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『目黄不動 最勝寺』

日曜日, 5月 2nd, 2010

鬼城竜生

正直に申し上げると、目青不動を最初に御参りに行き、目赤不動、目黄不動、目白不動から目黒不動と御参りに行き、一渡り御参りは済んだということにしたかったが、実はどういう訳か“目黄不動”は都内に二つあるということなのである。

最初は無視するつもりでいたが、二つあるうちの一つを無視することが良いのか悪いのか。気になると言うことから言えば、気になると言うことで、出かけることにした。二つ目の目黄不動は小松川の荒川の直ぐ側にあることになっており、天台宗の“目黄不動 最勝寺”というお寺である。

8月21日まだ暑い最中に出かけた。蒲田駅から京浜急行線に乗り入れている都営浅草線の浅草橋経由でJR総武本線の平井駅で下車。駅前の商店街を抜けて小松川小学校の前に。左側の道を取り、信号を通り抜けて最初の道を左に曲がり、三つのお寺の前を通り抜け、仁王門の見えるお寺が“目黄不動 最勝寺”である。

最勝寺は牛宝山(ごぼうざん)・明王院と号する。本尊は釈迦如来で、別に不動明王を安置し、通称目黄不動と言われている。最勝寺は貞観二年庚辰(860年)に、慈覚大師が東国巡錫のみぎり、隅田川畔(現・墨田区向島)の大樹のもとで、釈迦如来を観得して手ずから刻み本尊とし、一宇を草創したことが始まりである。同時に大師は、郷土の守護として『須佐之男命』を勧請して牛神社に祀り、大日如来を刻み、本地仏とした。

元慶元年(877年)に、慈覚大師の高弟・良本阿闍梨は、寺構の基礎を築き、最勝寺の開山となり、その時、当時を「牛宝山」と号した。その後、当寺は、本所田表町(現・墨田区東駒込)に移転した。江戸時代は、徳川家の崇拝が篤く、将軍が鷹狩りの際にしばしば立ち寄り「仮の御殿」が置かれた。明治の神仏分離に至るまで牛島神社の別当を勤めたが、その時神社の本地仏大日如来像は当寺に遷座した。

大正二年(1912年)に、駒形橋の架橋工事による区画整理で、現在地に移転した。[“目黄不動 最勝寺”折り紙より]。

本堂の前で頭を下げ、蓮の鉢を見ている時に、玄関から出てくる住職の姿が見えたので、御朱印を戴けますかと伺ったところ、どうぞということで、戻ってくれた。書いて戴くのを待っている間に、「上がって御不動さんを御参りしてください」と仰有って戴いたので、上がらせて戴いたが、不動堂の一種独特の雰囲気に圧倒され、写真を撮らせて戴きたいという御願いを忘れ、書いて戴いた御朱印を頂戴し、お庭の写真を撮らせてくださいと言うことで、何枚かの写真を撮らせて戴いた。所でここの仁王さんは余所の仁王と違い、丸顔という珍しいお顔をしていた。

ところで“目黄不動”と言っても眼が黄色いわけではない。眼が黄色ければ黄疸と言うことになるが、そんなことはない。

最勝寺不動堂に安置される不動明王は、天平年間(729-766年)に良弁僧都(東大寺初代別当)が東国巡錫のおり、隅田川のほとりで不動明王を感得され、自らその御姿を刻んで本尊とし一宇の堂舎を建立されたのに始まる。その後、当寺の末寺東栄寺本尊として祀られ、徳川氏の入府により将軍家の崇拝するところとなった。殊に三代将軍家光公の崇拝は厚く、江戸の町を守らしめるため、仏教の大意に基づいて江戸府内に五色不動(目青・目黄・目赤・目白・目黒)を設けた。五色不動は方位によって配置して方難除けとし、また江戸に入る主要な街道筋を守らしめ、江戸の町を守護せしめた。

当寺の不動明王は、この時より目黄不動と称され、広く信仰されたとしている。

明治の神仏分離により、東栄寺は廃寺となり、目黄不動明王は本寺最勝寺に遷座され、これより当寺は「明王院」と号して今日に至ると紹介されている。

此の五色不動の配置については、必ずしも上記の説が正しいとは限らないとする説もあるが、江戸の町の守護と言うことからすると、簡単に引っ越しをしているお寺もあり、どっちともいえないが、目黄不動明王だけが二つある理由も良く解らないようである。

*別当:別当とは、「別に当たる」の意であり、本来は「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」ということであり、「寺務を司る官職」である。別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義。

本日の総歩行数は8,007歩。歩く目標である一万歩を越えることは出来なかったが、本日の目標はここだけということで、他に行く予定はなかったので、歩行数が少ないの諦めるより仕方がない。

(2009.10.27.)