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「末廣亭から花園神社」

日曜日, 2月 1st, 2009

? 鬼城竜生

 

友人から新宿末廣亭の招待券を貰った。7月25日(金曜日)に、七月下席の昼の部にかみさんと二人で出かけた。昼の部のトリは 花園神社-01 三遊亭遊三で、膝代わりは代演の鏡正二郎が曲芸をやっていた。そういえば学生時代に何回か寄席に顔を出した事があるが、その時に聞いた三遊亭笑三が元気に話をしているのを聞いて、頑張っているんだなと感心した。若い頃もすっとぼけた話し方をしていた記憶があるが、おとぼけ感は、益々磨きが掛かったと思えるものであった。さて果たして進化なのか退化なのか。

本日の演者の中で、お仲入り後に出た漫才の「ナイツ」は初めて聞いたが、面白い味を出していた。漫才は何も吉本興業だけではないことを示して戴きたいものだと聞いていて思ったが、TVに出始めるとTVでは漫才をしなくなってしまうが、表芸を何時も見せられる芸人でいることは難しいんですかね。TVはある意味でいうと、芸人を消耗品扱いにしてしまうのかもしれない。

そのあと花園神社に回った。花園神社はその縁起によると“古来新宿の総鎮守として、内藤新宿にお花園神社-02ける最も重要な位置を占め来たった神社である。徳川氏武蔵国入国以前の御鎮座にして、大和の国吉野山より御勧請させられたと伝えられる。寛永年中以前の 社地は、現在の伊勢丹の地域にあり、東西65間、南北75間に亘った神域であった。朝倉筑後守、この地に下 屋敷を拝領されるに及び、神社をも下屋敷のうちに囲い込まれたので、その由を御訴えに及び、現在の社地を代地に拝領したと伝えられる。当社地が寛永以後三百数十年の星霜を経たと思考せしむるものに境内銀杏の神木があり、三百年以上の樹齢を経たと推定される。”

その他、昔この辺りを『三光町』といっていたとされるが、その町名の由来も、この神社の縁起によるもののようである。青梅街道と甲州街道の分岐点にあった子安稲荷は明治27年頃合祀され、新宿四丁目の雷電稲荷神社は、昭和3年4月に合祀され、世に花園雷電神社と称したという記載も見られるが、現在は本殿の左前に石柱が建っているだけではないかと思うが、それはそれでいいのかしら。最も社殿があったとしても、戦災で焼けてしまったのではないかと思われるが、由緒記を見ると戦災後二十年社殿は老朽化しという記載が見られることからすると、社殿は焼け残ったということであろうか。

境内末社として『威徳稲荷神社』がある。赤い鳥居が並んでいて、小社の前の鳥居の上にはどういう訳か、木製の男性自身が飾ら花園神社-03 れていた。昭和三年四月頃に建てられたと思われるが、消失して記録になく、崇敬する婦女の参拝多しとされている。男女和合のお守りもあるということで、それなりの御利益はあるということか。

その他、境内末社芸能浅間神社なるものがある。昭和三年六月頃、神社西南偶に建設されたもので、昭和四十年に東北隅に移転されたとするが、これも記録が無く詳細は不明とされる。しかし、小社を取り巻く囲いの石柱には芸能人の名前が刻まれており、芸能人の信心を集めていたということなのだろうか。この囲いの中にある手水のための水盤には龍の蛇口が付いていたが、本殿の手水舎の水盤よりは立派なような気がしたが、そういう比較はよろしくないということかもしれない。文政4年(1821年)に名工村田整岷により鋳造された銅の唐獅子は新宿区の有形文化財として登録されているとのことであるが、金網を被って、窮屈な佇まいを見せていた。

尚、花園神社-04芭蕉の句碑として明治二十九年『春なれや名もなき山の朝かすみ はせを』と年代不詳『蓬莱にきかばや伊勢の初だより はせを』とする二つがあるとされるが、1681年 延宝9年(天和元年)38歳当時、芭蕉は『はせを』の署名を書簡で使ったということであり、芭蕉の句であるということであれば、実証されているというべきか。

おかしなもので二十五年間若松町に住んでいたが、花園神社の縁起を見たこともなければ、境内を隈無く歩くこともなかった。これも年と共に足腰を鍛えるために歩き回るということを始めたお陰かもしれない。

神社をお参りした後、末廣亭のプログラムに広告の載っていた“貝料理はまぐり”で、貝飯を食おうということでよってみた。飯の前に貝の刺身で日本酒を飲んだが、貝類には日本酒が合うというのはこっちの勝手な思い込みなのかどうか。
本日の歩行数6,017歩。

(2008.9.22.)