Archive for 9月 1st, 2009

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『ふじ苑』

火曜日, 9月 1st, 2009

鬼城竜生

 2009年4月18日(土曜日)に訪れた時には、藤の花にはやや早いという感じがしたので、4月29日(水曜日:昭和の日)、再度横須賀『しょうぶ苑』の中にある“ふじ苑”を見るために出かけた。同苑の一枚物によると見頃は四月中旬?五月中旬*気候によって変動する場合がございますとなっている。

 例によって例の如く京急線汐入駅で下車、京浜急行バス(池上経由衣笠駅行き)に乗車し、池上十字路下車、しょうぶ苑まで歩いたが、前回歩いたばかりであり、道の感覚があるので、楽に歩くことができた。更に今回はカミサン抜きで一人旅である。余り歩く速度に気を使わずにゆっくり歩けるという気楽さもあり、辿り着くことができた。前回と違い、入って直ぐの所で色々な鉢植えの花木類を販売していたが、水やりを忘れて、幾鉢も駄目にした経験者としては、買って帰るという気にはならなかった。

 今でも残念なのは、京浜蒲田駅の近くの花屋で、紫陽花“墨田の花火”の花付の鉢を買ったのは良いが、手入れの仕方が解らなかったために、翌年花を咲かせることができず、更には水をやるのを忘れて枯らしてしまったのは、返す返すも残念。命あるものを自分の不注意で駄目にしてしまったというのは何とも申し訳ない次第である。更にその紫陽花は花が気に入って買っただけに、惜しいことをしたと思うのと同時に、手入れの仕方の説明書ぐらい付けたらどうだと思うが、植木の世界では、余り素人は買わないということで、説明書付の鉢植えを売るなどということは無いのかもしれない。しかしあれば、鉢植えの花木を買う人はもっと増えるのではと思うが如何なもんだろう。

 それと後一つ、鉢植えの水を一週間ぐらい継続して点滴できる道具は何か無いのかと思う次第である。不精をするなということになるのかもしれないが、時には何日か家を空けることがあり、そのような場合、特に水を欲しがる紫陽花などの場合、間違いなく枯らしてしまう。兎に角、鉄筋長屋に住む住人としては、その点が何とかなれば、再度挑戦したいと思っている。

 鉢植えの花木を売っていたという話から、変な方向に話が進んだが、藤の花はほぼ満開の状態だった。藤は実用と観賞の面で日本人の生活と深く関わっているという説明が案内に書かれており、実用とは何だろうと思ったら蔓で作った藤布は畳の縁や仕事着等に使われましたと説明されていたが、何時頃のことなんだろうと首を捻った。今では蔓を繊維として用いて畳の縁や仕事着に造ったものは、とてつもない高級品ということになってしまうのではないか。

 苑内で見られる藤の種類は11品種、250本の木が植えられているということであるが、確かに今回は見事な花を堪能することができた。此処の藤は、藤棚に設えられているものもあるが、そのまま伸ばした木もあり、色々な形の花を写真に撮ることができた。その他、オオデマリの花も見事に咲いており、素直に綺麗なものだなというのが感想である。特に花が白いので清楚な感じがして、藤の中に混ざっていても決して負けていないところは流石である。

 藤の品種について検索したところ、『系統(品種)名:ナガフジ(ノダフジ)、系統(品種)名:シロバナフジ、系統(品種)名:アケボノフジ 、系統(品種)名:アカバナフジ(モモイロフジ) 、系統(品種)名:ヤエフジ、系統(品種)名:ハガワリフジ 、系統(品種)名:カワリフジ、系統(品種)名:イッサイフジおよび近縁種、系統(品種)名:カピタンフジ、系統(品種)名:シロカピタン、系統(品種)名:アケボノフジ、系統(品種)名:ヤエヤマフジ』が検索できた。

 それぞれの花にはそれなりの特徴があるのだろうが、そこまで追求するつもりはない。今回も帰りは、JRの衣笠駅目指して歩いたが、何気なくより近い道を歩くことができた。本日の総歩行数11,651歩。

(2009.6.5.)

『品川歴史館』

火曜日, 9月 1st, 2009

鬼城竜生

 品川区立品川歴史館で、『テレビのなかったころ-竹内重雄が描いた昔の暮らし-』と称する企画展をやっているということで、3月21日(金曜日)に出かけることにした。

 所で竹内重雄氏についてであるが、明治四十三年(1910)生まれで、郷土の画家として長年品川の大井・浜川に住み品川区内の風景や風俗のスケッチを描き続けていたとされる。昭和四十年代の終わり頃からは、このスケッチブックをもとに、少年時代を過ごした大正期の品川界隈の様子や風俗を、水彩で描き直すことを始めた。これらの水彩画は地域の折々の風物や日常生活のありようが丁寧に描かれており、大正期の品川の姿が甦る貴重な資料となっている。氏は平成三年(1991)に他界されたという[竹内重雄大正スケッチ絵はがき用封筒裏書き;品川区立品川歴史館]。

 竹内氏の描く絵はがきを何枚か手に入れたが、東海道鈴ヶ森権八茶屋では、茶屋の前は道を挟んで埋め立てとか竹中邸とかが書き込まれており、茶屋の前の飯台には焼豆もち、大福2銭とするはり紙がされているなど、懐かしい田舎の風景が描き止められている。

 チンチン電車を前景に大八車や篭に入れられた野菜等が描き込まれている大正七年の青物横丁の絵も、実際には知らない姿であるが、妙に懐かしい風景として迫ってくる。

 ところで、品川歴史館から大森駅に向けて歩くと、途中に鹿島神宮がある。結構広い境内を持つが、どちらかというと風が吹き抜けるというか、大雑把という印象を受ける。

 鹿島神宮の御祭神は、武甕槌之神(タケミカヅチノオオカミ)。創建は平安朝の安和二年(969)に常陸の国、鹿島神宮の御分霊を当地に勧請したのが始まりであるとされる。現在の御社殿は昭和六年に竣工した。旧社殿は(文久二年竣工)精巧を極めた鎌倉彫の彫刻を後世に伝えるため、境内南よりに移し、末社としてある。境内には多くの樹木が茂り、神殿横の御神木(タブノキ)は樹齢300年を超える。末社には三峰神社、金刀比羅神社、天祖神社、八幡神社、稲荷神社を祀ってあると紹介されている。「勝負の神様」、「武道の神様」、「商売繁盛の神様」。

 本殿の前には狛犬はいないが、旧社殿の前には一対の狛犬が飾られており、どういう訳か赤いよだれ掛けを纏っていた。但し、云われている鎌倉彫については気が付かなかった。

 更に大森駅に近づくと、道路を挟んだ反対側に成田山大森不動尊、大森山王日枝神社(旧村社)が鎮座している。大森不動尊は門扉が閉じられており、御参りすることはできなかったが、日枝神社については自由に入ることができるようになっており、立派な一対の狛犬が飾られている。

 更に大森駅に近く、赤い正一稲荷の旗がはためいているところがあり、この日撮影した写真の出来上がりを見る限り、狛犬が一対余っている格好になっていて、些か周章てさせられた。写真を見て、単純に云えば御稲荷さんに狛犬はそぐわない。だとすればこの余っている狛犬は何処の狛犬かと云うことが解らなくなっていた。

 まあ、取り敢えずの総歩行数11,141歩。

 さて6月19日(金曜日)、病院に行った帰りに、再確認のため、同じ行程を歩いてみることにした。

 病院の予約は9時30分と云うことで、今回は検査のための採血はなかったので、急ぐことはなかったが、バスの混雑を考えて、8時30分には病院には入れるように出かけた。9時40分に診察室への呼び込みを受け、10日分の血圧測定データを医師に渡し、前回初めて処方された血圧の薬を服用したところ、上の血圧が90台に低下したため、4mgの錠剤を半錠ずつに分割して服用し、安定した血圧が得られていると申し上げた。それでは今日の処方は2mg錠にしておきましょうと云うことで、服用量を下げた薬とその他は、従来通りという処方せんを貰い、門前の調剤薬局へ。しかし、調剤薬局で薬を受け取る度に異な感じがするのは、何の指導もしないで薬学管理料が取られているというところである。現在の用法指示程度のお仕着せの指示文書を渡すだけなら『調剤技術料』の中に含めるべきで、『薬学管理料』の30点はいらないのではないかと思ってしまう。専門職能と仰有る薬剤師の仕事としては、些か御粗末なのではないか。

 毎回同じ印刷物をよこすだけであれば、無駄な支出ということである。そういえば『今日は血圧のお薬の量が少なくなっていますけど、血圧はどの程度ですか』という質問を何の脈絡も無く受け、『正常範囲内』というこちらの回答を懸命にメモしていたが、それを以て服薬指導をしたということでお茶を濁すということであれば、何をか況やである。第一薬を服用して一応の目安の中に入っているとは云え、それを正常範囲内ということにはならないのではないか。自分でそう答えておいて、反論していたのでは始末に負えないが、薬を中断すれば血圧が上がるというのであれば、治っているということにはならない。

 病院の前のバス停からJR大森駅行きのバスに乗り大森駅へ。大森駅を抜けて山王北口にでて、右へ大森貝塚遺跡庭園の前を過ぎて、鹿島神社の前を過ぎると品川区立品川歴史館に到着する。入場料は100円で、高齢者は無料と云うことでは、維持費を賄うほどの収入にはならないだろうと思われるが、兎に角立派な施設である。今回は『中世東海の港町品川』のパネル展示を開催中であった。

 日枝神社の狛犬を確認している時に、よければこれをどうぞということで、日枝神社の縁起を頂戴した。それによると、当社は、遠く古の頃土地の豪族酒井氏により近江の国比叡山麗にある日吉神社の祭神、山王権現を当地に勧進祭祀されたものであるという。その後延宝五年(1677)円能寺が別当することになり、明治初年まで同寺の管理下にあった。その頃は『山王権現』又は単に「山王さま」と呼ばれていたとされる。

 江戸幕府編纂の地誌によれば社地地頭徐地七畝二十歩、大井村の堺によりてあり、当社あるを以てこの辺りを土俗に山王村と呼ぶと記されている。明治元年神仏混淆の禁令と共に円応寺の手を離れ、日枝神社と名を改めた。御祭神は大山咋命(おおやまくいのかみ)と大巳貴命(おおなむちのかみ)の二柱が合祀されている。大山咋命は木花咲耶姫の父神で、比叡山の地主神として尊ばれる神様。大巳貴命の「おおなむち」とは、古代語で大地主という意で、田畑を神になぞらえたものといわれており、古来、安産、子育て、縁結びに霊験あらたかと云われている[後藤浅次郎]。

 JR大森駅の西口を出て直ぐ眼の前の通りが八景坂(池上通り)、通りの向かい側の急な階段を上ると天祖神社である。例の御稲荷さんの旗は、天辺にある天祖神社への道の中腹にある御稲荷さんのもので、行き所の無かった狛犬一体は、この天祖神社のものであった。天祖神社の狛犬は、足下でじゃれている子狛犬の他に、背中にも子狛犬がいるということで、その辺をよく見ておけば、再確認に来ることはなかったのではないかと思われた。

 天祖神社に登る階段の左側の上り坂(女坂)、その石壁には嘗て馬込文士村と云われた頃の馬込の住人であった作家たちのレリーフ像が飾られている。

 案内によると八景坂とは、現在の池上通りの山王二丁目から山王三丁目にかけての坂道のことで、かつては坂の上からの眺めが見事で、江戸近郊の名勝と云われていたという。しかし、現在では御多分に漏れず、味も素っ気もないただの通りになっている。今更昔日の眺望は望むべくもないが、広重が絵を残しているので、その絵から往時を偲んで頂かなければならない。

 天祖神社の祭神は天照大神。草創の年代は明らかではないが、八幡太郎義家が奥州征伐におもむく途次、この社で戦勝の祈願をしたが、そのときに境内にあった松の木の枝に鎧を掛けたと云われており、“鎧掛の松”の伝説がある。この松の木は安藤広重の絵として、八景坂とともに名勝として広く世間に知られていたが、今は枯れてしまったようである。昭和の初め頃までは境内に根株だけが残っていたという話もあるようであるが、今ではその痕跡もない。

 しかし、不明だった狛犬の坐る位置は天祖神社であることは解ったが、天祖神社というのもあちらこちらにある神社であるが、あれは全て親戚縁者ということになるのであろうか。本日の総歩行数12,142歩。

(2009.6.22.)