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「危険運転」最高裁判決

水曜日, 1月 4th, 2012

     魍魎亭主人

 

福岡市で起きた3児死亡飲酒運転追突事故で、危険運転致死罪などに問われた福岡市の元職員が上告していた件で、最高裁第3小法廷は「アルコールの影響により前方不注意により危険を的確に把握して対処できない状態も危険運転に当たる」とする初判断を示し、同罪の成立を認めたとする報道がされていた[読売新聞,第48751号,2011.11.3.]。

しかし、この結論に至る過程で、弁護士出身の裁判官は「通り慣れた道でさえ状況に応じた運転が出来ない場合、初めて『正常な運転が出来ない』と認定すべきと反論。今回の判決に対して「適用範囲を広げるもので、事故の結果の重大性に引きずられた」と痛烈に批判したという。

それぞれの立場で、異なる意見があるのはそれはそれでいい。しかし、自動車の運転をするのに必要とされる免許証は、単に運転技術を保証するものではなく、規則を厳守するという前提で交付されるのではないのか。その規則を無視して、将に凶器とも云える車を運転するなどということは論外といえる。

その意味から云えば、飲酒運転をするなど言語道断であり、何ら同情に値しない。「通り慣れた道でさえ状況に応じた運転が出来ない場合」に初めて正常な運転が出来ないと見るべきだと云うが、酒を飲んだら運転するなと云う常識的な判断が出来なかった時点で、危険運転致死罪は認めるべきでは無いのか。飲酒運転の場合、呼気中のアルコール濃度を測定して、対応を判断しているようであるが、呼気中のアルコール濃度や血中のアルコール濃度は関係ない。ビールをコップ一杯でも飲めば飲んだと云うことであり、規則違反である。

最近ではあまり聞かなくなったということから云えば、“酒の上の間違い”と云うことで、大目に見るという風潮は消えつつあるのではないかと思われる。特に運転者の飲酒についてはどのように言い訳しようと同情の余地は無い。厳罰主義で当たるべきである。法律の専門家と称する人達は、量刑の公平性を云う。それならば人の命の公平性はどうするのか。

今回のこの事件は、何もしていない子供達の命を奪ったという冷厳な事実かある。しかも当人は市の職員であり、公僕である。当然、人としての責任と同時に住民に奉仕するという立場がある。つまり二重の意味で法令順守(compliance)を求められる立場にあるということが出来る。つまり事故を起こした当人が、逆立ちをしたところで、亡くなった3人の子供は戻ってこない。取り戻すことの出来ない子供の命の法律的な公平性はどうやって保つというのか。

飲酒運転によって人命を失わせた人に対する配慮は要らない。正常な運転が出来たか出来ないかでは無く、順法精神が欠如していたために侵した殺人である。殺人者として処罰するのが当然であり、失われた人命に対する公平性の補償ではないのか。

  

  (2011.12.24.)