やお寺を拝見することが出来たが、全て寛永寺の関係ということで、嘗ての寛永寺の寺領の広大さが解ろうというものである。今回は寛永寺に行けなかったが、近いうちに行ってみたいと思っている。

本日の総歩行数は、9,970歩。

(2009.12.19.)

「データ改竄」

日曜日, 5月 2nd, 2010

魍魎亭主人

田辺三菱製薬の子会社が、新薬の試験データを改ざんした問題を調査していた厚生労働省は13日、薬事法に基づき田辺三菱を今月17日から25日間の一部業務停止とする行政処分を発表した。大手製薬会社の業務停止は異例。データを改ざんした子会社は、薬害エイズ事件などの血液製剤を作った旧ミドリ十字が設立しているが、同省によると、旧ミドリ十字出身者ら約20人が組織的に不正に係わっていたという。

「バイファ」(北海道千歳市)は、1996年旧ミドリ十字が設立した会社で、今回4月14日から30日間の業務停止処分を受けた。発表によると同社は、1999年から2008年に掛けて、世界初の遺伝子組換え技術による人血清アルブミン製剤「メドウェイ注」の試験データなどを改竄、不純物の濃度を実際より低く見せかけたり、アレルギーの陽性反応を陰性データに差し替えたり、16件の不正を行っていた。不正には全社員の約1/4に当たる計約20人が係わっており、このうち同製剤の開発の責任者である幹部3人は旧ミドリ十字出身者だったという。

血液製剤に関して、旧ミドリ十字は、多くの技術情報を持っていたはずである。その技術情報を生かしたいということで、会社と人を引き受けたのだろうが、医薬品を作る技術者に必要な最低限の倫理観-dataの改竄はしないという-の欠如した遺伝子は、修復されることなく、そのまま継続されてしまったようである。新聞報道によれば、約20名からの社員がこの問題に関わっていたという。何とも大らかな話で、これだけの人員が参加した内容の秘密が保たれる訳がない。つまり彼等の中には、今回の行為を秘密にしておかなければならないという、認識は全くなかったということではないか。つまりdataの改竄が悪だという認識は全くなかったということができるのではないか。

元々原料は酵母である。当然、酵母を原因とするアレルギーやアナフィラキシー様症状が発現する。実際、臨床試験段階で、本剤を原因とするアレルギー症状がどの程度出たのかは不明であるが、少しぐらい数値を下げても本体の効果とは関係ない位のことでおやりになったのであろうと勝手に想像させて戴いているが、想像力の欠如としかいいようがない。dataの改竄が表沙汰になった場合、どの様な騒ぎになるのか。更に会社の前歴を考えれば、悪く悪く取られることは明らかである。どんなにいい薬を作ろうとも、使用する人の安全を忘れてしまっては意味がない。

そんなに急ぐことはなかったのではないか。治療に必要な血液製剤の入手は簡単に行かない。原料である血液はヒト以外から手に入れることはできない。更に血液から感染する感染症も重要な問題であり、血液の代用品を完成させることは、医療機関のみならず製薬企業に取っても、垂涎の的ということであろう。今回の人血清アルブミン製剤は、製品の添付文書によれば、「ヒト肝細胞のmRNAに由来するヒト血清アルブミンcDNAの発現により組換え体で産生される585個のアミノ酸残基(C2936H4590N786O889S41:分子量66,438.21)からなるたんぱく質であるとされている(本剤はピキア酵母により産生される)」ということであり、従来の人血液から抽出されたアルブミンから見ればウイルス等による感染の機会は少ないと考えられることと、生体原料ではないため、補給面での心配をしなくても済むということでいえば、市販されることでの利益は大きい。

折角期待される医薬品も、貧弱な発想と姑息な手段によって疵付けられる。今回の事例はそのいい例で、挙げ句の果てに旧悪まで引きずり出され、その体質は変わっていないと世の識者にやり玉に挙げられる。だが、data改竄が表沙汰になれば、今回のような騒動に発展するであろうことは、ほんの僅かな想像力を働かせれば、読み切れたはずである。如何に専門馬鹿とはいえ、世間知が全くないというのは困る。世間の常識、人間としての常識を忘れてしまっては作る薬は毒になるだけである。

1)田辺三菱を業務停止「子会社組織ぐるみ」「バイファ」旧ミドリ十字が設立:読売新聞,第48184号,2010.4.14.

2)メドウェイ注25%添付文書,2009.10.

(2010.4.17.)

「業務停止」

日曜日, 5月 2nd, 2010

魍魎亭主人

大洋薬品の高山工場は、2008年、受託製造していた抗生物質製剤「パンスポリン注(武田薬品)」に、ガラス片が混入したとして、委託会社との間で問題となった経緯がある。

今回、同社の後発品「ガスポートD錠20mg」(一般名:ファモチジン)について、製造過程で原料の秤量・混合時に間違いを犯し、しかも製造された製品は、既に商品として外に出てしまったという考えられない失敗を犯した。

今回の事例での最大の問題点は、原料の散薬を配合する際、主成分の秤取量を間違えた製造工程担当者が、打錠工程の担当者に、間違えて製造した2ロットについて、試料の抜き取りをしないように依頼したということである。つまり社員間で、間違えた場合の隠蔽工作が、日常的に行われていたのではないかとの疑念を持たざるを得ない。

配合量を間違えたと気が付いた段階で、原料を廃棄すべきであるのに、原料を廃棄することなく、製造を継続したということは大問題である。更に品質管理部門に提出する抜取り検査用の試料を、正常な物と擦り変え、提供するなどと言うことは、仕事に対する社会的責任を思えば、考えられない行為だといわなければならない。

大洋薬品は2009年6月-9月に出荷した約142万錠を自主回収したとしている。しかし、別な情報ではH2ブロッカー「ガスター」の後発医薬品(口腔内崩壊錠)である「ガスポートD錠20mg」で、昨年4月から9月までに全国約3000の医療機関などに出荷された2ロット分の約28,000箱(280万錠)について、自主回収の通知後、回収出来たのは16%で、その他は既に処方されていた。同社に対して健康被害などの連絡は届いていないということであるが、2ロットのうち1ロットは主成分が120%、もう1ロットは80%の含有量ということで、何れにしろ欠陥品である。

工場所在地である岐阜県は、3月26日、高山工場に対して、薬事法に基づく業務停止命令を出したと発表した。期間は同日から4月3日までの9日間。

ところで欠陥商品を服用させられた患者に対する対応はどうするのか。未回収の部分は既に処方せんに記載されて患者の手元に行き、服用されているはずである。あるいは既に服用が終わってしまっているかもしれない。しかし何れにしろ、この件で最大の迷惑を受けたのは、欠陥商品を服用させられた患者である。9日間の業務停止命令で、行政的な始末は付けたつもりかもしれないが、患者との関係で言えば未だけじめは付いていない。

ロット番号から納入先の病院、調剤薬局は分かるはずである。更に直近の病院の処方せんを見れば、患者の名前は分かる。御迷惑をお掛けしたぐらいの挨拶はあってしかるべきではないか。あるいは新聞・TV等でお詫びの挨拶があってもいいのではないか。

現在、後発品の販路が広がっている。大洋薬品高山工場でも、委託製造も含めて、数多くの医薬品を製造しているとされる。余裕のない仕事が職員の教育をおざなりにし、仕事に対する責任感の喪失に繋がったのではないか。しかもこの販路の拡大は、企業努力により、地道にジワジワと伸びた訳ではなく、行政の都合による後発医薬品の使用圧力によって拡大したものである。他力本願による業績の拡大、惰性でやる仕事にろくな仕事はない。

日本ジェネリック製薬協会(澤井弘行会長)は、3月29日から1年間、大洋薬品の会員資格停止処分を決定した。

1)RIS FAX,第5558号,2010.3.18.

2)RIS FAX,第5563号,2010.3.23.

3)日刊薬業,2010.3.30.

(2010.4.16.)

『目黄不動 最勝寺』

日曜日, 5月 2nd, 2010

鬼城竜生

正直に申し上げると、目青不動を最初に御参りに行き、目赤不動、目黄不動、目白不動から目黒不動と御参りに行き、一渡り御参りは済んだということにしたかったが、実はどういう訳か“目黄不動”は都内に二つあるということなのである。

最初は無視するつもりでいたが、二つあるうちの一つを無視することが良いのか悪いのか。気になると言うことから言えば、気になると言うことで、出かけることにした。二つ目の目黄不動は小松川の荒川の直ぐ側にあることになっており、天台宗の“目黄不動 最勝寺”というお寺である。

8月21日まだ暑い最中に出かけた。蒲田駅から京浜急行線に乗り入れている都営浅草線の浅草橋経由でJR総武本線の平井駅で下車。駅前の商店街を抜けて小松川小学校の前に。左側の道を取り、信号を通り抜けて最初の道を左に曲がり、三つのお寺の前を通り抜け、仁王門の見えるお寺が“目黄不動 最勝寺”である。

最勝寺は牛宝山(ごぼうざん)・明王院と号する。本尊は釈迦如来で、別に不動明王を安置し、通称目黄不動と言われている。最勝寺は貞観二年庚辰(860年)に、慈覚大師が東国巡錫のみぎり、隅田川畔(現・墨田区向島)の大樹のもとで、釈迦如来を観得して手ずから刻み本尊とし、一宇を草創したことが始まりである。同時に大師は、郷土の守護として『須佐之男命』を勧請して牛神社に祀り、大日如来を刻み、本地仏とした。

元慶元年(877年)に、慈覚大師の高弟・良本阿闍梨は、寺構の基礎を築き、最勝寺の開山となり、その時、当時を「牛宝山」と号した。その後、当寺は、本所田表町(現・墨田区東駒込)に移転した。江戸時代は、徳川家の崇拝が篤く、将軍が鷹狩りの際にしばしば立ち寄り「仮の御殿」が置かれた。明治の神仏分離に至るまで牛島神社の別当を勤めたが、その時神社の本地仏大日如来像は当寺に遷座した。

大正二年(1912年)に、駒形橋の架橋工事による区画整理で、現在地に移転した。[“目黄不動 最勝寺”折り紙より]。

本堂の前で頭を下げ、蓮の鉢を見ている時に、玄関から出てくる住職の姿が見えたので、御朱印を戴けますかと伺ったところ、どうぞということで、戻ってくれた。書いて戴くのを待っている間に、「上がって御不動さんを御参りしてください」と仰有って戴いたので、上がらせて戴いたが、不動堂の一種独特の雰囲気に圧倒され、写真を撮らせて戴きたいという御願いを忘れ、書いて戴いた御朱印を頂戴し、お庭の写真を撮らせてくださいと言うことで、何枚かの写真を撮らせて戴いた。所でここの仁王さんは余所の仁王と違い、丸顔という珍しいお顔をしていた。

ところで“目黄不動”と言っても眼が黄色いわけではない。眼が黄色ければ黄疸と言うことになるが、そんなことはない。

最勝寺不動堂に安置される不動明王は、天平年間(729-766年)に良弁僧都(東大寺初代別当)が東国巡錫のおり、隅田川のほとりで不動明王を感得され、自らその御姿を刻んで本尊とし一宇の堂舎を建立されたのに始まる。その後、当寺の末寺東栄寺本尊として祀られ、徳川氏の入府により将軍家の崇拝するところとなった。殊に三代将軍家光公の崇拝は厚く、江戸の町を守らしめるため、仏教の大意に基づいて江戸府内に五色不動(目青・目黄・目赤・目白・目黒)を設けた。五色不動は方位によって配置して方難除けとし、また江戸に入る主要な街道筋を守らしめ、江戸の町を守護せしめた。

当寺の不動明王は、この時より目黄不動と称され、広く信仰されたとしている。

明治の神仏分離により、東栄寺は廃寺となり、目黄不動明王は本寺最勝寺に遷座され、これより当寺は「明王院」と号して今日に至ると紹介されている。

此の五色不動の配置については、必ずしも上記の説が正しいとは限らないとする説もあるが、江戸の町の守護と言うことからすると、簡単に引っ越しをしているお寺もあり、どっちともいえないが、目黄不動明王だけが二つある理由も良く解らないようである。

*別当:別当とは、「別に当たる」の意であり、本来は「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」ということであり、「寺務を司る官職」である。別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義。

本日の総歩行数は8,007歩。歩く目標である一万歩を越えることは出来なかったが、本日の目標はここだけということで、他に行く予定はなかったので、歩行数が少ないの諦めるより仕方がない。

(2009.10.27.)