「二つの叶神社」

      鬼城竜生

 

7月3日(木曜日)京浜急行の車内広告で見た『叶』神社に行くことにしたが、珍しくかみさんが行くというので一緒に出かけることにした。目的地の浦賀は、快特で堀ノ内まで行き、堀ノ内で浦賀行きに乗り換えるか、川崎で浦賀行きの特急に乗り換えるかの二つの叶神社-01 行き方がある。

目的地の 「叶」神社は、浦賀駅を起点にして港で東西に別れており、浦賀の渡しを使って浦賀海道(市道2073号)を利用してお参りする。

浦賀港はペリー来航の地として知られる港町で、“三浦半島きままに散歩マップ付浦賀駅周辺”では、浦賀の歴史を尋ねて、開国の港町「浦賀」を巡る約1時間30分(約5km)のコースとされている。

浦賀駅を降りて先ず右側の道を取り、西浦賀に向かう。ところで最初に出てくるのが『大衆帰本塚』である。これは何かといえば、元治元年(1864)浦賀奉行所の大工棟梁・川島平吉の発案により、奉行の大久保土佐守が賛同し、篆額は大畑春国が記したとされている。碑文は、浦賀奉行所与力・中島三郎助の筆致をそのまま刻んだもので、「此和多理能むかしのさまをおもう尓」で始まる流麗な筆致の平安疑古文は、 この土地が開発される以前の様子を記し、ここで命を落とした先人たちの思いを忘れぬようにとの思いを伝えるものだとされている。この碑文を書いた中島三郎助は、ペリーが率いる4隻の黒船が浦賀の港に入った時、黒船に最初に乗り込んで折衝を行った人だという。

次に『荒巻稲荷』が出てくるはずであるが、これが解り難くてウロウロしていた時に、若い男性に声をかけられ、『叶神社-02荒巻稲荷』を探して いるといったところ、眼の前にある信金に案内され、地図を調べていただいた。その結果、辿り着くことが出来たが、“江戸後期に造られた社で小さいが豪華な彫刻で飾られている”という、地図の案内文に欺されたということである。小さいが豪華な彫刻というのが、社にまで掛かるとは思わないからそれなり のものを探していたのだが、何の飾りもない派手な建物が出てきて、その中に小さな社ごとしまい込まれているということで、豪華な彫刻はよく解らなかった。しかし、親切に対応していただいた某信金の若い方には感謝したい。

今は閉鎖されているという浦賀ドックの塀を右手に見て『西叶神社』に到着した。京都神護寺の文覚上人が源氏の再興を祈願して石清水八幡宮を勧請したもので、平家が滅亡しその願いが叶ったことから『叶明神』の称号が与えられたとする伝承があるという。

『西叶神社』の社は天保13年(1842年)に建造されたもので、社殿を取り巻く総数230を超える彫刻は安房の彫刻師“後藤利兵衛”の作品だとされている。拝殿の格天井の花鳥の彫刻には、当時の日本には渡来していないとされる花や鳥も彫られているという。棟柱を担ぐ力士像も彫られており、これは外からも直ぐ気が付く位置に彫られている。

叶神社-03 西叶神社にも鏝絵があり石川善吉の大正後期の作品であるとされている。左側に水瓶を割る子、右 側に割れる水瓶より流れる水の中から童子が顔を覗かせ、助けられた一瞬の出来事を漆喰で表現しているという記述が“三浦半島散歩”に見られるが、残念ながら現物を見ることは出来なかった。

  西浦賀側に『陸軍桟橋、為朝神社、浦賀奉行所跡、燈明堂』等、まだ回るべき処は残っていたが、東浦賀に移ることにした。

当人は既に体力は戻ったものと思っていたが、判断が甘かったようで、暫く入院していた後遺症が残っていたようである。年齢的な点もあり、約1カ月では元に戻るということはなかったようである。僅かな距離を歩いただけなのに、足に錘が張り付いたようになってきていた。

浦賀の渡しで東岸に渡り、直ぐに『東叶神社』を訊ねた。社務所の裏の井戸は、勝海舟が咸臨丸による太平洋横断前に、水垢離をした後、明神山山頂で断食したという話が伝承されているという。『東叶神社』拝殿前の狛犬は、それぞれ子供を抱いており、右側の狛犬は子供に乳を飲ませている。また普通狛犬は、口を開けた「阿形」と口を閉じた「吽形」で一対をなしているが、『東叶神社』の狛犬は、口を閉じているように見えるが、『西叶神社』の狛犬が両方とも口を開けているように見えることから東西で「阿形」「吽形」を示しているのではないかとする説もあるとされている。 

次に『東耀稲荷』によった。天明2年(1782年)の創建で、食保命(うけもちのかみ)を祀っているとされる。さほど大きくないが、欄間や格天井等に見事な彫刻がされていると紹介されているが、御開帳の時以外は見られないのではないか。また、正面の大棟には、かって見事な鳳凰の鏝絵があったが、修理の際に再現できる技術者 がおらず、漆喰塗りに なってしまったというが、再現できる技術者が本当に探してもいなかった のかどうか。左右隅棟の上には恵比寿・大黒天の飾り瓦が乗っている。案内冊子によるとこれも『干鰯』で栄えた東浦賀の反映振りが偲ばれるとしているが、それほどの瓦かという気がしたが、それは当方が瓦に暗いということの結果かも知れない。

最終的に水分補給ということで、駅前の精養軒で珈琲を飲み、帰ってきたが、かみさんが一緒だったお陰で、もし万一の時などという心配をせずに歩くことが出来た。ただ、今回の浦賀巡りで、鏝絵の評判が高い神社等には足を運んでいないのと、『東叶神社』の境内である明神山に登っていないということで、再度足を鍛えて巡る必要があると思っている。
東岸叶神社で“相模国東浦賀鎮座 叶神社由緒略記”を頂戴した。それによると明神山に本殿(奥の院)があるとされており、奥の院を拝見しなければ、行ったことにはならないのではないかと思っている。
当日の歩行数10,338歩と出たが、若干少なかったのではないかというのが正直なところである。

      (2008.8.2.)