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『戦跡巡り第三弾』

金曜日, 3月 21st, 2014

                     鬼城竜生

戦跡巡り第三弾として『靖国神社・遊就館見学ツアー』が企画された。2013年10月11日(金曜日)、快晴の一日を約束する朝を迎えたが、今日はどういう訳か新宿区内の戦跡巡り第靖国-01靖国-02靖国-03三弾として靖国神社を見学し、遊就館なる付属の記念館を見学することになっていた。

都営浅草線で日本橋まで行き、東西線に乗り換えて九段下で下車、大鳥居の前で午後一時に待ち合わせる約束になっていた。大鳥居はこの神社の第一鳥居で、初代は大正十年五月(1921)に、日本一の鳥居として完成、高さ21m、笠木(最上部横幅)30cm。昭和十八年九月(1943)老朽化のため解体、撤去された。現在の鳥居は昭和四十九年(1974)に再建された物で、高さは25mあるとされる。

社号標は、神社正面入口の右側に石柱に『靖国神社』彫られた物が配置されているが、従来は上段に『別格官幣社』と彫られていたが、戦後、上部は切除されたものだという。『別格官幣社』とは近代社格制度により、明治維新以降、『延喜式』に倣って、新たに神社を等級化する制度である。しかし、第二次世界大戦後の昭和二十一年にGHQの命令により廃止されたが、今日でも「旧社格」などの名称で神社の格を表す目安とされる。『別格官幣社』とは、国家に功績を挙げた忠臣を祭神として祀る神社など、官幣社でも国幣社でもない官社のために別格官幣社が創設されたと説明されている。

次に眼に付くのは狛犬で、高い台の上に乗っているが、『あ・ん』のオーソドックスな狛犬である。その近くに『あ・ん』の関係なしに鎮座している狛犬は、日清戦争(1894-95年)の最中、海靖国-04靖国-05城の山学寺が日本軍の野戦病院として使用されていた。その時軍医総監が、軍司令官を訪ねたおり、この獅子像にいたく感動したという話をしたところ、そんなにいいものならぜひ日本に持っていき、「陛下の叡覧に供して大御心の程を慰め奉りたい」ということになったと云うことである。元は清国海城三学寺にあったものを、対価を払って持ち込んだと云うことで「戦利品」ではないとされている。

明治二十年(1887)に完成した第二鳥居は、青銅製で、青銅鳥居としては日本一の大きさだという。第一と第二の鳥居の間には、大村益次郎の銅像が建てられており、当たりを睥睨しているが、顔は、若干腐蝕されているように見えるため、よく解らない。彼の銅像がある意味は、近代日本陸軍の創設者で、靖国神社の創建に尽力したためとされている。但し、大村益次郎は明治二年十一月(1869)に逝去とされている。靖国神社の起源は明治二年六月に建てられた東京招魂社に遡るとされているため、厳密に言えば東京招魂社の創建に尽力したと云うことなのだろう。

靖国-06靖国-07第二鳥居の跡に神門があり、その後中門鳥居があり拝殿、本殿と続く。本殿の後ろに配置されているのが心霊を合祀する際に用いる霊璽簿奉安殿があるとされる。本殿の左横に明治維新時代に斃れた志士の霊を祀っていた京都の社を持ち込んだ靖国の先進となった元宮、戦争や事変で亡くなり、靖国に合祀されない国内、国外及び諸外国の人が祀られている鎮霊社の二つが並んで祀られていた。

境内の奥に“神池庭園”がある。この庭園は明治の初めに作られたと云うが、平成十一年(1999)の復元工事で、全国有数の名園であることが解ったという紹介がされている。回遊式のこの庭園は、深い山の中を思わせる滝石組みが一番の見所とされているが、花崗岩の直橋は日本一の長さと紹介されている。春、桜の時期には都内では珍しい枝垂れ桜が咲いているが、“紅枝垂れ桜”の名札がぶら下げてあったと思うが、メモしてこなかったので確証はない。

靖国神社は今回で二度目である。一度目はこの桜の見物と御朱印を頂戴するために訪問した。その時気付かず、今回教えて貰ったものに第二鳥居の前にある大灯籠がある。富国徴兵保険相互会社が奉納した燈籠であるが、台座の周囲に、『日本赤十字救護看護婦の活動』等、日清戦争から満州事変までの軍事活動を描いたレリーフが埋め込まれている。前回もこの前を通ったが、これには気が付かなかった。それと今回、田安門側に建っている高燈籠(九段灯明台)についても、今回の案内人H氏の説明で初めて分かった。

靖国-08高燈籠は、靖国神社正面の常夜灯として明治四年(1871)に建設されたものだという。東京招魂社に祭られた霊のために建てられたものだという。正式には高燈篭というが、常燈明台ともいわれていると説明されている。当時、九段坂の上からは、遠く筑波山や房州の山々まで見渡すことができ、品川沖を行きかう船にとっては大変良い目印として灯台の役目も果たしていたという。当初は靖国通りをはさんで反対側に建てられていたが、道路の改修に伴い昭和五年(1930)に現在地に移転したものだという。

最後に遊就館を見学することになったが、隅から隅まで熱心に見ると6時間位掛かると云うことで、今回は2時間程度しか時間がなく、速歩の見学となった。兎に角膨大な資料に圧倒されたのと、第二次世界大戦の資料を見て、その御粗末な性能にこれでは勝てなかったなと云う思いに捉えられた。足を伸ばした環境省千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、時間が遅く門扉は閉められていた。

この後、H氏の私設ミュージアムに寄って、最近手に入れた竹下夢二の肉筆画なるものを見せて戴いたが、女性の腰回りの描写が夢二流ではなかったような気がしたが、一度専門家に鑑定して貰ったほうが良いかもしれない。

本日の総歩行数は8,998歩で、残念ながら一万歩にはならなかった。

       (2013.10.25.)