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「永代寺・霊巌寺から清澄庭園」

金曜日, 7月 2nd, 2010

鬼城竜生

“銅造地蔵菩薩坐像”に最初に遭遇したのは品川の品川寺に行ったときである。それも“銅造地蔵菩薩坐像”があるから行ったのではなく“東海七福神”の一つとして御参りをしたときに坐像の前に建てられていた説明文で、“江戸六地蔵”なるものの存在を知ったということである。ただ、その時、品川寺の“銅造地蔵菩薩坐像”は、確か肩の辺りに穴が開いていた記憶があり、翌年“東海七福神”巡りをしたときには、修復されていた。

その後、深川江戸資料館を見学したときに、前を通る霊巌寺を覗くと“銅造地蔵菩薩坐像”があり、品川寺の菩薩像は網代笠を被っていなかったが、霊巌寺の菩薩像は網代笠を被っている坐像であった。霊巌寺の江戸六地蔵は第5番で、第6番は深川の永代寺の地蔵尊だとされているが、この地蔵尊は明治の初期の段階で鋳潰されており、現存していない。しかし、御朱印は頂戴出来るという情報が六地蔵の案内で見られたので、大栄山永代寺に出かけた。

大栄山永代寺は、高野山真言宗の御寺で、東西線門前仲町駅から永代橋方面に向かって直ぐ、永代通りに面した右側にゆくと、深川不動尊への参道になっており、両側にはいろいろな露店や商店が立ち並んでいる。永代寺はその道路の一角にある。長盛上人により寛永四年(1627)、富岡八幡宮の別当寺として、永代島(現在の永代橋東側一帯)に創建され、富岡八幡宮の別当寺として徳川幕府の篤い信任を得て、繁栄してきた。明治初年に廃仏棄釈令により廃寺となったが、明治29年に永代寺塔頭であった吉祥院(元禄5年創建)を永代寺と改称し、由緒ある法灯を継承している。今も昔も深川門前仲町の一翼を担っている。弘法大師霊場・御府内八十八ヶ所第六十八番札所、大東京百観音霊場第三十七番札所とされている。

「永代寺門前仲町:寛永四年(1627)八幡宮別当永代寺が創建とともに幕府より与えられた拝領地。明治元年(1868)深川富岡門前仲町と改称」。廃仏毀釈によって永代寺門前仲町は、八幡宮門前仲町となった。明治の廃仏毀釈では、全国の非常に多くの寺院が廃寺となった。門前仲町は寺が廃寺になったことにより、地名まで変わった例である。

霊巌寺は浄土宗の御寺である。“道本山東海院霊巌寺”。宗祖は法然上人で、総本山は京都の知恩院、大本山は東京の増上寺。御本尊は阿弥陀如来。称名は『南無阿弥陀仏』の御念仏を唱えるとされている。

寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった。明暦3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。万治元年(1658年)に徳川幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第五番が安置されている。見た感じでは、霊巌寺の地蔵が一番迫力がある様な気がするが、思い過ごしでしょうかね。勿論、五つを並べて見た訳ではなく、それぞれをバラバラに見た上での感想で、我が方の勝手な思い込みかもしれない。

*檀林:弟子を集めて学問をさせる寺院。当時、学寮は百二十余宇あったといわれており、多数の総量が修行をしていた。

霊巌寺には国史跡に指定されている松平定信の霊廟がある。松平定信は、宝暦八(1758)年に田安宗武の七男として生まれ、安永三(1774)年、17歳の時に白川藩主松平家を相続した。陸奥白河藩の第3代藩主で、幼少の頃から学問を好み、少壮時代には、和漢古今の書籍を読破し、11歳で和歌を詠んだといわれている。天明七(1787)年、老中首座となって十一代将軍家齋を補佐し、寛政の改革といわれる大改革を断行して、庶政の刷新と人情風俗の一新のために力を尽くしたといわれている。

特に江戸に町法を施行し、七分金積立の制度を始めて、江戸に住む人達の救済援護に努めた治績は大きかったとする評価がされている。老中職にあること七年、職を退いた後は楽翁と号し、築地の別邸浴恩園又は深川入舟町の別邸松月齋に住んで著作にいそしみ、文政十二(1829)年五月十三日、七十二歳をもって永眠された。法名は守国院殿睡蓮社天誉保徳楽翁大居士。定信が、霊巌寺に葬られたのは、霊巌寺が白川松平家の菩提所であった関係によるとされている。

 時代物の小説を読んでいる松平定信さんの評判はあまり良くない。

定信さんは白河藩主時代に飢饉対策に成功した経験があるということで、吉宗の享保の改革を理想とした緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指したという。一連の改革は、田沼が推進した重商主義(商業重視)政策を否定しており、蘭学の否定や身分制度の徹底も並行して行われた。だが、人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられてはいる。改革は6年余りに及ぶが、極端な倹約・思想統制令は、庶民や大奥から嫌われ、定信の政権下では改革が思ったほどの成果をあげる事は無かった。しかし、定信が失脚した後は松平信明など寛政の遺老達が引継ぎ、寛政の改革での定信の政策は以後の幕政にも引き継がれる事になった。

なお、霊巌寺周辺の地名である白川は、定信に由来するとされている。ところで今回霊巌寺に何回目かの御参りに来たのは、眞性寺地蔵尊を拝見に伺ったとき、戴いた案内の中に霊巌寺でも御朱印が頂戴出来るという、記載が見られたからである。

 霊巌寺からの帰りに、“清澄庭園”に寄り道することにした。

しかし、今までに何回か来ているが、これ程歩きにくく感じたのは初めてである。道に石が敷き詰められていることが、脚に影響しているものと思われるが、あるいは脚力がそれだけ衰えているということなのかもしれない。

本日は門前仲町で電車を降り、大栄山永代寺で御朱印を戴き、そのまま霊巌寺に歩を進め、清澄庭園まで歩いた。2009年10月30日(金曜日)の総歩行数は12,354歩となった。ところで清澄庭園で、“はせがわきよし”氏の東京の風景を描いたペン画の絵葉書を入手することができた。

(2010.2.24.)