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『行元寺、蛸薬師』

日曜日, 3月 21st, 2010

鬼城竜生

 前回、目黒不動と五百羅漢寺を御参りに行った時、羅漢寺から直ぐの処にある“蛸薬師”を見過ごしにしたことが気になり、どんなお寺だろうという興味と共に、五百羅漢寺の羅漢さんにはそれぞれ名前と名前に因んだ金言名句が付けられているというので、できれば再度羅漢寺に御参りして、羅漢さんの言葉を書いた冊子があれば頂戴したいものだと考え、8月19日(水曜日)再度出かけることにした。

 JRの目黒駅で降りて東急目黒線に乗り換え、不動前駅でおり、駅前の通りを真っ直ぐ行くと“かむろ坂通り(禿坂)”に出る。その道を左に曲がり、横断歩道を渡って暫く歩くと、右に上がる石段を工事している職人さんがおり、何気なくその上を見ると、奥に石仏があるのが見えた。登っていくと門の前に「大震災横死者供養塔」があった。その道の奥に建物が見えたが、どう見ても民家にしか見えなかったのと、門扉も閉じられているように見えたので、その奥までは入らなかった。後で調べたところ、どうやら“行元寺”というお寺があったようである。

 行元寺の由緒に寄れば、『牛頭山千手院行元寺は、元は牛込肴町にあり行願寺とも称されていた。 本尊である千手観音は恵心僧都の作と伝えられ、 甞て頼朝公が石橋山で敗戦して、 関東下向の砌、行元寺に来詣し本尊に祈願して曰く、もし天下に覇たるを得ば荘田を寄附し、永く法燈を輝かさんと。 其の夜尊像を襟にし、 天下を平定すと夢を見る。 後に霊夢の如くなると。 故に世俗これを襟掛の尊と称す。 又一説には、行元寺は室町時代、太田道灌が江戸城を築いた時に、地鎮祭を行ったという名僧尊慶によって開かれたとも言われるが詳しくは詳らかではないとされる。 現在地には、明治の末に区画整理により移転した。 戦火により本堂焼失以後、 昭和30年コンクリートブロックの本堂を建て、 本尊を安置してあるという。 行元寺は、頼朝公祈願により、 祈願寺として維持しております』の解説がみられる。

 供養塔の階段を下り、最初の信号を右に入って暫く行くと、安養院の門前に出る。前回境内を拝見させて頂いたので、門前を素通りして、直ぐの十字路を右に曲がると商店街沿いの右手にある“蛸薬師”の門前に立つことができた。

 天台宗目黒成就院は、『天台宗の宗祖である慈覚大師円仁は、比叡山開山伝教大師最澄の高弟である。栃木県壬生町生まれ、幼くして伝教大師をしたって比叡山に登り、学問修行にはげまれました。承和五年(832年)唐に渡り、同十四年に帰国されるまで、色々と苦学し、唐各地をまわり、たくさんの仏法を伝えて帰られました。大師は若いときから眼病を患い、四十才のとき、みずから薬師さまの小像を刻み、御入唐の時もこれを肌身につけて行かれましたが、お帰りの海路、波風が荒れましたので、その御持仏を海神に献じて、危急をのがれ、無事に筑紫の港に帰り着かれました。その後、諸国巡化のみぎり、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、さきに海神にささげられたお薬師さまのお像が、蛸にのって浮かんでおられました。大師は随喜の涙にむせび給い、その後東国をめぐり天安二年(858年)目黒の地に来られました時、諸病平癒のためとて、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木にきざみ、護持の小像をその胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来とたたえられました。かくして本尊の殊勝の十二大願による福徳威力、信心の人は、心願ことごとく成就し、除災長寿の利益あまねく千余年のいまに至るまで、弘く信仰されてきました。』とする説明がされている。

 最初、蛸薬師という名前を見た時、蛸をお祀りする薬師如来というのも妙な話だと思っていたが、薬師如来が蛸に乗って帰ってきたという話で、蛸が付いている理由については納得した。

 『オンコロコロ センダリ マトゥギ ソワカ』は薬師如来を念ずる時に唱える文言で、お薬師さんの真言であるとされている。薬師如来の正名は『薬師瑠璃光如来』で、十のガンジス川の砂を集めた位無数の仏の国土を過ぎた彼方の浄瑠璃世界の仏であるという。薬師如来は修行中の十二願のうち『病を治す、願い事を叶える』が大衆的に向迎されたことから我国に仏教が伝来した時、お釈迦さまの仏像が伝えられた直ぐ後に薬師信仰が盛んになったのは病を治す、願い事を叶えるという大衆的な二願を叶える仏としての信仰の発露ということのようである。

 さて、再度、五百羅漢寺に御参りし、白沢は獏なりという中国の風習から作られたという『白沢像(獏王像)』を見て、当初目的とした冊子を入手、目黒不動を回り、東急目黒線の駅に戻り、電車で帰ってきた。本日の総歩行数は7,882歩で、目標とする1万歩には到達しなかった。

1)市川智康:仏さまの履歴書-NaM Book;株式会社水書坊,1979

(2009.10.24.)

『目黒不動・五百羅漢、それから………』

日曜日, 3月 21st, 2010

鬼城竜生

 五色不動巡りは目黒不動を御参りすれば終わりを迎えると考えていたが、今まで廻ってきたお寺に比べて、場所が場所だけに混雑していると嫌だなと思い、出かけるのは億劫だなと思っていたが、何れにしろ御参りに行かなければ、終わらないと云うことで、8月12日(水曜日)重い腰を持ち上げた。

 JRの目黒駅で降りて東急目黒線の不動前駅でおり、駅前の通りを真っ直ぐ行くと“かむろ坂通り”に出る。その道を左に曲がり、暫く歩き、最初の信号を右に入って暫く行くと、安養院の門前に出る。御参りする予定のお寺ではなかったが、由緒ありげなお寺だったので写真だけでもと思い、門内を拝見させて頂いた。

 安養院の由緒によると、『当山は臥龍山安養院能仁寺という。開山は平安の初め、天台宗第三世慈覚大師によって開かれた。中興開山は木喰唱岳長音上人(モクジキ ショウガク チョウオン ショウニン/1601-1677)だとされる。長音上人は、近世における木喰行者の頂点と言われる弾誓上人(タンセイショウニン/1551-1613)の弟子で、二世弾阿上人と共に、諸国を回りながら作仏、彫像を多く残こした木喰僧として有名である。また、佐渡や信州に弾誓寺を創建した。晩年は秋田で地中深く据えられた棺の蓋を自ら閉じ、念仏を唱えながら捨身入定され、静かに極楽に参られたと言われる。当山の御本尊は、その長音上人の御作で金色八尺の涅槃像です。山門は太平洋戦争の空襲で焼失をまぬがれた江戸時代の建造物ですが、そこには独湛筆の「安養院」の扁額を見る事が出来る」とされている。 

 『独湛 性瑩(ドクタン ショウケイ/1627-1706)は、高僧隠元と共に1654年に来日した明代の僧で、宇治の万福寺四世になりました。また墓地には、大般若経の校正者として名高い、慈海宋順大僧正の石造観音像があり、彼との深いつながりを知ることが出来ます。その当時、安養院は天台宗の寺院でありましたが、宗派を越えた修行僧達との交流があったことが偲ばれます。境内を見れば、長音上人造立の巨大な念仏供養塔をはじめ、「廻国六十六部法華納経所塔」、「鉄砲塚供養塔」など、当時の参拝者の安養院に対する信仰の強さを思う遺跡を多く見ることが出来ます。安養院の石造文化財の多さには目を見張るものがあります。

 その中で、特筆すべきものは、当山檀祖、称専院殿様の五輪塔でありましょう。

 称専院(ショウセンイン)殿様は藝州浅野家(忠臣蔵の赤穂浅野家の本家)の太守長晟(ナガアキラ)公の室で、八代姫と仰せられる京の公家の御出身でした。太守亡き後、家康の知恵袋、天海大僧正の導きにより、当山で出家され、御修行を重ね、安祥として極楽往生されました。荼毘に際し、五色の舎利が現れたといわれています。まわりには、最後まで供をした侍女達が観音の姿となって守っています。お姫様と侍女達の来世までの深い結びつきを想う優美さのある墓所なのです。この後、浅野家の庇護のもと、安養院は発展していきました。寝釈迦の寺として、長寿とぽっくり信仰で賑わうようになったのも、この頃からと思われます。』との解説が見られるが、由緒正しい古刹である。もう少し世に知らしめてもいいのではないかと思うが、まあ、お寺が宣伝をすると云うのも妙なものかもしれない。

 安養院の正門から出て、元の道に戻り、道の突き当たりにある目黒不動に参詣した。まず、今まで廻ってきた五色不動の中では、最も大きなお寺ではないかと思われる。関東三十六不動霊場 第十八番札所、江戸三十三観音霊場 第三十三番札所、山の手七福神 恵比寿?神。どういう訳か、門前左手に平井権八と小紫の比翼塚があった。また、連理塚(安楽寺;西大崎)があり、歌舞伎の題材となってからますます有名になったというが、歌舞伎では白井権八となって幡随院長兵衛の相手役になっている。

 天台宗、泰叡山瀧泉寺。目黒不動尊

 瀧泉寺の縁起によると、『瀧泉寺の開基は、今から一千百余年前の平安時代(808年)に遡る。十五歳の慈覚大師・円仁(後の天台座主第三祖)が、師の広智阿闍梨に伴われて、故郷の下野国(今の栃木県)から比叡山の伝教大師・最澄のもとへ向かう途中、目黒の地に立ち寄りました。その夜の夢中、面色青黒く、右手に降魔の剣を提げ、左手に縛の縄を持ち、とても恐ろしい形相をした神人が枕の上に立ち現れて『我、この地に迹(じゃく)を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思うなり。来って我を渇仰せん者には、諸々の願ひを成就させん』と告げ、夢覚めた後その尊容を黙想し自ら、像を彫刻して安置したのに創まります。(ご尊像は秘仏として十二年に一度、酉年にご開帳されます)。その後、大師は唐(今の中国)の長安にある青竜寺の不動明王を拝し、先の神人がこの明王であると分かり、帰朝して堂宇を建立します。棟札に『大聖不動明王心身安養咒願成就瀧泉長久』と認め、この「瀧泉」をもって寺号と成し、山号は清和の御代に「泰叡」の勅額を賜り、泰叡山と称しました。』 

 『関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて日本三大不動の一つに上げられます。また、堂宇建立の敷地を定めるに当たり、大師が所持の法具「独鈷」を投じた浄地より湧出した「独鈷の瀧」の流れは、数十日間の炎天旱魃が続いても涸れることなく、不動行者の洗心浄魂の場として、今日に至るまで滔々と漲り落ちています。江戸時代には、徳川三代将軍家光がこの地で鷹狩りををした際、その愛鷹が行方知れずになり自ら不動尊の前に額ずき祈願を籠めました。すると、忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰ってきたので家光公はその威力を尊信し、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍の復興を成し遂げました。その伽藍は『目黒御殿』と称されるほど華麗を極めました。(広重の「江戸名所図会」に詳しい)。かくして五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして江戸城守護、江戸城五方の方難除け、江戸より発する五街道の守護に当てられ、江戸随一の名所となりました。明治時代になると西郷隆盛や東郷元帥等が篤い信仰を寄せられ、祈願に訪れております。さつまいもの栽培を広めた食料の恩人、青木昆陽先生は蘭学者・文化人としても日本社会に貢献し、目黒の土地を愛して、自ら『甘藷先生墓』と書きました。そのお墓が今は国の史跡となっております。』と紹介されている。

 男坂を登ると正面に大本堂があり、その後ろに回ると露座の大日如来像がみえる。その後ろに地の神を祀る社があり、縦に一列に並んでいるというのが印象に残った。

 ところで境内の便所に“湯放処”(ゆまりどころ)の文字が見られたが、これは仏教関係の特異な言い方なのであろうか。それともどなたかが洒落のめしたのか。

 今回も御朱印を頂戴したが、“一隅を照らす”とした“御朱印について”の文書を頂いた。

 『現代では、御朱印(納経)は霊場に参詣して、宝印を頂くことのみを指すようになってきています。しかし、もともとは生きている我々の現世安隠や、亡くなった方への追善供養のため経文を書写して、お寺(諸国霊場)に納め、その証にお寺の御宝印を頂いて巡礼したことに始まります。また、朱印を自分を含め亡くなった方の御棺の中に入れますと、極楽浄土への道しるべ(切符)になるという信仰も御座います。このことを念頭におき、納経をされ、御参拝しますと、素晴らしい功徳が頂けると言い伝えられています。

 素晴らしい功徳は、生きとして生きるもの全てに及ぶことでしょう。』

 世間一般に名の通ったお寺や神社では、場違いな連中が御朱印を願い出ることがあるのかもしれないが、だからといって全てが観光客ばかりということではないはずである。神社仏閣を巡るということ、然も、巡ることを純粋な目的としているということであれば、結果的には巡礼と同じ行為になるのではないか。表面的な姿形は、いわゆる同行二人の姿形と異なることから巡礼にはならないという御意見も頂戴するかもしれないが、内面的な課題として、それぞれが抱え込んでいる課題を解決するため、何らかの悟りに近づきたいという想いが根底にあれば、十分巡礼と同じということになるのではないか。

 どういう訳があったのか、学生時代、新聞で五百羅漢寺の記事を読んでいこう、何時かは行こうと思いながら今日までこれなかったという、因縁のあるお寺である。一つには羅漢さんの写真を撮りたいという想いと、多くの羅漢さんの中に亡くなった人の顔があるということに興味を惹かれたということである。

 目黒不動の門を潜り左に道を取り、目黒不動の塀沿いに行くと、突然、それこそ突然というような格好で五百羅漢寺の前に出た。五百羅漢寺の宗派は、かつては黄檗宗だったが、現在は浄土宗系の単立。山号は天恩山。開基は松雲元慶、開山は鉄眼道光、本尊は釈迦如来。300体以上の羅漢像を祀っている(当初は536体あった)。当初は本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)に在り、徳川綱吉や吉宗が支援したが、埋め立て地にあったためか度々洪水に見舞われて衰退し、明治時代に目黒の現在地に移転した。

 木造釈迦三尊及び五百羅漢像等は、その殆どが松雲元慶禅師(1648-1710年)が彫刻したものであるとされる。松雲禅師は、出家後、五百羅漢像を彫刻しようと発願し、各方面からの浄財を受け、江戸浅草で着工、十余年を費やして本尊以下五百羅漢像536体を完成させ、元禄八年(1695年)本所五つ目通りに創建された五百羅漢寺に安置しました。

 折からの五百羅漢信仰の波に乗って江戸市民の信仰を集め「本所の五百羅漢」として親しまれていましたが、その後度重なる天災地変に遭い明治四十一年(1908年)に現在地に移り、現在は305体の像が残っている。

 像は全て寄木造、大多数が彫眼、漆箔です。本尊の釈迦如来は、高さ356cmですが、五百羅漢像は高さ78-90cmで、一つ一つが違っており、近世彫刻史上、大変貴重な文化財ですと説明されている[東京都教育庁:-都指定有形文化財(彫刻)-木造釈迦三尊及び五百羅漢像等;POST CARD,2003.11.]。

 館内の五百羅漢像は、写真撮影禁止であり、当初の目的の一つは果たせなかったが、本堂に配置されている五百羅漢を前にして、釈迦如来の説教の声が聞こえる仕掛けは、それなりに面白いといえる。

 帰りは山手通りを左に入り、“大鳥神社”に寄るつもりが、大聖院という大きなお寺が眼に付いたので、境内に入れて頂いたが、そこで切支丹灯籠の写真などを撮らせて頂いた。また、大鳥神社でも切支丹灯籠が見られたので、写真を撮らせて頂いた。その後、権之助坂を経由してJR目黒駅から帰途についた。本日の総歩行数10,750歩。

(2009.9.22.)

『武蔵御嶽神社』

日曜日, 3月 21st, 2010

鬼城竜生

2009年9月14日(月曜日)-15日(火曜日)の両日にかけて、東京医労連OB会の会合が、御嶽山の御師集落にある御岳山荘で行われることになった。この御岳山荘は、東京医労連の労働学校が永年にわたり行われた場所で、OB会の会員には思い出深い場所である。それぞれ現役の頃、各単組の若手を連れて労働学校に参加し、二泊三日の缶詰教育を受けるのである。勿論、勉強だけではなく、夕食後の交流会では班毎に出し物を出し、順位を決めて賞品を出すとか、下界から持ち込んできた酒を酌み交わして侃々諤々の論議を繰り返す。

しかし、ここで巣立った若い仲間は、その後の労働運動で迷いを生ずることなく、組合活動の重要な人材として育ったと確信している。新たに組合に加入した人達をこの労働学校に連れてこれない単組は、本体の活動そのものに活気が感じられなくなる様な気がしていた。組織にとってそれだけ重要な学校をやった場所である。OB会で一泊旅行をしようかという話になったときに御嶽に行こうと提案したところ、大方の賛同を得られた結果、この両日に計画したと言うことである。

当日は、勉強会も兼ねて『看護婦闘争の到達点-現状は何処まで来たか』について現役の役員に講演して貰うのと、元役員で青森の病院に入院した経験者?に、『地方病院における看護を受けた経験』等と言う面白い課題で語って貰うことになっていた。

当日、左膝を痛めたばかりで、山登りに不安があったが、御嶽神社まで行ってみることにした。今まで何回か労働学校に参加してきたが、御嶽神社まで行ったのは一回のみで、特段手を合わせたわけではなく、今回は御朱印を頂戴したいと言うことで、御参りに行くことにして早めに家を出た。

川崎から立川に出て、JR御嶽駅へ。御嶽駅からバスで滝本駅まで。滝本駅からケーブルで御岳山駅へ。駅から歩き始めて神代ケヤキの前を通り、御師集落を右手に見て真っ直ぐ御嶽神社に。しかし、神社までの道程は階段を登話なので、膝に相談したところ、登っても下りは保証しないという返事であった。仕方がないので女坂を探してそこを登ることにしたが、それでも手摺りに縋って登という体たらくで、嘗て健脚を誇った身には情けない話である。それでもどうにか神社まで登ることが出来、御朱印帳に御朱印を頂くことが出来た。その時“武蔵御嶽神社”の縁起を頂戴したが、御岳山について「関東平野の西の一角にそびえる御岳山は、標高929m、秩父多摩甲斐国立公園の表玄関であり、古くから霊山と崇められた信仰の山です。山頂に鎮座する武蔵御嶽神社からは、遠く日光連山、筑波山、新宿新都心の高層ビル群はもとより、房総半島、江ノ島まで望むことが出来、都心から身近な別天地として知られています」と紹介されている。

武蔵御嶽神社の社伝に依れば、創建は第十代崇神天皇七年(紀元前91年)と伝えられ、平安時代の延喜式神名帳には、大麻止乃豆乃天神(おおまとのつのあまつかみのやしろ)として記されており、古くより関東の霊山として信仰されて参りました。山岳信仰の興隆と共に、中世関東の修驗の一大中心として、鎌倉の有力な武将達の信仰を集め、御嶽権現の名で厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。

天正十八年徳川家康公が関東に封ぜられますと、朱印地三十石を寄進され、慶長十一年(1606年)大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築、南向きだった社殿を江戸城守護のため東向きに改めました。人々の社寺詣でが盛んになると共に、御嶽詣でも、武蔵・相模を中心に関東一円に広がり、講も組織され、現在に及んでおります。

また、日本武尊御東征のみぎり、この地で難を狼により救われたと言われ、以来神社の守りしめとして多くの人々の崇敬を集めております。明治維新により、御嶽神社の社号となり、更に昭和二十七年武蔵御嶽神社と改めました。現在の弊殿拝殿は元禄十三年(1700年)に徳川幕府により造営されたものです。

明治に入ると神仏分離によって、それまでの御嶽大権現から大麻止乃豆天神社に改称した。これは当社が延喜式に載せられている「大麻止乃豆天神社」に比定されたためであるが、同様に大麻止乃豆天神社であると比定される神社が他にもあったため(稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社)、御嶽神社と改称した。

御祭神は櫛真智命(くしまちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、廣國押武金日命(ひろくにおしたけかねのひのみこと)、奥宮:日本武尊、御眷属:大口眞神(おおくちまがみ)。

大口眞神は、本社玉垣内にある大口眞神社に祀られているが、御嶽神社の眷属である狼を祀っている。古くは神饌を供える台のみであったが、江戸時代末期に社殿が建てられた。現在の社殿は昭和十四年(1939年)に建てられた一間社流造の社殿で、豪華な彫刻が全体に施されている。社殿後方は奥宮遥拝所となっている等々の説明が記載されていた。

9月14日は、足を庇いながらの御参りであったが、総歩行数は8,168歩であった。

14日の夜は、久々に遅くまで酒を呑んだが、皆元気で、遅くまでお付き合いいただいた。中には古い先輩もおいでになったが、これがまた元気はつらつとしていた。

翌朝、例によって前日の酒が残り気味で、頭が痛いと言う所までは行かなかったが、希望者はハイキングをするという計画があったが、膝痛を口実として不参加、青森から参加した仲間と共に先に帰ると言うことで山荘を出たが、乗換駅の立川で、此方は南部線、彼は中央線で東京駅を目指すと言うことで、立川の駅前にある彼が昔飲んでいたという店が昼からやっていると言うことで寄ることにして、暫く酒を酌み交わした。しかし、彼の切符の時間もあると言うことで、2時間ばかりで切り上げたが、それ以上飲んでいたのでは、また家に帰れないなんてことになっていたに違いない。

15日の総歩行数は4,647歩であった。

(2010.1.13.)