紫陽花祭り
月曜日, 9月 22nd, 2008鬼城竜生
新聞で本郷の紫陽花祭りの話が記事として紹介されていた。6月13日(金曜日)白山神社に出かけることにした。京急蒲田駅1番線から羽田発の急行電車に乗り換え、三田まで行き、都営三田線に乗り換えて白山駅で降りた。白山駅のA3出口を出て右側に眼をやると、白山
神社入り口を示す大きな看板が出ていた。
白山神社は天暦年間(947-957)の創建といわれているが、現在地に移設されたのは明暦元年(1655)とされている。天暦年間に加 賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したが、後に元和年間(1615-1624)に二代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移設された。その後、五代目の将軍職につく館林候綱吉の屋敷造営のため、明暦元年(1655)現在地に再度移設された。但し、この縁で綱吉と生母桂昌院の厚い帰依を受けたといわれている。
白山神社の御祭神は、菊理姫命(くくりひめのみこと)・伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉冊命(いざなみのみこと)とされている。
" 主神の菊理媛大神(白山大神)”は別名を、白山比咩(しらやまひめ)大神といい、加賀の霊峰白山頂上に祀られている女神である。 菊理媛大神(くくりひめのおおかみ)は、農業の神、海上の神、そして国家、 郷土の守り神として広く人々より尊崇されていた。また、菊理媛大神は、願うことを正しくよりよい方法で導き、乱れた糸をくくり整えるように、融和され中を取り持ち和す縁結びの神様であるとする紹介も見られる。
「くくりひめ
」の「くく」とは、人々の願いを聞き入れる神様、 糸をくくり整えるように、男女の仲を取り持つ神様として、全国的にも縁結びの神として有名であるとされている。白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)は、本来、石川県白山市三宮町に鎮座する神社で、式 内社、加賀国一宮で、旧社格は国幣中社。現在は、全国に2000社の白山神社がありその総本社とされる。一般には白山(しらやま)さん・白山権現などともいわれる。
ところで紫陽花の花については、どの案内書を見ても3,000本とされているが、ざっと見たところ、それほどの数の紫陽花があるとは思われなかった。また入って左側直ぐのところに、鉢植えの紫陽花を富士山に見立てて飾ってあったが、それを外すと更に花の数は少なく感じられるのではないかと思われた。本殿後方にある富士塚、普段は立ち入り禁止で、文京紫陽花祭りの期間だけ開放されるということであるが、高さはさほどではないが、登ると富士山に登ったのと同じ御利益があるといわれている。江戸時代に流行ったといわれる富士山信仰の名残だと思われるが、頂上には浅間神社の小宮が祀られていた。この富士塚は全体的に紫陽花の花で覆われており、見事なものですということが出来る。
神社の裏に
公園があり、その公園も紫陽花の花が満開の状況で、敷地の狭い東京都内の神社では、この程度でもお祭にしないと、あるいは花で有名な神社仏閣はなくなってしまうということなのかもしれない。
帰りは『蒟蒻閻魔』による予定で、白山通りを後楽園方向に歩き、西方交差点を右に入り、『こんにゃくえんま前』の信号を渡ると、蒟蒻閻魔の看板のある路地があり、その路地のの突き当たりに蒟蒻閻魔(源覚寺)があった。
源覚寺に安置されている『閻魔木造坐像』は、文京区が「文化財」として指定している像で、鎌倉期の作と伝えられており、今からおおよそ330年ほど前の寛文12年に最後の修繕をしたことが記録として残っているとされている。
宝暦(1751-1764)の頃、眼病を患う老婆が、その好物の「蒟蒻」を絶って持病の平癒を祈願したところ、大王が老婆の身替りとなって自らの片目を盲目とすると、老婆の片目は以前にもまして視力を回復したと伝えられたことから「蒟蒻閻魔」あるいは「身替りえんま」と呼ばれるようになり、特に眼を患う人たちの信仰を集めるようになったといわれている。現在も大王の右眼だけが光を失っているのは、この故事によるものだとされている。
「蒟蒻」は食物としての「蒟蒻」であると同時に「困厄」という「苦しみ・災い」を現す言葉にも通じるため、今も「蒟蒻」をお供えして、閻魔様に身替
りを請う参拝者がいるといわれている。閻魔堂は、浦賀にペリーが来航した頃のもので、130年余りを経ていたために老朽化が進んでいたが、平成15年に建て替えられた。
また源覚寺では、毎年7月<文京花の五大まつり>のひとつ、"文京ほおずき市"が開かれるとされている。
寺に入って直ぐのところにお百度石が見られた。位置的には、この石を使ってお百度参りをするのはチョット無理じゃないかと思わ れるところにあった。更に奥に入ると『塩地蔵』なるものが塩にまみれて鎮座ましましていたが、塩塗れで顔は見えなかった。この塩地蔵は、歯痛に効能があるということで、祈った後歯痛が治ったら塩を倍あげるということのようであるが、今も塩があがっているということは、効果がある?ということなのであろうか
境内にある鐘は、昭和12年サイパン島「南洋寺」に寄進したものが、戦後は所在不明になっていた。その後アメリカで発見され、昭和49年オークランド市から返還されたという、戦争の荒波に揉まれた鐘である。しかし、元禄3年の銘があるということで、翌戦争中に拠出しないで済んだものと感心する。拠出されていれば、鋳潰されて何処かで消滅させられていたはずである。
帰りは大江戸線の春日駅まで歩き、大門で乗り換える行程を取った。総歩行数11,399歩ということである。
(2008.6.21.)