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『愛宕神社』

水曜日, 9月 30th, 2009

鬼城竜生

 2008年12月26日愛宕神社に行くことにした。新橋で東京メトロ銀座線に乗り換え、虎ノ門駅にでる。A4出口から出て、虎ノ門駅から神社まで徒歩8分と書かれた案内が見られるが、実感としてはもっと長い時間歩いていたような気がする。

 愛宕通りを真っ直ぐ行くと、左手に東京慈恵会医科大学の校舎群が見え、愛宕神社前の信号が見える。その前に真福寺があり、真福寺の脇に愛宕神社参道の案内が見られる坂(通称女坂)が見える。坂を登ると左手に階段があり、そこを登り詰めると、愛宕神社に境内に出る。この坂の途中にテレビにも登場するソムリエのやっている店があったが、こんな目立たないところに店を出して流行っているとすると、TV効果ということなんでしょうね。

 愛宕神社案内には、「海抜26mは都内随一の高さを誇り・・・」とあり、ここが愛宕山の山頂ということのようである。

 愛宕神社は慶長8年(1603年)、徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られたという。防火の神様ということであるから当然主祭神は“火産霊命(ほむすびのみこと)”と如何にも火に関係のありそうな名前の神様である。“火産霊命”ほかに『罔象女命(みずはのめのみこと=水の神)』、『大山祇命(おおやまづみのみこと=山の神) 』、『日本武尊(やまとたけるのみこと=武徳の神) 』が正面社殿に祭ってあるといわれる。

 最近、神社仏閣を回っていて感心するのは、殆どのところで複数の祭神が祀られているということであ。更に愛宕神社では境内には末社として『太郎坊社(猿田彦→天狗)、福寿稲荷社、大黒天社、弁天社』があると紹介されているが、何だって一つの神社に一神ではなく複数神が祀られているのか良く解らないところがある。複数の神社があると言うことでいえば、京都の八坂神社がその最たるものではないかと思うが、神も孤独には耐えられないということなのか。愛宕神社には、この他に徳川家康が信仰し、天下とりの祈願をかけたとされる『勝軍地蔵菩薩(行基作)、巳年・辰年の守り本尊の普賢大菩薩』がお祀りされているという。

 帰りは男坂(本道)を降りることにしたが、余りの急勾配に手摺りを掴まなければ下ることができなかった。この石段を馬で登った侍がいたというが、まるっきり信用できない話に思えた。本来、愛宕神社への参拝は、この大鳥居をくぐることから始まるというのが本当なのであろうと思うが、この急な階段では歩いて登のも年寄りには命懸けの作業だいえる。

 鳥居についての蘊蓄によると「天の岩戸」神話のときに、常世(とこよ)の長鳴き鳥と呼ばれた鶏を止まらせた木を模したものとのことである。鶏の音夜明けを告げる。鳥居を潜ることによって新たな日が始まる。また、鳥居は世俗と神域との結界であるとされる。鳥居の下で立ち止まることによって世俗のことは忘れ、心を静めて、鳥居を潜るとする解説がされている。

 愛宕神社でよく知られている話は、講談などで語られている「出世の石段」と呼ばれている物語ではないか。その話は「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがきへいくろう)の故事による。寛永11年、江戸三代将軍家光が将軍家の菩提寺である芝の増上寺に参詣した帰りに、愛宕神社の下を通った時、愛宕山に咲き誇る紅白の梅を見て、「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられた。

 この石段は徒歩で上り下りするのも大変な石段で、馬での上り下りなど無茶もいい所である。誰も名乗りを上げなかった中で、四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎が見事にその期待に応えることができた。平九郎は家光から「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国に轟いたと伝えられている(どうやって伝播したんだ)。この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)は「出世の石段」と呼ばれるようになったとされる。

 その他、係わりのある話として紹介されている物語として、次のものがある。

 井伊直弼を討った水戸浪士集結の場所(万延元年、3月3日。時の大老、井伊直弼を水戸浪士が討った桜田門外の変は有名ですが、その水戸浪士が集結したのは、この愛宕神社だった)。

 勝海舟、西郷隆盛の会談(勝海舟と西郷隆盛による江戸城の無血開城は、日本の近代史上、世界に誇れる快挙である。明治元年三月十三日、両人は家康公ゆかりの当山に登り、「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」との話し合いを行い、その後三田の薩摩屋敷で歴史的な会見をして、無血開城の調印を行ったとされている)。

 十二烈士女(昭和20年8月、我が国は大東亜戦争に対して降伏という形で終止符を打った。同年8月22日、日本の降伏に反対していた尊攘義軍10名が愛宕山にこもり、手榴弾で玉砕した。その後始末をしたのが、義軍烈士の夫人2人であるが、彼女たちも全ての務めを終えた後、あとを追って自刃して果てたとされる。この12名の人たちを12烈士女として、その慰霊祭が毎年執り行われている)。

 不明にして『曲垣平九郎』の話以外は初めて聞く話で、特に『十二烈士女』の話は、殆ど聞く機会のない話だったのではないかという思いと、戦争というのは、表に現れない物語の中にも悲劇的なものがあるということを再確認させて戴いた。

 その後、雲晴院の前を通り、東京タワー前の信号で左に曲がり、増上寺の塀沿いに日比谷通りに出て大門通に入り、大門駅から電車に乗った。総歩行数12,375歩。

(2009.3.26.)