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『鎌倉巡り』

日曜日, 9月 11th, 2011

   鬼城竜生

鎌倉のホテルの宿泊券の有効期限が切れるので、出かけませんかというので、お供することにした。紫陽花の時期は満杯だというので、少し時期をづらし、七月三日(土曜日)、七月四日(日曜日)に出かけることにした。

円覚寺-01京急線の久里浜駅で降りて、JRの久里浜駅まで歩いて乗り換え、北鎌倉駅で降りて、そこから鎌倉市内を巡る行程を計画した。前回鎌倉に来たときは金沢八景でバスに乗り換えて、鎌倉宮を目指し、その後徒歩で荏原天神社→頼朝の墓→鶴岡八幡宮→建長寺→円應寺→明月院→北鎌倉駅の行程を一日巡ったが、北鎌倉駅前にある円覚寺は、時間の関係で拝観出来ずにいた。

そこで今回は北鎌倉駅を降りて直ぐ目の前にある鎌倉五山の一つ円覚寺(えんがくじ)から拝観させて頂くことにした。拝観志納金の裏に書かれている説明によると、円覚寺は、瑞鹿山(ずいろくさん)円覚興聖禅寺と号し、臨済宗円覚寺派の大本山である。弘安五年(1282年)鎌倉幕府八代執権北条時宗公が開基となり、中国の名僧無学祖元(仏光禅師円満常照国師)を開山第一世に迎えて開堂した。創建の趣旨は、国家を鎮護し、仏法を紹降すると共に、文永・弘安の度重なる蒙古の襲来で戦没した敵味方の霊を慰めるためであった。

円覚寺の名前の由来は建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことから、また、瑞鹿山の山号の由来は開山国師(無学祖元禅師)が、仏殿開堂落慶の折、法話を聞こうとして白鹿があつまったという奇瑞から瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)とつけられたといわれている。開山国師(無学祖元禅師)の法灯は、高峰顕日、夢窓疎石と受け継がれその流れは室町時代に日本の禅の中心的存在となり、五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。

円覚寺は、室町から江戸時代にかけて幾たびかの火災に遭い、衰微したこともあったが、江戸末期(天明年間)に大用国師(誠拙周樗)が僧堂・山門等の伽藍を復興し、修行者に対円覚寺-02し峻厳をもって接し、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築いた。明治以降今北洪川老師・釈宗演老師の師弟のもとに雲衲や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。静寂な今日の伽藍は創建以来の七堂伽藍の形式が伝わっており、山門、仏殿、方丈と一直線に並び、その両脇に右側、浴室、東司跡、左側、禅堂(選佛場)がある。

中に入って驚いたのは、焔魔堂があったことである。焔魔堂の奥は暗くてあまり良い焔魔の写真は撮れなかったが、入口に焔魔の写真パネルが出してあり、それを撮ってみたところ迫力のある焔魔が撮れた。その他、みがわり地蔵や呑龍地蔵大菩薩等が祀られていた。

次に臨済宗建長寺派福源山明月院に向かった。明月院で頂いた栞によると、明月庵の創建は今から八百三十年前、永暦元年(1160年)に始まる。この地の住人で、首藤刑部太夫山ノ内経俊が、平治の乱で戦死した父・首藤刑部大輔俊道の菩提供養として、明月院の前身の明月庵を創建。その後、康元元年(1256年)、北条相模守時頼公によって、この地に「最明寺」を建立(現在、明月院西北の場所)。言うなれば北条時頼の別業の仏堂。時頼は三十歳で出家、僧名を覚了房道崇と号し、弘長三年(1263年)十一月三十七歳で卒去。後に時頼の子、八代執権北条時宗が最明寺を前身として、「福源山禅興抑聖禅寺」を再興。
開山は建長寺開山大覚禅師の五世法孫の地位にあった密室守巌禅師。

円覚寺-03康暦二年(1380年)時の関東公方足利氏満が、管領上杉安房守憲方に禅興寺の中興の命じ、伽藍を完備、寺域を拡大にし、支院を配置させた。足利三代将軍足利義満天下の時、大寺院を選ぶにおいて禅興寺を関東十刹の一位とする。この時、『明月庵』は『明月院』と改められ支院の首位におかれた。本尊、聖観世音菩薩。その当時の『明月院絵図』に在りし日の堂塔伽藍を偲ぶ。明治初年に禅興寺は廃寺となり、『明月院』だけを残して今日に至る。

その他、現在では境内に多くの紫陽花が植えられ、?紫陽花寺″とも呼ばれる。宗猷堂(開山堂・そうゆうどう)には、密室守厳の木像を安置。 そのそばには鎌倉十井の一つ?瓶ノ井(つるべのい)″がある。 また山際に掘られた明月院やぐらは鎌倉時代最大のもの。上杉憲方の墓とされる宝筺印塔が内部にあるとされている。

引き続いて臨済宗建長寺派の仏教寺院である円應寺(えんのうじ)にお参りした。お寺の栞によると、円應寺は閻魔大王を本尊として智覚禅師により建長二年(1250年)に創建されたお寺である。山号は新居山。『焔魔堂』、『十王堂』とも呼ばれ、亡者が冥界において出会う「十王」を祀っている。

円應寺は初め見越獄(みこつのごく、大仏様の近く)にあったが、足利尊氏が由比ヶ浜に移築し、その後、元禄十六年(1703年)に起きた大地震後に現在の地に移転したといわれてい円覚寺-04る。本尊の焔魔大王座像(国重要文化財)は、仏師「運慶」作であると伝わっている。運慶は頓死し、焔魔大王の前に引き出されましたが、焔魔様の「汝は生前の慳貪心(物惜しみ、欲深いこと)の罪により、地獄に落ちるべきところであるが、もし汝が我が姿を彫像し、その像を見た人々が悪行を成さず、善縁に趣くのであれば、汝を娑婆に戻してやろう。』といわれ、現世に生き返された運慶が彫刻したといわれている。

なお、運慶は再び生き返った喜びで、笑いながら彫刻した為、焔魔様のお顔もどことなく笑っているように見えることから、古来「笑い焔魔」とも呼ばれている。本来、仏教において、死後の世界については説かなかったが、しかし「死」という事実は仏教の出発点でもあり、死への恐怖がある限り平安な人生は送れない。仏教において死への恐怖を解決し、充実した人生を送る為に「十王」は存在します。「十王」は、亡者が冥界において出会う十人の王様のことです。

 

初七日      秦広王
十四日      初江王
二十一日    宋帝王
二十八日    五官王

と生前の罪を取り調べられる。その結果により三十五日の焔魔大王が、六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)の何処に生まれ変わるかを決定する。つまり我々が今人間として存円覚寺-06在しているのは、焔魔が生前の行いを判断した結果である。生まれ変わる場所が決定した後、六十七日の変成王(へんじょうおう)が場所を、四十九日の泰山王から男女の別と寿命を決定する。

初七日から四十九日迄の間は『中有』又は『中陰』といい、この間、亡者はこの世からあの世へと旅を続けるとされます。遺族は百ヵ日の平等王には貪(貪り)の心、一周忌の都市王には嗔(シン:怒り)の心、三回忌の五道転輪王には痴(愚痴)の心を慎むことを誓って法要を行うことにより、亡者の追善供養となるばかりでなく、自身の現世における功徳となる善行を積むことができ、来世の安楽へと繋がっているとされる。

今、命あるものは功徳を積むことにより、来世の安楽を信じることができ、「死」への恐怖に打ち勝ち、充実した現世を送ることができるとされている。

円應寺で絵馬を頂戴したが、残念ながら祀られている焔魔像ではなく、通常の墨書きの焔魔だった。堂内での写真撮影は禁止とされているので、本堂から離れた位置でローアングルで写真を撮ったが、フラッシュが光った為、撮影は御遠慮下さいと念を押されてしまった。頂戴した栞には焔魔像が掲載されているが、絵葉書か何かにしておいて頂ければ、無理に写真は撮らないが、何とかならないのだろうか。

円應寺の直ぐ近くに建長寺はあり、次は建長寺を拝観することにした。入場券に『天下禅林』なる言葉が印刷されている。「人材を広く天下に求め育成する禅寺」という意味だという。西の外円覚寺-09門(北鎌倉側門)に掲げ、我が国最初の禅宗寺院で、鎌倉五山第一位の建長寺を象徴する語だとされる。建長寺は臨済宗建長寺派の大本山で、山号を巨福山(こふくさん)と称し、寺号は詳しくは建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。鎌倉時代の建長五年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩、開基は鎌倉幕府第五代執権北条時頼、開山は南宋の禅僧蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定されている。

建長寺から道なりに下ると鶴岡八幡宮に行く着く。裏口から境内に入って驚いた。TVで大騒ぎしていた画面は見ていたが、実際に見てみると、『あな無残やな』というのが正直なところ。前回来たときには、そびえ立っていた銀杏の木が根本から折れていた。しかし、手厚い養生がされていて、折れた木から緑の枝が伸びていたし、真ん中の部分からも緑色の枝が伸びており、もしかしたら同じ木の遺伝子を持った銀杏が再びそびえ立つかもしれない。

そろそろ時間となったので、ここからホテルに行くことにして鎌倉駅から江ノ電に乗り七里ヶ浜で降り、鎌倉プリンスホテルに向かった。ホテル到着までの本日の総歩行数は、13,974歩ということであった。

4日(日曜日)は、江ノ電の極楽寺駅で下車し、駅の近くにある極楽寺に足を運んだ。極楽寺は、鎌倉では珍しい真言律宗の寺院であるとされる。山号は霊鷲山(りょうじゅさん)。寺円覚寺-10院の正式名称は「霊鷲山感応院極楽律寺」と称する。本尊は釈迦如来。開基は北条重時。開山は忍性(にんしょう)である。鎌倉市の西部、鎌倉七口の一つである極楽寺坂切通しの近くにある、中世には子院49箇院を有する大寺院であったとされているが、元弘三年(1333年)に新田義貞の鎌倉攻めの際の戦火でことごとく焼失してしまったとされている。

極楽寺の境内はどういう訳か『撮影禁』になっていた。あまり広くないに境内で、その辺を踏み荒らされては困るということなのかもしれないが、『写生禁』の注意書きも見られ、よほど他に知られるのが嫌なんだとお見受けしたが、それにしても徹底している。

次に道なりで成就院(じょうじゅいん)を拝観した。成就院は真言宗京都大覚寺派の寺院で、本尊は縁結び不動明王とされている。成就院は普明山法立寺成就院と称し、平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師(空海)がこの地を訪れ、護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法を修したといわれる。承久元年(1219年)この霊跡に、鎌倉幕府第三代の執権北条泰時が京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立したという。
た。元弘三年(1333年)新田義貞の鎌倉攻めの戦火で寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688年-1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在に至るとされる。

円覚寺-13このお寺、どうやら紫陽花で有名らしく、紫陽花の終期にもかかわらず、拝観者は多かった。御朱印をお願いしたところ、この時期は前もって用意してある物をお渡しすることになると言われたが、それで結構ですと言うことで頂いた。一つには次に来る予定が立たないことと、紫陽花の時期をずらして来る自信が持てなかったということである。

成就院を出て、直ぐのところに「星月夜の井(ほしづきよのい)」という井戸があった。この井戸は鎌倉十井のひとつということである。そのすぐ横が星井寺(ほしいでら)。正式には、明鏡山円満院星井寺(虚空蔵菩薩)という。星井寺は天平年間、聖武天皇の時代に、行基によって創建されたと伝えられている。

星井寺に置かれていた栞によると、虚空蔵菩薩は、「日本三虚空蔵」のうちの一体で、大変貴重な仏像であります。この菩薩は虚空が全ての物を含蔵するように無量の福徳と知恵を備え、常に人々にこれを与え、全ての願い事を満足せしめて下さる仏様といわれ、そのお姿は金色で容顔麗しく、喜悦の相を成し、宝冠の上に五仏があり、左手には白蓮華を持ち、蓮華の上に如意宝珠があり、右手は五指を下げ、掌を外に向けております。我が国では古くから福徳・知恵を授けられ、求聞持の祈りに霊験があるとして、この菩薩の信仰が盛んに行われて参りました。また丑年生まれ、寅年生まれの人々の守り本尊でもあります。とされている。その他、星井寺の虚空蔵堂境内に舟守地蔵が祀られている。

円覚寺-14長谷寺に向かって歩いているうちに、古い神社に出くわした。社人の居ない無人の神社で栞等の資料は手に入らなかったが、地図上では御霊神社(ごりょうじんじゃ)となっていた。後で調べたところによると、この神社は通称(鎌倉)権五郎神社として知られているという。権五郎神社の創建年代は不明であるが、御霊信仰思想の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができるとされている。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。御霊神社は各地にあるが、祖先の霊を守る社と、怨霊鎮護の為に祀る神社とがあるとされる。

長谷寺はこちらという道案内に従って歩いているうちに長谷寺の駐車場の横に出た。入山時に配布された栞によると、鎌倉長谷寺。正式名称は海光山慈照院長谷寺と号します。往古より長谷観音の名で親しまれる当山は、奈良時代の天平八年(736年)開創と伝わる鎌倉でも有数の古刹である。浄土宗系統の単立寺院。本尊となる十一面観世音菩薩は、像高三丈三寸(9.18m)にも及ぶ本邦最大級の木彫仏で、東国を代表する観音霊場の象徴、鎌倉大観音と称される所以である。開山は徳道上人とされる。坂東三十三箇所観音霊場の第四番札所であるとされている。

当山は、観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内の二つに境内地が分かれており、入山口でもある下境内は、妙智池と放生池の二つの池が配され、その周囲を円覚寺-17散策できる回遊式庭園となっている。また、その周辺にとどまらず、境内全域は四季折々の花木に彩られ、通年花の絶えることのないその様相は、「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ぶに相応しい風情を呈している。上の境内には、本尊である十一面観音菩薩像(長谷観音)が安置される観音堂をはじめ、主要な諸堂宇が建ち並ぶほか、鎌倉の海と街並みが一望できる「見晴台」と、傾斜地を利用した「眺望散策路」があり、鎌倉でも有数の景勝地となっている。また、眺望散策路の周辺には40種類以上約2500株のアジサイが群生しており、梅雨の季節には眺望はもとより「アジサイの径(こみち)」として散策も楽しんでいただけますと紹介されているが、紫陽花の花の見頃には、悲劇的な混雑を来すのではないかと思われた。

それと見晴台でかみさんとソフトクリームなどを食していたとき、眼の前でソフトクリームを食べていた女性の手から、物の見事に掻っ払って行った鳥が居たが、明らかに鳶の仕業だった。兎に角、若干時機を失していたが、紫陽花の小道を歩かせて頂いたが、膝に爆弾を抱えている当方としては、些か強行軍だった。

鎌倉の大仏の名で親しまれている「露坐の大仏」は、高徳院の本尊。国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121tとされるこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏(盧舎那仏)に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有していますと紹介されている。

高徳院の正式名称は大異山高徳院清浄泉寺で、法然上人(1133-1212年)を開祖とする浄土宗の仏教寺院である。法然上人は、善悪、男女、年齢、身分などの別なく、万人の救済を本願とされる西方極楽浄土の教主、阿弥陀如来に帰依されました。人は誰しも「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依します)」と称えれば、その御加護に与ることができ、臨終に際して鎌倉-02は極楽浄土に迎え入れていただける。

鎌倉大仏の造立が開始されたのは建長四年(1252年)と伝えられています。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、建武元年(1334年)及び応安二年(1369年)の大風と明応七年(1498年)の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができる。以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門(泰祐)の喜捨を得た祐天・養国の手で復興をみました。尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、祐天の事績にほかなりません。今日、創建750年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めています等の紹介がされている。

高徳院を出て鎌倉駅を目指して歩いているうちに光則寺の前に出た。四季の山野草という惹句に惹かれてちょいと覗いてみようかということになった。

光則寺は日蓮宗の寺院で、日蓮上人が佐渡へ流された時、高弟・日朗が捕らえられて鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の重臣・宿屋左衛門尉光則の邸内の土牢に監禁された。しかし光則は日蓮上人が自らの不運を嘆くことなく、弟子の身の上を案じる心に打たれ、次第に日蓮宗に心を寄せる様になり、日蓮上人放免後は、邸を寺として日朗を開山と仰ぎ文永十一年(1274年)に創建された。日蓮上人の著した「立正安国論」は光則の父・行時から、文永元年(1260年)に北条時頼に建白された。現在の本堂は慶安三年(1650年)に建てられた物という光則寺縁起が、山野草マップと共に山門に置かれていた。

勢いに任せて鎌倉駅まで歩く予定にしていたが、歩くのがきついんじゃないかとかみさんが心配するのでバス停を探して鎌倉駅行きのバスに乗った。というわけでもないが、4日の総歩行数は9,695歩で、一万歩には辿り着かなかったが、まあ長谷寺で山道を歩いたので、それなりに足は鍛えられたということである。それにしても嘗ては山登りもしていたのに脚力は明らかに衰えている。

  (2010.9.24.)