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『波除稲荷神社』

金曜日, 5月 18th, 2012

                    鬼城竜生

彼岸花の写真を撮りに鎌倉に行ったが、天候不順の影響で、鎌倉ではいい写真が撮れなかった。そこで以前にも行って一定の彼岸花の写真は確保できると踏んで9月27日(火曜日)、波除稲荷-01浜離宮恩賜庭園に出かけた。しかし本来なら咲いているはずの花が蕾のままであったり、既に終わっていたりと云うことで、鎌倉同様綺麗に咲き揃っているという状況は無かった。

甚だ残念だが、花の写真を狙っている場合、必ずしも行った日がドンピシャで、適切な日という訳ではない。いい写真が欲しいなら狙った日の前後に何日か通わなければ、納得のいく写真が撮れないのは解っているが、年寄りとはいえそれなりに用事はある。それにに昔と違って細かなピントが合わせられなくなり、完全な向こう合わせの馬鹿チョンカメラでは、そこそこ写っていいということで諦めるより仕方がない。ただそれでも下手な鉄砲も数打ちゃ当たるで、時には納得のいく写真が撮れていることもある。

折角来たのだからということで、園内を回ることにしたか、『お伝い橋』の入口の左側に見慣れない建物が建っていた。これは戦災で失われたままになっていた『松の御茶屋』を復元したもので、現在はまだ中を見学することは出来ないが、2011年12月26日に完成したものだという。取り敢えず近くまで行ってと思ったが、中が見学できないなら行っても無駄だと云うことで、『お伝い橋』を通って『中島の御茶屋』に行き、ここに来るたびに飲むことにしている抹茶を飲むことにした。この建物は宝永四年(1707)に建てられたものが戦災で焼け、現在の建物は昭和五十八年(1983)に復元されたものだという。

園内を一回りしてそこそこの写真を写した後、時間も早かったので、築地にある『波除稲荷神社』に行くことにした。

波除稲荷-02戴いた参拝の栞によると、『波除稲荷神社』の縁起について、次の話が紹介されている。

江戸開府(1603)時の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所が見える。開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯七十家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等と名附けられたという。

更に70年の後、明暦の大火の後に四代将軍家綱公が手がけた最後の埋立工事は困難を極めたといわれ、この築地海面は、堤防を築いても築いても激波に浚われてしまう。或夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体であったという。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました。ところがそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致した。萬治二年(1659)の事だとされる。人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に『波除』の尊称を奉り、また雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼 『つきじ獅子祭』 の始まりだとされる。

『波除稲荷神社』の祭神は、衣食住、殖産工業、商業の守り神である「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」であるという。現在の社殿は昭和十二年に出来たもので、御祭神の繋がりが有る伊勢の神宮(外宮)と同じ唯一神明造で造られており、国産の檜が使用され、戦前では東日本で最後に造営された神社の社殿であるという。

波除稲荷-07波除稲荷-06

 

摂社は学芸の才能と豊かな財をなす福徳の神「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」をお祀りし、この御祭神を俗に弁財天と称することから弁財天社と呼ばれている。江戸時代の御本社の御創建時、同じくお祀りされた縁の有る事から摂社として大切にお祀りされている。また水に縁の有る御祭神に因み、手水の施設を組み込んだ造りになっている。

末社として次の四神がお祀りされている。
天照大神、大国主命、少彦名命、天日鷲命(あめのひわしのみこと)。

獅子殿:江戸時代、厄除・災難除の象徴として多くの参詣者を集めまた当神社祭礼「つきじ獅子祭」の名称の元となった「厄除天井大獅子」は、江戸末期に焼失以来その復興を待たれていたが、平成二年に神社の御鎮座330年を記念し、樹齢約三千年の黒檜(ねず)の原木を用いて 高さ2.4m、幅3.3m、重さ1tという往時に勝るとも劣らぬ名実共に日本一の厄除天井大獅子として、加賀鶴木の現代の名工・知田清雲氏とその工房の手により再興され、神楽殿を全面改築した獅子殿に納められました。

波除稲荷-05「お歯黒獅子」は、江戸時代に東都名物だった雌の大獅子を祭礼で担ぐ様に高さ一尺の台座を含め高さ2.2m、両耳幅2.5m、総重量700kgの総漆塗り一木造で、木彫・加賀獅子頭の名工の流れをくむ現代屈指の彫刻師・知田清雲氏とそれを支えた熟達の加賀の職人達の技により、紅色の肌地にお歯黒を施し金箔押しの巻き毛で腰高の姿に平成十四年再興され、この雌を表す頭の宝珠の中に弁財天・市杵島姫命の御神像が収められている。

浜離宮から波除稲荷神社を巡る行程を歩いて12,260歩。昼飯は築地場外の表通りで天ざるを喰ったが、それなりの味で食べたことに不服はなかったが、店の棚に『獺祭』が置いてあったので、よっぽど呑もうかと思ったが、帰りの電車の乗り降りが面倒になるので止めた。しかし、今になって心残りというのであれば、一杯ぐらい呑んでもよかったか。

          (2012.1.12.)