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『閻魔寺から六地蔵』

日曜日, 6月 6th, 2010

鬼城竜生

江戸三大閻魔の一つ、薬王山延寿院善養寺の場所を確認しようと地図を見ているうちに、妙なことに気が付いた。都営三田線西巣鴨駅で降りて、A2出口から出て直ぐの所に正方院・良感寺・清巌寺・善養寺・妙行寺・盛雲寺と幾つもの御寺が固まっているうちの一つ、善養寺が江戸三大閻魔の一つに数えられる御寺なのである。更にその近隣にある妙行寺はお岩さんのお墓がある御寺として知られており、更に白山通りを突っ切って栄和通りを都営荒川線の庚申塚目指して歩き、猿田彦大神のある交差点を左に行くと“とげ抜き地蔵”の安置されている高岩寺、それを過ぎて巣鴨駅を目指す右手に眞性寺があり、そこが六地蔵の安置されている御寺さんと言うことである。つまりこの狭い地域に、古い歴史を持つ御寺が集中していると言うことである。

最初に善養寺を御参りし、閻魔様の写真を撮ろうとしたが、物日ではないため、本堂の引き戸は施錠されていて中に入ることは出来なかった。仕方がないので引き戸の賽銭入の小窓から写真を撮ったが、室内が暗かったので思う写真は撮れなかった。仕方がないので庫裡をお訊ねして“御朱印”を御願いしたところ、うちは判子になっていますけど、それでもいいですかということだったので、それで結構ですと言うことで布施を御納めして頂戴した。

善養寺は天台宗の御寺で、薬王山延寿院と号す。本尊は薬師如来を安置する。善養寺は天長年中(824-833)に慈覚大師が草創し、本尊も同大師の作といわれている。額に圓萬の二字を刻す、黄檗木庵(おうばくもくあん)老人の筆なり。境内に閻魔堂あり、閻王の像は運慶の作なり。正月、7月16日に参詣群集する。

なお、善養寺の閻魔像は野州(現・栃木県)足利学校にあった聖像であるが、故あって善養寺に移されたとする話になっているようである。

境内1,000坪を超す大きさがあり、寛永寺の末寺である。嘗ては台東区坂本一丁目にあったが、寺地が鉄道用地となったため大正3年西巣鴨に転じてきたとされている。

次ぎにお岩様菩提寺とされる妙行寺に寄った。妙行寺でも御朱印を御願いしたが、暑かったでしょうと言われて、お茶を飲みながらお待ちくださいと冷えた麦茶を出して頂いた。正直な所、夏の盛りに歩いていたため、喉が渇いていたので、ほっとして有り難く頂戴した。その時頂いた冊子によると次の通り説明されていた。

新潟県三条市の本城寺を総本山とする法華宗陣門流の寺。当山妙行寺は、今よりおよそ400年前、後水尾天皇、徳川秀忠公征夷大将軍の頃、寛永元年四月、開基日善上人によって建立されました。御本尊は法華経に説かれる久遠実成の本仏である。始めは四谷鮫が橋(現在のJR信濃町駅付近)にあり、厚い信仰のもとに隆盛を極めていました。その後、明治四十二年、十八世日安上人の時に、政府の命に依り、現在地、西巣鴨に移転しました。

妙行寺とお岩様の関係については、同じ冊子に次の紹介がされている。

新宿区四谷鮫が橋に当山があったあたりは、江戸幕府の御家人の組屋敷があったところで、檀家の田宮伊右衛門の家もそこにありました。伊右衛門は三十五人扶持の田宮家に婿入りし、お岩と夫婦の契りを結びました。けれども、程なく隣家の組頭の職にある伊藤氏の娘とねんごろになり、妻お岩をことあるたびに虐待しました。お岩様の命日は寛永十三年二月二十二日。三十六歳でした。伊右衛門は、お岩様の亡くなった日から自業に悩まされ、二年後の寛永十五年七月二十二日、三十七歳で亡くなっています。

お岩様の法名は初め、得正妙念という簡単なものでした。けれどもその後田宮家では、いろいろと「わざわい」が絶えないので、享保四年二月二十二日(没後八十四年目)に、時の妙行寺住職四世日遵上人が、得證院妙念日正大姉と贈位して、大衆を随(したが)えて懇ろに読経回向を行いました。それから田宮家の因縁は一切取り除かれ、現在に至っています。現田宮家は十一代目。新宿区四谷左門町(田宮神社)にあり、当山において年一回は必ず追善供養を続けておられます。

妙行寺にはその他、浅野内匠頭の祖母、高光院殿と弟大学長広公婦人蓮光院殿のお墓がある。浅野家断絶の後、無縁となってその後の供養がされないと困ると言うことで、瑤泉院が金三十両を永代供養料として納めたという寄付状が現存するとされる。その他、日蓮像、法界塔(魚河岸で犠牲になった生類の供養塔)、浄行菩薩像(お釈迦様四大弟子のお一人)、うなぎ供養塔(うなぎ商組合の菩提心によって建てられた、犠牲食用うなぎの供養塔。塔上の観音像は高村光雲作)がみられる。常磐津名人初代林中師の墓もあるということだが、そこまでは確認していない。

妙行寺を出て新庚申塚駅まで歩き、白山道を通り抜けて庚申塚を目指して歩を進めた。妙行寺を出て直ぐの通りに『お岩通り』とする表示が眼に付いた。白山通りと交差する都電荒川線と並列する道が『お岩通り』のようであるが、商店街とするには些か首を捻りたくなる景観であった。

やがて巣鴨庚申塚(猿田彦大神)の小さな社に行き着いた。真っ直ぐ行けば『折戸通り』、左に行くと『巣鴨地蔵通り商店街』である。

巣鴨庚申塚は、江戸時代中山道の立場として栄え、旅人の休憩所として簡単な茶店もあり、人足や馬の世話もしていたとされる。社の入口に飾られている江戸名所図会の金属板にそれらの様子がにぎやかに描かれている。この場所は中山道板橋の宿場にも近く、右に向かえば花の名所「飛鳥山」、紅葉の王子にでる王子道の道しるべを兼ねた庚申塔が建っていたという。合祀されている猿田彦大神とは、日本神話に登場する神様で、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり道祖神と同一視されるようになったという。

庚申塚あるいは庚申堂について、次の解説が見られる。

庚申信仰の起源は、中国から伝わった道教の三尸説(さんしせつ)に求めることができる。それによれば、人の身体にいる三尸という虫が、60日に一度訪れる庚申の日の夜に人の罪状を天帝(てんてい)に告げに行くため、人々はこの晩は寝ずに過ごし、寿命が縮められるのを防ぐというものである。室町時代の中頃から庚申待(まち)が行われるようになり、さらに僧侶や修験者の指導によって講集団が組織され、江戸時代になると各地に庚申講がつくられ、その供養のため庚申塔が造立されるようになった。

江戸時代の文化年間(1804-1817年)に出された地誌「遊歴雑記(ゆうれきざっき)」によると、祠内に納められている庚申塔は明暦三年(1657年)一月の江戸大火後に造られ、その際、文亀二年(1502年)造立の高さ八尺の碑は、その下に埋められたとされている。その庚申塚は、旧中山道(現地蔵通り)沿いに展開した巣鴨町の北東端、すなわち旧中山道と折戸通りの交差地に位置し、天保年間(1830-1843年)に刊行された「江戸名所図会」では、中山道板橋宿に入る前の立場(休憩所)として描かれている。現在も都電の庚申塚停留所を下車して参拝する人や、とげぬき地蔵(高岩寺)の縁日帰りに立ち寄る人が跡を絶たない。

巣鴨地蔵通りを行くと右側に「とげぬき地蔵尊」の名で親しまれる御寺がある。正式には曹洞宗萬頂山高岩寺といい、慶長元年(1596年)に江戸湯島に開かれ約60年後下谷屏風坂に移り、更に明治24年(1891年)巣鴨に移転してきたとされる。

御本尊は「とげぬき地蔵」として霊験あらたかな延命地蔵菩薩である。こちらの地蔵菩薩様、秘仏とされているため、拝見させていただくことはできないが、そのお姿を元に作られた御影(おみかげ)に祈願しても効果があるとされており、高岩寺の本堂に安置されているという。

高岩寺を過ぎて更に暫く行くと江戸六地蔵尊第三番の安置されている眞性寺に行き着く。今回、眞性寺を御参りすると、現存する五つの唐銅製の地蔵を全て御参りしたことに成るはずであったが、残念ながら現在補修のため京都に送られているとのこと、代理に安置されている御地蔵さんを拝観した。

江戸六地蔵尊安置の御寺の一つとして知られるこの寺は、真言宗豊山派醫王山東光院眞性寺という。設立年代は不詳とされているが、境内には元和元年(1615年)に建立された松尾芭蕉の句碑が存在する。大きな傘をかぶり、杖を持つ御地蔵様は、江戸の六街道の出入口に置かれ、旅の安全を見守っていた(巣鴨は中山道の出入り口でした)とされる。関八州江戸古地図、江戸絵図ほか多くの文献から、眞性寺界隈は交通の要として賑わっていたことが伝えられている。

醫王山東光院眞性寺は、真言宗豊山派に属しており、奈良県の桜井市初瀬の総本山長谷寺の末寺であるとされる。開基は不明であるが、聖武天皇(在位:724年2月4日 - 749年7月2日)勅願。行基菩薩が開いたものと伝えられている。

御朱印を御願いしたところ、快く応じていただいたが、江戸六地蔵の縁起と共に、『納經印』についてとする文書を頂戴した。

『納經印』について

昨今、各ご寺院に参拝されて『納經印』を受ける方が大変多くなっております。これを御朱印とも言いますが、これは本来『お經』を自分で書寫して『お納め』することに始まっているものなのです。ですから昔は納經帳の右肩の所に『奉納大乗經典』と書かれておりました。現在は『奉拝』という文字になっております。

いつの頃か、この風習が簡略化されて、お經を収めなくとも参詣の証として『御判』を頂くことになって今日に及んでおります。そして各靈場を巡拝する『巡靈』信仰と結びついて盛んになりました。それは観音三十三札所を巡礼し或いは四国八十八ケ所を遍路し、その全部の靈場から『御判』を頂くと、その供徳によって地獄には堕ちないばかりか、所願も成就するという古来の信仰に基づいているものです。

このような視点から申しますと、お經も書寫せず、ただ朱印だけを集めて歩くと言うことでは、本来の尊い意議を無視してしまうことになるのであり、全く残念なことであります。ですから少なくとも『般若心經』一巻ぐらいは書寫なさるか御寶前で読誦なさるかした後、それから『納經印』をお受けになる様に願う次第であります。

醫王山 眞性寺

御願いの筋は理解するが、経文を書寫する習慣はなく、まして経文を唱える力量もない。仕方がないから書寫に代わるものとして一定額の喜捨をお納めするという方法を取っているのである。神社仏閣を廻り、色々な縁起を拝読する中で、宗教に対する本質的な興味を持ち始めたというのも事実である。多くの諸氏が動機は何であれ、御朱印を蒐集しているとすれば、その過程の中で宗教に対する興味を持つことはあり得ると思うのである。謂わば入門の行為としてそれがあるという理解で、御協力を頂ければ、喜ばしいという一語に尽きる。2009年8月27日のこの時の総歩行数は7,919歩。歩いたと思う割には歩いていなかったことになるが、暑い最中、熱射病にもならずに歩いたと言うことで、それなりの苦行を果たしたと言うことである。

(2010.1.11.)