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『東海七福神』

日曜日, 12月 20th, 2009

鬼城竜生

 昨年、一昨年に続いて2009年1月4日、3回目の『東海七福神』巡りに出かけた。最初の年は順番なぞは気にせず、適当なところから始めたが、道程に無駄が生ずるため、2年目は、東海七福神御巡り図の案内に従って、品川神社から回った。昨年、一昨年とも神社で分けている色紙に七福神の印を戴いてきたが、今回は“御朱印帳”に記帳して貰うことにした。

 1年に2回も七福神巡りをすることはないと思うが、3日に巡り歩いた“七福稲荷”は結果として満足できなかったので東海七福神詣でをすることにした。信心よりはやや収集癖に凝り固まっていると言われると困るが、兎に角、ここしばらくの間は“御朱印”に拘ってみることにしている。

 今、使っている“御朱印帳”は、萬松山泉岳寺で戴いたもので、その“御朱印帳”には「ご朱印」についてなる注意書が入っていた。

 「ご朱印」は、もとより納経の証でありました。みずからが心をこめて書写した経典をお寺にお納めになると、お寺から確かに受けましたと云うことを証明するものでありました。ゆえに誓願を立て諸寺を巡礼なさる方々の間で、心の支えとして古来より大切に所持されてきました。近頃では納経なさる方がやゞ少なくなりましたが、参拝する心は今もかわらないことでありましょう。

 当寺では本堂に安置するお釈迦さまの御名「釈迦如来」を記し、仏教の帰依の対象である三宝(仏=覚者・釈迦、法=仏の教え・経典、僧=和合の仏弟子)を表す印を捺して、参詣者のたゆまぬ誓願の一助になれば、と祈念しております。

 ところで昨今では、“御朱印帳”に観光地の記念スタンプをも一緒に押したものをお見かけいたしますが、どうぞご朱印の本旨をお心に留めて頂き、まず信心を大切にして永く護持下さいますようお願いいたします。

萬松山泉岳寺

 “御朱印帳”の相場があるのか無いのか知らないが、ほぼ何処の神社仏閣でも1000円で購入することが可能である。そこに観光地のスタンプを捺すというのは、些か乱暴な使い方とも見えるが、このような苦情が寺から出るのは、萬松山泉岳寺が、置かれた位置の特異性によるのではなかろうか。日本人に人気のある忠臣蔵の者乃夫達が、主人ともども祀られており、年間を通して線香の煙の耐えることがないといわれている、ある意味お詣りに来るよりは、どちらかといえば観光地のつもりで来ている若い人達も見られるということであれば、“御朱印帳”もスタンプ帳も一緒で、観光地の記念スタンプを捺すと云う程度の気構えなんだろうと思われる。

 ところで品川は平安朝の時代からその地名があり、鎌倉、室町時代には江戸湾の重要な港として、栄えてきたとされている。太田道灌も品川に居た時代があり、徳川家康が江戸に入り慶長六年(1601年)に東海道五十三次を定め、品川は第一の宿駅に指名された。沿道には由緒ある社寺が多く、古くから七福神が祀られ「七難即滅七福即生」の故事により参詣も多く、昭和七年に品川が大東京に編入された記念として東海七福神初詣を定め、今に至っているとする紹介がされている。

 出発は京浜急行の新馬場駅で降りて直ぐ眼の前にある品川神社の階段を上る。品川神社は文治三年(1187)、源頼朝公が安房国の洲崎明神(天比理乃羊命:あめのひりのめのみこと)(羊=口偏)を当地にお祀りしたのを創始とする。後、鎌倉時代末に、二階堂道蘊公が宇賀之売命を、室町時代中頃に太田道灌公が素戔嗚尊を祀る。また徳川家康は関ヶ原出陣の際に品川神社で戦勝祈願をし、以降、徳川歴代将軍より庇護を受けたとされている。七福神のうち“大黒天(有福)”を祀る。

 品川神社の前を走る第一京浜を横切りサクセス通りを暫く行くと品川虚空蔵尊の道標が見え、その手前の路地を左に入ると養願寺が見える。養願寺は正安元年の創建と伝えられているという。天台宗明鏡山善光院養願寺といい、御本尊は虚空蔵菩薩である。福徳智恵の御利益を授かる丑寅年生まれの御本尊として信仰を集め『品川の虚空蔵さま』と呼ばれている。本堂には鎌倉時代制作善光寺式阿弥陀如来三尊、江戸時代制作の不動三尊像が安置されているとされる。しかし、普段前を通るとただの民家としか思えないが、これ程の由緒があるお寺だとすると、一見民家みたいに見える家屋にも、後光が射して見えるということかもしれない。七福神のうち布袋尊(大度量)を祀る。江戸時代の作とされる。 

 養願寺前の路地を突き抜けると旧東海道沿いに真言宗智山派豊盛山延命院一心寺がある。一心寺は江戸時代の末期安政二年(西暦一八五四年)日本開国之機運高まり国運の境目に接面し時、大老職にある井伊直弼公が縁起に依り江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄安泰の願へとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に依って建立されたと伝えられたと伝えられているの由来が境内に記載されている。一心寺は旧東海道筋において裏鬼門の方向に向いて守護する寺であるとされている。本尊は不動明王で、代々の住職は大本山成田山、高野山、智積院等で修行した弟子が住職を務めているとされる。昭和六十一年(1986年)“七難即滅七福即生”の故事に因み東海七福神の“寿老人(寿命、智恵)”の指定寺院に認定され、平成四年九月一日より江戸観音札所第三十番に指定されたとされている。

 一心寺を出て旧東海道を左に聖跡公園品川宿本陣跡を過ぎて目黒川沿いに荏原神社がある。荏原神社は飛鳥から奈良へ、元明天皇の御代和銅二年(709年)九月九日、奈良の元官弊大社・丹生川上神社より高

『そんなに好い加減でいいのかい』

日曜日, 12月 20th, 2009

魍魎亭主人

 河豚の調理をするためには、特別な免許が必要であると理解しており、偶に河豚に中る事例が出ても、それは釣り人が自分で調理をして食べる例だとばかり思っていた。しかし、驚いたことに『料理屋7人フグ中毒』『山形 店長無資格、1人重体』の大見出しが新聞を飾った[読売新聞,第47743号,2009.1.27.]。

 山形県鶴岡市大西町の飲食店「鮮魚料理きぶんや」で食事をした客から「手足がしびれる」などの119番が相次ぎ、7人が市内の病院に運ばれた。無職の男性(68)が意識不明の重体。公民館職員(55)が意識障害などの重症で、60歳代の男性6人が手当を受けた。

 警察の発表ではフグの白子の料理を食べており、フグ毒が原因の食中毒と見て業務上過失傷害などの疑いで店側から事情を聞いている。

 同店にはフグ調理が出来る「フグ取扱者」の有資格者はおらず、店長は「常連客なので特別に出した。白子調理は今回が初めて」などと話しているという。使用したフグは新潟県で漁獲された『ヒガンフグ』で丸ごと一匹を捌いたのは初めての経験だという。しかし、山形県では「2年以上の実地経験と講習会の受講」が条件で、「フグに馴染みがない」ということから、罰則規定のない要綱での指導に留めているとされており、岩手県では、昨年まで要綱もなく、一昨年、船上で処理されたフグが流通したのを受けて要綱づくりを進めたという。それまでは、他県の資格の有無など、個別に対応していたといい、中毒事故の予防については、「食品衛生法で担保されている」(県保健衛生課)との判断だったという。

 同じようなことは続くと見えて、平成21年2月8日に大分県由布市内の魚介類販売業者が2月6日昼頃、煮付用として販 売した「フグ の卵巣」を購入し、家庭で調理・摂食した男性2名が2月7日フグ中毒に罹患したことが判明した。

 患者の状況について、70歳代の男性が平成21年2月7日(土)9時頃摂食し、11時頃に『ふらつき、めまい、嘔吐、口のしびれ等』を呈し、18時頃に由布市内の医療機関に救急搬送されたが、現在快方に向かっている。この男性は2月6日(金)に貰ったフグの卵巣を7日朝、家で煮付けにしている。

 他の60歳代の男性は2月7日(土)12時頃摂食し、13時頃になって『吐き気、口と手のしびれ等』を呈し、同日18時頃大分市内の医療機関に救急搬送されたが、快方に向かっているとされる。この男性は2月6日(金)に購入したふぐの卵巣を、家でその日の夕方に煮付け、翌日朝に再度煮詰めた。

 白子を販売したのは魚介類販売業の甲斐水産、「大分県食の安全・安心推進条例」に基づく、フグ処理施設の届け出を行わず、フグ処理登録者以外の者がフグを処理していた。

今回の場合、原因食品は『マフグの卵巣』であるとされている。

 フグに起因する食中毒は『フグ毒( tetrodotoxin)』である(臨床症状等からフグ毒と断定)。毒量については大分県衛生環境研究センターにおいてフグの卵巣残品、患者の嘔吐物、血液等について検査予定と報告されている。

 日本近海にいるマフグ科50種のうち24種がフグ毒tetrodotoxin(TTX)を持つとされている。フグ毒は毒性に個体差があり、養殖フグには毒がないとされている。従ってフグ毒はフグ自身が作り出すわけではなく、外的要因で毒化すると考えられている。フグ毒の最初の生産者はビブリオ属などの海洋細菌であることが解ってきた。また一部では食物連鎖により毒が蓄積されることが解明されている。

ヒガンフグ(マフグ科Takifugu pardalis)

マフグ(マフグ科 Takifugu porphyreus)

卵巣と肝臓は猛毒。

卵巣:毒性は産卵期に1000-2000MU/gに達する。

肝臓:産卵期に最高5000MU/gを示し卵巣を凌駕する。

皮膚:最高200MU/gに達する。

精巣:通常無毒であるが、時に弱い毒性を持つことがある。

血液:基本的に無毒。

筋肉:一般に強毒。報告によっては10MU/g未満、無毒とするものも見られる。

:強毒。100-1000MU/g

卵巣と肝臓は猛毒である。

卵巣:通常1000MU/gとされているが、産卵期は2000MU/gに達するの報告。

肝臓:通常1000MU/gとされているが、産卵期の毒性は2000MU/gとされる。

皮膚:皮も有毒である。平成12年12月28日島根県太田市で真河豚の皮による典型的なフグ毒による食中毒報告。

精巣:無毒。

血液:non data

筋肉:無毒。

:強毒。100-1000MU/g。

春の彼岸頃に成魚の漁獲量が多いのでこの名前がついた。

幼魚時は内湾に群れをなしている。成魚は背が黒褐色のクロフグであるが、幼魚は白い斑点が多い。

*フグ毒の単位(MU):資料1gで殺せるマウス(体重20g)の匹数で、1000MU/gの場合、資料1gで体重20gのマウスを1000匹殺せることを示す。

*いずれにしろ河豚には毒があり、食用可とされる河豚でもその部位によっては有毒である。従って都道府県で取扱がバラバラだというのはよろしくない。厚生労働省が全国統一的な対応を取るか都道府県に指示して統一的な対応を取ることが必要ではないか。それにしても食品を扱う人達が、河豚を扱うのに他の魚と一緒の扱いというのでは専門家としての自尊心は何処に行ってしまったのか。

1)小川賢一・他監:危険・有毒生物-学研の大図鑑;学習研究社,2003

(2009.2.22.)

『尽未来(三回忌)』

日曜日, 12月 20th, 2009

鬼城竜生

 2008年12月18日(水曜日)親父の三回忌の法要のため、三島に行った。蓮華寺に11時集合ということで、今回は三島駅に弟が迎えに来てくれたので、その車で目的地の蓮華寺まで行った。今回は休日ではなかったため、兄弟三人とそのカミサン達といことになった。

 お経の書かれた本が手渡され、読経が始まったが、その何行目かに“尽未来”とする言葉が眼に付いた。“尽”とは“つきる”“おわる”ということで、“尽未来”とは未来が尽きる。つまり永遠の命はないと言うことを言っているのかと思ったが、辞書を引いてみると、“尽未来際”[仏教で]時間の続く限りその事情が変わらないことを表す。尽未来。とする解説がされていた[新明解国語事典]。

 当初のこちらの解釈とは違い、永遠性を表明する言葉のように見えるが、“時間の続く限り”というのは、別に時間の無限性を保証しているわけではないとも思える。主体を人に置いた場合、人の持っている時間は、個々人の遺伝子の影響下にあるとはいえ、飽くまで有限のものであって無限ではない。しかし、時間という概念は、人間以外の動物や生物には存在しない概念だとすると、“尽未来”は人間を対象としたものであり、永遠の命はないとする解釈も成り立つのではないか。最も、お経の中の極く一部を引っこ抜いてきてとやかく言うのはいかがなものかということになるのだろうが、この言葉が妙に気になったと言うことである。

 食事の後、駅まで送ってもらったが、まだ暮れるには早いと言うことで、三嶋大社で御朱印が貰えるかどうか、行ってみることにした。

 小学校の4年から高校卒業まで、市内に住んでおり、旧東海道がそのまま国道になっている道を歩いても僅かな時間で辿り着くところに三嶋大社はあったが、8月15日から17日にかけて行われる夏祭りの時に覗く程度で、何がどう祀られているのか余り興味もなかった。

 今回神社の御由緒の書かれた冊子によると、3日と思っていた夏祭りは、8月16日のみが例祭で、15日は宵宮祭、17日は御鎮祭とに区分されていたようである。

 古くは旧八月の酉の日に行われ、源頼朝が旗揚げをした治承四年には、「吾妻鏡」によれば「十七日丁酉(ひのととり)、快晴、三島社神事也、藤九郎盛長為奉幣御使社参」とある。後に十六日に固定し、中秋の祭りであったが、明治六年より新暦八月十六日となり、夏祭りとなった。昔から三島囃(みじまばやし)と露天が有名で、全国からの露天は境内及び旧東海道を埋めつくし、近郷近在からの参詣者で市街地への車の乗り入れが規制されるほどである。

 お祭の間、当番の町内から山車が出て、しゃぎりが賑々しく鳴り響くのは知っていたが、三島囃という名前がついているのは知らなかった。露天商は広小路から大社前まで、国道にずらっと並び勿論境内にも露天商が店を出すという賑わいを見せる。

 三嶋大社の創建は何時頃なのかはっきりしないようである。古くから三島の地に鎮座しており、三嶋大明神と称せられ富士火山帯の根元の神、伊豆の国魂の神、国土開発の神としての信仰は古く、天武天皇十三年[日本書紀]、淳和天皇天長九年[釋日本記]、仁明天皇承和七年[續日本後紀]、宇多天皇仁和三年[扶桑略記]、等に、大明神の造島のことが見え、仁明天皇嘉祥三年[文徳実録]以下、その位階は累進し、延喜の制において名?大社に列し、月次(つきなみ)、新嘗(しんじょう)の官弊に預かり、祭料稲二千束を寄せられたとしている。

 以上の文献的考察によっても、その古さは分かろうというものであるが、永歴元年伊豆に流された源頼朝は深く当社を崇敬し、雌伏二十年、治承四年八月十七日、当社御例祭の夜、御神助を得て、山本判官平兼隆を討ち、旗挙に成功、以来武門の尊敬厚く………と解説されている。

 その他、三嶋大社と言えば“金木犀”が有名で、樹齢一千二百年と伝えられ天然記念物に指定されている。金木犀としては日本一の大木で、九月上旬から十月上旬にかけて二度花が咲くといわれている。この花が咲くと、相当広範囲に金木犀の香が広がり、三嶋大社の名物になっている。更に三嶋大社オリジナルの絵馬があるが、絵馬の特長は厚みが厚いと言うことで、約4.5cmのものと、約6cmのものがあるという。

 帰りは水上通り、白滝公園を経由して愛染の滝を左手に見て三島駅への坂を上り、適当な新幹線で品川まで戻った。総歩行数10,914歩。

(2008.2.14.)