Archive for 11月 2nd, 2010

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『ホメオパシーについて』

火曜日, 11月 2nd, 2010

魍魎亭主人     

日本学術会議(会長・金沢一郎東大名誉教授)は2010年8月24日独自の砂糖玉を飲ませるなどのホメオパシー療法について「科学的な根拠が無く、治療に使うことは認められない。」とする会長談話を発表した。同会議が特定の手法を批判するのは異例。談話では、ホメオパシーに使われる手法について、英国の検証結果などを根拠に「荒唐無稽」と全面的に否定。内容を理解した個人が自身のために使う場合を除いて、治療などに使わないよう医療関係者に求めた。ホメオパシーをめぐっては、山口県で助産師がこの方法を実践し女児が死亡、親と助産師の間で訴訟に発展している[読売新聞,第48317号,2010.8.25.]。

患者に独自の砂糖玉を飲ませる民間療法「ホメオパシー」について、日本医師会・原中勝征と日本医学会・高久文麿会長は25日、医療関係者がこの療法を用いないように求める見解を共同で発表した。日本学術会議が出した会長談話に賛同した[読売新聞,第48318号,2010.8.26.]。

日本薬剤師会・児玉孝会長は26日「効能・効果が確認されていない『医薬品類似物質』が医療現場で使用されることは、安全な医薬品使用を確保する観点から極めて重大な問題」とし、医療従事者は実施を現に慎むべきだとのコメントを発表した。

2009年10月山口市で生後2ヵ月の女児がvitamin K欠乏症で死亡したとする報道がされた。出産を担当した助産師(43)は、厚生労働省が指針で与えるように促しているvitamin Kを与えず、代わりに「自然治癒力を促す」という錠剤を与え、この女児は生後2ヵ月で死亡していたことが分かった。助産師は自然療法の普及に取り組む団体に所属しており、錠剤はこの団体が推奨するものだった。母親(33)は助産師を相手取り、約5,640万円の損害賠償訴訟を山口地裁に起こした。
母親らによると、女児は昨年8月3日に自宅で生まれ、母乳のみで育てたが、生後約1ヵ月頃に嘔吐し、山口県宇部市の病院でビタミンK欠乏性出血症*と診断され、10月16日に呼吸不全で死亡した。

新生児や乳児は血液凝固を補助するビタミンKを十分生成出来ないことがあるため、厚労省は出生直後と生後1週間、同1ヵ月の計3回、ビタミンKを経口投与するよう指針で促し、特に母乳で育てる場合は発症の危険が高いため投与は必須としている。しかし、母親によると、助産師は最初の2回、ビタミンKを投与せずに錠剤を与え、母親にこれを伝えていなかった。3回目の時に「ビタミンKの代わりに(錠剤を)飲ませる」と説明していたという。

助産師が所属する団体は「自らの力で治癒に導く自然療法」をうたい、錠剤について「植物や鉱物などを希釈した液体を小さな砂糖の玉にしみこませたもの。適合すれば自然治癒力が揺り動かされ、体が良い方向へと向かう」と説明している[読売新聞,第48270号,2010.7.9.]。

*ビタミンK欠乏性出血:血液凝固因子を造るビタミンKが不足して頭蓋内や消化管に出血を起こす病気。母乳はビタミンKの含有量が少ない場合がある。

ホメオパシー(homeopathy)は独逸人医師Hahnemann(Samuel Christian Friedrich Hahnemann,1755年 - 1843年)が考案した、人が本来持っている自然治癒力を引き出すことを目指す療法。「症状を起こす物質には、症状を改善する効果がある」とする考え方から植物・鉱物(remedy)を混ぜた水を極めて薄く希釈し、砂糖玉に含めて経口投与する。
現在でも英国を中心とした複数の国にホメオパシーは浸透しているが、少なくとも科学的な効果は全くないといえる。学術誌を含む幾つかの文献によって、科学的根拠及び有効性を示す試験結果が欠落していることが指摘されている。特に、2005年ランセット誌に掲載された論文は、ホメオパシーの有効性研究に対する集大成であり、最終結論と評価されている。また、「根拠に基づいた医療(EBM)」の手法を用いた調査において、ホメオパシーはプラセボ以上の効果を持たないとして、その代替医療性は完全に否定されている等の報告が見られる。

ビタミンK欠乏状態の乳児に、remedyを服ませることで、ビタミンK欠乏状態が回避出来ると考えたとすれば、非科学的であるとする誹りは免れない。個人的に信じる信じないは別にして、医療に携わり、患者の治療をする場合、独善的な我執は避けなければならない。対象となる病気の治療法として、現時点で最も適切な治療法を選別するのが医療人としての役割であり使命である。その選択の誤りによって、人の命を失わせることがあってはならないはずである。

 

(2010.8.29.)    

「鳩森八幡神社-千駄ヶ谷富士塚」

火曜日, 11月 2nd, 2010

   鬼城竜生   

 

後輩から手紙を貰った。先輩が小説を書いたということであった。良く見ると卒業年次が同じであるから同級生である筈が、クラスが違ったことと、卒業した後鳩森神社-01の空間が広す鳩森神社-02ぎて、名前から顔を思い出すことができなかった。

藤本美智子「シルダリヤ川に流した赤い糸」(幻冬舎ルネッサンス)ということだったので、何時も顔を出す本屋で訊ねたが、生憎置いていないと云うことであった。そこで直接出版社に行けば手に入るのかということで、幻冬舎の場所を探したところ、JR代々木駅を出て明治通りを原宿方向に戻った途中にあることが分かった。副都心線(東京メトロ)北参道駅1番出口が最も近いが、この線に辿り着くまでに時間が掛かり、最も近いのはJR代々木駅ではないかと判断した。

 

一方、地図を見ている内に、幻冬舎の前の道を千駄ヶ谷駅方面に行き、最初の角を右に曲がって暫く行った地点に“鳩森神社”という記載がされていたので、序でによって見る計画を立てた。

2月23日(火曜日)に出かけたが、当初の目的、幻冬舎で本を手に入れるというのは失敗に終わった。自社の出版物を販売する書店の併設はされてい鳩森神社-03なかった。そこで第二の目的地である鳩森神社に向かったが、当初予測していた小さな神社という予測は外れ、立派な物であった。正式には“鳩森八幡神社”という名称であった。

紹介されている縁起によると、「『江戸名所図会』によると大昔、此の地の林の中に瑞雲がたびたび現れ、ある日青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入ると、突然数多くの白鳩が西に向かって飛び去った。この霊瑞に依り、神様が宿る小さな祠(ほこら)を営み、鳩森と名付けた。貞観二年(860年)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水(男山ともいう)八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。」とする紹介がされている。従って御祭神は応神天皇・神功皇后である。

鳩森神社-04鳩森神社-05御社殿は弘化二年(1845年)に上棟した欅造りの荘厳な社殿であったが、不幸にして昭和20年に戦災により消失した。戦後昭和23年より数度の復興事業を重ね、昭和56年末に完成したが、平成2年の御大典を記念して、昔日の姿に復元すべく建設工事を行い、平成5年6月竣工。51.8坪の総欅造り。また戦前の幣殿、拝殿の天井に絵が描かれていたことにならい、108点の草花、暮らしの中の道具を主題にした天井画が描かれたとされている。

境内に祀られている末社については、先ず“甲賀稲荷社”(御祭神:宇迦之御魂神)で、嘗ては青山権田原の御鉄砲場付近に鎮座していた神社で、甲賀組組屋敷の武士等が崇敬していたとされる。明治十八年に、青山練兵場設置のため、鳩森神社の境内に遷座、合祀された。昭和20年5月の戦災で社殿を焼失し、本殿の中に八幡神鳩森神社-06宮、諏訪大神とともに祀られていたが、復興を望む声が高まり、昭和45年欅造りの社殿が完成し遷座された。

次が“冨士浅間神社”(御祭神:木花咲邪姫命)で、東京都の有形民族文化財に指定されてる富士塚の山頂に、浅間神社の奥宮、山麓には里宮が奉祀されている。昭和60年6月、浅間神社の社殿が御影石にて建て替えられたとされる。

その他、“神明社”(御祭神:天照大神)で、太神宮として権田原にあったが、明治四十一年十一月に八幡神社の末社になって境内に遷座された。

境内には都市指定有形民俗文化財-千駄ヶ谷の富士塚(指定:昭和56年3月12日)が築かれている。寛政元年(1789)の築造といわれ、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上近くのみ配されている。頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となってお鳩森神社-07り、山腹にはクマザサも植えられている。山裾の御影石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂に黒朴で覆われている奥宮等富士山を再現している。また塚の前面に、富士塚を構築したときに土を採掘した凹地を利用して造られた池があるが、例年開山式(6月3日)の頃には菖蒲の花が見られる。円墳状の盛り土と前方の池という形は、江戸築造の富士塚の基本様式であるとされている。

その他、将棋堂が見られる。これは昭和61年1月、日本将棋連盟により建立された六角堂で、中には御影石の将棋版の上に、山形県の駒士香田氏より奉納された巨大な王将が祀られているとされる。神社の隣には日本将棋連盟の将棋会館道場ががあり、その関係で将棋に関するものが奉納されたものだと説明されている。年初には「将棋祈願祭」が行われているとする紹介もされ鳩森神社-08ている。

結局、目的の図書は手に入らなかったが、後日川崎の本屋で書名を伝えたところあるということだったので、手に入れることはできた。

本日の総歩行数11,505歩。

 

(2010.4.17.)    

「三浦海岸と河津桜」

火曜日, 11月 2nd, 2010

?? 鬼城竜生

三浦海岸で河津桜が咲いているというので、出かけてみることにした。ただ、どちらかというと河津桜の色は、桜にしては赤過ぎて、吉野桜を見慣れた眼には、些かくどいという気がして、三浦海岸にあることは知っていたが、今までは出かけていなかった。それに河津桜の本家本元は伊豆の河津川の土手に咲くも河津桜-01のであり、それを見るのが先だろうなんぞという、妙な肩肘を張っていた。

三浦海岸駅で下りて、改札を出ると直ぐ眼の前に、“どうだ”と言わんばかりに河津桜が咲いていた。見た瞬間は光線の加減か、商店街の造花の飾りみたいに見えたが、造花ではなく間違いなく生の花である。皆さん、嬉しそうに携帯で写真を撮っている人を見かけたが、真似をして一枚頂戴した。

三浦海岸駅を後にして、線路の下を右に行き道路を渡ると三浦海岸駅に向かう道に出る。線路沿いに暫く行くと、直ぐ線路の下を潜って左に行く道に入り、その道を道なりに行くと、河津桜の咲く道筋が見えてくる。

川津桜はカンヒサクラ(寒緋桜)と早咲き大島桜の自然交配種であるとされる。本来、河津桜が有名なのは静岡県賀茂郡河津町で毎年2月に咲き始め3月上旬に満開になるピンクの桜であると紹介されている。また、河津桜の原木は、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃の2月のある日、河津川沿いの冬枯れの雑草の中で芽

河津桜-02河津桜-04河津桜-06

吹いている桜の苗を見つけて、現在地に植えたものだとされている。1966年(昭和41年)から開花がみられ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヵ月にわたって咲き続け近隣の注目を集めた。伊東市に住む勝又光也氏は、1968年(昭和43年)頃からこのサクラを増殖し、このサクラの普及に大きく貢献しているとする紹介もされている。

河津桜-07ところで三浦海岸の河津桜については、本数が1,000本あり、本場の河津川(静岡県)の川沿いにある800本よりは多いとする紹介も見られる。今回は河津桜の下に菜の花が植えられ、満開の菜の花のキイロと河津桜の取り合わせは絶妙と言えた。京浜急行の線路に沿って暫く行くと右側に池が見えてくる。この池が小松ヶ池公園(面積約 3.69ha)といわれている三浦半島有数の渡り鳥の飛来地であると紹介されている。

溜池(面積約 1.5ha)を中心とした、緑豊かな自然環境にあり、野鳥・昆虫類・植物等の自然生態を観察することができる。
季節を彩る植物として、キケマン・シミツゲ・ヨシ・ラクウショウ・オオシマザクラ・ウキヤガラ。
池にやってくる野鳥としてゴイサギ・コサギ・オナガカモ・ヒドリガモ・カルガモ・カイツブリ。

池畔に池の説明を書いた案内板が見られる。

「この大沼は「小松ヶ池」あるいは「お松ヶ池」といい、古くから里人の間に、この沼にまつわる物語が語り継がれています。むかし、この池のあたりがまだ、いくつ河津桜-10かの小さな田に分かれていた頃、お松という働き者の嫁が一人、田植えに励んでいました。
お松は、意地悪な姑に、一人ではとても無理なほどの、田植えを言いつけられたのです。すでに太陽は西山にかくれようとしているのに、田植えが終わらず、困り果てたお松は、天を仰いで「あと半刻あれば田植えを終わるものを」と嘆き悲しみました。 すると不思議なことに、西山に沈もうとした太陽が、にわかに数尺も高く東ヘ戻り、おかげで、お松は無事に田植えを終えることができました。しかし、その時、あたり一面は深い沼田と変わり、お松は水に呑まれてしまいました。それからというもの、雨の多い年が続いてやがて、この一帯はごらんのような大沼になったといわれています。」

池の傍らに環境ボランティアの方がいたようである。「今日は何………」という知り合いの質問に「芥………」と答えていたが、河津桜の時期には芥を置いていないよう見張っているのかもしれない。池の傍らに店開きをしていた屋台でイナゴの佃煮を買って帰ったが、誰も手を出さないので一人で喰った。
2010年2月19日(金曜日)総歩行数10,233歩。

(2010.4.16.)