Archive for 2月 22nd, 2008

トップページ»

『I先生からの手紙』

金曜日, 2月 22nd, 2008

                                                                        鬼城竜生

 

I先生から絵葉書を頂戴した。左の背後に電飾された東京タワーが聳え立ち、緑青色にライトアップされたプリンスホテルが俯瞰的に写し出されている絵葉書である。絵葉書の画面を眺めているうちに、先ず最初に胸に来たのは、この写真は何処から写したのか ということである。高い位置から撮らなければこのような写真を撮ることは出来ないが、他の建物に邪魔されずにこのような写真が東京タワー-001 撮れるところが、あの立て込んだ地域の何処にあるのだろうかという疑問である。

次に唐突に思いが至ったのは、そういえば東京タワーは遠くから眺めたことはあるが、側に行ったこともなければ登ったこともないということである。

まあ、一度位は行っておくかというので、1月16日(水曜日)にカメラ片手に出かけた。

大江戸線大門駅で降り、日比谷通りを横切って増上寺(三縁山広度院増上寺)の庭に入り、増上寺の建物を取り込んだ東京タワーの写真を何枚か撮した。

その後、時間としては、昼を過ぎていたので、東京タワーに登る前に、眼に付いた増上寺の境内にあったお休み処(芝縁)で、覗いてみたら偉く閑散としていたので、昼飯を食うことにして入ってみた。入ったは良いが、注文した鰊蕎麦に口を付けるまでは、失敗したかなと若干心配していたが、妙なところにある店の割には、真っ当な蕎麦が出てきたので安心して食うことが出来た。

店を出ると千躰子育て地蔵を左手に見て、一般道が通っており、それを通り抜けると東京タワーに出る。東京タワーでは大展望台東京タワー-002 (150m)と特別展望台(250m)の展望券を販売していた。どうせ番度登りに来るところではないということで、両方まとめて面倒を見ることにしたが、人の建て込んでいる日では上に揚がるのは相当手間暇かかるだろうと思われたが、流石に平日のこともあり、足 止めをされることなくエレベータに乗ることが出来た。大展望台で下りて一回り周りを見学し、次に特別展望台行きのエレベータに乗り換えて、250mの位置にある特別展望台に揚がった。残念なが ら快晴とはいかず、パンフレットに書かれている富士山を見るほど遠方の風景を見ることは出来なかったが、それでも海の見える風景は、大きな広がりを見せて眼に迫ってくるため、納得をするものであったが、写真が撮れたかどうかは別の話である。何せガラス越しに撮る写真である、完成度が低くても仕方がない。

早々に下りてきて東京タワー水族館に入ってみたが、世界初の観賞魚専門の水族館として1978年に開館したということであるが、館内に生臭系の臭いが充満しているのには些か参った。他の人は平気な顔をして見学していたようであるが、あれはそういうもんだと思って見学していたのではないかと思うが、とてものことに長居は出来なかった。もう少し換気の工夫はした方がいいのではないか。

帰り際に再度増上寺の境内に入り『徳川将軍家墓所』を拝見させていただき、大殿の中を見学させていただいた。その時、外国の子供東京タワー-003達が大勢、先生に連れられて見学して歩いていたが、何か特別の謂われがあるのかどうか。境内にグラント杉なるものが植えられており、明治12年(1879年)、アメリカ合衆国第18・19代大統領グラント将軍が訪日の際、参拝記念に植樹されたものの説明がされており、この関係で外国人学校の小学校の子供達が、見学に来るのかもしれない。
帰りは芝公園の中に足を踏み入れたが、紅葉滝なる滝が流れ落ちていた。都会のど真ん中に、小なりとはいえ滝を維持するのは  大変なことと思うが、関係者の努力に拍手を送る次第。

大江戸線大門駅に戻る途中、居酒屋“秋田屋”によって燗酒1本(2合徳利)とお一人様1本限りの『タタキ』と『タン塩』で一杯やったが、本日の歩数は11,272歩ということである。

ところでI先生の絵葉書に『八十路に酒のみ遊ぶ友が好し』、『年老いて真実話せるガキ大将』の二句が書かれていたが、I先生は川柳作家である。何時もお手紙を頂く度に、幾つかの句が書かれているが、現在の世相を洒落のめすという句風より、先生御自身の心象風景を切り取って見せてくれるとい句風であると拝察させていただいている。

最も故地虎は川柳は全く駄目で、へぼ句を捻る程度であるから、正確な評価は出来ないが、I先生の作品を読ませていただいているうちに、その辺の見当が付くようになったということである。

                                                                  (2008.1.31.)

適応外使用『フィブリン糊』

金曜日, 2月 22nd, 2008

                                                                  医薬品情報21
                                                                        古泉秀夫 

薬害C型肝炎問題で、手術時の縫合用接着剤として使用された『フィブリン糊』で感染したとみられる患者2人が、国などに対する損害賠償請求訴訟に加わったことが、7日終わった。血液製剤フィブリノゲンによる感染で提訴した原告は170人以上いるが、この製剤に別の薬品を加えて作るフィブリン糊の使用による提訴は初めて。『糊』は心臓外科などで、フィブリノゲン使用者の3分の1以上に当たる7万9000人に使われたと推定されているが、被害調査も遅れている。患者は「潜在的な感染者が多数いるはず、早急な調査と救済を」と訴えている[読売新聞,第47328号,2007.12.7.]。

フィブリン糊:フィブリノゲンに他の複数の製剤を配合して使う。1981年頃から1987年頃まで外科、心臓外科、脳外科、整形外科などで縫合時の止血用として使われた。旧ミドリ十字は19人の感染例を把握していた1989年に「『糊』による感染者はゼロ」と厚生省(当時)に虚偽報告。1988年以降他社がキットとして発売したが、これによる感染報告はない。

東京都内の私立病院で心臓手術時に縫合用接着剤『フィブリン糊』を930人に使い、このうちの少なくとも57人がC型肝炎ウイルスに感染していることが12日分かった。薬害C型肝炎集団訴訟の被害者救済法では『糊』も血液製剤「フィブリノゲン」と同様に救済の対象になるが、原告207人のうち『糊』を使用した人は2人に止まっている。『糊』による感染症は厚生労働省の調査でも50人弱しか判明しておらず、実態把握が大幅に遅れていることが改めて浮き彫りになった。

主に産科の出血時に使われたフィブリノゲンとは異なり『糊』は薬事法で承認された使用方法ではなかった。しかし、発売元の旧ミドリ十字は、小冊子を作るなどの広く使用法を紹介し、心臓外科、整形外科、脳外科などで止血用や手術時の縫合用(縫合時の縫い目の封鎖用)として幅広く使われた。厚生労働省は『糊』の使用者を7万9000人と推計している[読売新聞,第47364号,2008.1.13.]。

手術時の縫合用接着剤として使用された『フィブリン糊』が、火傷や鼻血の治療、美容外科手術など幅広い分野で使用されていた実態が、医師の証言などから判ってきた。2008年1月11日に成立した薬害C型肝炎被害者救済法の救済対象に含まれるが、自分の治療に使用されたこと自体を患者側が知らないことから、被害実態の調査が遅れているとされる[読売新聞,第47365号,2008.1.14.]。

しかし、『フィブリン糊』の使用は適応外使用であり、使用の実態は、医師以外の誰にも判らない。従って、医師が使用した患者を記憶していなければ、患者側は全く判らないということになる。感染の恐れがあるのは1981年から1987年頃までで、旧ミドリ十字が製造販売したフィブリノゲンを原料にして調製した『糊』ということである。その間に使用した記憶がある医師は、可能な限り患者の掘り起こしに努力すべきであり、この時期に観血的処置を受けた記憶のある人は、検査を受けてみた方がいいのではないかと思われる。

更に旧ウェルファイド社が調べた『フィブリン糊』の使用された疾患名と用途が次の通り報告されている。

脳腫瘍、脳出血、角膜移植、鼻血、中耳炎、歯肉出血、気胸、大動脈瘤、心臓手術、ペースメーカー埋め込み、悪性腫瘍、胃潰瘍、子宮筋腫、骨折、アキレス腱接合、胆石症、火傷、皮膚移植、神経縫合、椎間板ヘルニア等』

これらの疾患名で治療を受けた記憶のある人は、治療を受けた医療機関に積極的に相談すべきではないか。また医療機関も、患者からの相談があれば、丁寧な対応を取るべきである。

ただ、実際には、更に広い範囲で使用されていたのではないかと思うが、果たしてどうなんだろうか。病院によっては、医師の依頼を受け、『院内特殊製剤』として薬剤部の製剤室で調製していた可能性もある。ただし、1981年頃ということであれば、既に26年が過ぎている。あるいはその当時製剤に携わっていた薬剤師は、既に退職している可能性もあり、製剤伝票も保存はされていないと思われる。退職者にも声を掛け、兎に角使用していた事実を確認することが先ず最初にすることで、そこから手繰り寄せなければ、全体的な様相を把握することは出来ないのかもしれない。

兎に角、適応外使用で使用されたということである。使用実態を正確に把握するためには、医療機関の努力無しには調査は完結しない。

                                                                    (2008.1.23.)

ワクチン接種歴

金曜日, 2月 22nd, 2008

魍魎亭主人

 

北里大学では来年4月に入学する学生約1,700人に対し、はしか、風疹(ふうしん)の免疫の有無を確認させ、免疫が不十分な場合、自主的なワクチン接種を要請するなど徹底した対策を実施する方針を決めた。大学の一部では、入学後に免疫検査を実施しているところもあるようであるが、入学前に接種を求めるのは異例。はしかが流行する4-5月までにワクチンの効果を高める狙いがある。新入生全員に、

(1)はしか、風疹などワクチン接種証明書を入学時に提出する
(2)はしか、風疹のワクチン接種歴が1回以下の場合、入学前に検査を受け、免疫がない場合

ワクチンを接種するよう通知するというものである。

大半の学生はワクチン接種は1回のみと見られる。入学後の健康診断でも血液検査を行い、場合によっては追加のワクチンも接種する。北里大はこれまで医学部など病棟での実習がある4学部で入学後の免疫検査、ワクチン接種を実施してきたが、今年5月に4学部以外の1年生を含む2人がはしかを発症。全7学部の1年生に休講措置を取ったという[読売新聞,第47332号,2007年12月11日]。

傘下に病院をもち、病院実習をしなければならない大学であれば、当然の配慮ということであるが、予防接種を強制されたことで、事故が発生した場合の対応策等は考えておられるのか。甚だお節介な話だが、今後、病院実習が義務付けられる薬科大学も、病院実習をする前に、予防注射歴を確認し、免疫低下者には予防接種を強制するとすれば、その辺の問題が気になるのである。予防注射による副作用の発現はさておくとして、強制的な予防注射が必要とするのであれば、国の責任で行うべきではないのか。

ところで、突然『貴方は破傷風ワクチンを接種してますか』ときかれて、明確に回答できる方々がどの程度いるのであろうか。

破傷風ワクチンが特殊すぎるというのであれば、『麻疹ワクチン』でもいい。

摂取したことがあるのか無いのか。乳幼児の頃のワクチン接種の記憶など、殆どの方々が記憶中枢の外に脱落させてしまっているのではないか。特に現在中年以上、あるいは団塊の世代といわれる世代の人達にとっては、そのような情報は正確に記憶していないというのが実情ではないかとおもわれる。

最も、突然この様な話を持ち出されても、どの辺に話の意図があるのか分からないということになるのかもしれないが、先日知り合いが怪我をして熱が下がらないということから、破傷風ではないのかという話になり、破傷風ワクチン接種の記憶にまで立ち至ったというわけである。

今後、予防医学を充実させるとすれば、感染症対策として、間違いなくワクチン接種の重要性が増す。それに従って種々のワクチンを接種する機会が増えることは間違いないと思われるが、接種したワクチンの種類と、再接種の時期を当人が明確に認知する手立てが取られていないというのは問題ではないか。電子化した健康保険証のカードの中に、個人の病歴やワクチン接種歴を登録する等ということは出来ないのかどうか。

勿論、盗難対策や紛失時の対策は十分にしなければならないが、二重、三重の検査等医療費の無駄を省くためにも、通院時に電子化した情報を持っていくという事は必要になるのではないか。

                                                                    (2008.1.1.)