トップページ»

『尽未来(三回忌)』

日曜日, 12月 20th, 2009

鬼城竜生

 2008年12月18日(水曜日)親父の三回忌の法要のため、三島に行った。蓮華寺に11時集合ということで、今回は三島駅に弟が迎えに来てくれたので、その車で目的地の蓮華寺まで行った。今回は休日ではなかったため、兄弟三人とそのカミサン達といことになった。

 お経の書かれた本が手渡され、読経が始まったが、その何行目かに“尽未来”とする言葉が眼に付いた。“尽”とは“つきる”“おわる”ということで、“尽未来”とは未来が尽きる。つまり永遠の命はないと言うことを言っているのかと思ったが、辞書を引いてみると、“尽未来際”[仏教で]時間の続く限りその事情が変わらないことを表す。尽未来。とする解説がされていた[新明解国語事典]。

 当初のこちらの解釈とは違い、永遠性を表明する言葉のように見えるが、“時間の続く限り”というのは、別に時間の無限性を保証しているわけではないとも思える。主体を人に置いた場合、人の持っている時間は、個々人の遺伝子の影響下にあるとはいえ、飽くまで有限のものであって無限ではない。しかし、時間という概念は、人間以外の動物や生物には存在しない概念だとすると、“尽未来”は人間を対象としたものであり、永遠の命はないとする解釈も成り立つのではないか。最も、お経の中の極く一部を引っこ抜いてきてとやかく言うのはいかがなものかということになるのだろうが、この言葉が妙に気になったと言うことである。

 食事の後、駅まで送ってもらったが、まだ暮れるには早いと言うことで、三嶋大社で御朱印が貰えるかどうか、行ってみることにした。

 小学校の4年から高校卒業まで、市内に住んでおり、旧東海道がそのまま国道になっている道を歩いても僅かな時間で辿り着くところに三嶋大社はあったが、8月15日から17日にかけて行われる夏祭りの時に覗く程度で、何がどう祀られているのか余り興味もなかった。

 今回神社の御由緒の書かれた冊子によると、3日と思っていた夏祭りは、8月16日のみが例祭で、15日は宵宮祭、17日は御鎮祭とに区分されていたようである。

 古くは旧八月の酉の日に行われ、源頼朝が旗揚げをした治承四年には、「吾妻鏡」によれば「十七日丁酉(ひのととり)、快晴、三島社神事也、藤九郎盛長為奉幣御使社参」とある。後に十六日に固定し、中秋の祭りであったが、明治六年より新暦八月十六日となり、夏祭りとなった。昔から三島囃(みじまばやし)と露天が有名で、全国からの露天は境内及び旧東海道を埋めつくし、近郷近在からの参詣者で市街地への車の乗り入れが規制されるほどである。

 お祭の間、当番の町内から山車が出て、しゃぎりが賑々しく鳴り響くのは知っていたが、三島囃という名前がついているのは知らなかった。露天商は広小路から大社前まで、国道にずらっと並び勿論境内にも露天商が店を出すという賑わいを見せる。

 三嶋大社の創建は何時頃なのかはっきりしないようである。古くから三島の地に鎮座しており、三嶋大明神と称せられ富士火山帯の根元の神、伊豆の国魂の神、国土開発の神としての信仰は古く、天武天皇十三年[日本書紀]、淳和天皇天長九年[釋日本記]、仁明天皇承和七年[續日本後紀]、宇多天皇仁和三年[扶桑略記]、等に、大明神の造島のことが見え、仁明天皇嘉祥三年[文徳実録]以下、その位階は累進し、延喜の制において名?大社に列し、月次(つきなみ)、新嘗(しんじょう)の官弊に預かり、祭料稲二千束を寄せられたとしている。

 以上の文献的考察によっても、その古さは分かろうというものであるが、永歴元年伊豆に流された源頼朝は深く当社を崇敬し、雌伏二十年、治承四年八月十七日、当社御例祭の夜、御神助を得て、山本判官平兼隆を討ち、旗挙に成功、以来武門の尊敬厚く………と解説されている。

 その他、三嶋大社と言えば“金木犀”が有名で、樹齢一千二百年と伝えられ天然記念物に指定されている。金木犀としては日本一の大木で、九月上旬から十月上旬にかけて二度花が咲くといわれている。この花が咲くと、相当広範囲に金木犀の香が広がり、三嶋大社の名物になっている。更に三嶋大社オリジナルの絵馬があるが、絵馬の特長は厚みが厚いと言うことで、約4.5cmのものと、約6cmのものがあるという。

 帰りは水上通り、白滝公園を経由して愛染の滝を左手に見て三島駅への坂を上り、適当な新幹線で品川まで戻った。総歩行数10,914歩。

(2008.2.14.)