Archive for 11月 28th, 2008

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「二つの叶神社」

金曜日, 11月 28th, 2008

      鬼城竜生

 

7月3日(木曜日)京浜急行の車内広告で見た『叶』神社に行くことにしたが、珍しくかみさんが行くというので一緒に出かけることにした。目的地の浦賀は、快特で堀ノ内まで行き、堀ノ内で浦賀行きに乗り換えるか、川崎で浦賀行きの特急に乗り換えるかの二つの叶神社-01 行き方がある。

目的地の 「叶」神社は、浦賀駅を起点にして港で東西に別れており、浦賀の渡しを使って浦賀海道(市道2073号)を利用してお参りする。

浦賀港はペリー来航の地として知られる港町で、“三浦半島きままに散歩マップ付浦賀駅周辺”では、浦賀の歴史を尋ねて、開国の港町「浦賀」を巡る約1時間30分(約5km)のコースとされている。

浦賀駅を降りて先ず右側の道を取り、西浦賀に向かう。ところで最初に出てくるのが『大衆帰本塚』である。これは何かといえば、元治元年(1864)浦賀奉行所の大工棟梁・川島平吉の発案により、奉行の大久保土佐守が賛同し、篆額は大畑春国が記したとされている。碑文は、浦賀奉行所与力・中島三郎助の筆致をそのまま刻んだもので、「此和多理能むかしのさまをおもう尓」で始まる流麗な筆致の平安疑古文は、 この土地が開発される以前の様子を記し、ここで命を落とした先人たちの思いを忘れぬようにとの思いを伝えるものだとされている。この碑文を書いた中島三郎助は、ペリーが率いる4隻の黒船が浦賀の港に入った時、黒船に最初に乗り込んで折衝を行った人だという。

次に『荒巻稲荷』が出てくるはずであるが、これが解り難くてウロウロしていた時に、若い男性に声をかけられ、『叶神社-02荒巻稲荷』を探して いるといったところ、眼の前にある信金に案内され、地図を調べていただいた。その結果、辿り着くことが出来たが、“江戸後期に造られた社で小さいが豪華な彫刻で飾られている”という、地図の案内文に欺されたということである。小さいが豪華な彫刻というのが、社にまで掛かるとは思わないからそれなり のものを探していたのだが、何の飾りもない派手な建物が出てきて、その中に小さな社ごとしまい込まれているということで、豪華な彫刻はよく解らなかった。しかし、親切に対応していただいた某信金の若い方には感謝したい。

今は閉鎖されているという浦賀ドックの塀を右手に見て『西叶神社』に到着した。京都神護寺の文覚上人が源氏の再興を祈願して石清水八幡宮を勧請したもので、平家が滅亡しその願いが叶ったことから『叶明神』の称号が与えられたとする伝承があるという。

『西叶神社』の社は天保13年(1842年)に建造されたもので、社殿を取り巻く総数230を超える彫刻は安房の彫刻師“後藤利兵衛”の作品だとされている。拝殿の格天井の花鳥の彫刻には、当時の日本には渡来していないとされる花や鳥も彫られているという。棟柱を担ぐ力士像も彫られており、これは外からも直ぐ気が付く位置に彫られている。

叶神社-03 西叶神社にも鏝絵があり石川善吉の大正後期の作品であるとされている。左側に水瓶を割る子、右 側に割れる水瓶より流れる水の中から童子が顔を覗かせ、助けられた一瞬の出来事を漆喰で表現しているという記述が“三浦半島散歩”に見られるが、残念ながら現物を見ることは出来なかった。

  西浦賀側に『陸軍桟橋、為朝神社、浦賀奉行所跡、燈明堂』等、まだ回るべき処は残っていたが、東浦賀に移ることにした。

当人は既に体力は戻ったものと思っていたが、判断が甘かったようで、暫く入院していた後遺症が残っていたようである。年齢的な点もあり、約1カ月では元に戻るということはなかったようである。僅かな距離を歩いただけなのに、足に錘が張り付いたようになってきていた。

浦賀の渡しで東岸に渡り、直ぐに『東叶神社』を訊ねた。社務所の裏の井戸は、勝海舟が咸臨丸による太平洋横断前に、水垢離をした後、明神山山頂で断食したという話が伝承されているという。『東叶神社』拝殿前の狛犬は、それぞれ子供を抱いており、右側の狛犬は子供に乳を飲ませている。また普通狛犬は、口を開けた「阿形」と口を閉じた「吽形」で一対をなしているが、『東叶神社』の狛犬は、口を閉じているように見えるが、『西叶神社』の狛犬が両方とも口を開けているように見えることから東西で「阿形」「吽形」を示しているのではないかとする説もあるとされている。 

次に『東耀稲荷』によった。天明2年(1782年)の創建で、食保命(うけもちのかみ)を祀っているとされる。さほど大きくないが、欄間や格天井等に見事な彫刻がされていると紹介されているが、御開帳の時以外は見られないのではないか。また、正面の大棟には、かって見事な鳳凰の鏝絵があったが、修理の際に再現できる技術者 がおらず、漆喰塗りに なってしまったというが、再現できる技術者が本当に探してもいなかった のかどうか。左右隅棟の上には恵比寿・大黒天の飾り瓦が乗っている。案内冊子によるとこれも『干鰯』で栄えた東浦賀の反映振りが偲ばれるとしているが、それほどの瓦かという気がしたが、それは当方が瓦に暗いということの結果かも知れない。

最終的に水分補給ということで、駅前の精養軒で珈琲を飲み、帰ってきたが、かみさんが一緒だったお陰で、もし万一の時などという心配をせずに歩くことが出来た。ただ、今回の浦賀巡りで、鏝絵の評判が高い神社等には足を運んでいないのと、『東叶神社』の境内である明神山に登っていないということで、再度足を鍛えて巡る必要があると思っている。
東岸叶神社で“相模国東浦賀鎮座 叶神社由緒略記”を頂戴した。それによると明神山に本殿(奥の院)があるとされており、奥の院を拝見しなければ、行ったことにはならないのではないかと思っている。
当日の歩行数10,338歩と出たが、若干少なかったのではないかというのが正直なところである。

      (2008.8.2.)

『タミフルその後』

金曜日, 11月 28th, 2008

        魍魎亭主人

 

2008年8月3日の毎日新聞朝刊に次の記事が掲載された。

『インフルエンザ治療薬「タミフル」(一般名リン酸オセルタミビル)を高濃度に投与されたラットは、神経伝達物質「ドーパミン」が異常に増加することを、加藤敏・自治医科大教授(精神医学)らが突き止めた。研究チームの吉野達規客員研究員は「ヒトの異常行動との関係は不明だが、タミフルが脳の機能にどんな影響を及ぼすのか精査したい」としている。

研究チームは、体重200-250グラムのラット(生後約2カ月、ヒトの10代に相当)を3群に分け、それぞれに2種の異なる濃度のタミフル水溶液と、水だけを投与。脳内ドーパミンの量を直接測定できる手法を使い、検出可能な4時間後まで測定した。

タミフルを投与したラットは、1時間後から脳内ドーパミンの量が増加。4時間後には体重1キロ当たり25ミリグラム(ヒトの幼小児1回投与量の12.5倍に相当)のタミフルを投与したラットでは、水だけを投与したラットに比べドーパミンの量は約1.5倍に増えていた。100ミリグラム(同50倍)を投与したラットでは約2.2倍になった。さらに、投与後10分以内に腹を上にした状態が数分間観察された。

一方、別の神経伝達物質「セロトニン」の量は、タミフルを投与してもほとんど変化しなかった。

ドーパミンが過剰に分泌されると幻覚などを起こすとされる。タミフルを飲んだ10代が飛び降りなどの異常行動を起こし、厚生労働省作業部会が、タミフルと異常行動の関連を検討している。ラット実験ではタミフルや、その代謝物が感情や行動に影響するデータは得られなかったと報告されている。』

インフルエンザ治療薬タミフルと異常行動との因果関係を調べていた厚生労働省研究班の大規模調査で、データ処理のミスが見つかり、同省は5日、調査結果を再検討すると発表した。

研究班は先月、「因果関係は見いだせなかった」と結論付けており、8日に同省の薬事・食品衛生審議会安全対策調査会を開いて、他の研究班の調査結果も合わせ、「10代へのタミフル使用の原則禁止」措置の解除を最終判断する運びになっていた。調査会は来月以降に延期された。

誤りが見つかったのは、インフルエンザ患者1万人を対象にした大規模疫学調査(分担研究者:広田良夫大阪市大教授)。先週末に開かれた研究班会議で、データ集計を委託した民間会社からデータの一部が誤って処理されていたと報告があった。

最初に発熱した時刻や、初診日時のデータの一部を、別の項目に組み入れていたという[読売新聞,第47570号,2008.8.6.]。

厚生労働省の研究班は、7月8日に薬事・食品衛生審議会安全対策調査会を招集して、「10代へのタミフル使用の原則禁止」措置の解除を最終判断する運びになっていたとされる
しかし、8月3日の毎日新聞の朝刊に、動物実験の結果とはいえ、『タミフルを高濃度に投与されたラットは、神経伝達物質「ドーパミン」が異常に増加する』ことを突き止めたとする記事が掲載された。厚生労働省は製薬会社が実施した動物実験の結果、あるいは大規模疫学調査の結果を受け、「10代へのタミフル使用の原則禁止」の記載を添付文書から削除することを決めていた。そこへこの報告である。どうする気なのかと思っていたら大規模疫学調査の集計ミスが見つかったということで、会議の延期を決めてしまった。

大規模疫学調査の集計がおかしいというのは、早い時期に何人かの医師が声を上げていたといわれており、再検証が必要であるなら何もこの時期に変更をいうのではなく、もっと早い段階で再検証を下請け業者に命じるべきではなかったのか。それにしても資料が公表された早い段階で、報告内容に疑義を差し挟む意見が出されていたにも係わらず、分担研究者の広田良夫大阪市大教授は、委託業者から集計処理に誤りがあったとの申し出あるまで気が付かなかったということか。それとも幕引きを急いだ外圧に、屈したということか。

       (2008.8.8.)

『花山曼陀羅-山百合-妙音寺』

金曜日, 11月 28th, 2008

鬼城竜生

6月27日(金曜日)かねて計画していた三浦海岸の妙音寺に出かけることにした。この寺は「花散歩 神奈川を歩く(ブルーガイド編集部・編:実業之日本社,2003)」に、通称、花山曼陀羅といわれ、1都6県にまたがる『東国花の寺 百ヶ寺』76番、山ゆりの寺でしられる。三浦への玄関口となる三崎口から15分の山間に位置する。裏山は『花山曼陀羅』と称し、1年を通し、まさに花の寺を思わせる妙音寺-01 四季折々の花が咲き乱れる。また、山内には174体の石仏が安置されており、浄土の世界が表されている。特に6月半ばに咲くヤマユリはみごと。裏山一体には2000株が生育し、優雅な気品と高貴な香を醸し出している。とする案内文の内『ヤマユリ2000株』に惹かされたということである。

一寺の裏山が如何に広いとはいえ、地平線が見えない程の広さというのでは無いだろうから、2000株のヤマユリが見られるというのは、十分に興味を引きつける話題である。
「三浦半島きままに散歩マップ付三浦海岸」を片手に三崎口駅に降り立った。駅の近辺で飯屋を探したが、普通の日のしかも時分時を逃がしているということで、開いているところが無く、駅側にあった立ち食い蕎麦屋で、昼食を片付けた。

さて歩く段になって困ったのは、地図に掲載されている観光ボランティアガイド推奨コースとは全く違う道を歩くため、正確に道を拾っているとはいえないということと、駅から15分という時間の設定が合いそうもないと思われたことである。

しかし、取り敢えず地図に従い国道134号を左に、沿線沿いに野菜直売所が点在しているという案内通り、野菜や果物を販売している小店が所々見られたので、道はまちがいないということで直進した。次に“引橋”の三叉路で左に入り、引き続き国道134号を道なりに直進する。しかし、どう見ても15分以上は歩いているにも係わらず、辿り着きそうもなかったため、前から来た老婆に妙音寺の場所を聞いたところ、この先に”半次”のバス停があり、コンビニを過ぎたところで左に入れば行けますよということであった。

妙音寺-02 その途中で左手の前方に観音の上半身が見えたが、先ずはそこが妙音寺ではないかと思われたが、まだ道半ばという距離に思えた。兎に角”半次”目指して歩いている内に、寿司割烹豊魚なる鄙には稀な店があり、その他ジャンボ市場三崎生鮮なる店もあった。

”半次”のバス停を過ぎて直ぐに左の道に曲がり、暫く行くと妙音寺の案内が見られた。まるで山道なので、道が正しいのかどうか迷ったが、案内に従って左に曲がると、何とえらい坂道を下るということで、帰りにここを通るのは骨だなというのが率直な感想。

坂道を下りきると明るい開けた場所に出て、眼の前に寺の入り口が見えた。

妙音寺の宗旨は『高野山真言宗』である。飯盛山明王院妙音寺。妙音寺の御本尊は『不空羂索観世音菩薩(ふくうけんじゃくかんぜおんぼさつ)』である。本寺の寺史は「新編相模国風土記稿」によれば、今から400年ほど前(天正年間、1580年代)に中興の祖、賢栄法印により、「昔の寺地、妙音寺原(現在地より北へ2kmの台地)より移し、建設されたもの」とある。当時は戦国大名の一人である小田原北条氏の雨乞いの祈願所として庇護を受けていた。その後、江戸時代に入り、長期にわたる無住職時代や明治時代の廃仏毀釈令、戦後の二町歩にも及ぶ農地解放等各時代に於いて、盛衰をきわめたが、大師信仰を求める地域信者や檀信徒の献身的な努力により伽藍や境内の維持がなされてきた。

本尊の不空羂索観世音菩薩は江戸初期のものとされている。また、諸仏には弘法大師、末那板不動明王(秘仏、12年に一度、酉年4月28日より1ヵ月間開帳)、ぼけ封じ白寿観音、迦陵頻伽、地蔵尊、鶴園福禄寿、(三浦七福神の1つ。毎年元旦より1月15日まで開帳)が祀られている。

鶴園福禄寿は、花妙音寺-03山曼陀羅の一尊として勧請され、経典を結んだ杖を携え、鶴を伴っているところから鶴園福禄寿ともいわれ、南極星の化身とも、中国宋の道士天南星の化身ともいわれ、福徳、財宝、長寿の三徳を備えると伝えられている。また、本寺は逗子延命寺の末寺。本尊のお不動明王は、俎板に彫られたもので末那板不動とも称され、三浦不動 15番札所「三浦大師」にもなっている等の案内がされている。

ただ、残念だったのは、圧倒的に紫陽花が多く、本命の山百合はあまり見られなかったということである。最も塀の向こう側の山の斜面に極く一部山百合の群生が見られたが、『花山曼陀羅』と称している寺の裏庭の部分には、あまり見られなかった。山百合は野生の百合であり、手を加えられるのを嫌うのではないかとおもわれた。事実、寺の発行している小冊子、6月の山百合の写真が表紙を飾るパンフレットの中で住職の発言として『一つは半日日陰。日照時間が12時間ぐらいだとすると、6時間位は日陰になるところがいい。全く日陰でも駄目。日が当たりすぎても駄目なようです。二つ目は、百合の球根の回りにある程度、草があること。そして三つ目は、平らな花壇などでは水はけが悪く、球根が自らを守るために出す有機物が、逆に球根を腐らせてしまう。当山のような傾斜地だと水はけがよく有機物を流してくれるので、どうやら山ゆりには傾斜地が適しているようなんです。他にも肥料の与えすぎはもちろんのこと、消毒もあまりやり過ぎるといけないようで、簡単に言うと、ごく自然の状態がいいようですね』というのが見られる。

もう一度群生が見られるのかどうかは、自然相手のことであり予測不能であるが、一部でも復活してくれれば、見る方としては楽しみが増えるということだろう。

妙音寺-04 回遊方式の道が造られており、至る所に石仏が見られるが、仏典に基づく各種の仏の像で、面白い姿をした石像が見られる他の寺の石像とは違った趣が得られたが、何よりの収穫は偶然”おびんづる(御賓頭廬)さま”の石像に気付き写真が撮れたことである。これは他の文書で使いたい写真ということで、見つけたら撮りに行こうと思っていたものだけに、ここで手に入れられるとは思ってもいなかったものである。

寺の門前に立った時、左手に高架の上を走る電車が見えたので、御朱印を戴く時に門の前の道をまっすぐに行くと京急三崎口駅に出るんですかとお伺いしたところ、そうですということなので、「来る時は”半次”から坂を下って来たんですが、登は避けたいと思っていたので……」、「ここは谷底ですから坂が多いです……」ということなので、兎に、角鉄橋を目指した歩いていたら開発された新興住宅地に続いてマンション群があらわれ、あっという間に駅に着いてしまった。

案内にいう15分は、どうやらこの道程を辿るための時間だったようである。宅地開発のために道程が短くなったとすると、喜ぶべきことか否かは不明である。しかし、来る時は”半次”経由で来ることをお奨めしたい。さもないと歩数が稼げない。当日の歩行数10,978歩。歩いたなという気持ちからすると、何これだけという感じである。尚、寺の紹介は頂戴した二つ折りの記載内容を流用させていただいた。

(2008.7.19.)