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『武蔵御嶽神社』

日曜日, 3月 21st, 2010

鬼城竜生

2009年9月14日(月曜日)-15日(火曜日)の両日にかけて、東京医労連OB会の会合が、御嶽山の御師集落にある御岳山荘で行われることになった。この御岳山荘は、東京医労連の労働学校が永年にわたり行われた場所で、OB会の会員には思い出深い場所である。それぞれ現役の頃、各単組の若手を連れて労働学校に参加し、二泊三日の缶詰教育を受けるのである。勿論、勉強だけではなく、夕食後の交流会では班毎に出し物を出し、順位を決めて賞品を出すとか、下界から持ち込んできた酒を酌み交わして侃々諤々の論議を繰り返す。

しかし、ここで巣立った若い仲間は、その後の労働運動で迷いを生ずることなく、組合活動の重要な人材として育ったと確信している。新たに組合に加入した人達をこの労働学校に連れてこれない単組は、本体の活動そのものに活気が感じられなくなる様な気がしていた。組織にとってそれだけ重要な学校をやった場所である。OB会で一泊旅行をしようかという話になったときに御嶽に行こうと提案したところ、大方の賛同を得られた結果、この両日に計画したと言うことである。

当日は、勉強会も兼ねて『看護婦闘争の到達点-現状は何処まで来たか』について現役の役員に講演して貰うのと、元役員で青森の病院に入院した経験者?に、『地方病院における看護を受けた経験』等と言う面白い課題で語って貰うことになっていた。

当日、左膝を痛めたばかりで、山登りに不安があったが、御嶽神社まで行ってみることにした。今まで何回か労働学校に参加してきたが、御嶽神社まで行ったのは一回のみで、特段手を合わせたわけではなく、今回は御朱印を頂戴したいと言うことで、御参りに行くことにして早めに家を出た。

川崎から立川に出て、JR御嶽駅へ。御嶽駅からバスで滝本駅まで。滝本駅からケーブルで御岳山駅へ。駅から歩き始めて神代ケヤキの前を通り、御師集落を右手に見て真っ直ぐ御嶽神社に。しかし、神社までの道程は階段を登話なので、膝に相談したところ、登っても下りは保証しないという返事であった。仕方がないので女坂を探してそこを登ることにしたが、それでも手摺りに縋って登という体たらくで、嘗て健脚を誇った身には情けない話である。それでもどうにか神社まで登ることが出来、御朱印帳に御朱印を頂くことが出来た。その時“武蔵御嶽神社”の縁起を頂戴したが、御岳山について「関東平野の西の一角にそびえる御岳山は、標高929m、秩父多摩甲斐国立公園の表玄関であり、古くから霊山と崇められた信仰の山です。山頂に鎮座する武蔵御嶽神社からは、遠く日光連山、筑波山、新宿新都心の高層ビル群はもとより、房総半島、江ノ島まで望むことが出来、都心から身近な別天地として知られています」と紹介されている。

武蔵御嶽神社の社伝に依れば、創建は第十代崇神天皇七年(紀元前91年)と伝えられ、平安時代の延喜式神名帳には、大麻止乃豆乃天神(おおまとのつのあまつかみのやしろ)として記されており、古くより関東の霊山として信仰されて参りました。山岳信仰の興隆と共に、中世関東の修驗の一大中心として、鎌倉の有力な武将達の信仰を集め、御嶽権現の名で厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。

天正十八年徳川家康公が関東に封ぜられますと、朱印地三十石を寄進され、慶長十一年(1606年)大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築、南向きだった社殿を江戸城守護のため東向きに改めました。人々の社寺詣でが盛んになると共に、御嶽詣でも、武蔵・相模を中心に関東一円に広がり、講も組織され、現在に及んでおります。

また、日本武尊御東征のみぎり、この地で難を狼により救われたと言われ、以来神社の守りしめとして多くの人々の崇敬を集めております。明治維新により、御嶽神社の社号となり、更に昭和二十七年武蔵御嶽神社と改めました。現在の弊殿拝殿は元禄十三年(1700年)に徳川幕府により造営されたものです。

明治に入ると神仏分離によって、それまでの御嶽大権現から大麻止乃豆天神社に改称した。これは当社が延喜式に載せられている「大麻止乃豆天神社」に比定されたためであるが、同様に大麻止乃豆天神社であると比定される神社が他にもあったため(稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社)、御嶽神社と改称した。

御祭神は櫛真智命(くしまちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、廣國押武金日命(ひろくにおしたけかねのひのみこと)、奥宮:日本武尊、御眷属:大口眞神(おおくちまがみ)。

大口眞神は、本社玉垣内にある大口眞神社に祀られているが、御嶽神社の眷属である狼を祀っている。古くは神饌を供える台のみであったが、江戸時代末期に社殿が建てられた。現在の社殿は昭和十四年(1939年)に建てられた一間社流造の社殿で、豪華な彫刻が全体に施されている。社殿後方は奥宮遥拝所となっている等々の説明が記載されていた。

9月14日は、足を庇いながらの御参りであったが、総歩行数は8,168歩であった。

14日の夜は、久々に遅くまで酒を呑んだが、皆元気で、遅くまでお付き合いいただいた。中には古い先輩もおいでになったが、これがまた元気はつらつとしていた。

翌朝、例によって前日の酒が残り気味で、頭が痛いと言う所までは行かなかったが、希望者はハイキングをするという計画があったが、膝痛を口実として不参加、青森から参加した仲間と共に先に帰ると言うことで山荘を出たが、乗換駅の立川で、此方は南部線、彼は中央線で東京駅を目指すと言うことで、立川の駅前にある彼が昔飲んでいたという店が昼からやっていると言うことで寄ることにして、暫く酒を酌み交わした。しかし、彼の切符の時間もあると言うことで、2時間ばかりで切り上げたが、それ以上飲んでいたのでは、また家に帰れないなんてことになっていたに違いない。

15日の総歩行数は4,647歩であった。

(2010.1.13.)