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「喉元過ぎれば………」

金曜日, 7月 2nd, 2010

魍魎亭主人

PhRMA(米国研究製薬工業協会)が『発売後1年間にわたって義務付けられている新薬の14日間の処方制限に関する調査結果を発表した』とする業界紙情報があった。医師490人を対象に処方制限の要否を訊ねたところ、全体の9割が廃止を含めて何らかの緩和措置を求めていることが分かった。

インターネットを通じたアンケートで、全国の病院、診療所に勤務する医師490人を対象に実施。現行の処方制限について、「今のままで良い」と答えた医師は12%に止まった。最も多かった回答は「緩和してほしい」の29%で、次いで「少し緩和してほしい」が21%、「大幅に緩和してほしい」も18%と、処方制限の緩和を求める声が7割を越えた。「廃止してほしい」との回答も20%に達した。

新薬の処方が14日分に限定されることに対し、医師の92%が患者やその家族の「通院の頻度」が上がることを問題視した。通院回数が増えることで「再診料などの医療費負担が上がることも、85%が問題点として挙げている[リスファックス,第5544号,H22.2.26.]。

厚生労働省が、発売後1年間にわたって“新薬の処方を14日に限定”しているのは、発売直後に比較的未知の副作用の発現頻度が高いということと、当面専門医に使用を委ね、副作用の発生防止のために注意しながら使って貰うということが前提に在ったはずである。つまり機械で言えば慣らし運転の期間として1年間を見ている訳である。

アンケートに回答した医師が言う『新薬』というのが何を指しているのか、今一つ分からないところがあるが、例えば高血圧の薬であれ、糖尿病の薬であれ、既に数種類の薬が市販されており、これは他の疾患でも状況は同じである。従って、新発売された薬の処方期間を短縮し、飛びつかなければならない問題はないはずである。1年間の制限期間が過ぎ、専門医以外の医師にも安心して使用出来る状況になった後、使用すればいい話で、誰もが新発売と同時に“いわゆる新薬”を使って治療する必要はないはずである。

確信を持って使用する薬が無く、治療に齟齬を来たし、その薬を使用しなければ治療出来ないという画期的な薬が市販されたとしても、誰もが飛びついて治療することはないはずである。極く少数の専門医が、先ずその薬を使用し、1年間に亘り効果と共に副作用の発生状況・重篤度等について観察する。この観察期間に蒐集した情報に基づいて、徐々に使用を広げていく。この方法を導入することで、薬の安全性が確保されるなら、それは薬を服用する患者の安全を守ることであり、また製薬企業に取っては、薬の寿命を伸ばす事にも繋がることである。

医師は薬を見るとき、効果を中心に考え、副作用や相互作用は、往々にして忘れているという傾向が見られる。その意味では、医師に新しい薬を使いましょうと言われたからと言って、患者は単純に喜ぶのではなく、副作用や相互作用について十分な説明を求めるべきである。また、通院が大変だから長期処方でという考え方は、新薬の場合、患者自らが己の首を絞めることと同じだという事を理解すべきである。

*1993年(平成5年)9月28日に、ソリブジンによる死亡が1例報告され、厚生省から「使用上の注意」の改訂指示が出された。しかし、日本商事が実際に文書を配布したのは10月12日からであった。当初、添付文書の相互作用の記載は「併用投与を避けること」の記載がされていたのみである。後に「併用を避けること」という気の抜けた言い回しが、『併用禁忌』を意図した言葉であるという強弁が、厚生省から出されるが、その当時、現場で働いていた医師の意識の中には、『禁忌』というような厳しい表現としての認識はなかったはずである。

*10月12日:日本商事「抗ウイルス剤ユースビル(ソリブジン)とフルオロウラシル系薬剤との併用による重篤な血液製剤について」と題する『緊急安全性情報』配布。併用により『白血球減少、血小板減少等の重篤な血液障害等を発現した症例が7例報告されており、うち3例は死亡に至っている』。

?併用は絶対にしないこと。

?患者への問診を厳重に行うこと。

?併用薬の確認のできない患者には投与をしないこと。添付文書の使用上の注意に『警告』追記。

*11月24日:厚生省中央薬事審議会副作用調査会「21人が副作用被害を受け、うち14人が死亡」を報告。

*12月4日:因果関係不明の死亡例がソリブジンによる死亡と確認、計16名の死亡。

*ユースビルの出荷停止と回収。

*動物実験で抗がん剤との相互作用確認、治験担当医に連絡せず。治験段階で3名死亡。

『喉元過ぎれば熱さ忘れる』という諺がある。

sorivudineは、ウイルス感染症の治療薬で、特に単純ヘルペスウイルス、水痘・帯状疱疹ウイルス、EBウイルス等に有効であるとされていた。日本商事にとって、大型化が期待出来る商品であり、エーザイとの販売提携もされていた。1993年(平成5年)9月3日にユースビルの商品名で上市されると共に、企業の購入要請攻撃が始まるが、9月28日にはsorivudineによる死亡例が報告されている。

薬は上市されるまでの間に厳しい臨床試験の期間を経過してくる。しかし、臨床試験段階で薬を服用するために選別される患者は、選択された優良患者であり、しかも十分な管理の下に薬の投与がされる。しかし上市後は、無差別に選択された患者に幅広く投与され、臨床治験段階では見えなかった重篤な副作用が、見えてくることもあるのである。

『羮に懲りて膾を吹く』という諺もあるが、『転ばぬ先の杖』という諺もある。ものは命にかかわることのある薬である。新発売されたから直ちに使うなどと言うことではなく、よほどのことがない限り『自家薬籠中の薬』で治療することで済むはずである。患者家族の通院の頻度が上がることを問題視しているという意見も報告されていたが、問題視すべきは、新しいものを直ぐ使ってみたくなる性情ではないか。

(2010.3.5.)

「仙台行」

金曜日, 7月 2nd, 2010

鬼城竜生

2009年10月22日(木曜日)・23日(金曜日)の両日、仙台に出かけた。木曜日は『栄養薬理学』の講義を10:40-12:10分まで行い、直ちに東京駅に向かい仙台行きの新幹線の切符を手に入れ弁当を片手に列車に飛び乗った。

今回の仙台行は、グループ病院の総合医学会があり、その前日に各職能団体の長の会議が行われるのが慣例になっている。その日に合わせて我々が参加する長のOB会が開催されるので、その会に参加するためである。会議は16:00ということで、13:00過ぎの汽車に乗れたお陰で、会議には十分間に合う時間に仙台駅に着いた。但し、ホテルまでの道が分からないため、最初からタクシーを使う予定で居たが、駅前のタクシー乗り場に行ってみて驚いた。客待ちのタクシーがビッシリと並んでいる。少なくともこんなにタクシーはいらないだろうと思われるほどの数が並んでいた。

タクシーに乗っていき先を言ったが、この稼業には新しいので道不案内だといわれてしまったが、こちらも同様に不案内なので、役員が送ってくれたホテルのパンフレットの地図を見て貰った。『所で駅の前に凄い数の車が客待ちしていたけど、あれで商売になるんですかね』「いえ、なりませんね。規制緩和で車の数を増やしてしまったので、あんなになっていますけど。車の数が多すぎますね」という話をしているうちにホテルに着いた。

部屋に荷物を置いて会場に出かけたが、何人かの懐かしい顔が既に到着していたが、東京から出席しなければいけない人達が何人か来ていなかった。親の看病や町内会の付き合いがあるとか、色々理由はある、ある意味でいうと、もう少し情報交換ができる会にしないと、遠出をしてまで参加をしたいという気にならないかもしれない。

夜は例によって交流会と称して現役の長連中も含めて何人かで呑みにでたが、昔に比べると酒の量は減ってしまった。ただ、宴会場で地元病院の差し入れだということで、地元蔵本の日本酒と笹蒲鉾が出されたが、これは両方とも絶品であった。

翌朝、普通なら真っ直ぐ東京に戻ってしまうのだが、今回は何処か1箇所神社か御寺に寄って御朱印を貰いたいという思いがあったので、青葉城址にあるという護国神社を目指した。

膝の痛みがあるため、歩けるのではないかと思ったが、タクシーに乗ることにした。しかし驚いたことに、車が立て込んでいて全く動かないという事態に行き合ったが、急ぐ旅ではないので我慢して乗っていた。しかし、お陰で神社の直ぐ前まで車で行かれたので、その分よかったと言うことなのだろうか、残念だったのは“秋季大祭”の当日と言うことで、御朱印は書き置きのものしか頂戴出来なかった。その時頂戴した参拝記念の冊子によると『仙臺青葉城鎮座 宮城県護国神社』の由緒について、次の通り紹介されていた。

由緒

明治天皇の思し召しにより明治維新から大東亜戦争に至るまで、幾多の戦役でわが国の平和と繁栄を念じつつ、尊い生命を御国に捧げられた郷土出身者の御霊を祀る。明治37年8月27日ここ仙台城(青葉城)本丸城址に招魂社として創建され、昭和14年内務大臣指定護國神社となり、昭和20年7月仙台大空襲の戦火により社殿施設を全焼したが、戦後多くの困難を乗り越えて現在の姿に復興した。現在、宮城県出身戦歿者をはじめ、元第二師団管区(福島、新潟、山形の一部)戦歿の御祭神五万六千余柱を御祀りしている。

御本殿

当社の御本殿は、日本民族の祖神と尊ばれている伊勢神宮の外宮「風宮(かぜのみや)」の旧御正殿で、昭和28年の神宮式年遷宮に際し、戦災で消失した当社御本殿の御復興にあたり、神宮の特別の思し召しをもって昭和30年東北に初めて下げ渡された極めて尊い御殿である。建築様式は唯一神明造(特徴:掘立式で棟の左右を棟持柱で支える)で伊勢神宮よりそのまま御移築したものであるが、御屋根は萱葺を銅版葺に改めてある。 宮城県、仙台市の最も誇りとする建物である。

青葉城址と来れば、よく知られているのは『藩祖伊達政宗卿騎馬像』ではないか。仙台の観光案内のパンフレットには、大概載っている図ではないかと思われる。その他『昭忠碑』が立っていたが、この天辺にある鳥は鷹か何かと思ったが、案内板に鳶だと書いてあったので、しみじみ見たがどう見ても鷹か鷲に見えた。

更に青葉城址から左側に眼を向けると白い観音像が眼に入ったが、以前、講演に来たときにあの観音像の近くのホテルに泊まった記憶があるが、詳細は全く思い出さなかった。

帰りに仙台駅で牛タンの昼飯を食ったが、そこそこの味であった。昔仙臺に学会で来たとき、地元の方の案内で古く汚れた店で牛タンで一杯やったことがあった。その後、その店の牛タンを越える牛タンは喰ったことがないと思っているが、最も牛タンを最初に食ったときの印象がよほど強烈だったということかもしれない。

この日の総歩行数は6,720歩と、目標の一万歩を越えなかったが、あまり歩き回る暇がなかったと言うことである。

(2010.2.3.)

「永代寺・霊巌寺から清澄庭園」

金曜日, 7月 2nd, 2010

鬼城竜生

“銅造地蔵菩薩坐像”に最初に遭遇したのは品川の品川寺に行ったときである。それも“銅造地蔵菩薩坐像”があるから行ったのではなく“東海七福神”の一つとして御参りをしたときに坐像の前に建てられていた説明文で、“江戸六地蔵”なるものの存在を知ったということである。ただ、その時、品川寺の“銅造地蔵菩薩坐像”は、確か肩の辺りに穴が開いていた記憶があり、翌年“東海七福神”巡りをしたときには、修復されていた。

その後、深川江戸資料館を見学したときに、前を通る霊巌寺を覗くと“銅造地蔵菩薩坐像”があり、品川寺の菩薩像は網代笠を被っていなかったが、霊巌寺の菩薩像は網代笠を被っている坐像であった。霊巌寺の江戸六地蔵は第5番で、第6番は深川の永代寺の地蔵尊だとされているが、この地蔵尊は明治の初期の段階で鋳潰されており、現存していない。しかし、御朱印は頂戴出来るという情報が六地蔵の案内で見られたので、大栄山永代寺に出かけた。

大栄山永代寺は、高野山真言宗の御寺で、東西線門前仲町駅から永代橋方面に向かって直ぐ、永代通りに面した右側にゆくと、深川不動尊への参道になっており、両側にはいろいろな露店や商店が立ち並んでいる。永代寺はその道路の一角にある。長盛上人により寛永四年(1627)、富岡八幡宮の別当寺として、永代島(現在の永代橋東側一帯)に創建され、富岡八幡宮の別当寺として徳川幕府の篤い信任を得て、繁栄してきた。明治初年に廃仏棄釈令により廃寺となったが、明治29年に永代寺塔頭であった吉祥院(元禄5年創建)を永代寺と改称し、由緒ある法灯を継承している。今も昔も深川門前仲町の一翼を担っている。弘法大師霊場・御府内八十八ヶ所第六十八番札所、大東京百観音霊場第三十七番札所とされている。

「永代寺門前仲町:寛永四年(1627)八幡宮別当永代寺が創建とともに幕府より与えられた拝領地。明治元年(1868)深川富岡門前仲町と改称」。廃仏毀釈によって永代寺門前仲町は、八幡宮門前仲町となった。明治の廃仏毀釈では、全国の非常に多くの寺院が廃寺となった。門前仲町は寺が廃寺になったことにより、地名まで変わった例である。

霊巌寺は浄土宗の御寺である。“道本山東海院霊巌寺”。宗祖は法然上人で、総本山は京都の知恩院、大本山は東京の増上寺。御本尊は阿弥陀如来。称名は『南無阿弥陀仏』の御念仏を唱えるとされている。

寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった。明暦3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。万治元年(1658年)に徳川幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第五番が安置されている。見た感じでは、霊巌寺の地蔵が一番迫力がある様な気がするが、思い過ごしでしょうかね。勿論、五つを並べて見た訳ではなく、それぞれをバラバラに見た上での感想で、我が方の勝手な思い込みかもしれない。

*檀林:弟子を集めて学問をさせる寺院。当時、学寮は百二十余宇あったといわれており、多数の総量が修行をしていた。

霊巌寺には国史跡に指定されている松平定信の霊廟がある。松平定信は、宝暦八(1758)年に田安宗武の七男として生まれ、安永三(1774)年、17歳の時に白川藩主松平家を相続した。陸奥白河藩の第3代藩主で、幼少の頃から学問を好み、少壮時代には、和漢古今の書籍を読破し、11歳で和歌を詠んだといわれている。天明七(1787)年、老中首座となって十一代将軍家齋を補佐し、寛政の改革といわれる大改革を断行して、庶政の刷新と人情風俗の一新のために力を尽くしたといわれている。

特に江戸に町法を施行し、七分金積立の制度を始めて、江戸に住む人達の救済援護に努めた治績は大きかったとする評価がされている。老中職にあること七年、職を退いた後は楽翁と号し、築地の別邸浴恩園又は深川入舟町の別邸松月齋に住んで著作にいそしみ、文政十二(1829)年五月十三日、七十二歳をもって永眠された。法名は守国院殿睡蓮社天誉保徳楽翁大居士。定信が、霊巌寺に葬られたのは、霊巌寺が白川松平家の菩提所であった関係によるとされている。

 時代物の小説を読んでいる松平定信さんの評判はあまり良くない。

定信さんは白河藩主時代に飢饉対策に成功した経験があるということで、吉宗の享保の改革を理想とした緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指したという。一連の改革は、田沼が推進した重商主義(商業重視)政策を否定しており、蘭学の否定や身分制度の徹底も並行して行われた。だが、人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられてはいる。改革は6年余りに及ぶが、極端な倹約・思想統制令は、庶民や大奥から嫌われ、定信の政権下では改革が思ったほどの成果をあげる事は無かった。しかし、定信が失脚した後は松平信明など寛政の遺老達が引継ぎ、寛政の改革での定信の政策は以後の幕政にも引き継がれる事になった。

なお、霊巌寺周辺の地名である白川は、定信に由来するとされている。ところで今回霊巌寺に何回目かの御参りに来たのは、眞性寺地蔵尊を拝見に伺ったとき、戴いた案内の中に霊巌寺でも御朱印が頂戴出来るという、記載が見られたからである。

 霊巌寺からの帰りに、“清澄庭園”に寄り道することにした。

しかし、今までに何回か来ているが、これ程歩きにくく感じたのは初めてである。道に石が敷き詰められていることが、脚に影響しているものと思われるが、あるいは脚力がそれだけ衰えているということなのかもしれない。

本日は門前仲町で電車を降り、大栄山永代寺で御朱印を戴き、そのまま霊巌寺に歩を進め、清澄庭園まで歩いた。2009年10月30日(金曜日)の総歩行数は12,354歩となった。ところで清澄庭園で、“はせがわきよし”氏の東京の風景を描いたペン画の絵葉書を入手することができた。

(2010.2.24.)

『知恩院から青不動明王』

金曜日, 7月 2nd, 2010

鬼城竜生

2009年10月11日(日曜日)午後から琵琶湖畔のホテルにいた。日本薬剤師会の学術大会が大津で開催されたのに併せ、大学の同窓会の近畿支部会を開催する都合があり出かけた。当初、日薬学術大会等というお祭騒ぎに参加しても仕方がないと言うことで、出席する予定は全くなかったが、同窓会の関係で8月以降立場が変わり、同窓会の支部会には出席せざるを得なくなった。

更に次の日、午後3時から全国薬科大学・薬学部同窓会連絡協議会が京都の私学会館で行われるということで、泊まりは京都にしたが、次の日、時間的に余裕があると言うことで、大谷祖廟に御参りに行くことにした。大谷祖廟には、かみさんの両親の御骨を預けてあるという縁で、例年だとかみさんと御参りに来ることになるはずであるが、今回は色々都合があって一人旅と言うことになった。

翌10月12日(月曜日)、京都駅の近くのホテルに宿泊していたので、京都駅内で珈琲を飲み、9時40分頃にはタクシーで大谷祖廟に向かった。祖廟の門は開いていたが、流石に早い時間と言うこともあってあまり人はいなかった。御花と線香を購入し、相変わらず左膝の調子の悪さは引きずっているので、エレベータで2階の礼拝場まで揚がった。やはりこの様な場所には、年寄りの参拝が多いということから言えば、エレベータの設置もやむを得まい。自分の悪い膝を考えれば、やはり階段を登るのはつらい。というよりは本当は下りの方が膝にはきつい様な気がするが、個人的な問題なのかどうか。

大谷祖廟の裏門を出て道路を横断すると円山公園に出る。円山公園を右側に抜けると直ぐそこに知恩院があることに驚いた。大谷祖廟には今まで何回か来ているが、こんな近くに知恩院があるとは知らなかった。

しかし、今回初めて知恩院を前にしてそのでかさに驚かされた。特に国宝とされる三門は、寺の案内用の冊子によれば、高さ24m、幅50m、木造の門としては世界最大級の門であると威張っているが、威張られても仕方がない。

知恩院は浄土宗の総本山である。浄土宗は1175年に法然上人によって開かれたとされる。法然上人は1133年に今の岡山県久米郡に生まれたとされる。『恨み、報復のない、全ての人が救われる仏の道を求めよ』という父の遺に従い、15歳の時に比叡山に登り、仏道修行に励んだという。そして阿弥陀仏の御本尊を見出したとされる。それは『南無阿弥陀仏』と唱えることによって全ての人が救われる“専修念仏”の道だったとされる。法然上人は1212年に80歳で亡くなられたという。

総本山知恩院の方丈庭園・友禅苑共通拝観券の裏面に平成23年(2011年)法然上人800年大遠忌(だいおんき)『ふりかえれば法然さま』なる惹句が印刷されていた。ただひたすら『南無阿弥陀仏』と唱えることで、全ての罰が払われるなら、庶民にとっても楽に入門することが出来た宗旨だったのではないかと思われる。知恩院は鎌倉時代に法然上人が住まわれ、念仏の教えを説かれたところとされている。徳川家康、秀忠、家光公によって現在の寺域が形づくられたという。全国に7,000の寺院と600万人の檀信徒を擁する浄土宗の総本山ですと解説されている。

御影堂(みえいどう)(国宝):法然上人の御影を祀る知恩院の本堂。寛永十六年(1639年)に徳川家光公によって建てられたという。堂内は4,000人が入れる程に広々としているとされる。大扉の釘隠の意匠なども趣向が凝らされているとされる。

午後の会議に参加するのに、左膝の痛みが酷くなると困ると思ったが、京都市指定名勝とされる“方丈庭園”と“友禅苑”を拝観することにした。方丈庭園は僧・玉淵坊によって作庭されたと伝えられているという。池泉回遊式の庭園で、背景に迫る東山とともに情緒溢れる庭園であると説明されている。その他、山亭庭園があり一番の高所にある庭園で、足の痛いのを我慢していっただけのことはあったが、古都の町並みを一望出来る庭園で、四季折々の望遠が楽しめるとしている。

友禅苑は宮崎友禅(友禅染の始祖)氏にゆかりの庭園で、東山の湧水を配した庭と、枯山水の庭で構成され、池の中央には観音像が屹立している。また、茶室も見られ、日本伝統の文化を伝える庭園になっている。

なお、知恩院の七不思議として、左甚五郎が魔除けに置いたと云われる忘れ傘なるものがあり、ある場所を示す印も付けられているが、ハト除けの金網が張られてから見づらくなったとタクシーの運転手が言っていたが、将に仰有る通り、何処にあるのか分からなかった。因みにこの傘は知恩院を火災から守るものであると信じられているの説明がされている。

まだ会議迄に十分な時間があったので、知恩院から暫く歩いたところにある青蓮院門跡を訪ねることにした。

青蓮院門跡という名前を聞いたとき、これはお寺なのか何なのかよく分からなかったが、今回、訊ねてみようと思ったのは、平安時代から引き継がれた秘佛青不動(国宝)を初めて公開するというポスターを見たからである。しかも今回の公開の後は、また秘佛として仕舞い込まれてしまうと言うことで、更に知恩院からもそれほど遠くなく、歩いても行ける距離と言うことなので、会議には十分間に合うと思ったからである。

青蓮院門跡で頂戴した由緒によると、青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られ、現在は天台宗の京都にある五つの門跡寺院を五ヵ室と呼んでいるその一つである。日本天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山を開くに当たっては山上に僧侶の住坊を幾つも造ったが、その一つの青蓮房が青蓮院の起源である。比叡山の東塔の南谷即ち現在大講堂の南の崖下に駐車場用に整地された所がその故地である。伝教大師から円仁(慈覚大師)、安恵(あんね)、相応等延暦寺の法燈を継いだ著明な僧侶の住居となり、東塔の主流を成す坊であったと思われる。その第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七皇子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりで、即ち行玄は門跡寺としての青蓮院の第一世、その皇子が第二世門主覚快法親王である。

山上の青蓮坊は、そのまま青蓮院の山上御本坊と称されて室町時代迄は確実に維持されて居り、門主が山上の勤めの時の住坊となっていた。行玄以後明治に至る迄、門主は皇族であるか五摂家の子弟に限られた。

当院は平安時代の末から鎌倉時代に及ぶ第三世門主慈圓(慈鎮和尚、藤原兼実の弟)の時に最も栄えた。慈圓は天台座主を四度勤めてその宗風は日本仏教界を風靡し、皇室の尊信極めて篤く勅旨による修法を始め仏事に尽くした功績は数限りないが、また日本人初めての歴史哲学者として不朽の名著「愚管抄」を残し、新古今時代の国民的歌人として「拾玉集」を我々に示している。台密の巨匠である反面、浄土宗の祖法然・真宗の祖親鸞を庇護し、法然の寂後時を経てその門弟源智(平重盛の孫)が創建した勢至堂は慈圓が法然に与えた院内の一房の跡で、之が知恩院の起源となった。親鸞は九歳の時に慈圓について当院で得度し、寂後院内の大谷(現在の知恩院の北門の傍らの崇泰院の地)に墓と影堂が営まれたのが本願寺の起こりである。それ故本願寺の法主は明治までは当院で得度しなければ公に認められず、また当院の脇門跡として門跡を号することが許された等の解説がされている。

門跡については、皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで、「門葉門流」の意であった。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになったとされる。

なお、天台宗は、平安時代の806年に、最澄によって比叡山(一乗止観院、後の延暦寺)に開かれた。天台宗の密教は台密といわれ、空海が開いた真言宗は東密といわれている。天台宗でも密教は主要な柱の一つである。選ばれたものに対してのみ秘儀が伝授されてきた密教において、宇宙の中で仏様がどのように並んでいるかを図式化したものを「曼荼羅」というが、その曼荼羅の中心に居られるのが大日如来である。大日如来は宇宙のすべてをつかさどる中心的な存在ということである。そして、その大日如来の化身が、不動明王であるとされる。

不動明王は、密教の仏であるため五色(青・黄・赤・白・黒)に配せられることがあり、赤不動、黄不動、目黒不動、目白不動等が例として上げられている。その中で青色は、方位に配せられれば中央、五大に配せられると大日如来の三昧耶形(さんまやぎょう)である五輪塔婆(ごりんとうば)の頂上の宝珠形となる様に、青不動は五色の不動明王の中では最上位にあり、中心にあるとされる。

青蓮院門跡の青不動明王二童子像は、日本三大不動の一つとして極めて強いお力によって、平安時代から現在まで、篤く信仰されてきたとされる。青蓮院門跡の青不動明王の名に相応しい威厳と荘厳さを持ち、不動としての典型的な体裁を具備している。この青不動は、国宝中でも特に保存のために厳しい条件が付けられているため、それを祀る青不動明王大護摩堂の建立計画が進められているとされる。

青蓮院門跡の庭は、室町時代に相阿弥の作であると伝えられているという。その他、好文亭裏側の山裾斜面から一面に霧島躑躅を植え、その間に梔子(くちなし)・馬酔木等を点植して彩りを添えているが、小堀遠州の作と伝えられているとされる。

知恩院から青蓮院門跡までの間に、親鸞の墓があるという御寺と楠の古木が続く道が続いていたが、兎に角、京都という都の古さを教えられた。

青不動明王の画像の複製を頂戴し、会議の会場までタクシーを飛ばしたが、会議には十分間に合った。本日の総歩行数は15,045歩である。

(2010.1.25.)