Archive for 11月 27th, 2010

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「八王子片倉城址公園」

土曜日, 11月 27th, 2010

   鬼城竜生     

 

カタクリの花を撮りたい、特に群落のカタクリの花を撮りたいというのが長年の願望であった。但し、根が不精にできているので、基本的には乗り換えの多い電車や汽車には乗り片倉城址-02たくない、あまり遠っぱしりはしたくないということで、カタクリの群落が見られるという話は耳にするが、中々ケツが持ち上がらなかった。

そのうちに何処で見たのか忘れてしまったが、八王子の片倉城址公園でカタクリの群生が見られるという話が書いてあったので、念のため八王子の住人に確認したところ、行ったことはないけれカタクリが咲くというので有名な公園だということであった。まあ、地元の人が知っているなら間違いはないだろうということで、出かけてみることにした。

片倉城の築城は、鎌倉幕府の初期の頃の重臣である大江広元を祖とする長井氏によって、室町時代に行われたという話があるが、定かではないされている。更に城主も不明、城が放棄された時期もはっきりしないとする紹介がされている。しかし、後世の改変が加えられているものの、空堀・土塁等の名残があり、15世紀後半の中世城郭の形態を示す典型的なものとされている。

城といわれれば、直ぐに大きな城を思い浮かべるが、場所的に見て出城として建てられたのではないかと思われる。最も片倉城址-04出城であれ山城であれ、城であることに変わりは無いかもしれない。片倉城跡公園はその名の通り、片倉城跡をそのまま公園としたもので、昭和47年に開園されたとされる。公園内の案内板によれば、太平洋戦争中は高射砲陣地としても使われたとされている。現在は、公園として整備されており、水車小屋や長崎の「平和祈念像」の作者として有名な彫刻家北村西望の作品など17基の彫刻が設置されていますと紹介されているが、水車小屋は気が付かなかった。彫刻は幾つか眼に付いたが、どれが西望さんのものかこれも気が付かなかった。兎に角カタクリの花だけにしか眼が行っていなかったということである。

国道16号に面した正面入口を入ると、「彫刻広場」と命名されている広場に行き合う。その名称の通り数々の彫刻作品が展示されていた。これは八王子を愛した北村西望氏ゆかりの「西望賞」の受賞作品を市が購入して展示しているの片倉城址-05だとされる。彫刻広場の横は、「はす沼」と名付けられた池がある。その名の通り5月下旬から睡蓮の花が見られるようである。その他、毎日のようにカワセミも飛来するとする話も紹介されている。蓮沼からなだらかな道を上がると、左側にカタクリの群生地があることになっているが、あまり花は開いていなかった。

更に蓮沼から左手に進んで、急な階段を登ると住吉神社が祀られている。住吉神社は、室町時代の城主長井氏が1372年(応安五年)に城の鎮守として、摂津国(大阪市)住吉大社を歓請したものだとされる。1851年(嘉永四年)に川幡元右衛門泰言とその門人により「数学の実力がつきますように」と祈願された算額が奉納されているとする紹介が見られる。御祭神は上(表)筒男命(うわつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、底筒男命片倉城址-06(そこつつおのみこと)であるとされている。この三神は、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子であるとされている。

肝心のカタクリについては、群生しているカタクリを見たことがないので、どの程度のものなのか、断定的なことは言えないが、近所の人らしい方の話では、「あと3日位じゃないかな、まだ速過ぎるな」ということだったので、もう少し多くの花が見られたのかもしれないが、群生に対する期待が大きかっただけに、こんなもんかいという思いが先に立ったが、カタクリの生態も知らずに文句を言っているのかもしれない。

カタクリ(カタコ)、ユリ科カタクリ属。Erythronium japonicum Decne.。カタクリの名称は、古名のカタカゴから転化片倉城址-07したという説がある。日本だけではなく、サハリン、朝鮮半島、中国に分布するとされる。

生態:北海道、本州、稀に四国などの山中の陰湿斜地に自生する多年草。春、林下に群生することがある。根茎は褐色を帯びた白色。地下6-10cm位のところに横たわり、その直ぐ上に筒状の癒合した鱗茎がある。4-5月頃高さ15cmほどの花茎を伸ばし、濃いピンクの花を下向きに開く。花茎の下部に一対の葉がある。葉には長柄があり、平開する。葉の質は柔らかく、葉面は淡緑色で紫色の斑紋がある。花被片6個で反り返り、内面の基部近くに濃紫色の紋がある。雄しべは6本、葯は濃い紫色で、長さは不揃いで、花柱は三裂する。

鱗茎を見る限り、甚だ心許ない大きさをしているが、これから「片栗粉澱粉」と称する生薬を採るとすると、相当の規模のカタクリの群生が必要となるのではないかと思われるが、昔は群生地が多かったのかどうか。

2010年3月19日(金曜日)の総歩行数は、11,419歩である。

1)伊沢凡人・他:カラー版 薬草図鑑;家の光協会,1999
2)牧野富太郎:原色牧野日本植物図鑑 コンパクト版I;北隆館,2003

 

(2010.5.2.)   

「横浜三渓園」

土曜日, 11月 27th, 2010

  鬼城竜生

例年、梅の時期に写真を撮りに行くのは“湯島天神”か“池上梅園”あるいは“芝公園”ということに決まっていたが、今年は天候不順で、何処の梅がいいのか見当がつかないということと、偶には別なところにというので、横浜三渓園に行くことにした。

三渓園-10東京湾を望む横浜の東南部、本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治三十五年)から造成が始められ、1908年(明治四十一年)に外苑、 1923年(大正十二年)に内苑が完成したとされている。三溪園と名付けられたこの庭園は、生糸貿易で財を成した実業家 原 三溪が、1906年(明治三十九年)自邸を公開したことにより始まる日本庭園である。広さは約175,000平方メートル(53,000坪)に及ぶ園内には、三溪により京都や鎌倉などから移築された17棟の歴史的建造物(内10棟は国指定重要文化財・3棟は横浜市指定有形文化財)が巧みに配置され、四季折々の自然と調和を見せている。

三渓園は三溪が存命中には、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれたとされる。その後、戦災により大き三渓園-09な被害をうけ、1953年(昭和二十八年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるたのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至っているとされる。

しかし、生糸貿易で財を成したというが、一体幾ら稼げばこれだけの庭を持ち、あちらこちらから建物を移設することができるのか。例えば正門から大池越しに見える三重の塔は、旧燈明寺三重塔とされており、聖武天皇の勅願寺・京都燈明寺にあったもの。関東地方では最古の塔。康正三年(1457年)建築とされている。この塔一つ取っても綺麗に解体し、運搬し、再建する費用だけでも生やさしい金額ではないのではないか。更に旧燈明寺本堂(三重塔と同じ京都燈明寺から移築。室町時代初期の建築)も移築されており、何で移築されたのか念のために調べてみたら次の記載がされていた。

三渓園-08燈明寺は、現在の京都府木津川市兎並(うなみ)(旧相楽郡加茂町)にあった日蓮宗の寺院。現在は廃寺である。寺伝によると天平七年聖武天皇の勅願により行基が開創したとされ、一説には、貞観五年(873年)清和天皇の勅願で空海(弘法大師)の弟子真暁が開基したともいう。建武年間の兵乱で廃絶した後、康正年間(1455 年-1456 年)、天台宗の僧忍禅が復興。本堂と三重塔(いずれも横浜市に移築されて現存)はこの頃の建立である。寺は後に再び荒廃。寛文三年(1663年)頃、日蓮宗本圀寺の日弁(日便)が再興し、本堂、三重塔を修理した。寛保三 年(1743 年)には、日賢が三重塔を修理している。近代に入って明治三十四年、川合芳太郎が廃寺となった燈明寺を買収。大正三年(1914 年)には、実業家で美術品収集家でもあった原富太郎(号:三渓)が保存のために三重塔を横浜の三渓園に移築した。本堂は移築されずに残っていたが、昭和二十二年(1947 年)の台風で大破し、部材は解体のうえ保存されていた。昭和五十七年(1982年)、三渓園に本堂の三渓園-07部材を移動し、移築工事に着手。昭和六十二年(1987年)に移築工事が竣工したとされている。

その他、旧東慶寺仏殿[縁切寺の名で知られる鎌倉東慶寺にあった禅宗様の建物。寛永十一年(1634年)建築]、臨春閣[1649年(慶安2年)建築。桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構という伝承がされていたが、現在では和歌山市にあった紀州徳川家の別荘“巌出御殿(いわでごてん)”ではないかと考えられている。内部は狩野派を中心とする障壁画と繊細・精巧な数奇屋風書院造りの意匠を随所に見ることができる]、旧天瑞寺寿塔覆堂[1591年(天正19年)建築。豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物で、現在、秀吉が建てたものと確認できる数少ないものです。 迦陵頻迦(かりょうびんが)や蓮の花などの彫りの深い装飾、そりあがった屋根は、荘厳さを感じさせます]等々、色々な建物が移築されているが、放っておけば雲散霧消するはずのものを残した努力は多とすべきなんだろうが、この情熱というか三渓園-06、この活動源は一体何なんだろうね。

ところでこれらの建物群は、そのまま元の場所で保存することはできなかったのだろうか。建物はその建てられた場所の風景として存在し、その風景の中で年老いていく。それがある日突然その風景と切り離され、全く馴染みのないところに建て直されたとしても、あるいは老醜を曝すだけで、見る人に違和感を与えるのではないかと思われるのだが、果たしてどうか。

三渓園に入って直ぐの所に天満宮の社がある。この社も三渓園にほど近い間門の旧家・高梨家が同地の丘の中腹に祀った間門天神がその前身で、1月25日に初天神が行われるという説明が案内用の三つ折りに記載されている。この天満宮が何時頃のものか分からないが、片方の狛犬の顔が崩れているところを見ると、相当古いものではないかと思われる。神社に置かれている狛犬の顔を潰そうとする奴はいないだろう。

2010年3月3日(水曜日)の総歩行数は8,228歩。あまり天気が良くなかったということと、一部梅は既に終わっている状態で、苑内を余りあるか無かったということである。

  (2010.4.30.)