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「井の頭恩賜公園」

火曜日, 8月 2nd, 2011

     鬼城竜生

 

2010年11月25日、栄養薬理学の講義の後で、井の頭恩賜公園に出かけた。昨年の秋にも写真を撮りに行ったが、納得のいく写真は撮れなかった。大体被写体にする場所に初めて行っ井の頭-001て、写真を撮って納得する等ということはあり得ない話で、前もってロケーションをするのが当たり前だと思う。しかし、こちとらは飽く迄素人である。写真のプロのような訳にはいかない。

所で井の頭公園に「恩賜」という名がついているのはどういう曰わく因縁があるのか。

井の頭池という名称は一説には三代将軍徳川家光によって名づけられたものであると伝承されている。更に家光自らが小刀で弁財天の傍らのこぶしの木にその名を刻んだとも伝えられる。現在、その場所にはその伝承を記した石碑が建てられている。

名称の由来については、「このうえなくうまい水を出す井戸」あるいは「上水道の水源」から来たという二つの説が伝承されているという。なお御殿山の地名は、家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことに由来する。この一帯の武蔵野は、三鷹という地名にも残るように、徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場であったという。

江戸時代には井の頭池と一帯の林が幕府御用林として保護されていたが、明治維新後は東京府が買収した。更に1889年(明治22年)宮内省御用林となり、1913年(大正2年)12月 に66,245坪を帝室御料地から東京市に下賜(うち8,980坪は、井の頭学校〈現在の井の頭自然文化園〉に使用)。他に、買収5,495.58坪、寄付544坪、神社共用地896坪、池13,672坪。1917年(大正6年)5月1日恩賜公園として一般公開されたという。
井の頭-002この公園は、大正2年に日本最初の郊外公園として決定され、計画的に整備されたという。また、井の頭池は、初めて江戸にひかれた水道、神田上水の源であり、明治31年に「改良水道」ができるまで、重要な役割を果たしていたと報告されている。

井の頭池西端の島に現存する井の頭弁財天(別当寺は天台宗大盛寺)は、その起源が、平安時代中期に六孫王経基が伝教大師作の弁財天女像を安置するためこの地に建てたお堂であるとされる。弁財天の縁起には、その後源平合戦の頃、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築されたことが伝えられている。その後、鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天が焼失した。数百年の間放置された後、江戸幕府三代将軍徳川家光により弁財天が再建された。

江戸時代の特に江戸市民にとっては、弁財天は信仰の地であるとともに、行楽地でもあった。これは、江戸時代の初頭に神田川が改修されて江戸に神田上水が引かれたため、江戸市民にとって井の頭池が水がめとなったことと関連している。弁財天境内や向かいの石段、石段を登りきった周辺などに、その当時の商人や歌舞伎役者が寄進した石灯籠、宇賀神像などが残る。なお、かつては石造りの鳥居も存在した。この鳥居は1767年(明和4年)に寄進されたものである。しかし、この鳥居は明治初年の神仏分離令の際に撤去され、鳥居の柱石は後に井の頭池と神田上水の間の水門に転用された。その水門は現在使用されていないものの、池の東端付近に今も残る。弁財天への参道は、現在も史跡として整備されており、「黒門」と呼ばれる黒い鳥居もある。

井の頭-003現在の園内は、井の頭池とその周辺、雑木林と自然文化園のある御殿山、そして運動施設のある西園と、西園の南東にある第二公園の4区域に分かれている。当園は1917年(大正6年)5月1日開園。三宝寺池(石神井公園)・善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られる井の頭池を中心とした公園である。日本さくら名所100選に選定されている。

前回来たときには誰も居なかった、今回は井の頭弁財天の売店に人が居たので 御朱印は頂戴できるのかと伺ったところ、書くのは駄目だけど、書いたものは置いてあるということで、それを頂戴することにしたが、江戸の昔と違って最近は日常的に御参りに来るということはなくなっており、普段人は売店のおばさんしかおらず、別当寺である天台宗大盛寺に老いでになるようである。

京王井の頭線の井の頭公園駅に出るつもりで、水門橋という所に出たが、何と驚いたことに神田川起点という石碑に行き当たった。何に驚いたかというと、神田川に流れる水の量と、起点に出てくる水の量に差があり、起点の水量というのはこんなもんかいなという驚きである。

ところで弁財天から出て直ぐの所に、名札をぶら下げている木があり「ネズミモチ」と書かれていたのでしみじみ眺めてしまった。丁度この時「鼠黐」について調べていたので、生の木を見られたということは将に僥倖である。木そのものは見栄えのする物ではないが、
一応薬用植物とされている。

和 名:鼠黐(ネズミモチ)
科属名:モクセイ科イボタノキ属
学 名:Ligustrum japonicum
別 名:タマツバキ(珠椿)・ネズミノフン(鼠の糞)・ネズミノコマクラ(鼠の小枕)
生薬名:女貞子(じょていし)
英 名:Japanese privet。
*関東以西の暖地の海岸に野生する常緑樹で庭園や垣根にも植えられている。名前井の頭-006の由来は、果実が熟すとネズミの糞に似ていて、葉がモチノキに似ているので、ネズミモチと呼ばれた。鹿井の頭-004児島地方では、鼠黐を田の神・農耕の神として大黒様に奉納する風習があり、大黒様の木という意味で、デコッサーノキともいわれる。
採 集:晩秋から冬にかけて黒く熟した果実を採取して、水洗いして天日でよく乾燥する。また、薬用としては、夏に樹皮を剥いで天日でよく乾燥したものや葉を乾燥したものも用いられる。唐鼠黐の乾燥したものを生薬では女貞(じょてい)、その果実を女貞子(じょていし)という。但し、鼠黐、唐鼠黐も女貞子と呼ばれて薬用としては同じように扱われる。
薬 効:果実は強心、利尿、緩下、強壮、強精薬として古くから用いられている。特に内臓の諸器官を丈夫にするとし、肝臓、腎臓、腰膝を強くし、精力も養い、若白髪、月経困難にも効き目があるとされている。
成 分:女貞子には、triterpene、mannitol、脂肪酸など含有する。
用 法:果実を1日量5-10gを煎じて1日3回食間に服用するが、果実酒として飲む方法もある。果実200gを同量の砂糖、ホワイトリカー1.8Lに漬け井の頭-005て、6ヵ月程度保存、布で漉して1日3回20mLずつ飲む。
また、樹皮は解熱と抗マラリア薬として、かぜの熱に効き目があるとされている。葉には、抗菌作用があり樹皮と同様に解熱の目的で用いられて井の頭-006いる。茶材として用いると胃潰瘍にも良いとされている。葉、樹皮ともに1日量10-15gを、適量の水で煎じて1日3回食間に服用する。

女貞子は、中国で臨床に応用されており、眼科でよく使用される。視力が減退する、目がかすむなど、これは肝腎陰虚の症状があるとされ、中心性網膜炎や老人性白内障の初期に枸杞子と六味地黄湯を配合して投与するとされる。

本日の総歩行数は9,085歩で、1万歩にはやや不足した。
                                                                   

(2011.4.15.)

『四柱神社』

火曜日, 8月 2nd, 2011

            鬼城竜生 

2010年10月26日(火曜日)仕事で再度信州大学を尋ねた。その帰り、前回時間がなくて覗けなかった松本城の中を見てみようということで、松本城に行った。前回来たときは、城の前松本城-01から写真を写しただけで戻ってしまったので、中に入るのは今回が初めてである。

松本城は、長野県松本市にある城である。天守群などの建物が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は『深志城』。市民からは別名『烏城』とも呼ばれていると紹介されている。国内に12基現存している安土桃山時代後期から江戸時代にかけて建造された天守を有する城郭の1つである。天守群は国宝に指定されている。

城伝によれば『戦国時代の永正年間に、松本平の信濃府中といわれた井川に居を構えていた信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく。武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城に改名した。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原の役の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主小笠原秀政も下総古河松本城-02へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行った。その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が返り咲く。大坂の役以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。享保12年(1727年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。』としている。

明治時代になって、旧物破壊思想の元に、松本城天守も、売却・破壊の運命に曝された。天守が競売されたのを憂えた市川量造らの努力により、幾多の困難を克服して天守を買い戻し、保存に貢献した。しかし、その後、荒廃が進むばかりであったが、この凋落の風景を憂えたのが松本中学校校長小林有也らは明治三十四年(1901)天守保存会を設立して、十一年間掛けて明治の大修理を終え、天守を倒壊の危機から救ったとされている。

武士階級によって長きに亘って抑圧されてきた大衆にすれば、抑圧の象徴である城などという物はぶっ壊すことになんの思いもなかったと思われるが、それでも残松本城-03aせという声を上げることが出来た人達がいたということは、松本城は運がいいということである。更にその保存が悪く、壊れかけていた物を修理しようという音頭取りが出たということは、松本松本城-02a城に付きがあったということである。更に現在、松本城は国宝であり、松本の観光資源として重要な役割を果たしている。松本城と堀の示す佇まいは美しいの一言に尽きる。

松本城から駅を目指して歩いていると左側に曰くありげな横町があり、何気なく足を運ぶと神社らしい雰囲気のある場所に出た。中に入ると四柱神社(よはしらじんじゃ)の境内に足を踏み入れた。
社伝によると四柱神社の御祭神は天之御中主神[あめのみなかぬしのかみ]は、天の中央に坐す主の神として産霊神の御働きを統一する神)、高皇産霊神[たかみむすびのかみ]・神皇産霊神[かみむすびのかみ]の両神は、宇宙創造の根元の神様で御神名の「むすびの神」は実をむすぶ、苔がむす等と同様に生産し、果実し、調和させる力を示す。つまり造化の三神ともいえるこの神々の力によって、天地万物が生成されたと言われている。天照大神は、この造化の三神の御神意を地上に顕現される神で伊勢の神宮、宮中賢所にも奉斎される最高至貴の大祖神である。高い御神徳の神様を主祭神としてお祀りする神社は、全国でも珍しく、四柱神社は、全ての松本城-04a願いが相叶うという意味で「願いごとむすびの神」として全国各地より御崇敬を頂いていると紹介されている。

明治天皇御親政に当り、惟神の大道を中外に宣布し給う思召しを以て、明治7年2月筑摩県庁の所在地である松本に神道中教院(宮村町長松院跡、後神道事務分局)が設立され、院内に四柱の大神が奉斎されてきましたが、新たに一社を興し、 四柱神社として明治12年10月1日、現在地に鎮斎され、 隣接して神道事務分局も新築された。翌13年6月、当地方に初めて行幸があり新築新装になったばかりの神道事務分局を行在所に定められ、同月24日松本に陛下をお迎えした。

松本城-03この由緒ある社殿及び事務局の建物の一切が明治21年1月4日の松本大火に類焼、以来仮殿に奉斎されて来たが、大正13年に至りようやく御鎮座当初と同じく中南信全域の奉賛を得て、現在の社殿が再建されました。ちなみに、前述の縁由によって、当社は「しんとう」(神道)の呼び名で広く親しまれている。加えて当神社例祭も“神道祭”と呼ばれ、松本平を代表する盛大な秋祭として斎行されているとの紹介がされている[四柱神社御由緒書きより]。  

社務所に寄り御朱印を頂戴したが、残念ながら仕事の帰りということで御朱印帳を持参していなかった。そこで御朱印帳があれば、戴きたいと申し上げたが、生憎今はないということで、一瞬どうしようかと迷っていたところ、書いた物でよろしければありますがということで、それを頂戴することにした。もう少し近いところであれば、再度来るときにという考えもあるが、残念ながら遠すぎる。次ぎに来る可能性も直ぐには予測できないので、やむを得ず書いた物を戴いて帰ることにした。

本日の総歩行数は、8,747歩と1万歩は超えなかったが、仕事できた訳で、連れもあり無闇に歩く訳にはいかなかったので、まあ持って瞑すべしということである。

     (2011.5.13.)   

「十二社 熊野神社」

火曜日, 8月 2nd, 2011

           鬼城竜生  

2011年12月3日(金)新宿のスペース・ゼロの多目的ホールで『新宿・平和のための戦争展』を開催しているというので、見に行くことにした。実は永年医療関係の労働組合で一緒に運動をしてきた男が、古い教科書や教育勅語、ビクターの犬のマークに出てくる蓄音機、明治時代の軍人が持っていたサーベル等々、傍から見るとがらくたとしか思えない物を蒐集していたが、そ淀橋-01れが展示されるという。しかもあちらこちらで開かれる平和展の展示物として引っ張りだこだという。数が少なかった頃は単なるがらくたにしか見えなかった物が、一定の数が揃うと芸になるところまでいくのだと感心した。

実際に会場に行ってみると、当人がニコニコして迎えてくれたが、観客も多いようで張り切っている様子だった。一渡り見学して、それでは又ということになったが、序でにかねて念願の十二社、熊野神社に寄ることにした。十二社熊野神社は、社伝によると「十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394-1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532-69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。
鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。

九郎は、この地域淀橋-02の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。また、享保年間(1716-1735)には、八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。

明治維新後は、現在の櫛御気野大神(くしみけぬのおおかみ=素戔嗚大神(すすさのおのおおかみ)・伊耶那美大神(いざなみのおおかみ)を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。」[新宿ミニ博物館-十二社熊野神社の文化財パンフレット]

十二社の池:十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小二つの池を造ったもので、現在の熊野神社の西側、十二社通りをへだてたて建つビルのあたりにありました。大池(淀橋-03中池・上の溜井)は南北126間・東西8-26間とされ、水源は湧水であったようだ。池の周囲には享保年間(1716-35)に多数の茶屋ができ景勝地として振るわいまし淀橋-04た。明治時代以後は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968)7月に埋め立てられた。大池の北側に隣接する小池(下池、下の溜井)は、大池の分水で、南北50間・東西7-16間ありました。昭和の初期より一部の埋め立てが行われ、第2次大戦中には完全に埋め立てられた。

†十二社の滝:十二社には、記録や古老の話からいくつかの滝があったことが伝えられています。このうち十二社の大滝は、『江戸名所図会』、『江戸砂子』などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、高さ三丈・幅一丈と伝えられています。この滝は寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け作られた神田上水助水堀が、熊野神社の東端から落ちるところにできたものです。池とともに景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の『怪談乳房榎』の中で、この滝を登場させています。滝の多くは、明治以後、淀橋浄水場の工事などにより埋め立て淀橋-05淀橋-06られました。

十二社の碑(新宿区指定史跡):ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1851)3月に建てられたとされる。高さ210cm、幅119cm、幕末の江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』を著した儒学者寺門静軒と中野宝仙寺の僧侶負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は262文字ある。又裏面は負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は286字に及ぶとされる。

その他、七人役者図絵馬(新宿区指定有形文化財)、式三番奉納額(新宿区指定有形文化財)、大田南畝の水鉢(新宿区指定有形文化財)の文化財の他、島川玄丈人壽兆碑、能勢嘉門、延命陀羅尼二千一百万遍読誦碑などを見ることができる。その他、淀橋浄水場を潰した時の礎石などを見ることができる。

昔の十二社は大きな歓楽地、その歓楽地に祀られていた神社だとすると、この神社も相当の大きさだったと思われるが、現在はさほど驚くほどの広さではなかった。更に熊野神社といえば、八咫烏(やたがらす)がよく知られている。『古事記』の話として神武天皇が大和へ東遷する時に道案内したとして有名であるが、何で三本足なのか。太陽神の使者としての役割を持つ『ワタリガラス』と同じとする話も見えるが、いずれにしろ神話の世界の話である。

本日の総歩行数10,970歩。

                (2011.6.14.)