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「横浜に行ってきた」

水曜日, 6月 18th, 2014

            魍魎亭主人

12月28日が勤務だから27日から預かってくれと云うので、小さいのを二人預かることになったが、家にいるのも芸がないと云うことで、京急電鉄の駅で手に入れた、『横浜“愛の”1DAYきっぷキャンペーン』のパンフレットを見せて、横浜の行き先を決めることにした。

横浜-01こちらの思いとしては、横浜アンパンマンとこどもミュージアム&モールか、原鉄道模型博物館当たりを選ぶだろうと思っていたら、何と横浜赤レンガ倉庫の「会話がはじまる氷の広場」とエッグスンシングス横浜山下公園のパンケーキを選択した。

「何だスケートは滑れるのか」という質問に「二人とも滑れる」という。「今まで何回滑ったんだ」という質問に、下のちびは1回という返事だった。「おいおい大丈夫かよ」と云ったが、子守が強権を発動して行き先を変えるのは不味いだろうと云うことで、希望に従うことにした。

驚いたのはスケート場について、靴を選ぶ段になって、大きさは何文だと聞いたら知らないと仰る。それでどうやって靴を選ぶんだと云うことになったが、棚から適当な靴をつかみ出すから大丈夫かと云ったところ少し小さいという。あげく刃が二枚付いた靴はということになったが、係員に尋ねたところ、二枚刃の靴は小さいのしかないと云うことで、結局フィギュアスケートの刃の付いた靴を借りることになった。それを見たこちとらとしては、これでは氷の上で立つことも出来ないだろうと思っていたが、何と氷の上に立つことは出来た。更に氷の上を走ることは出来るが、ど横浜-02横浜-03うやら滑っている訳ではないようである。ただ、今日で2度目と云う彼の発言が本当だとすると、我よりは数等立派な運動神経を持っていることになる。

そのうちお腹が空いたというので、パンケーキを食べに行こうかといったところ、ラーメンが食べたいと云うことになった。そこで赤レンガ倉庫2号館にある崎陽軒横浜赤レンガ倉庫店に行き、子供達はそれぞれ自分の好きな中華麺を食べたが、横浜名物「サンマーメン」ありますという案内につられて、サンマーメンを食べることにした。どんな字を当てるのか解らないが、「生碼麺」とか「生馬麺」と云う文字を当てるとする話がある。

麺そのものは、醤油ベースのスープにモヤシ、白菜等色々なものが加えられ、具全体についたトロミが、口当たりを滑らかにしている。元々は賄い食で、当初はトロミは付いていなかったという。その意味では中に入る野菜も余り物や屑野菜を使っていたのではないかと思うが、その分野菜の種類が多かったのではないかと思われる。結局港の荷揚げ作業をする人達が、躯を暖めるものとして食べたのではないか。更には飯のおかずとなるように具の多い麺に変化したのではないかと考えられるが、誰かが意図的に変化させた訳ではなく、客の注文に合わせているうちに変化したのではないかと思われる。

飯を食った直ぐ後、パンケーキを食いに行くというので、大丈夫かと心配したが、甘いものは別腹だと云うことで、それなら行くかと云うことになった。その途中、何処かに赤い靴の女の子の銅像が横浜-04あるはずだと云ったところ、それは何だというので、赤い靴を履いていた女の子がアメリカに行ったという野口雨情の詩の話をしたところ、赤い靴を履いていた女の子は葬式に行くときも赤い靴を履いていって、ダンスを踊ったので足を切られたなどと云う、訳の解らん話になってきたので、何だそれはグリム童話かと云ってみたが、詳しくは解らん様だった。但し、調べてみたところアンデルセン作の童話と云うことだった。

何時もならのを食うのに並ぶと云うことはしないのだが、エッグスンシングス横浜山下公園のパンケーキは、孫達の希望であり、しょうがない並ぶことにした。それにしてもどれほどの評判なのか知らないが、そこそこの数が常に並んでいるというのは感心した。余所のテーブルに運ばれてくる皿に盛られた量を見て、流石に一人一皿は無理だったようで、一皿を二人で分けて食べることになったが、母親に写真を送るなどと云っていたが、現物が来ると、公平に二等分することに気が行ってしまい。写真を撮るのを忘れてしまっており、後で気が付いて悔しがっていたが最早手遅れ。

その後、船に乗って、みなとみらいまで行くかといったところ、船酔いすると云うことで、それなら泊まっている船に乗ろうかと云うことで、日本郵氷川丸を見学することにした。操舵室で船長の帽子を貸してくれたので写真を撮ったが、二人ともえらく嬉しそうな顔して写真に写っていた。

最後に横浜マリンタワーに登ることにしたが、昔登った記憶はあるが、殆ど記憶にない。ただ、驚いたことに天気がよかったせいもあるが、夕日の中に見える遠景の富士か見られて写真を撮ることができた。

本日の総歩行数6,994歩。

                                                                    (2014.1.20.)

「添付文書を守る風土を創ろう」

水曜日, 6月 18th, 2014

 

魍魎亭主人

東京女子医大病院(東京都新宿区)で2009~13年、人工呼吸中の小児患者への投与が禁止されている鎮静剤「プロポフォール」が、16歳未満の小児患者約60人に使用されていたことが関係者の話でわかった。重篤な症状を起こしたりした例はないという。プロポフォールを巡っては、同病院で首の腫瘍の手術を受けた男児(当時2歳)が2月、集中治療室での人工呼吸中に大量に投与されて死亡。病院側が現在、原因を調べているほか、警視庁も、業務上過失致死容疑で捜査を進めている。[読売新聞,第49693号,2014.6.5.] 。

東京女子医大病院で2月、首の手術を受けた男児(当時2歳)が人工呼吸中の小児への使用が禁じられている鎮静剤を投与され死亡した問題について、同大の高桑雄一・医学部長ら教授3人が5日、東京都内で記者会見した。「異状死であることは明らか」などと語り、理事長や病院長が説明責任を果たすべきだと批判した。
高桑医学部長は、同大学長の了解を得て記者会見を開いたと主張しているが、大学と病院を運営する学校法人側は「私的な会見で法人による発表ではない」とコメントした。[読売新聞,第49694号,2014.6.6.]

1%-ディプリバン注(アストラゼネカ株式会社):本剤1mL中にプロポフォール(propofol)[JAN])10mgを含有する製剤である。
尚、本剤に添加剤として『添加物(1mL中)ダイズ油100mg・濃グリセリン22.5mg・精製卵黄レシチン12mg・エデト酸ナトリウム水和物0.055mg・pH調整剤:適量』を含有する乳濁性注射液。

本剤の添付文書中に『禁忌』として、次の3点が記載されている。

1.本剤又は本剤の成分に対し過敏症の既往歴のある患者
2.妊産婦(「妊婦、産婦、授乳婦等への投与」の項参照)
3.小児(集中治療における人工呼吸中の鎮静)(「小児等への投与」の項参照)

効能・効果『全身麻酔の導入及び維持。集中治療における人工呼吸中の鎮静』

小児等への投与

1.低出生体重児、新生児、乳児、幼児又は小児に対する安全性は確立していない(使用経験がない)。
2.集中治療における人工呼吸中の鎮静においては、小児等には投与しないこと。[因果関係は不明であるが、外国において集中治療中の鎮静に使用し、小児等で死亡例が報告されている。]
                            [1%-ディプリバン注添付文書:2012.12.改訂(第17版)]

添付文書の『禁忌』の項に、『集中治療における人工呼吸中の鎮静においては、小児等には投与しないこと。』とする記載がされている。

添付文書中の『禁忌』は、『投与不可』と云うことである。但し、添付文書の記載を無視して、医師が使用した場合、そのことによって特に何等かの処分を受けるわけではない。
但し、添付文書の記載に反して使用し、その結果、万一事故が発生した場合、その使用に“特段の事由”がない限り、医師の責任として追及される。日常診療において『禁忌』を無視して使用することで、何ら問題が起こらなかったとしても、万一死亡事例が発生すれば、医師の責任とされるのでそれなりの覚悟が必要である。

この点については、次の最高裁判例が存在する。

最高裁判例(最高裁第3法廷1月23日判決)

医薬品の添付文書の記載事項は、当該医薬品の危険性(副作用等)につき最も高度な情報を有している製造業者または輸入販売業者が、投与を受ける患者の安全を確保するために、これを使用する医師等に対して必要な情報を提供する目的で記載するものであるから、医師が当該医薬品を使用するにあたって右文書に記載された使用上の注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合には、これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り、当該医師の過失が推定される

薬は使用方法を間違えれば、人の命に係わる問題に発展する。少なくとも患者の治療に薬を使用する者は、『添付文書の記載事項を順守する』の気概が必要である。医師とは云え患者の“命を粗末に扱う程の裁量権”はない。

                 (2014.6.7.)

『5.25.-26福島連帯ツアー』

水曜日, 6月 18th, 2014

東京医労連OB会
  会長 古泉秀夫

東京医労連OB会の福島連帯ツアー、今年で3回目を迎えた。体力に自信のある現役時代であれば、あらゆる機会を利用して支援に取り組むことが可能だが、体力に自信がなく、また、それぞれが退職後に新たに仕事に就くという状況の中では、思うように行動することは出来ない。
楢葉町-001 そこでせめて年1回、貧者の一灯と云うことで、福島連帯ツアーを企画し、現地を訪ねることで、少しでも激励できればいいのではないか。更には現地に宿泊することで、福島のものを食べることで、何ら問題はないと云うことを自ら経験し、それを広く語ることで、“語り部”としての役割を果たすということで、地元への協力が出来るのではないかという事での企画である。
今回は福島県東部の太平洋に面した浜通り地方のほぼ中央に位置し、北は富岡町、西は川内村、南は広野町・いわき市とそれぞれ接している“楢葉町”を主たる訪問地とし、富岡町の見学、その後、郡山市の磐梯熱海かんぽの宿郡山へ移動、福島県厚生連労働組合中央執行委員長・折笠由美子氏、坂下厚生総合病院(臨床検査技師)渡部早苗氏(元・双葉厚生病院勤務)のお二人のお話を伺う事になっていた。
5月25日(日曜日)7時40分に新宿を出発した“たけのこ観光”のバス(運転手・長妻氏)に乗車した43名は、一路福島を目指した。尚、今回は日本中国友好協会理事長の他、法政大学の会員の方々6名が参加されていた。
いわき四倉パーキングエリアで、福島県医療労働組合連合会特別執行委員・いわき事務所長の馬上勇孝(もうえゆうこう)氏と待ち合わせて、依頼しておいた弁当を持参頂くと共に、案内人として御乗車戴いた。馬上氏は、放射線測定器を持参しており、お付き合い戴いた間、しょっちゅうカウンターの数値を読み皆に伝達していた。尚、道路の所々に近辺の放射線線量を示す数値が電光掲示板に表示されていた。
馬上氏には楢葉町の宝鏡寺に行くまでの間、現在置かれているこの地域の状況の紹介をして戴いた。

1.震災・原発から

福島原発は第1原発と第2原発がある。第1には1~6号機まであり、1~4号機が爆発しました。世界で初めての『原発震災』がもたらしたもの、福島第1原発事故は、広島原爆の20個分、セシウムに限れば168個分という大量の放射性物質を放出した。

楢葉町-002 1)行方不明者を探すことが出来ない。死体が数ヵ月も置き去りにされた。今なを、行方不明者は2,884人になっている。福島県の犠牲者、死亡1,608人、不明211人、震災後ストレス等で亡くなった震災関連死1,067人です。15万人が今なを日常生活を奪われ、人生を根本から狂わされた。何の展望もないと云う過酷な状況の下に置かれています。

2)福島県の全産業、とりわけ農業と漁業に深刻な損害を与えている。漁業は汚染性の問題で試験操業も出来ず、毎日汚染水の報道です。放射能に対する共通した知識がなかったこともあって、放射能に対する対応の違いは大きく、強いストレスと無益な対立をもたらしました。また地域社会が、同心円で区切られた距離で分断され、賠償金額で分断され、県民間の対立と分断を過酷なものとされた。いわき市の公民館の入口・支所等に「避難民は帰れ」などの落書き、自家用車のパンク、ガラス窓の破損、仮設住宅に花花火の打ち込みが発生した。避難民は外出に気を遣い、外出の回数を減らすために大量の買い物をする。その結果これがまた妬みの原因になっている。

2.福島の今(2013年9月25日の福島民有新聞)

202万の県民が194万8597人まで減少した。避難指示区域と人数について
帰還困難区域(年間50ミリシーベルト以上、5年間は原則立ち入り禁止):25,280人。
居住制限区域(20~50ミリシーベルト、2年から5年以内の期間):24,620人。
避難指示解除準備区域(20ミリシーベルト、2年以内の早期帰還):34,000人。
シーベルト(Sv)は放射線により身体が受けた影響を表す単位:1000マイクロシーベルト/hで、1ミリシーベルト/hになる。
ベクトル(Bg)は放楢葉町-003射線を出す能力を表す単位。食品は100ベクトル以下が基準。
福島県の避難者は、北海道から沖縄まで、県外避難者52,277人、県内避難者94,629人になる。避難者は避難先を5回は変更している。仮設住宅は狭く、長屋式で隣の声が聞こえる。1人で4畳一間、仮設暮らしは2014年3月で28,000人。最近では震災関連死が増える傾向にある。自殺者148人を含む関連死は1,671人になる。地震・津波で亡くなった直接死は1,608人で、震災関連死が追い越してしまった。自殺者は2011年が10人、12年13人、13年が23人と増えている。原因は避難生活の長期化で、精神的に追い詰められた結果ではないかとされている。商売が出来ない、農業が出来ない、捌け口に酒を呑む、そんな生活が人の精神を冒すのだろうと考えられています。

今回、昼食は楢葉町の宝鏡寺で摂ることになっていた。勿論、宝鏡寺で食事を作るわけではなく、馬上氏が用意してくれた弁当を食べると言うことだが、食事をする場所の提供が出来る程度には回復したと云うことかもしれない。
宝鏡寺は1395年(応永二年)に創建されたと云う浄土宗の古刹で、600年を超える歴史がある寺である。住職の早川篤雄氏は、昭和49年に始まった東京電力福島第二原発1号炉の設置許可取り消しを求めた訴訟の原告団事務局長を務めた方で、最高裁までの長い戦いを続けたと云うことである。氏は現在『原発問題福島県民連絡会代表』を勤められている。
早川住職は『寺の住職として、更には学校の先生として、38年間の楢葉町での平穏な生活について語り、2004年4月からは夫人とともに精神障害者と知的障害者の支援のために4つの楢葉町-004施設を作り6つの事業をしていた。障害者は全部で94人になったが、避難生活の中で5人の方が亡くなった。障害者は安心できる自分の居場所と自分に合った作業を手にすると、生き生きと働きます。私たちは、そうした彼らを支援することが生きがいでした。
しかし、こうした努力の全てが、一瞬にして水の泡となった。600年来鎮座してきた御本尊と外8躰の仏像もアパートの押し入れに避難しています。この間、お檀家の中で25人の方が亡くなりましたがお葬式も出来ず、納骨も出来ない方が6名おります。生活の糧となってきたこと、自分の使命と思ってきたこと、心の拠り所、喜び、楽しみ、生き甲斐の全てを一瞬にして奪われました。73歳なので生きている間に元に戻ることはないなあと、朝の目覚めの時等にそんな思いをくり返しています』。
前回伺ったときと、話の中身は大幅に変わったが、日常の平穏な生活を原発事故により奪われたと云うことを理解して貰うと言うことでいえば、『精神的苦痛や損害を加害者が勝手に判断して、その賠償を一方的に押しつけて平然としている東電の態度には煮えたぎるような怒りがこみ上げてきます』という意思表示としては、逆に説得力楢葉町-005があるかもしれない。
昼食後再度馬上氏の案内で車上の人となり、東電第2原発入口前を経由し、破壊されたままの常磐線富岡駅(双葉郡富岡町大字仏浜字釜田)に向かう。ことぶき食堂前で下車、駅に向かう道すがらあの時の時間のまま止まっている時計が残る美容室、津波で流された軽トラックが家の中に入ったままの状態の家屋を見学、放射能汚染のために立ち入りが禁止されていたこともあり片付けたくても片付けられなかったと云うことだろう。
海から津波で流された小舟が乗り上げている瓦礫等を見ながら“夜ノ森公園”入口まで。そこから先は通行禁止。馬上氏は今回、我々を案内するための全コースを試走してくれたということで、その時立ち入り禁止の垣根の向から牛が顔を出したという場所も教えて戴いたが、我々の前には残念ながら顔を出さなかった。再度四倉パーキングで馬上氏と別れ、本日宿泊する磐梯熱海に向かった。
到着した“かんぽの宿”では、本日の主題である学習会として、次のお二人の方の講演を伺った。今回演者のお二人から、講演原稿を頂いたので、一切手を加えずに紹介することにしました。
『表現の自由とか云いながらそれと裏腹な表現の責任』を取らない漫画家もいますが、彼女たちの医療人としての責任ある行動、現場にいなければ解らない真実の話を広く知って戴ければ、取材をしたなどという云い訳をしながら無責任な情報を流した方との対比が明確になる。風評被害の防波堤になるのではないかと考えています。

①『東日本大震災・原発事故と福厚労の取り組み』
2011年3月11日東日本大震災、原発事故発生から労働組合の取った行動。
その後の支援と復興対策、脱原発運動について

福島県厚生連労働組合中央執行委員長・折笠由美子氏

福島県厚生連労働組合執行委員長折笠です。本日は福島連帯ツアー参加ご苦労様です。福島の復興のためにいつもご支援頂いていることに深く感謝申し上げます。また、本日はこのような機会を頂きありがとうございます。私ども労組の取り組みと、実際に被災にあった組合員の生の声を伝えることで、福島の現状について、もっともっと多くの人に知って頂き、復興に繋がれ楢葉町-007ばいいとの思いでお話をさせて頂きたいと思います。尚、後から話をする渡部さんは、未だもって複雑な思いで毎日を過ごしています。そしてまた震災の事を人前で話すのも今回が初めてです。どうか、そう言った気持ちをおくみ取り頂きながら、聞いていただけたら幸いです。それでは早速私の方から報告させて頂きます。
2011年3月11日金曜日午後2時46分、私は休暇でした。労働組合の事務所は会津若松市にあり、私の住まいはそこからさらに17km西の会津坂下町にあります。その日私はフィットネスクラブにいました。最初、ゆっくりとした揺れが来て「アッ地震だ!」と思いましたが、すぐに収まるだろうと思っていました。しかし揺れは次第に大きくなり尋常ではない地震の大きさに恐怖を感じました。私は足がすくみ大きなグリーンの鉢植えにしがみ付きしゃがみこんでしまいました。やがて地震は収まり、ホッと胸をなで下ろした時、同施設内にあるプールの水が大量にあふれ、全館に流れこみ施設は閉館となりました。今までにない大きな地震だったことを実感し帰宅を急ぎました。自宅に被害はなく、家族も皆無事でした。
テレビを見て、大きな津波の被害が岩手、宮城、福島の三県で起き、福島の浜通り地方は大変なことになったと思いました。病院の様子を聞こうと福島市にある会本部に電話をしましたが繋がらず、理事長の携帯に電話をしました。JAビル10階にある会本部も大変なことになっていること、各病院の状況がまだ詳細に掴めていない事、明日状況を確認することを話して電話を切りました。しかし、翌日から全く電話は繋がらなくなりました。
なんと言っても被害の楢葉町-006大きかった双葉郡双葉町にある双葉厚生病院と、南相馬市鹿島区にある鹿島厚生病院の状況や組合員のことが心配でした。危険な状態にあると発表された福島第1原発から3kmに立地する、双葉厚生病院労組双葉分会の松崎分会長に電話をかけ続けました。余震も続く中、12日の朝になってようやく連絡がつき、病院は大変な混乱状態にあると聞かされ、とにかくしっかり対処するよう励ましましたが、何も出来ないもどかしさに歯がゆいばかりでした。厚生連本部には全く連絡がつかず焦る思いがつのりました。そしてとうとう原発の爆発が起きました。そのことをニュースで知った時はまるで夢を見ているようで、映画の世界ではないかと思ったほどです。

翌日になっても理事長との連絡はつかず、労組三役は直接行くことを決意しました。90kmの道のりを一般道を通り何とかたどり着きました。

全てが目茶目茶に倒れ、天井が落ち、配管がむき出しになっている会本部に理事長と常務が茫然とした姿でいて、私達が駆けつけたことに驚いていました。ライフラインは断たれていました。「双葉は事務長と部長が現地で対応している。明日災害対策本部を立ち上げる」と言うことでした。「これから、双葉職員と患者さんが避難している二本松に行こうと思う」と告げたところ行けないだろうと言われました。今思えば、その日の内に何としても駆けつければ良かったと後悔しています。

一方、南相馬市にある鹿島厚生病院は、原発からは33km、海岸からは3kmにあり津波の被害は免れたものの、建物の被害による患者の移動、または被災しケガや死亡した人が搬送されてくるなど、やはり混乱を極めていました。労組三役は福島から60kmの鹿島に向かいました。比較的道路の破損がないところを通りたどり着きました。
スタッフは混乱の中、働いていましたが、顔を見ることで安心したのを覚えています。病院4階の屋上からのぞむ光景は信じられないものでした。津波が襲った防風林はそこだけすっぽりと抜けてくっきりと海が見えました。海岸から2kmの国道の手前まで津波が来ていました。国道から先は瓦礫の荒野でした。
双葉厚生病院は4月より地域医療再生計画に基づいて、やはり原発のある隣の大熊町に立地する県立大野病院との統合が決定していました。運営するのは厚生連で、統合を間近に控え、人事交流もしながら慌ただしく準備を進めいてた矢先でした。松崎(双葉厚生病院分会長)とはかろうじて連絡はとれていましたが、爆発による避難で混乱を極めている様子でしたが、気丈に対応していました。
3月14日、組合は災害対策本部を立ち上げました。組合員の安否の確認と被災状況の把握、支援、会本部との連携を当面の活動目的としました。組合は今後の対策について協議し方針を決定ました。春闘は一旦打ち切りにすること、しかし定期昇給は実施させること。職員全員の雇用を守ること、避難中の休暇の扱いは原発事故による特別なものとして長期間とする事などを決議し、会と協議することとしました。
福島第1原発より40kmの川俣町鶴沢公民館が双葉厚生病院の避難所となりました。職員、患者、住民が一緒のところに避難しました。後から来た職員が入れず、他の場所を探なければならない人もいました。狭い場所での雑魚寝でした。小さい子供を連れて避難した職員もいました。
一方、原発より50kmの二本松市の公共施設(男女共生センター)にも職員、患者が避難しました。職員や患者は避難の途中、屋外で爆発に合い被曝しました。避難所に隔離状態となりました。避難所でスタッフは自ら被ばくしながらも、究極の精神状態で不眠不休で患者さんを看護しました。被曝した人がみんな運ばれてきて自分の病院以外の患者も看護しました。他から応援にきた医師は防護服をつけていても職員にはありませんでした。
組合は直ちに炊き出しを行い、避難所にいる双葉職員に取り合えずの物と一緒に届けました。駆けつけた私達は避難所の中には入れず、ガラス越しに顔を見て安心して涙を流すばかりでした。必要物資を聞き取り、翌日届けることを約束しましたが、その頃、買占めによって物資は不足していました。
しかし、新潟県厚生連労組に依頼したところ、その日の内に直接運ばれて来ました。お陰で翌15日、避難所2カ所に届けることが出来ました。ガソリンも入れられず80km離れた避難所までタクシーで往復しました。災害対策のための資金は、組合の特別積立から災害対策費として計上しました。中通り、会津地方の厚生連病院職員からも物資の提供がありました。また、義援金も募りました(厚生連の病院は県内に6つありました。浜通り地方の双葉・鹿島・県南地方白河・塙、会津地方の会津坂下・高田です)。東日本大震災被災者のための、街頭募金活動にも取り組みました。
二本松では、被曝した職員や体調の悪い患者さんも、高圧のシャワーをかける除染を、自衛隊が設置した屋外のテントで何度も受けました。17日、全ての患者さんの受け入れが決まり双葉職員は解散となりましたが、病院にも家にも戻ることが出来ずばらばらに避難しました。
一方、鹿島厚生病院は、屋内退避となった30kmからわずかに外れるため、診療継続となりましたが、放射能に不安を抱える職員はパニック状態となりました。避難は自主判断に任せるとの院長の指示により、若い人を中心に、3分の2程が避難してしまいました。
正直に言えば、当初、双葉でも鹿島でも、爆発事故が起きてから、早々に避難した人と、残って業務に従事した人との間で心のわだかまりがあったのは確かです。しかし、後になって避難した人も、その時の状況や、葛藤の中で選んだ道であることが理解され、またしこりなく一緒に働くことが出来ています。反面、初めて起きた原発事故による災害時の対応の複雑さを感じました。
スタッフ不足に陥った鹿島では、診療が不可能となり、患者や利用者を関連施設や他の病院に移しました。受け入れ先を探し、夜を徹して患者の移送が行われました。
病院のベッドは空っぽとなりました。大変な思いで患者さんを無事送り出した職員の顔からは安どの表情が見られました。
地震発生から約二週間後、重要書類や必要物品などを持ち出すために、特別に病院に一時的に入ることが許され、管理職は防護服を身につけ双葉厚生病院へ向かいました。患者を搬送したあとのままの駐車場でした。厨房では、避難前までは病院に患者さんがいたので、ガスや水道が使えない中、簡易ガスコンロ4台で非常食を温めたり、ありあわせのもので食事を提供をしていました。
組合は全職員の被災状況と安否の確認を行い、組合員の相談を受け付けました。当面の生活の心配などの相談が多くありました。組合は全職員の被災状況と安否の確認を行い、組合員の相談を受け付けました。当面の生活の心配などの相談が多くありました。職員のいる避難所への慰問も行いました。
災害対策ニュースを震災直後から毎日のように作成し、被害の状況や組合の取り組みなど、全組合員に情報発信しました。後にこのニュースは会本部の情報よりも、状況がよく把握出来たと各病院の院長などからも評価を得ました。
しかし、産休中の若い看護師さんが遺体で発見され、赤ちゃんも亡くなったとの知らせを受けた時には言葉になりませんでした。避難所には出産を控えた組合員もいて不安を隠しきれない様子でしたが、後に無事赤ちゃんが誕生したことは明るいニュースとなりました。
双葉厚生病院の事務所はJAビル4階に設置され、避難所となった隣接のJA研修センターに宿泊しながら勤務を継続しました。そんな中、追い打ちをかけるような報道が流れました。患者を置き去りにして死亡させたと言う、別の医療機関と間違われての報道でした。後に訂正されましたが職員は怒り深く傷つきました。後にこの病院も故意に置き去りにしたのではないことも判明しましたが、震災時のマスコミの報道の在り方にも疑問を投げかけたい出来事でした。研修センターには日本医労連からの慰問と、農民連から食材の提供がありました。こうした励ましを支えに頑張ることが出来ました。
その頃、全国の仲間から続々と激励のメッセージが届きました。組合は会と協議し、罹災休暇は地震発生の翌日から1ヶ月間とし、双葉職員は残る厚生連5病院に希望に応じて勤務させる。年度末手当を支給、定期昇給は実施する。定期人事異動は延期、採用内定していた100名余りの新採用者についても、採用取り消しはないとしました。
統合のため県立病院から異動する職員に対して、組合の説明会を震災前日の3月10日夜に大野病院で行っており、組合三役が出向いていました。あの時地震が来なくて良かったと思った自分に罪悪感を抱きました。
結局210名いた職員で残ったのは130名、80名が厚生連を去りました。また辞退する内定者もいました。全員の雇用は約束させたものの、原発事故と言う今までにない異例の事態に対応の困難さがありました。家族の都合や本人の意志で県外へ避難する人もいて、多くの退職者を出してしまったことは労働組合として非常に残念な思いです
双葉職員は徐々に新しい居住場所を確保しました。しかし、生活を始めるにも着の身着のままで飛び出し何もありませんでした。全国の仲間から集められた義援金を一刻も早く届ける必要があると考えました。まず双葉職員に激励しながら手渡しで届けました。他の病院には全壊から一部壊まで被災した230人全ての組合員に義援金を届けることが出来、大変感謝されました。組合の持つ組織力と結びつきの強さが示されました。
しかし、入院については国から、南相馬市は避難準備区域にあるため、5床のみ72時間以内の制限が出ていて、多数の受け入れは出来ませんでした。鹿島は避難準備区域から外れ、職員も不安はあるものの落ち着きを取り戻し、ほぼ元の人員体制で受け入れが可能になっていたのに矛盾を感じました。このことは報道でも取り上げられました。県への要請で鹿島厚生病院は制限が解除され5月1日より、受け入れが可能となりました。施設へ送った入所者も鹿島の老健施設に戻りました。他病院へ送った療養病床の患者さんは希望者のみ受け入れ、地域の状況に合わせ全床一般に切り替えて対処しました。この頃30km 圏内の医療機関ではまだ制限が解かれておらず、地域の救急、入院診療の要となり重要な役割を果たしました。
今回の震災で各医療機関は甚大な被害に合いましたが、加えて福島厚生連は原発事故による放射能の影響で、異例で深刻な状況に曝され、当面の経営と先行きについての心配がありました。地域の復興は除染も充分に進まない中、長期間を要することは否めませんでした。労働組合としても国や県への働きかけが重要と考えました。4月18日に厚労省、農水省で第1回目の交渉を行いました。福厚労から役員13名が参加しました。厚生省には厚生連病院にも自治体病院と同様に再建に対しての財政措置を取ること、原発事故に関わる医療機関の労働者の雇用を保障する制度を設けることなどを訴えました。双葉厚生病院が原発から3kmの位置にあり再開までの見通しが全くたたない事、職員自ら被ばくしながら患者を避難させ公的医療機関としての使命を果たしたことなど生の声で伝え、対策を講じるよう訴えました。
農水省では固定比率からの適用除外、再建に対しての財政支援措置、原発事故にともなう特例の措置を取ること等を訴えましたまた、7月には県交渉、2度目の厚労省交渉を行い、現状を伝え、地域医療再生に向けて働きかけを行いました。
5月、家族と離れ単身でいる人、遠い避難所から通勤している人など様々な困難の中で、双葉職員は慣れない病院で不安を抱えながら勤務していました。家族を亡くし思い出しては毎晩泣いている人、地震の時の恐怖が頭から離れない人、今後の生活の心配、故郷に帰りたい願い、双葉職員の胸中は計り知れない大変な思いでいっぱいでした。こうした背景から、早く落ち着いた気持ちを取り戻し安定した生活が送れるようにと、労働組合は各分会で相談会や励ます会を催しました。
少しでも慰めになり、一瞬でも笑顔を見せてくれたことにホッと胸を撫で下ろしました。また、放射線量を心配する組合員のために、当初まだ高額だった線量計を組合で購入し各家庭を回しました。
松崎分会長は震災からしばらくたって一時帰宅しました。分会事務所もめちゃくちゃでした。 組合事務所の看板を持ち帰りました。墓地跡には片方だけの靴が転がり、誰がたむけたのかお花と線香がそっと置いてありました。
組合本部では、機会を作って被災地にたびたび出かけました。組合員にもバス視察等を促し、実際に目で見て、未だに復興できない原発事故の悲惨さを感じてもらい、運動に結び付けたいと考えました。南相馬市鹿島区の海岸には震災以降何度も足を運びましたが、震災当初は生活の軌跡が色濃く残っていて、いたたまれない思いでした。
本日、皆さんが視察してきた楢葉町等にも機会ある毎に出かけていますが、写真は主に南相馬市の様子です。下はほとんどの入所者が津波にのまれ亡くなった施設です。再開の見通しは立っていません。
南相馬市小高区は、南相馬市の中でも線量が高い地域で、昼間は行く事が出来ても寝泊まりは出来ません。少し前までの様子です。現在は除染を進めていますが、ライフラインはまだ整備されていません。今回の原発事故で国の安全神話は完全に崩れ去りました。脱原発に向かって今度こそ大きなうねりを起こさなければなりません。各地でその運動は広まっています。
双葉職員の4分の1程が、家族の中の誰かが東電関係で働いていました。そのため原発反対の運動は広がりにくい状況にありました。しかし、今回のことで大切なものが失われ、安全は何事にも変え難いことがはっきりしました。県は脱原発を明確に打ち出した復興計画を決定しました。
東電本社や福島で行われた東電交渉にも参加し、東電と国の責任を追及し、災者に対する十分な保障を求めています。一方で新エネルギー対策や雇用の問題など、課題は山積しています。地域医療と雇用守る責務が私達医療労働組合にはあると考えます。今後も出来る限りの運動をして行く決意でいます。
そんな時、ふと、私達は励まされ助けられてばかりいたと気づきました。何かをしなければと思い、津波被害がひどかった南相馬市で、被災地支援活動を行い瓦礫撤等の作業を実施しました。震災から毎年行っていて、今年も行う予定です。
復興センターと共に仮設住宅へ訪問、物資の支援、調査活動等も行いました。仮設住宅で避難生活を送る方々との交流会も催しました。渡辺(本日の演者)さんも参加しています。
現在、私達厚生連職員は、残された5病院で頑張っています。避難準備区域が解除になり、鹿島病院は通常通り診療をおこなっていますが、前にも増して医師、看護師不足が続いています。また、南相馬市では現在、高齢化が進み、仮設での孤独死など災害関連死が後を絶ちません。介護需要の高まりを受けて、鹿島厚生病院老健施設「厚寿苑」はそれに対応するため50床を100床に増やし新築移転しましたが、介護職員の不足で入所を制限せざるをえない状況です。
現在も、放射能の不安や家庭の事情で職員が辞めていきます。もと双葉職員は80名ほどになってしまいました。今悩んでいる人がいる中で、交流をはかってもらい少しでも励みになる場として、病院は休止しているものの、双葉分会は解散をせずに継続し、代表者会議を開いたり、交流会や定期大会を開催しています。採用試験をしても応募は少なく、福島県全体でも、医師、看護師、介護職不足は以前にも増して深刻です。だからこそ今いる人を辞めさせない対策が必要です。離職防止のためには賃金や労働条件の改善が必須です。秋闘や春闘の中で改善を求め運動を強めて行きます。
今回起こった未曾有の震災で当初労働組合も動揺を隠せませんでした。しかし考える間もなく行動に出ました。通信網が途絶え情報が入らない中、まずは現地に向かうことを、この目で状況を確かめることを優先しました。そこから何をするべきかを考えました。そこにマニュアルはありませんでしたが、行動力と団結の力で頑張る事が出来ました。新潟で開催された日本医労連医療研究集会でのシンポジュームで、被災県として発表した時に、金沢大学の井上先生は行けるのであればまずは現地へ向かう事が大切だと評価されました。しかし、今回のことを教訓に、災害に備え万全の体制を講じる必要があるのも確かです。
また、何よりも全国の仲間の支援は大きな励みになりました。組合って本当に素晴らしいなとつくづく思いました。
最後になりましたが、震災以降、機会ある毎にこうして福島を応援してくださっている皆様方のためにも、これからも出来る限りのことを頑張って行こうという、新たな決意を表明して、私からの報告を終わりたいと思います。清聴ありがとうございました。

②『思い………あの時の私、あれからの私』
原発事故が起き故郷を追われてから3年以上が経過する中での心の変化と現在の思い

坂下厚生総合病院臨床検査技師・渡部早苗氏(元・双葉厚生病院勤務)

本日は福島にお越し頂きありがとうございます。バスで楢葉や広野そして富岡まで足を運ばれたとお聞きしましたが、その光景はどのように映りましたか。また、この3年間色々な形で御支援頂いたことに感謝申し上げます。
さて今回、このお話を頂いたとき、果たして私のような者がお受けしていいのかどうか大変悩みました。震災から既に3年が経過したわけですが、私自身前向きに頑張っているとは云えず、我が家の復興も殆ど進んでいない状況です。そんな私が皆様の前でお話しできるような内容も、且つ立場でもないと思ったからです。ただ、ドンドン前に進んでいる人も居るけれど、私のように中々進めない人も居ることを知って貰うのも良いのではないかと、お受けしました楢葉町-008
私にとって東日本大震災というより、それに伴って起こった原発事故が大きなウエイトを占めているので、前半は原発との係わりについてお話しします。後半は我が家の状況と、私の思いを聞いて戴こうと考えています。
私は昭和33年5月31日大熊町大川原と云うところで生まれました。現在55歳ですが物心ついたときから原発は私の隣にあったような気がします。小学校時代に原発誘致・建設。中学校時代に1号機の試運転が始まったと記憶しています。建設に際しては反対運動もありました。当時私の父も慎重派だったのでしょうか。近所の人が「出稼ぎしなくて済むし、生活も楽になっペ」と云いに来たり、社会党だった福島県議の下に足を運んだりしていました。私は父のバイクに乗っかって出かけるのが大好きで、この時も隣町まで行ったのを覚えていますが、話の内容は何だったのか分かりません。小学校の教室では、「ここは大きな地震がないから原発出来るんだって」と話していたので、各家庭でもそれなりに話題になっていたのでしょう。ただ貧しかった町の選択肢は一つでした。
建設が始まると、特急電車が止まり、駅で外国人の技術者等を見かけるようになりました。原発近くに彼等の住む場所が出来、アメリカ村と私たちは呼んでいました。男の子達は遊びに行き、片言の英語を教室で披露していました。女子達は、反対に向こうの子供達にからかわれて帰ってきたと信じて疑いませんでしたが、程なく立派な東電の社宅が出来、職員の御子息が転校してきて、一緒に勉強しました。
ずーっと後になると、原子力サービスセンターで、原子炉の仕組みを習い核分裂・制御棒などの単語を覚え、如何に安全かをアピールされ、子供を連れて行って遊ばせたり、映画を見たりしていました。お菓子や観光会社にもアトムという名が使われ、それが普通のこととして、そこにあったのです。私たちは将に、原発と共に生活していたと云えます。
そして今回の事故です。私福島-008は生まれ育った原風景と大熊小学校、大熊中学校・双葉高校と3つの母校も失いました。崖を削って建てたから、非常電源が地下だったから、耐久年数を守らなかったから………いろんな事が叫ばれていますが、危機管理が甘く、人災であることは確かであり、とても悔しく、複雑な思いでなりません。失ったものの代償は物理的にも精神的にも大きなものとなり、取り返しの付かない事態を後世に残すことになったのが、何より悲しいです。

震災当日は、職場の双葉厚生病院にいたので、そのまま病院に泊まり、翌日は患者様と一緒にバスで川俣と云うところの公民館に避難しました。病院での避難の状況は今回はお話し致しませんが、公民館から福島の知人宅、埼玉の親戚、今の会津坂下町のアパートへと転々と移動してきました。
震災から10日後に初めて自宅(南相馬市原町区)に戻ったときは、家の周りの惨状に唖然としました。瓦礫が散乱し、風景が一変していました。海に近い集落が跡形もなく消え、今まで見えなかった海が、波飛沫を上げているではありませんか。
当時私の家族は5人でしたが、子供二人は共に大学生のため水戸と浦安でアパート住まい。私と夫、義父の三人で義父の弟宅に避難。その最中の4月6日に夫を突然亡くし(後に災害関連死と認定)、義父を置いて1人今のアパートへ移ってきました。一年目は本当に夢中でした。夫を亡くした悲しみに浸る間もなく、全ての環境が変わりました。仕事も覚えなくてはなりません。慣れない生活の中、週末には段々弱っていく義父の元に通い、平日は会津若松に避難している実家の両親(こちらも避難中の体育館暮らしが祟ってか父が動けなくなりました)の元へ。子供達も出遅れた就職活動に入りました。近所の方や親戚との連絡や安否確認。役所からの連絡や手続き。相談する夫もいなく、一人で決めなければいけない辛さ。
その中で支えとなったのは労組の支援や職場の方達、そして共に双葉から来た仲間です。双葉の人達とは仕事帰りに顔を合わせると1~2時間の立ち話はざらでした。その仲間がドンドンいなくなる今の現状は、とても厳しいものがあります。また、仕事をしている時だけは被災者ではなく、臨床検査技師としての自分でいられたのも救いでした。
原発事故から1年半くらいたった頃でしょうか。仕事帰りにふと見上げた夜空に星が輝いていました。星はズーとそこに輝いていたはずだったのに………。それに気付いていなかったのです。下ばかり見てきた自分が、少しだけ顔を上げることが出来た瞬間だったのかも。涙がぽろぽろあふれて止まりませんでした。
それでも原発のニュースや被曝の話には耳を塞いできました。今でも一方的なマスコミ報道は聞きたくも見たくもありません。

  3年が過ぎ、来年からは私の自宅のある地区はもう住んでも良いそうです。近所の方々は着々と準備を進めています。中には長期宿泊をしている御家族もいます。我が家は全然です。新築途中の家がドンドン傷んでいくのをただ見ているだけです。これまで住んでいた母屋は壊します。子供達も関東に就職し、義父は介護状態になり老健施設に入所しました。自宅の原町に戻っても、老後は一人です。広い家も必要なくなり、夫や子供・孫と暮らす第二の人生も奪われました。世の中は、やれ復興だ、前向きにと云います。同じ人生なら楽しく暮らしたほうが良いのは分かります。誘われれば出かけ、会津にいるので観光もします。でも地に足が付いていません。あれからずーっと一人旅を続けているようです。これからも一人旅が続きます。心の平穏はやってくるのでしょうか?。今はまだ、現実逃避しています。せめて定年までは自分に猶予を与えてもいいですよね。

以上、こんな私の拙い話を聞いていだだき感謝致します。皆様の前でお話しすることで改めて自分を見つめ直す機会を頂きました。こういった小さな積み重ねが、少しずつ自分を取り戻すために必要なことかもしれません。
今日の講演の場所を頂いたことに感謝し、明日も楽しい旅であることをお祈りしております。本日はどうもありがとうございました。

5月26日(月)

翌日9:00かんぽの宿を出発。9:30高柴でこ屋敷到着。高柴でこ屋敷は伊達政宗の正室愛姫の生家、三春城主田村氏の四天王の一人で橋本家の祖先が今から三百年ほど前に武士を離れてこの地に帰農し、「大黒屋」の屋号で信仰、縁起物などの土人形作りを始めたのが起こりだとされている。その後和紙を用いる張り子人形へと発展改良されたものだという。三春人形は次々と独創的な人形を生み出し、江戸時代の中頃には天下の名玩と謳われたという。「でこ」とは張り子の人形の事だという。
11:10白川フラワーワールドに到着。チューリップやジャーマンアイリスなど多種多様な花の競演のはずが、チューリップは全て花を摘まれ、ジャーマンアイリスのみがのさばり返っていた。ジギタリスの花が咲いていたと後から聞いたが、残念ながら気が付かなかった。12:10昼食のため日本蕎麦の専門店「新駒本店」で昼食。16:00新宿着。今回は全行程全員何事もなく、無事に過ごすことが出来、更には直接現場で苦労した方々の話が聞けて充実した旅行になった。参加された当会会員、日中友好協会の会員の方に感謝申し上げます。

     (2014.6.5.)

「葉酸について」

金曜日, 6月 6th, 2014

KW:薬名検索・葉酸・folic acid・プロテイングルタミン酸・vitamin B9・ビタミンB9・vitamin M・ビタミンM

Q:葉酸について

A:葉酸(folic acid)。本品は定量するとき、換算した脱水物に対して葉酸98.0-102.0%を含む。
分子式:C19H19N7O6。分子量:441.40。CAS登録番号:59-30-3。
化学名:N-(4-[(2-amino-4-hydroxypteridin-6-ylmethyl)amino]benzoyl)-L-glutamic acid。

性状:本品は黄色-橙黄色の結晶性の粉末で臭いはない。本品は水、メタノール、エーテル(95)、ピリジン又はジエチルエーテルに殆ど溶けない。本品は塩酸、硫酸、稀水酸化ナトリウム試液(液は黄色澄明)又は炭酸ナトリウム+水和物溶液(1→100)に溶け、液は黄色となる。本品は光によって徐々に黄色となる。水溶性vitaminに分類される。

本品は明確に融点を示さず、約250℃で炭化する。水又は有機溶媒に溶け難く、酢酸、フェノール又はピリジンにある程度溶ける。本品は両性化合物で、1gは塩酸3mL、稀水酸化ナトリウム試液約40mLに溶ける。本品は室内等の弱い光で徐々に、直射日光又は紫外線により容易に、-CH2-|-NH-結合が切れて分解する。

本品の水溶液は、遮光下、pH:約6.8で、また酸化性又は還元性物質が共存しなければ安定である。この水溶液に紫外線又は直射日光を当てると、蛍光を発する生理的に不活性な物質に分解する。葉酸は弱アルカリ性では熱に安定、強酸性では熱に弱い。

保存条件:気密容器、遮光保存。

名称:葉酸、folic acid[INN、USP、EP]、葉酸(プロテイングルタミン酸)、叶酸(yesuan)[中]、L-glutamic acid、N-(4-[[(2-amino-1,4-dihydro-4-oxo-6-pteridinyl)methyl ]amino]benzoyl]-。vitamin B9、vitamin M。

来歴:Dayら(1935)はサルの貧血症状に乾燥酵母あるいは肝エキスを与えると回復することを認め、これらの抽出物中の未知の有効因子をビタミンMと名付けた。Snellら(1940)は酵母エキスを活性炭(NORIT)に吸着させ、溶離した因子がLactobacillus casei(乳酸桿菌)及び雛の発育に不可欠であることを知り、これをNorit eluate factorと名付けた。Mitchellら(1941)はこれをほうれん草(羅:folium)から分離してfolic acid(葉酸)と名付けた。葉酸作用を現す天然物質は種々存在するが、各国局方ともpteroylmonoglutamic acidのみを取り上げている。動植物界には葉酸のグルタミン酸基と2-6個のグルタミン酸がペプチド結合した形で見いだされる。このペプチド結合は組織中の酵素によって分解されて葉酸になる。このvitaminは酵母、糸状菌、肉、肝臓、緑野菜などに含まれる。

体内動態:経口投与された葉酸は主に小腸上部から、少量の場合は能動輸送で、大量の場合には受動輸送によって、そのままの形で比較的速やかに吸収される。ヒトに3Hで標識した葉酸を経口投与すると50-60%が尿、糞便中に排泄される。一方、静脈注射では、短時間のうちに血漿中から大部分は消失するが、組織親和性が強く、1回の体内循環でその60%が組織中に取り込まれるので、尿中排泄は著しく少ない。ヒトの体内には5-10mgの葉酸があり、その1/3は肝臓に主にN5-メチルテトラヒドロ葉酸として存在している。これら摂取された葉酸は、生体内で還元されて7,8-ジヒドロ葉酸を経て5,6,7,8-テトラヒドロ葉酸の形で、葉酸補酵素としてプリン、ピリミジンの生合成に関与している。

食物に含まれる葉酸は、約25%が利用できると考えられており、食事中に含まれる葉酸として、約200μg取る必要がある。アメリカ合衆国では成人男子は成人男子は200μg、女子180μgとされている。妊婦は奇形児発生を予防することを考慮して400μgとされている。また授乳婦では280μg/日と多めに設定されている。

食品中の葉酸含有量(可食部100g中μg)

牛肝臓   300.0 牛乳       0.23 アスパラガス  109.0 落花生 56.0
小麦粉       38.0 キャベツ       32.3 菠薐草     29.0 玉蜀黍      28.0
マッシュルーム 24.0 レタス         21.0 玄  米         20.0 白米        16.0
食パン         14.8 キュウリ       14.0 薩摩芋         12.0 馬鈴薯       6.8
牛乳           0.23 母乳           0.18    

食事1食分中の葉酸含有量(μg)

肉類

鶏レバー
牛レバー
豚レバー

50g
50g
50g

650μg

500μg

405μg

魚介類

田作り
帆立貝

30g
70g

69μg
61μg

野菜類

菜の花

枝豆

芥菜

モロヘイヤ

玉蜀黍

春菊

ほうれん草

アスパラガス

芽キャベツ

パクチョイ

空豆

蕪の葉

50g
50g
50g
50g
120g(1本)
60g(2株)
50g(小1/4輪)
40g(2本)
30(2個)
50g
50g
50g

170μg
160μg
155μg
125μg
114μg
114μg
105μg
76μg
72μg
70μg
60μg
55μg

果実類

イチゴ
ドリアン

アボカド
パパイア

100g(4個)
50g
70g(1/2個)
100g(完熟1/3個)

90μg
75μg
59μg
44μg

薬効薬理:vitamin B12と共に、生体の組織細胞の発育及び機能を正常に保つのに必要で、特に赤血球の正常な形成に関与し、巨赤芽球性貧血に際して網状赤血球及び赤血球の成熟をもたらす。抗貧血因子とも呼ばれるテトラヒドロ葉酸となって、プリン、チミジル酸、アミノ酸などの合成における補酵素として働いている。葉酸やvitamin B12の欠乏は骨髄成分の成熟停止を起こすとされる。発育と分割分包細胞内でのDNAとRNA合成。構造・機能蛋白質の合成。胎児の成長と発達(特に中枢神経系の形成)。葉酸と亜鉛の間には代謝的に密接な関係がある。葉酸欠乏患者の赤血球亜鉛含量が低下し、亜鉛欠乏動物の肝臓の葉酸量が低い。RDA量の葉酸をプテロイルグルタミン酸形態で補足すると、亜鉛の吸収が低下する。これはこの形態の葉酸が亜鉛をキレートして吸収を阻害するためのようである。

副作用:食欲不振、悪心等の消化器症状。紅斑、掻痒感、全身倦怠等のアレルギー症状。浮腫、体重減少等。

適用:葉酸欠乏症の予防及び治療。葉酸の需要が増大して、食事からの摂取が不十分な場合の補給(消耗性疾患、妊産婦、授乳婦等)、吸収不全症候群(スプルーなど)、悪性貧血の補助療法、アルコール中毒及び肝疾患に関連する大赤血球性貧血、再生不良性貧血、顆粒球減少症。また、栄養貧血、妊娠性貧血、小児貧血、抗痙攣薬・抗マラリア薬投与に起因する貧血で、葉酸の欠乏又は代謝障害が関与すると推定される場合にも用いられるが、効果が認められなければ漫然と投与すべきではない。

投与量:成人:5-20mg/日、小児:5-10mg/日を2-3回に分割経口投与。一般に消化管に吸収障害がある場合、あるいは症状が重篤な場合は、成人:15mg/回を1日1回 皮下又は筋肉内注射。
悪性貧血の場合は、血液状態は改善するが、神経症状には効果がないので、vitamin B12製剤と併用する。また、診断の確立していない悪性貧血の患者では、血液状態の改善により悪性貧血を隠蔽し、診断及び治療に影響を与えるため注意が必要である。

葉酸欠乏症:血小板産生の低下により、異常出血の危険性増大。白血球の生産が損なわれ、免疫応答低下。血中ホモシステインの増加により動脈硬化の危険性増大。短気、敵対行為、健忘症、妄想性の行動、鬱病。胎児の成長と成熟が障害され、奇形児発生。
消化管上皮の萎縮:栄養吸収の低下、下痢、食欲不振、体重減少。
貧血:軽度疲労感、脱力感、息切れ、集中力低下。

1)第十五改正日本薬局方解説書;廣川書店,2006
2)井川正治・総監訳:微量栄養素小事典;西村書店,2008
3)糸川嘉則:最新ビタミン学-基礎栄養と栄養実践の手引き-;フットワーク出版,1998
4)中村丁次・監修:最新版からだに効く栄養成分バイブル;主婦と生活社,2001
5)鈴木継美・他:ミネラル・微量元素の栄養学;第一出版,1994

           [011.1.FOL:2011.1.10.古泉秀夫]

「鯛釣草の毒性について」

金曜日, 6月 6th, 2014

 

KW:毒性・中毒・鯛釣草・タイツリグサ・ケマンソウ・華鬘草・荷包牡丹根・Dicentra spectabilis・APG体系・Lamprocapnos・コプチシン・coptisine・ケレリトリン・chelerythrine・プロトピン・protopine

Q:鯛釣草の毒性について

A:鯛釣草は、ケシ科コマクサ属の多年草で、和名は『ケマンソウ(華鬘草)』とされている。荷包牡丹根(かほうぼたんこん)。異名:土当帰(本草綱目拾遺)、ケシ科の植物、荷包牡丹の根茎。学名:Dicentra spectabilis (L.)Lem.。魚児牡丹、活血草ともいわれる。なお、1998年に提唱されたAPG体系では、ケマンソウ属(Lamprocapnos)に分類されている。
Angiosperm Phylogeny Groupとは、被子植物系統グループの略称で、新しい分類体系である。現在最新版としてAPG IIIが報告されている。但し、APG体系とは、この分類を実行する植物学者の団体の意であり、「APG体系」・「APG分類体系」等と呼ばれている。
原産地:中国・朝鮮半島に自生する多年草。草丈:30-60cm。開花期:4月-6月。斜めに伸びた総状花序にコマクサに似たハート型の花をつける。花茎はアーチ状に湾曲する。花茎1本に数個の花が釣り下がったように咲き、釣り竿に鯛がぶら下がったように見えるとしてタイツリソウの別名がついた。観賞用によく栽培され、花色は桃色のほかに白色がある。

含有成分:全草にベルベリン型alkaloidコプチシン(coptisine)等の毒性分を含み、誤食すると中毒症状を呈する。その他alkaloidのプロトピン(protopine)、ケレリトリン(chelerythrine)を含み鎮痛作用があるとする報告も見られる。その他、クリブトピン、サンギナリン、ケリルビン、ケリルチン、ケイランチホリン、スコウレリン、レチクリン等が含まれている。毒成分imageとしてプロトピン(protopine)、その他とする資料も見られる。
ビククリン(bicuculline)は、ケシ類のケマンソウ科の植物の茎から得られるアルカロイドである。中枢神経系にGABA受容体(GABAA)があり、抑制性伝達物質GABAの外に、ムシモル、ベンゾジアゼピン、バルビツール酸等と結合し、抑制作用を発現する。bicucullineはGABA受容体でGABAの作用を選択的に抑制し、痙攣を起こす。

中毒症状:全草、特に根茎と葉を誤食した場合、嘔吐・下痢・呼吸不全・心臓麻痺などを引き起こす。睡眠、嘔吐、縮瞳、徐脈、体温低下、呼吸麻痺、心臓麻痺。誤食すると大脳中枢が麻痺するので、酒に酔ったように眠くなり、吐き気や体温低下、呼吸麻痺、心臓麻痺などを起こす。

中毒発現時の治療方針としては、気道を確保し、誤嚥を防止したら後は痙攣対策である。痙攣を止めれば、代謝性アシドーシスや横紋筋融解による腎不全も防げる。痙攣を止めるには、ジアゼパムを静注する。20-30mg静注して痙攣が止まらなければ直ぐにペントバルビタールに切りかえる。これらの薬物は、痙攣を止める作用がある(生理学的拮抗)だけでなく、薬物の作用点(GABA受容体)に対する特異的拮抗薬(薬理学的拮抗薬)でもある。従ってこれらの痙攣毒に対しては、対症療法がそのまま特異的治療になる。重症中毒には、気管内挿管をして機械的人工呼吸をしなければならないことがある。

華鬘草の適応:根を突き潰した汁に酒を注いで飲むと、酷く酔うが、これは金瘡の聖薬である。血を散らす、瘡毒を消す、風を去る、血を和ませる。その他、腫れ物により膿みを持ち、痛みがある場合に、飲んで痛みを柔らげ、腫れ物を、痕が残らないように、きれいに治すとする報告がみられる。

華鬘草の製剤:天日干しにした根茎を1日量約5gとして水0.4~0.6 Lで沸騰させる。その後、弱火にして3~5分煎じて、茶漉しで濾して1日3回に分けて食後に服用する。ケシ科コマクサ属は、有毒であり1日5g以上は用いないこと。また癌等の疼痛にも有効とする報告もある。

1)ja.wikipedia.org/wikiケマンソウ,2104
2)上海科学技術出版社 小学館・編:中薬大辞典 第1巻;株式会社小学館,1985
3)海老原昭夫・編著:知っておきたい毒の知識;薬事日報社,2001
4)内藤裕史:中毒百科-事例・病態・治療-;南江堂,2001
5)小川賢一・他監:学研の大図鑑-危険・有毒生物;2003

           [63.099.DIC.2014.6.5.古泉秀夫]