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『熱海梅園の紅葉』

木曜日, 9月 2nd, 2010

鬼城竜生

2009年11月28日(金曜日)(5,640歩)・29日(土曜日)(6,064歩)所属する釣り倶楽部の納会があり、来宮の個人経営の旅館に泊まることになった。釣り倶楽部とは言え最近はあまり熱海紅葉-01釣りはやらず、専ら呑み会ということでお茶を濁している。

JR来宮駅を降りてガードを潜って直ぐの所に、来宮神社がある。来宮神社は、古くから来宮大明神と称し、熱海郷の地主の神で、伊豆の来宮の地に鎮座し、来福・縁起の神として古くから信仰されている。「延喜式神名帳」には「阿豆佐別神社」(アズサワケジンジャ)の名で記されている。平安初期の征夷大将軍坂上田村麻呂公は、戦の勝利を神前で祈願し、各地に御分霊を祀ったとも伝えられ、現在では全国四十四社のキノミヤジンジャの総社として、信仰を集めているということである。

御祭神の五十猛命(いそたけるのみこと)は、熱海に鎮座される際、地元民と入来たる旅人を守熱海紅葉-02 護しようと神託をつげられたという伝承から、伊豆に来る旅行者が多く参拝する。国指定天然記念物に選定されている来宮神社のご神木「大楠」は、樹齢二千年を超え、平成四年度の環境省の調査で、全国二位の巨樹の認定を受けており、幹周り約24米という大迫力である。

翌29日は駅のポスターで見た熱海梅園の紅葉を見に出かけることにした。線路に沿って真っ直ぐ歩いてガソリンスタンドを左に曲がると丹那神社の案内の前に出る。

丹那神社は 1921年(大正十年)4月1日、丹那トンネルの東口工事現場で起工以来最初の大崩壊事故が発生、多数の犠牲を伴う大惨事となった。坑口から300m(現在の熱海梅園内「香林亭」あたりの直下)の地点熱海紅葉-04で、長さ約70mにわたって崩壊が起き、作業中の33名が生き埋めとなったという。必死の救援活動もむなしく、8日後奇跡的に救出された17名を除く16名の命が奪われ尊い人柱になった。同年6月26日、鉄道大臣をはじめ、関係者400余名により慰霊祭が挙行された。

熱海紅葉-03丹那神社は、このトンネル工事の犠牲者の英霊の鎮魂の意味を込めて、工事の守り神として坑口上に建立、当初「隧道神社」と命名さ れて現在地に祀られたが、後に「丹那神社」と改称されて今日に至っているという。その後、1924年(大正十三年)の西口の湧水事故や1930年(昭和五年)の北伊豆地震による崩壊事故、その他の事故による犠牲者も合わせ合計67柱の英霊を祭神として祀っているという。熱海紅葉-05他の祭神は、大地主命(おおとこぬしのみこと)、大己貴命(おおなもちのみこと)、手力男命(たじからおのみこと)、豊岩門戸命 (とよいわまどのみこと)、櫛岩門戸命(くしいわまどのみこと)の五神と紹介されている。

暫く三島に住んでいた。東京に出るのも、熱海に行くのも、熱海紅葉-07丹那トンネルを利用してきた。しか し、トンネル掘りで犠牲になった人を祀る神社があるのは、全く知らなかった。神社だけではなく、慰霊碑も建てられており、定期的な祭祀が行われている様である。

丹那神社を過ぎて暫く行くと目的の梅園が見えてくる。

熱海梅園について、入って直ぐの所にある『大塚実氏顕彰碑』によると、次の解説がされていた。

内務省の初代衛生局長であった長与専斉の提唱を受け、横浜の豪商茂木惣兵衛が私財を熱海紅葉-09投じ、明治十九年(1886年)に開園したもので、爾来百二十余年の歳月が流れ、往時の優美な姿が失われつつあった中、熱海由縁の実業家大塚実氏の私財提供を受けて、開園以来の大規模な工事が行われ、清流初川の渓流を挟んで、晩秋の紅葉と早春の梅花、そして初夏の新緑と夏の夜に乱れ飛ぶ蛍の光が、その景観美を競うという、新しい梅園に衣替えを致しました。

ここに熱海梅園を見事に再生させた大塚実氏へ心から感謝の意を表すると共に、この梅園を永く守り育んでいくことを誓います。

平成二十一年十一月吉日
熱海市長 斉藤 榮

その他、平成十二年九月二十三日、当時の森善朗内閣総理大臣と大韓民国の金大中大統領の日熱海紅葉-10韓 首脳会談が熱海で行われ、翌日、両首脳が梅園内を散策し歓談した。それを記念し、平成十四年八月二十九日大韓民国の伝統的様式と手法を取り入れた庭園が完成しましたとされる。

梅園、梅園という宣伝が行き渡っているため、真逆紅葉はと思いながら半信半疑で来てみたが、まあ見事なものでしたと申し上げておく。

長与専斉

大村藩の医者、長与中庵の家に生まれた。専斎が四歳の時に父が亡くなり、祖父の俊達に育てら? れた。俊達は、天然痘の予防など大村藩医として活躍した医者で あり、専斎のその後の活躍は、この祖父の影響が大きかったと思われる。専斎は、五教館で学んだ後、大坂にあった緒方洪庵の適塾に通い、蘭学を学びます。6年後、長崎に行き、オランダ商館医ポンペの教えていた医学伝習所に入り、医学の勉強を始めます。明治となり長崎医学校が できると、専斎は学頭として、我が国最熱海紅葉-11熱海紅葉-08初の医学校の設立に大変力を注ぎました。明治四年には、伊藤博文の推薦で、アメリカやヨーロッパの医療制度の視察に行き、帰国後、医務局長に就任します。この時作った「医制」は医者の免許制度や医学教育など現在にも通じるもので、近代医療制度は、専斎の力によるところが大きかったと言えます。

明治8年、衛生局初代局長に就任、今では普通に使われるこの「衛生」という言葉は、この時専斎が考えたものです。衛生局では、天然痘などの伝染病の予防に力を入れていた。明治十年、日本にコレラが上陸・流行するようになってからは、菌が広がらないよう、上下水道の整備を進めた。専斎は、明治三十五年(1902年)に六十五歳で亡くなった。専斎が大村で過ごした屋敷の一部は、「宜雨宜晴亭」と呼ばれ、国立長崎医療センター内に移設され、残っているとされる。

(2010.3.3.)